会津の重ちゃん日記

日常の出来事、地方紙の記事、街中散策して見聞したことを発信。

戊辰150年 その17

2018-06-28 19:49:54 | Weblog
2018年6月28日(金)晴 25.8℃~21.5℃
「会津戊辰戦争 郷村に避難した女たち 」

 蒸し暑い日が続きます。雨が降っても数センチもしみと通らない。屋敷内の畑には毎日水やりをしているが、離れたところの野菜には時折水をやるだけ。育ちが悪い。北会津町の菜園場の農家は苦労しておられる。野菜の値が上がって各家庭の家計永影響でないか心配である。
ブログアップをと心掛けているのだが、所用で仙台へ、家庭菜園のこと、町内のこと、城西コミュニティセンター管理運営委員会のこと、諸活動がいろいろと重なり、身一つでは対応できない日々が続いている。訪問してくださる皆さんにまた発信したいと努力していきます。続けての訪問よろしくお願いします。
 
四、郷村に避難した女性たち

 ①川島 りさの話(75歳まで存命)
  
・・・・・その内に官軍は城に迫りけれバやむを得ず城門を閉ざされたれば、南を指して生き延びたり。・・・・それより少々隔たりて大川の流れあり。女子供のみて徒歩渡りがたし。姉は体も大きくして鎧を杖につき川を渡り候。其れより本郷村に着きたり。わらわども三軒の者、皆覚悟をきめロウソクを立てて折る間に、各々方も御覚悟いかに候ふなどと申す女もありしが、未だ城も落ちぬ事にもあり、死ぬるは何時でもできることなれば、しばらく御とどまるべしとて、、その夜もすでに明けぬ。
・・・・・9月23日にいたりては鉄砲の音、にわかに止みたり。時々來る官軍の人束来たり会津さん降参だ降参だと声高にののしりあっている。降参ななっても婦女子の身は如何ともなりががたし。官軍は分捕り物を売るとのことにて村の人々に屏風、畳、衣類などあらゆるものを馬に負わせ帰りけり。官軍とも申すべき者が市民より分捕り品を売りさばくとは言語道断のことなり。(『今は昔思い出』)


 ②長谷川勝太郎の妻、みとの話

 初め自害するつもりでいたが、夫の生死もわからず早まって死にべきではないと思い、家族一同避難者の大群に挟まれながら入城するつもりでいたが、既に城門が閉まっていたので避難し、大川に辿りついた。そこは、雨のため濁流となり、女の死体や流弾に傷つけられた男の死体などが流れてきた。渡し船に乗ろうとすると、船頭はなかなか乗せてくれないので、一人前二分とう法外な船賃で乗せてくれた。下小沢の名主の家に滞在していたが、開城後、武家の屋敷ハ皆焼き払われ、若松の我が家に戻ると、五、六人の農民たちが襖や障子などを引き剥がしていた。みと子は止めようとしたが「ここは官軍の陣やだったのを買い受けたのだ」と逆に食ってかかれたという。
 




戊辰150年 その16

2018-06-22 22:42:30 | Weblog
2018年6月22日(金)晴 28.5℃~13.5℃
「会津戊辰戦争 籠城した女性たち 」

三、籠城した女性たち

籠城については女・子供は城中の手足纏であり又空しく糧食を頂くのは不忠になるから避難するという人々もいた。城中の様子を
 ①山川操子は『婦人世界』明治42年7月号で次のように語っている。
「略 私ども婦人の仕事は弾をこしらえるのとご飯を作ることの他に、負傷兵を介護する大任がございました。・・・・・火薬を頭から体中に浴びて真っ黒に火傷した人がありました。身体中の皮膚はすっかり爛れて着物を着せることもできませんから裸体のままで起きましたが、それが時々「起こしてください」と申します。抱きかかえるように起こしますと、火傷した皮膚がむけて両手にべっとりつきます。

≪弾丸の作り方≫
 小さく切った紙切れを広げてそれを細かい竹筒に巻きます。さうすると紙が筒状になりますから紙の一方をチョットひねって底を拵え、中の竹筒をスポット抜きます。その中に弾を入れてその上に火薬をいれて、紙の上の方をまたチョット捻ります。これをいくつも並べて置きますと汁から十三歳の子どもが兵士のところに運ぶのです。

②山本八重は『婦人世界』明治42年11月号で次のように語っている。
 ご婦人などは白無垢に生々しい血潮の滴ってゐるのを着ていました。これは多分家族に卑怯者があって城中に入って戦うのは嫌だといふのを手に掛けてその足で参られたのでございます。・・・・・・一番心配でたまりませんでしたのは、厠に入ってゐる時でございました。武家の婦人として一矢も酬ゐに犬死するやうなことがあっては主君いも家名にも恥ずかしいわかですから、もし厠にをります時、あの大砲でも破裂してこのまま最後を遂げました時は婦人として最も醜態をさらsねばならぬことです。
 母さく子、姉うらの反対を押し切って大小をたばさみ、鉄砲と弾薬を携えて足袋裸足で廊下橋へかけつけた。この時御門番は帯など締めていたくらいですから城門の警戒など少しもできていませんでした。もしこの時少数の敵でも侵入すれば残念ながら落城していたかもしれない。
 北出丸では銃をもち敵兵を狙撃して活躍した。

③井深梶之介の話
 ・・・散弾が四方八方から飛来する中、妙齢女丈夫(23歳の八重子)が藩公の御前に召され、着弾しなかった砲弾を分解して極めて冷静に説明していた。
④女傑 諏訪喜智のこと
 性質剛健、男勝りの評あり。諏訪大四郎(禄1700石の家老職)の後妻。
 8月23日養子の伊助は陣将として前線で戦っていた。その妻子と子どもたちを村里に逃れさせ。自らは城を枕に死ぬ覚悟で、立派な火事装束にて薙刀を携え供の者を一人従えて入城した。入場中は、山川唐衣と共に女性隊の総指揮をとり、死者の埋葬・傷病兵の介抱・食事の炊き出し。弾丸の製造に尽力した。(小島一男編『會津女性人物事典』など』

照姫をはじめ籠城中の女性たちの働きは素晴らしいものであった。

戊辰150年 その15

2018-06-19 22:27:37 | Weblog
2018年6月19日(月)晴 30.3℃~16.3℃
「女性たちの会津戊辰戦争 自刃 」

二、自刃した女性たち

会津若松の武家屋敷第二資料館に、西郷一族の集団自決の現場が人形で再現されている。
(写真は和田義男氏のHPから)
舎熊を被って抜刀して立っているのは長女、細布子を介錯した土佐藩士、中島信行だが、近年、彼ではないという説がある。


会津戦争で城下の自刃者は、わかっているだけで二百三十余人。
家族、婦女子の自刃は、捕われの恥辱を受けんが為であり、鶴ヶ城内に籠城する家の当主や男子の足手まといにならないよう、後ろ髪引かれるようなことのなきようと願う為。幼子がいるので籠城戦の足手まといになると思ったのでしょうか?

①西郷頼母の一族
 慶応4年8月23日(1868年10月8日)会津藩家老西郷頼母邸において、西郷一族二十一名が集団自決をします。この日、西郷邸には頼母の家族の他に、支族や親戚の者が居合わせていました。敵の侵入を知らせる半鐘が鳴り響く中、知人である高津家の人が一緒に入城することをすすめますが、頼母の妻、千重子(ちえこ)は「最後のときが来るも、入城しないことにしております。」と述べこれを断るのです。
西郷頼母の妻・西郷千恵子は養母・西郷律子、まだ自害できない幼子を刺し、我が子の死を確認すると返す刀で喉を貫ぬいた。家族9人が死んだ。
また、別室に集まった西郷頼母の縁者12人も西郷律子らに続き自害した。一族21人の悲劇。

実際、そうだったと思う。だが、西郷家の婦女たちの自刃は別の側面があるような気がしてならない。気の毒だが西郷一族の女性たちが入城できるわけがないのだ。入城したら周囲から白眼視されるに決まっている。当主と嫡男が籠城戦闘員から外され城外に放り出されたのがその証です。
入城に遅れたのではなく、入城できなかったのです。
藩内で微妙な立場となっていた夫の名誉、西郷家の名誉を守るための自刃であったとも伝えられている。

②柴家のこと
 歌人一同白衣を着け、仏前に集まり、後事及び介錯を親戚の柴清助(70歳)に託し、つね子(80歳)、ふじ子(50歳)、長男太一郎の妻とく子(20歳)、妹さよ子(7歳)、と共に自宅に火を放って自害する。

③河原家のこと
 河原善左衛門の妻アサ、白無垢に着替え、喉を貫いた老母(67歳)の介錯をし、娘國子(8歳)を斬り、二首を菩提寺に仮葬し、讃岐門より城にはいる。

④中野慎之丞の家族のこと
 中野慎之丞の妻やす子(34歳)は、老衰で歩けない父大次郎(72歳)を介錯し後、我が子4人(15歳~6歳)を刺し、義弟の妻子を去らしめた。
自宅に火を放ち自刃し井戸の投じて染んだ。

戊辰150年 その14

2018-06-18 19:14:09 | Weblog
2018年6月18日(日)晴 24.9℃~14.4℃
「女性たちの会津戊辰戦争 」

 3月末か4月初旬のような寒い日が続いた。シャツを1枚余計に着たり、厚手のジャンバーを羽織って外出したり気候の変化に戸惑う数日だった。
しっかりした雨が降らず、わずかな土地の家庭菜園と植木などの水やりで大変。3月から町内会、退職関係の3つの団体、ろうきん、豊齢研ITサロン(パソコン)、城西地区保健委員会、城西コミセン、市コミ連、城西界隈まちづくり、西若松駅を愛する会と総会が続き、やっと昨日城西地区各種団体連絡協議会の総会が終わった。それぞれの会の活動に参加するのも時間的になかなか大変だが、多くの方々との交流が認知症予防になっている。
 ブログのアップもままならないが、戊辰150年のシリーズはもう少し続けてみようと思う。
 連れ合いが関係する団体の総会が過日あり、笹川壽夫氏が「女性たちの会津戦争」を講演された。
 多くの資料から、戊辰戦争での女性たちの行動を次の三つにまとめられていた。とても参考になったのでお借りしてアップします。
①自刃する(237名  ②籠城して戦う  ③郷村に避難する


一、慶応四年八月二十三日(新暦十月八日)
①「いざとなったらお城で早鐘をつくから、その時はすぐ場内に入れ」と前々から言われていました。その日の朝、五ツ時(八時)頃だったでしょうか、早鐘が鳴ったので支度をしていってみましたが、その時既に遅く、お城は堅く閉じられ、入ることができませんでした。お城に入れなかった祖母、継母、それに下の弟六人は多くの人々と一緒に弾丸の下をくぐって市街に逃れました。(日向ユキ『萬年青(オモト)』より)

②八月二十三日戦は互いに入り乱れ其の時実父新介において病院に入れ置か市を見舞いなどしておるうちに、お城の門は閉まり入ること叶わず、その悔しさは申すに言葉なし。大川端に来ても痕を見返しては念をおす。城の門前にて馬に乗りたる人、ぐずぐずせずお城に入ること叶わず」といひ早々と落ちて行く途中、今も覚えあることなり。『海老名リン日記』

③若松城下から避難の群れ。その宵の日、ニ十二日まで何とも思わず、ただ余所の国にて戦争ありけるようにのみ心得て、・・・官軍の兵は若松市中に乱れ入りしとなん。人々語るをさへ、空うそぶき聞き居りし折りから、大小の砲撃響き渡り、耳を貫き、さながら百千の雷乱れ落つるが如くにて始めて夢の覚めたる如くにあはて驚き、街の方をのぞき見れば、北より南に落ちいく人おびただしくて老若男女入り交じりて、年の市か初市かと思わるばかりなり。
(齋藤和節『耳目集』二 籠城中での状況)

 

 

戊辰150年 その13

2018-06-12 18:53:04 | Weblog
2018年6月12日(火)曇 23.2℃~16.6℃
「新政府軍の侵攻と作戦」

下記の侵攻図は、古城研究会会長石田明夫氏の講演資料よりお借りしました。


 8月17日、新政府軍参謀の伊地知正治(薩摩)と板垣退助(土佐)が二本松で作戦会議。勝者の進軍方針を巡って対立→伊地知案(石筵口を進む)に決まる。伊地知案は石筵口に精鋭の主力(薩摩、長州、土佐、佐土原、大村、大垣)を集中。一方ではその他藩兵が諸口に陽動作戦をかけるというもの。
→8月21日に母成峠が破られ、猪苗代危急の知らせが新撰組土方歳蔵から、会津藩の内藤介右衛門と小原宇右衛門にあったが、新政府軍の陽動作戦のため、中地口や御霊櫃口の会津兵は動けなかった。各地に分散している会津兵は大群で押し寄せる新政府軍には太刀打ちできなかった。
 伊地知案でなく周辺の藩を攻め(二本松藩 福島藩、米沢藩、仙台藩など)てから、会津藩へという案だったら、どう展開しただろうか?
 冬に成り雪が降る時期までずれ込んだならば、ロシアが侵攻してきたナポレオンを撃退したようなことになっていたかもしれない。
 もし、・・たらは考えてもしかたがないことだが・・・・。


 戊辰戦争で使われた暗号
 列藩同盟軍も新政府軍も諸藩の連合軍であるため、軍装だけでは区別がつかなかった。夜間ならなおさら!しかも、重右衛門や金蔵のように民間の協力者も出入りしているので、その中に新政府軍が放った探索者(スパイ)が紛れ込まないようしなければならない。
会津藩ではいくつもの暗号を使っていた。その一部が資料として展示されている。

戊辰150年 その12

2018-06-09 18:15:05 | Weblog
2018年6月9日(土)晴 26.3℃~18.3℃
「戦場のうわさ話」

 会津若松市の県立博物館常設展示室で6月2日から7月6日まで、戊辰戦争のピックアップ展「戦場のうわさ話」が催されている。
今日9日午後1時半から担当の栗原祐斗学芸員が「戦場のうわさ話」として講演するので、題名に魅かれて聴講した。


うわさ話→資料の中では「風聞」、「風説」と記されている。貴重な情報源。
 〇 石井重右衛門の探索
  安積郡中地村検断。慶応3年12月より会津藩より「機密御用」を命じられる。慶応4年正月22日「機密探索」報告。会津藩は戊辰戦争の前半から備えていた。「奥州白河城の図」探査中に戊辰戦争勃発。戦争中も知ら価は方面を探索。絵図を多数残した。

 〇新政府軍の情報を届けた手紙
  白河から届いた手紙「風聞」
  会津藩境の防衛体制・・・大平や勢至堂、中地を重要な拠点とみなし主力部隊を配置。
  8月17日朝、会津藩大平口軍事方んもとに女性が手紙を持参。差出人は白河に住む「兼々御味方」三条屋金蔵。女性は金蔵の娘。
  金蔵は伝えた風聞は、新政府軍の人数や進軍先
  ①15日に白河を出た新政府軍は3,000人程度で、土佐・薩摩・大垣・古河等の諸藩兵で構成。長沼と御霊びつ峠方面へ
  ②15日、佐賀藩兵600人・紀州藩兵200人白河に入った。
  ③20日までには湯本に鍋島藩が到達するはなし。
  ⑤白河には徳島、紀州、佐賀、館林、黒羽、彦根、笠間藩が滞留。
   会津藩で羽情報を共有するため中地口軍事方へ回覧。いよいよ敵が来るかもしれないと考えたかも
   ※自身や娘の危険が及ぶ可能性もあるが、会津藩に情報を提供した者もいた。


 情報を制する者は戦いを制す、という言葉があるように、戊辰戦争においても情報収集が欠かせませんでした。戊辰戦争の前後、会津藩もさかんに情報を集めており、それらの情報をもとに戦っていました。
 このとき情報収集にあたったのは、藩と繋がりを持つ町村役人や商人たちでした。彼らは知人や血縁者、商売仲間といった独自のネットワークを駆使し、会津藩士たちに代わって風聞(うわさ話)や絵図などを集めて回り、報告していました。
 このように戊辰戦争は、武士身分の者だけではなく、民間の人々の力も借りながら行われていたことがわかります。このポイント展では、会津藩士にもたらされた風聞(うわさ話)や絵図等をご覧いただきます。

【主な展示資料】
・奥州白河城之図 慶応4年カ(1868) 個人蔵
・暗号 慶応4年(1868)6月24日 個人蔵
・書状(鍋島勢ほか繰込につき) 慶応4年(1868)8月16日 個人蔵
・書状(三条屋金蔵娘を遣わし注進につき) 慶応4年(1868)8月17日 個人蔵

戊辰150年 その11

2018-06-08 19:22:02 | Weblog
2018年6月8日(金)晴 32.1℃~17.3℃
「会津戦争と鶴ヶ城籠城戦など」

 毎日暑い日が続き外での仕事は避けたかったが、どうしてもしなくてはならない野菜苗の植え付け、支柱、追肥、種蒔き、水やり、空き地の除草、植木棚の処分など無理した。熱中症には気をつけたが夕方には脱水状態になることがしばしばだった。少し先行きが見えて来たのでほっとしている。明日あたり近所の焼肉店「磐梯山」で、馬刺しを肴に生ビールでも飲んで元気をとりもどしたい。
会津で馬の肉は何時食べるようになったのでしょうか?

 会津戦争の傷病者を日新館の病院で世話するときに、体力を付けさせるために馬や牛の肉を煮て食べさせたのが始まり。
 太平洋戦争後、プロレス巡業で会津に来た力道山が馬の生肉を食べた(馬刺し)

ろうきん若松支店の講演を聴講して”会津戦争についていろいろと知ることができ、自分なりに振り返ってみた。
講師の石田明夫氏は、NHK大河ドラマ「天地人」や「八重の桜」で取材や撮影同行、民報局の放映に協力し活動されている。先日は”マツコ・デラックスの修学旅行(会津若松)でも協力された。今後も幾つかのテレビ出演がある。また、氏のホームページをみると講演等でスケジュールがいっぱい。
石田氏のご好意でいくつかの画像をお借り出来ましたのでみてください。

 会津戦争とはどのような戦争でしょうか?
 幕末の大きな世界情勢、中国大陸「清」が崩壊。植民地を広げるイギリス、フランス、ロシアなどの脅威、ペリー来航開国、対応できない幕府。
 国内的には、薩摩・長州・公家の討幕の動き。会津藩にとっては、辞退しきれなかった京都守護職の拝命。孝明天皇の急死。鳥羽伏見の戦いでの敗北。偽の勅命と錦の御旗を作成し使う西軍(南北朝時代のもの?)。尊王を第一にする諸藩の対応。15代将軍松平慶喜が松平容保を同行させて江戸に帰って恭順。江戸城無血開城。会津藩も幾度も恭順を嘆願するが受け入れられない。
 白河戦争で奥羽越連盟が乱れ敗れる。二本松藩、三春藩、棚倉藩なども落城。母成峠の戦いで敗れる。(福島へ向かうか?の判断ミスと守備兵の不足)
 会津へ一気に侵攻。猪苗代の亀ヶ城や土津神社を焼き、若松へ退去。間をおかず西軍は十六橋を突破。会津藩にとっては予想外の早さ。橋の爆破ができなかった。
 鶴ヶ城籠城。精鋭の武士が居なくても、老人、幼少の若者、婦人、志願した農民、町民などで1ヶ月籠城。鉄砲など武器の威力や飛距離が違うが、鶴ヶ城の天守閣は崩壊しなかった。名城と会津人の”義”の心がまとまって戦い抜いた。落城でなく開城である。
日新館の什の掟「うそをついてはなりません。 ならぬことはならぬものです。略」この教えが幕末の領民全部に浸透していたのだろう。
 
 昨今の政財界、運動系、文科系問わず、忖度しことをすすめる。記録がない。記憶がない。文書改ざんなど国会で平気でうそを言う。
見つからなかった文書が大量にみつかったり、会ったことのない人と言っていたのが実は会っていたなど素人でも明らかにわかることを答弁する。
日本国をリードすべき政治家や官僚がこのありさま。
会津の政治家「表紙が変わっても中身が変わらなければダメといって総理大臣にならなかった。このような政治家が輩出して来ない日本が嘆かわしい。
 政治家のみなさん、ダメなものはダメ。特に嘘はダメと声を上げて「もり、かけ」問題に向き合ってほしい。








戊辰150年 その10

2018-06-01 18:32:17 | Weblog
2018年6月1日(金)曇 20.9℃~14.3℃
「松平容保公と御辰翰」

 5月31日(木)会津若松市ルネッサンス中之島会館で「若松支店ろうきん友の会総会」。定期総会後、「会津古城研究会」の会長【石田明夫氏」の講演会が開催された。

演題「会津戦争と鶴ヶ城籠城戦」。講師の豊富な資料と巧みな話術で時間があっという間に過ぎてしまった。
会津戦争についてはいくつかの要因や時代背景がある。特に、京都守護職と孝明天皇の御辰翰・御製についての話は興味深かった。
講演の史料をお借りしてアップしいます。※会津歴史ガイドNO708 図・写真・文ℂ 石田明夫

「京都守護職拝命 文久二年(1862)閏八月一日
 大坂、京都、伏見、奈良の奉行所と大阪城代、京都所司代を統括した軍事組織。
 福井、越前藩の松平春嶽と一橋慶喜(慶応二年・1866、十二月五日から十五代将軍となる)の意見による。
 文久三年(1863)七月三十日の御所建春門前の天覧梅揃を尊王攘夷派熊本藩轟武兵衛の策略で急遽開催することとなり、見事に会津藩が実施した。
 文久三年八月十八日の政変で、孝明天皇と将軍家重や会津藩、薩摩藩の公武合体派に対し、長州藩の尊王攘夷派が天皇と将軍を攘夷させようと公家の三条実朝らと図った事件があり、公家ら七人を下関の功山寺に流されています。
その時、会津藩の秋月悌次郎が中川宮を訪れ政変は未然に防がれた。
 

その功績で、孝明天皇から御辰翰を賜った。 ※(御辰翰とは天皇の直筆の私書でほとんどありえないほどのもの)

 堂上以下、暴論をつらね
 不正の措置増長につき、痛心に耐えがたく、
 内命を下したところ、速やかに了承し、
 憂患掃攘、ちんの存念貫徹の段、
 まったくその方の忠誠にて
 深く観悦のあまり、
 右一箱これを遣わすものなり
   文久三年十月九日

 御製(ぎょせい・おおみうた=天皇の歌)
 たやすからざる夜に、もののうふの忠誠の心を喜びてよめる

 和らぐも 武けき心も 相性の
 松の 落ち葉の あらす栄えん
 武士と 心あわして
 いはほおも 貫きまして
 世より思い出

 寛文十二年(1672)十二月十八日、容保公は、六十二歳で逝去。 御辰翰(ごしんかん)と御製(ぎょせい)は亡くなるまで、肌身離さずもっいた。存在が分かったのは亡くなってからだ。