会津の重ちゃん日記

日常の出来事、地方紙の記事、街中散策して見聞したことを発信。

京都冬ひとり旅 51

2011-04-30 21:28:57 | 旅行
2011年4月30日(土)  雨・くもり・雨  
 朝方まで雨が降っていた。昨日と一変して寒い。昼間は雨も止んでよかった。
腰痛を少しでも自助努力で解決したいと会津インターナショナルスイミングに通って3年数ヶ月。週2回(T1コースは月・木)、(T2コースは火・金)、(T3コースは水・土)である。会津稽古堂堂を利用した「豊齢研ITサロン会津」のパソコン教室が水曜日になったため、やむなくT3コースからT1コースに変更した。
 一緒に腰痛を治したいと励んだ仲間との別れはちょっとしんみり。

 午後6時から「大民屋」で 城西保健委員会総会があった。監事をしているので監査報告を行った。 やはり東日本震災のことが話題になり哀悼の意を表した。

 昼間、車を運転していたら中央通から神明通りへそして栄町通りまで車は渋滞。途中から、二之丁を通り竹田総合病院へ抜けた。ここも渋滞。
 各地からお見舞い・ボランティア・被災者の車も動いているためだろうか。
観光客はやってきているのか町に活気がみなぎってきているようであった。

~静かに 観光客が増え 活気もどる~

「京都冬の一人旅51」東寺五重塔 

『東寺の象徴として広く親しまれている五重塔(国宝)は、天長三年(826)弘法大師の創建着手にはじまりますが、しばしば災火をうけ、焼失すること4回に及んでいる。現在の塔は寛永21年(1644)徳川家光の寄進によって竣工した総高55mの、現存する日本の古塔中最高の塔です。
 全体の形もよく、細部の組もの手法は純和風を守っており、初重内部の彩色も落ち着いて、江戸時代初期の秀作です。』とパンフレットには書いてあった。

 今回は特別公開ということで五重塔内部に入ることができこの目でしっかりと見る事ができた。写真撮影は駄目だったのでパンフレットを写し、その説明文は長文ですがこの旅行の最後の目的だったので全文を明日アップします。


京都冬ひとり旅 50

2011-04-29 21:16:32 | 旅行
2011年4月29日(金) 晴れ・くもり・時々雨パラリ  
 昭和の日で国民の祝日だが、息子も孫達も部活に出かけた。
中学2年の孫は野球部。南会津町の中学校と練習試合をするため午前6時過ぎに家を出た。中学1年生の孫はサッカー部。中学校の校庭で活動。
 中学1年生の孫は体が小さいので疲れるらしい。夕方遅く帰ってくるとおやつを食べて親が帰ってくるまで寝てしまうことが多い。それでも塾のある日は頑張って勉強している。
 みんなの時間が合わず延び延びになっていた中学入学祝を近所の焼肉屋「磐梯山」でした。ささやかな食事会だが孫達の中学校の勉強や部活や友達の話しを聞く事ができてうれしかった。 放射線量測定値が高く屋外活動が制限されている地域の園児や児童生徒に比べると会津は屋外活動ができるだけでも幸せである。
 
~孫達の 文部両立 たのもしい~

「京都冬の一人旅50」 
   第6日目 3月4日(金)曇り。晴れ   

 酢屋の見学を終えて河原町通りを南へ歩き、四条河原町のバス停から東寺へ。220円。東寺東門に降りた。前に来た時は京都駅から近鉄京都線で東寺駅へ行きそこから歩いて南大門から境内へ入った。金堂・講堂・食堂・右に五重塔、左に灌頂院が配置されている。そして食堂左には大師堂がある。
今回は交番のある東の慶賀門から境内へ。少し勝手が違ってとまどった。右は駐車場、左は宝蔵・瓢箪池があり、少し行くと拝観受付だった。講堂・金堂・南大門を左に見ながら瓢箪池後方に五重塔をみた。
 今回の目的は五重塔の初層内部の公開があり、それをみることであったので、重文の講堂は素通りし国宝金堂へ入った。

 金堂は東寺一山の本堂で延暦15年(796)創建されたと伝えられている。文明18年(1486)に焼失し、今の堂は豊臣秀頼が発願し、片桐旦元を奉行として再興させたもので、慶長8年(1603)に竣工した。天竺様の構造法を用いた奔放雄大な気風の漲る桃山時代の代表的建築で、細部には唐・和風の技術を巧みに取り入れている。

 金堂の本尊は薬師如来坐像と日光、月光の両脇侍菩薩像である。


京都冬ひとり旅 49

2011-04-28 22:57:15 | 旅行
2011年4月28日(木)  雨・くもり・雨  
 朝方まで雨が降っていた。昨日と一変して寒い。昼間は雨も止んでよかった。
   午前11時~町内の住吉神社春季大祭があった。氏子総代、崇敬者、来賓、区長、一般が本殿でお祓いを受けお参りをした。特に今年は宮司が祝詞の中で東日本震災で亡くなられた方、被災された方へのお見舞いと復興を祈願した。区長代表として玉串を捧げた。 その後社務所で直会。毎年来ていた神官がいないので宮司に聞いてみたら野沢の大山祇神社へアルバイトで行っているとのこと。神社は兼職しないとなかなか大変らしい。  住吉神社の宮司も塩川町の駒形神社から来ている。何時もは会津若松市には住んでいない。神社が私の町内にあるので氏子とともに見回りをしている。  昔は常駐している宮司が居て参拝者も多かったのだが・・・・・・。
 今年は大雪や異常気象のせいか境内の桜が満開。昔は遊び場といえば神社の境内だった。今は公園も設置されているが休日でも遊び回る子どもの歓声は聞こえない。寂しい限りである。  
~子ども達 姿も見せぬ 神社内~

「京都冬の一人旅49」 
   第6日目 3月4日(金)晴れ 酢屋   

金閣寺から四条河原町へバスで移動。歩いて坂本龍馬の寓居跡。これで3度目であった。現在は京都ホテルオークラの敷地になっている場所はかって長州藩邸があったところ。幕末には尊皇攘夷を唱える志士たちが出入りをし、藩邸は政局の中心地となっていた。
 幕末の志士達が奔走した木屋町・高瀬川界隈には寓居跡や命を落とした志士達の石碑が多く残っている。
 木屋町通りに沿って流れる高瀬川は大阪に通じる水運の要路であったことから繁華街として栄え、高瀬舟によって運ばれた木や炭などを扱う木材商が軒をならべていた。
 親しかった坂本龍馬が近江屋で暗殺されるまで身を寄せていた酢屋はこの付近を代表する有力な材木商であった。
 日本のために奔走する坂本に共感し、自宅一室を海援隊の京都本部としていた。
 坂本は2階表西側の部屋に住み、当時酢屋の南側に広がっていた高瀬川の舟入に向けて愛用のピストルの試し撃ちをしたというエピソードも残っている。

 実際に2階に上がってみると部屋は10疊あるかどうかだった。ここに潜伏し志士たちと連絡をとりながら活動していたのだろうか。どうして数日後に暗殺される近江屋へ移ったのだろうか。いろいろな疑問をもちながら説明を聞いた。

 坂本と中岡が暗殺された近江屋は現在コンビニになっていて説明の石碑があるだけだった。
  (続く)

京都冬ひとり旅 48

2011-04-27 18:31:59 | 旅行
2011年4月27日(水)  晴れ 26度  

 暖かいというより暑いという日であった。
 今日は大舞台に出る役者か講師か著名人かの気持ちでいた。ちょと大袈裟ですが、服は?、ネクタイは?、胸ポケトのハンカチは?、靴は?と・・・・。(笑)
 平成23年度福島県退職公務員連盟北会津支部定例総会の議長の大役を引き受けたことに起因する。800余名の会員の中から私に依頼してきた執行部の方々にはじめは固辞したが「どうしても・・・」の言葉と人間関係から引き受けた。
 この会の総会では6年前から議長は男性1名、女性1名で務めることになった。

 総会は午後1時からだが打ち合わせのため12時に会場のワシントンホテルへ。
 下記の議事を女性の方に
  1号議案 平成22年度事業報告並びに会計決算の報告(監査報告)
  2号議案 平成23年度事業計画並びに予算案の提案
 私は
  3号議案役員の一部改選について
  4号議案 「東日本大震災」義援金について
  5その他
 
 色々な意見が出たがなんとかまとめ定例総会を終えることができほっとした。
 例年だと歓送迎会があり懇親を深めるところだが、3月の支部委員会で自粛しようと
決めていたので酒宴はなく解散。
 
~引き受けて こなしてみれば 喜びも~

「京都冬の一人旅48」 
   第6日目 3月4日(木)雪→快晴    
 冬の京都1週間の旅も最終日となった。
 朝起きて外を見ると真っ白な雪景色。旅館の屋根にも雪が積もっていた。
 昨日も一時雪が降ったので仁和寺からタクシーで金閣寺へ行ったがよい写真は撮れなかった。よし今日こそは雪を被った金閣寺の写真を意気込んだ。朝食を済ませ旅館の女将に別れを告げ、タクシーで金閣寺へ直行。
 午前9時開門。着いたのは午前9時半。入り口辺や方丈の屋根には雪が積もっていた。
胸躍らせて拝観料を払い庭へ。
 雪は止み太陽が燦燦と輝いて金閣の屋根には雪はなかった。警備員の方に聞くと8時頃は積もっていた。残念。
 樹木には雪が残っていたので金閣を写す。
 さーと寺内をめぐった。以下数枚の写真をアップします。




 方丈は特別公開されていたが入らず外から写真を撮った。

 
 一巡してみると雪は消えていた。
  (続く)

京都冬ひとり旅 47

2011-04-26 21:51:11 | 旅行
2011年4月26日(火)  晴れ・くもり・雨  
 午前中歯科医に行き残った上の歯の歯石をとってもらっい前歯の治療をした。約1ヶ月後点検する。口の中がすっきりしてて口臭もない。これからもよく歯を磨いていこう。歯科医院から着付けをしている妻を迎えに行く。ちょうど昼時。
どこかで食事をと店を探すが適当な店が見当たらない。

妻は孫のおやつを買うから「マクドナルド」へという。ドライブスルーで用を済ませようと思ったが昼時だったので入店した。
ココスやデニーズのファミリーレストランでは食事をしたことがあるが「マクドナルド」は初めてだった。妻は娘や孫と来たことがあるらしい。フライドポテトと○○ハンバーグとコーラーを頼んだ。家族ずれで賑わっていた。居酒屋向きの私には居心地が悪い。
お土産を買って早々に帰宅した。
部活を終えて帰ってきた孫達は美味しそうに食べた。子どもや若者は喜ぶ。
日本の食文化も変わってきた。
 
~ハンバーグ ぱくつく子ども 肥満かな~

「京都冬の一人旅47」 
   第5日目 3月3日(木)   

建仁寺両足院の趣の異なる3つの庭園と秘仏毘沙門天の特別公開日であったが、法堂などの見学をゆっくりしていたため、午後4時までの受付に間に合わなかった。残念ながら見学できずに旅館に歩いて帰った。少し歩き過ぎだったので昨日のマッサージ屋に行きマサージを受けた。そして同じビルの1階居酒屋「地球屋」で肉じゃがと酒・ビールを飲んで夕食とした。2日分の旅館代を支払い荷物をまとめ宅急便を頼んだ。
いよいよ明日帰る。疲れた体を休め旅行のメモを整理した。

京都冬ひとり旅 46

2011-04-25 20:42:14 | 旅行
2011年4月25日(月)晴れ・雨・ひょう・曇り 。 
 午前中晴れていたので、水道管破裂で室内が水浸しなった空き家へ行きすべてのドアと窓を開け風を入れた。
 それからいつものプールへでかけストレッチや水中運動していた。午後1時半頃、外が暗くなり激しく窓を打つ音、ひょうが降ってきた。そして雨風がひどかった。
 窓を開けてきた空き家のことが心配だった。30分もすると雨風も止んでいたのでほっとした。プールからの帰りに窓を閉めた。
 夕方5時から城西コミュニティセンター管理運営委員会の総会が城西コミセンであった。司会進行を務める。難しい案件もなかったのでスムーズに終わった。引き続いて飲食をしながら懇親を深めた。弁当や酒・肴はスーパーで買い求めたのでいくらの経済効果があったかは分からない。
 コミセンの南側は壁があり暖かいのかいつも桜は早く咲く。満開であったが寒くて花見をしながらの懇親とはならず暖房をつけて窓からの花見となった。
 
  
~日本人 花見はさくら 何時からか~

「京都冬の一人旅46」 
   第5日目 3月3日(木) 建仁寺 法堂  

 法堂(はっとう)へは方丈から北門と西門を結ぶ道路を渡り廊下で横切り堂内へ入る。この時仕切り戸を開けるのに暗証番号がいる。入る時は3人の若者が開けたので何も考えずすーと続いて入った。説明板に暗証番号が書いてあったのに覚えていなかった。戻れなくてもたもたしていたら入る時の若者がやって来た。彼らと一緒に方丈へ戻れた。
 気をつけたい仕切り戸でした。 皆さんも気をつけてください。

 法堂は明和二年(1765)上棟。仏殿兼用の「拈華堂(ねんげどう)」。五間四間・一重・裳階付の堂々とした禅宗様仏殿建築。正面須弥壇には御本尊釈迦如来坐像と脇侍迎葉尊者・阿難尊者が祀られている。また、その天井には平成十四年(2002)創建800年記念として「小泉淳作画伯」筆の双龍が描かれていた。すごい迫力。
 方丈も法堂も写真撮影は禁止されていない。自由にシャッターを押した。
 京都に来て写真撮影禁止の多さにびっくりしていた。昔は拝観料もとられず自由に写真撮影をさせてくれた。今は禁止と拝観料など金、金、金, 金・・・・・。神社仏閣は金儲け主義に走ってしまったのか嘆かわしい。
(続く)


京都冬ひとり旅 45

2011-04-24 11:59:02 | 旅行
2011年4月24日(日)小雨・薄くもり 
 土曜日は3月11日の震災後に病死した従兄弟の納骨。告別式にはなかなか集まれなかった親族も集まり菩提寺「威徳院」で読経をしてもらい、大塚山の墓地に埋葬した。
 私より10歳も若い独身の従兄弟の死に複雑な気持ちになった。
地震や津波で亡くなられた方や行方不明の方々でご遺体も見つからない方がおられる。火葬もされず土葬で埋葬された方もおられる。
 そういう状況の中で会津若松市ではきちんと告別式・火葬・納骨とできたことはありがたいことである。親族一同感謝している。
 人の命は本当にはかない。独身だった従兄弟は5人兄弟妹の次男。兄弟妹が供養していくことになるだろうが会津にはいない。先祖の供養も考えると墓地はどこにあったらいいのだろうか。私も喜多方市の共同墓地を所有しているが会津若松市からは遠い。
喜多方市に返還して会津若松市内に墓地を求めようかな?などと考える。
  
~ちょとはやい 安住の墓地 見つからず~

「京都冬の一人旅45」 
   第5日目 3月3日(木) 建仁寺 東陽坊  
 金澤翔子書「風神雷神」を観て行くと別室に「○△□」を書いた額があった。変な額だなと思いながら写真を撮った。後でパンフレットをよく見たら「単純な三つの図形は宇宙の根源的な形態を示し、禅宗の四大思想(地水火風)を、地(□)水(○)火(△)で象徴したものといわれる。
 このような思想のもとで作られた庭を「○△□乃庭」という。建仁寺ではどこにあるのか分からなかった。 続いて茶席「東陽坊」(とうようぼう)を外から見た。
 利休高弟の一人、真如堂長盛(ちょうせい)の好みといわれ、秀吉の北野大茶会にて紙屋川の土手に建てられた副席と伝える。手軽屋根の構成が魅力ある草庵茶室の外観を形づくっている。内部は二帖台目の茶席、一帖の合の間、二帖台目席の最も優れた規範的な形といわれる。茶室南側には豊太閤遺愛の鳥帽子石が据えられている。茶室の西側には当寺名物「建仁寺垣」が設けられている。
 
 

京都冬ひとり旅 44

2011-04-22 20:13:10 | 旅行
2011年4月22日(金)  快晴 
歯の治療に行った時歯茎や歯磨き状態を調べられた。紫の薬を塗って磨き残しがあるからと手鏡で見せられた。一日3度食後に歯間ブラシと歯ブラシで磨いているのだが指摘を受けるとちょっとがっかりした。テレビを観ながらでもでもよいから小刻みにゆっくり10分以上磨くようにと指導を受けた。
 前にも指導され磨いているつもりだが、10分というのは結構長い。つい5分くらいでやめてしまっているのかもしれない。
 自分の健康のためにも口腔内はきれいにしておかなければならない。肺炎の原因にもなる。 なかなか磨ききれないので歯石をとってもらうことにした。1年に1回でなく半年か3ヶ月に1回歯石をとってもらうのはどうだろう。歯科医をあてにして歯磨きがおろそかになるかもしれないな。 皆さんは丁寧に根気よく歯磨きをしておられるのでしょうね。
冬毛が抜ける時期なのでラッシュは外に出しておいた。お天気がよい日だったので花壇に伸びて昼寝。みていると私まで昼寝をしたくなった。

  
~陽だまりに 寝そべる犬の 愛らしさ~

「京都冬の一人旅44」 
   第5日目 3月3日(木) 建仁寺境内 
 建仁寺は臨済宗建仁寺派の大本山。開山は栄西禅師。開基は源頼家。鎌倉時代の建仁二年(1202)の開創で、寺名は当時の年号から名づけられている。
山号は東山(とうざん)。諸堂は中国の百丈山を模して建立された。創建当時は天台・密教・禅の三宗兼学だったが、第十一蘭渓道隆の時から純粋な臨済禅の道場となり、800年の時を経て、今も禅の道場として広く人々の心のよりどころとなっている。

 花見小路の北門から入ったので方丈への入り口が分からず迷ってしまった。工事をしていた方に宗務本院より拝観料を払い方丈へ。ここには有名な風神雷神図屏風(国宝)があるはずだが、写真と実物大のレプリカが展示してあった。写真撮影はOK。

 風神雷神図には落款も印章もないが、俵屋宗達の真作として、しかも晩年の最高傑作とされている。二曲一双の屏風全面に金箔を押し、右双に風神、左双に雷神を描いている。

奥に進むと 金澤 翔子書「風神雷神」が展示してあった。

 金澤 翔子さんは1985年6月、東京都目黒区に誕生。生まれてすぐダウン症と診断されますが、1990年5歳のときに書家である母、金澤 蘭鳳氏に師事し書道をはじめた。10歳のときに般若心経を書き、全日本学生書道連盟展に「花」を出品。以後16歳で「舎利礼」、17歳のとき「觀」で金賞を受賞。19歳のときに雅号「小蘭」を取得。個展などを開き活躍。この「風神雷神」奉納。書の構図が実物の屏風を連想させ、まさに風神と雷神が天を飛翔しているような躍動的かつ力強い作品。


 



京都冬ひとり旅 43

2011-04-21 17:53:59 | 旅行
2011年4月21日(木)  快晴 
平成19年の道路交通法の改正により運転免許証の更新手続き前に「高齢者講習」受講しなければならなくなった。冬の間は雪もあり暖かくなってと思い、3月初旬に会津中央自動車教習所へ講習予約をしに行った。年度末は非常に込んでいて予約がとれない。
 4月21日講習を受講した。受講生は6人。オートマ3人、マニアル3人だったのでそれぞれ分かれて運転。教習所の車でコースを回る。
 
 内容はスタートするとすぐにS字クランク→停止して左折→8本ボールの間を抜ける→停止して左折→踏み切り一旦停止左右確認→右折→直進し停止している車の右を合図をして通り過ぎる。→その後 狭い所の車庫入れや信号待ちなどをして所定の場所に車の先端を止める。
3人が交互に運転した。運転行動診断の結果はおおむね良好ということで安心した。

 次は室内で器具を使ってシュミレーション「運転適正検査」を受けた。一つは状況の変化に対する反応の速さと正確さ、もう一つは複数の作業を同時に行う能力をみるものであった。診断結果は同年代との比較では平均的(普通)

 最後は視野測定。これも平均値。動体視力検査と夜間視力検査も普通。

 高齢者講習は少し疲れたがお天気がよくて気分よく受講できた。ほっとした。

 高齢者講習終了証明書をもらいに会津若松警察署へ。交通安全協会へ入会(3年間)。
 免許更新手続きをした。視力検査があった。これが一番気になっていた。白内障があり視力が衰えている。心配した通り裸眼でぎりぎり0.7。今回も眼鏡使用無しで免許証写真。

 運転する時は近視・乱視の眼鏡をかけている。読み書きする時は老眼鏡は使用しない。
 なんとか免許更新ができた。3年間は運転できるが身体機能、記憶力・判断力の低下があることを自覚して安全運転に心掛けていきたい。 
  
~あと3年 運転できる ほっとした~

「京都冬の一人旅43」 
   第5日目 3月3日(木) 建仁寺 
 
 建仁寺は京都最古の禅寺。祇園 花見小路から境内に入った。
 (続く) 

京都冬ひとり旅 42

2011-04-20 11:07:53 | 旅行

2011年4月20日(水) 晴れ  

 東日本大震災と原発事故で3月末の諸会合が4月中旬から下旬に集中している。城西区長会総会は過日アップしたように4月14日に歓送迎会も兼ねて例年通り行なった。
この後から各種団体の総会・歓送迎会が目白押し。
庶務をしているので29町内から出てきた各種団体(11)の委員名を団体ごとの名簿として振り分けてそれぞれに名簿を作らなければならない。
 A町内から 防犯委員○○、環境美化委員▲▲、青少年育成推進委員●●、交通安全協
 ・・・・・・と1枚の紙に列記して提出されると,「平成23年度 城西地区防犯委員会名簿」として29名の委員の氏名・住所・電話などを載せて作成。同じように残りの10団体の名簿作成をした。
 一日中パソコンに向う。目がしょぼしょぼ。肩がかちんかちん。首が回らない。疲れた。
時々休みをとって庭にでた。
 水仙、梅、白モクレン、ショウジョウハカマ、ヒヤシンス、パンジーなどが咲き乱れチューリップも膨らんでいた。季節は確実に春になっていた。
 シイタケはいつものようにたくさん出ていた。くきたちもとうがたって食べごろ。
 お浸しにして晩酌の一品。シイタケは焼いて醤油を少したらしてもう一品。
  
 
~晩酌に とれたて野菜 春の味~

「京都冬の一人旅42」 
   第5日目 3月4日(月)祇園周辺  
四条通りを南に渡ると「花見小路」。紅殻格子の茶屋、町家の料理屋などが並んでいる。

 四条花見小路に入るとすぐ左に京都でも由緒ある茶屋「祇園 一力亭」がある。
一力茶屋は江戸時代の中期に祇園が花街へ変貌してゆくときに、忠臣蔵で有名な大石藏助が利用したことで有名 。一見さんお断りの格式高い店として知られている。
 外観だけ眺め、どんな人達が利用するのだろうと想像を巡らした。


 道を直進すると建仁寺へ突き当たる。途中左側には祇園甲部歌舞場があり、夜のバス観光で見学したことがあった。最近ではお茶屋を改築して一見さんでも入れるようにしたりカフェなどにしたりしている店もある。少し疲れたのでカフェに寄り一休みした。

観光客が行き交う「白川通り」や「花見小路」は華やかである。祇園には観光客はあまり歩かないが、茶屋や置屋があり舞妓さんの姿を見ることができる場所があるとカフェで聞いたので散策することにした。

「花見小路」から西へ歩いていくと南座がある。そこから南西に数分歩くと鴨川の近くに「宮川通り」があった。古い屋並みがあったり、改築した茶屋もあった。

 お座敷に出かける舞妓さん3人に遇った。カメラをバックから出す間に2人は茶屋へ入ってしまった。もう一人は後ろ姿だけパチリ。盗撮みたいになってしまいました。舞妓さんごめんなさい。