会津の重ちゃん日記

日常の出来事、地方紙の記事、街中散策して見聞したことを発信。

秋の農作業 玉ねぎ

2011-10-31 18:51:03 | 家庭菜園

2011年10月31日(月) 雨・くもり・晴れ 
 日曜日は夕方から翌日まで雨という天気予報だったので、玉ねぎの苗を駐車場のある畑に5月ころ食べる早生ソニック50本と普通アトン50本を植えた。

 玉ねぎはペルシャ原産で古くから野菜として栽培されてきました。刺激性のあるにおいはネギに近い成分で、肉や魚のにおい消しとして各種の料理に利用され、利尿、発汗、などの薬効も認められている。酸性土や暑さ、乾燥を嫌い、日当たりのよい場所をこのみます。生育適温は15~20℃。
 玉ねぎ苗は市内の種苗店に9月下旬に注文。10月下旬やっと苗ができたという電話をもらいとりにいく。  注文してから苗が出来るまで期間があったので、土の中和や肥料など畑の準備をした。 自分で種を蒔き苗づくりは難しい。苗の生育と植える時期も難しい。  

専門種苗店で購入した植え付け苗は20cm~25cmで太さ6mm~8mmが適当。100本の苗には小さすぎると未熟になり太すぎると春にとうが立つものも混じっていた。また、植え付け時期が早すぎてもとう立ちする。植え付け時期が短いので注意しなくてはならない。
 株間10~15cmで1本ずつ掘った植え溝の片側に寄りかからせるように植え、根元に土を被せる。20日後、畝に沿って土をけずり、化成肥料をばらまいて
土を被せる。冬の追肥後は、根元を足で踏んで固めておくと霜で浮き上がるのを防ぐことができる。翌春、芽が伸びはじめる頃、化成肥料を与え土寄せをする。

おいしい甘い玉ねぎの収穫が楽しみで農作業に汗を流した。   

秋の農作業 里芋掘り

2011-10-30 10:56:58 | 家庭菜園

2011年10月30日(日) くもり 
 土曜日は快晴で暖かかった。 金曜日久しぶりに裏磐梯方面をドライブして紅葉をみてきたのでリフレッシュができた。土曜日は気分爽快。午前10時過ぎ野良着に着替えて畑仕事に精をだした。ダイコンやくきたちの間引きをしたり、里芋を掘ったり、ネギを植え替えたりした。

 里芋は5年振りに栽培した。里芋は熱帯アジア原産。高温多湿を好むので寒さや乾燥が強いとよい生育は望めない。生育適温は25~30℃。夏にはよく育つが乾燥を防ぐ工夫が必要であった。藁などを敷いて水やりをすればよいのだが、藁がなかったので背丈の長い草を刈り取って敷き水管理をした。元肥や追肥、水やりがよかったのか5年前より順調に育った。根元から葉の先端までは1m50cmの茎もあった。
 一度に全部掘りあげてしまうと管理が大変なので、今回は4株だけ。
 シイタケと里芋とネギとこんにゃくと豚肉の煮物を夕食に食べた。里芋のぬめりと柔らかさの食感とほどよい味付けで晩酌がすすんだ。
 家庭菜園をしている者の幸せです。収穫までの苦労が報われた。

 畑にはまだ12株残っている。また掘り起こして芋汁でも食べようかな。
里芋の冬越しは、ダリヤやカンナの球根と同じで難しい。ダンボールや発砲スチロールの箱にもみがらや新聞紙などと入れて保存したが、腐らせてしまった。
 里芋の保存の仕方を教えてください。
 

裏磐梯の紅葉

2011-10-29 20:14:08 | 地域情報

2011年10月29日(土) 晴 
 昨日の金曜日は絶好の行楽日和であった。久しぶりに妻と裏磐梯方面にドライブをした。往路は塩川町から熊倉町を経て北塩原村へぬけた。

途中ラビスパの近くの桜の名所(愛子様誕生を祝って桜のオーナーになった桜が3本ある)へ立ち寄り、桜の根元に水仙の球根を植えた。
 一昨年一度計画したのだが、12月だったので雪が積もっていて実現しなかった。
3本の桜の前には孫の健太、陽平、さくらの名前で石柱が建ててある。木の周りにはすでにさくら草が植えてあり、来年は水仙も咲いて観桜が楽しみである。

 その後裏磐梯道の駅に寄り、高原ダイコンなどを購入。そして裏磐梯高原ホテルで昼食。
ランチメニューはいろいろあったが、トップページにあったオムレツカレーを注文。ふんわりしたオムレツとカレーが絶妙の味である。お奨めの一品。
 庭に出て弥六沼の紅葉や裏磐梯の噴火口の景色を眺めてゆったりとした時間を過すことができたた。
 駐車場には他県ナンバーの車も見受けられ、春の観光シーズンと比べると少しずつ観光客も訪れているようで福島県人としてはほっとした。
 


 復路は猪苗代町、磐梯町、河東町を通って来た。車の流れはスムーズ。 
 

秋の集い

2011-10-28 19:28:04 | Weblog

2011年10月28日(金) 快晴 小春日和
 
 27日(木)午前11時から会津若松ワシントンホテルで福島県退職公務員連盟北会津支部主催の「秋の集い」があった。恒例のこの集いは長寿会員の方々へのお祝い、永年にわたり役員をされた方々への感謝と会員同士の親睦を深めることがねらいで開催される。
   会員800余名のうち傘寿の方が41名もおられそれぞれが元気で生き生きと過されている。元気いっぱい舞踏を披露された方もいてそのパワーに圧倒された。 私も傘寿まで病気せず、ボケないで活動していきたいと願っている。    会場にはクラブ活動の作品が多数展示してあり、日頃の趣味・特技の発表もあり、お互いの近況を話し合ったりと和気藹々の時間を過すことができて満足した「秋の集い」であった。  秋は本番。これからまつり、芋煮会、フェスタなど色々な形で人々が集う。地震、津波、原発、豪雨水害、風評被害など辛いことが多すぎるが人々が集う時、そこに明るい笑い声が聞こえる。そんな機会を大事にしていきましょう。 以下は功労者の表彰、作品展示、あいづ・あすなろ合唱団のコーラスの写真です。

 

職人の仕事2

2011-10-27 16:33:52 | Weblog

2011年10月27日(木) 快晴 小春日和 
 昨日とび職の仕事ぶりのことを書きました。今日は屋根の塗装についてアップします。屋根の塗装は母屋、建て増し部分、物置小屋と面積も広く、塗装した時期もまちまちなので仕事の仕方も同じではなかった。一度も塗り直しをしなかった物置小屋はサビとり、チリ集め、サビ止め、塗装。母屋は高速で水洗い、サビとり、サビどめ、塗装。
建て増し部分は一部サビ止め、塗装。
 
 屋根の塗装は、お天気が仕事の進み具合を左右する。はじめは親方一人で何日か下準備をした。その後、息子と二人で仕事。 特に塗装の仕事になってからは、朝露が無くなる午前10時頃から仕事をはじめ、日暮が早いのでとお茶の時間も無く昼休みもそこそこに仕事をした。真面目でよく仕事をする職人さんに感心する。

 放射能物資の汚染の心配をしなくてもすっかり除染された。おかげできれいな屋根。
しっかりした樋ができて今年の冬はさらさらと雪が滑り落ちて来るだろう。雨が降った時、雨樋を通り越して水滴が勢いよく外に飛び出していてびっくりした。

  


 

職人の仕事1

2011-10-26 19:39:10 | Weblog

2011年10月26日(水) くもり 
今年の豪雪で屋根の塗装が削られたり、樋が壊れたりしたので、屋根の塗装や修理を懇意にしている工務店に依頼した。普通夏場に塗装するようだが、震災関係で職人さんが仕事の調整がつかず10月中旬に足場を組み、撤去が今日で終わった。約2週間。
 
 依頼したのは物置き小屋、母屋、建て増し分。特に建て増し分は屋根裏部屋を造ったので変則3階。屋根は急斜面になったので足場が必要であった。

 足場を組み立てるとび職人、塗装職人、板金職人、大工職人などが各人の仕事の進捗に応じて代わる代わるやって来て仕事をした。


 どんな仕事も大変だが、最初に来たとび職人の仕事ぶりには驚いた。
 とび職の方が大工さんと打ち合わせに来た時は、隣地に足場を組まないと無理かなといっていたのに、建物とブロク塀のわずか80cm空間に足場を組み立てた。
それも一人でわずか二日で。これにはびっくりしてしまった。撤去は一人で一日でしてしまった。
 高いところは慣れているとび職の方とはいえ見事な職人の仕事で感心した。
 
 

赤べこ倶楽部まつり

2011-10-25 20:10:12 | Weblog

2011年10月25日(火) 晴れ・雨 
 午後から雨という天気予報だったので、着付け教室に妻を送り、帰宅するとすぐオクラと紫蘇を抜き、ネギを植え直した畑を起耕し肥料を入れ畝を作った。その後、2回目の大根の間引きをしようとしたら、迎えに来て欲しいとの電話で間引きは中止。
 雨が降り出したので、外食して帰宅。外仕事はできないので23日のことをブログにアップしました。

 町内の芋煮会が午前11時半から始るので、その前に会津アピオスペースで開催された「赤べこ倶楽部まつり」に出かけた。
 

このまつりは東北土木グループが主催。
 ふとしたことから、月刊コミュニティ情報通信「赤べこ倶楽部通信」をいただくことになった。10月号Vol 64が届いた。まつり開催の思いがすばらしいので紹介します。
 「3月11日の東日本大震災により、福島県においては今なお不安と混迷の中にあります。しかし、私達が愛する福島、そして会津の復興に向け、更なる飛躍をしていくことが福島に住む私達誰もの願いです。今回で10回目を迎える「赤べこ倶楽部まつり」はこのような思いを込め、~元気をだすべぇ会津~と題して、福島の復興と会津の更なる発展につなげる機会として開催する運びとなりました。ぜひたくさん方にお越しいただいて、会津をもっともっと元気にしていただきたいと思います。」

 18の楽しい出展ブース!がありそれぞれ工夫をこらしていた。時間があればゆっくりとみてまわりたかったのだが、町内の芋煮会のことも気になるのでさーとみて帰った。1ヶ所「紙と布で作るかわいい小物」のブースでは、売上金を福島医大病院の「パンダハウス」に寄付するとうようなのでポストカードなど数点を趣旨に賛同して買った。

 環境フェスタや健康まつりのように公的機関が開催するもの、企業が開催するもの、町内会やで開催するものまつりはいろいろあっていいものですね。

 
 

芋煮会

2011-10-24 19:57:00 | 地域情報

2011年10月24日(月) 晴れ 
 昨日の日曜日は環境フェスタ、健康まつりをはじめいろいろな催しが各地で開かれた。
私の町内では恒例の芋煮会を行った。例年だと住吉神社境内にブルーシートを敷きテーブルを並べて会食するのだが、雨模様の曇り空だったので社務所の中で会食をした。
 
 いつもながら町内の青壮年の方々と数名の女性の方のお手伝いで調理から設営までしてくれた。とてもありがたい。

 餅つきでは80歳の婦人が青年相手に餅の返しをしてみせてくださった。その元気さに一同拍手喝采。また、子どもも杵をもって餅つきを体験。
 臼で新もち米を搗いた餅。あんこう餅、納豆餅、きな粉餅。腰があってとってもおいしい。餅つき器で搗いた餅とは一味違う。
 風評被害を払拭して地元の食材(ナメコ、里芋、ねぎ、白菜、豚肉)がたっぷりは入り大きな鍋で煮たのでこれまた味がしみて美味しい芋汁だった。

 最後はビンゴゲームをした。今回は新米コシヒカリ5kgが10袋も用意されていて大いに盛あがった。
 来年は、アパートの人達や若い人達、転入して来た方への働きかけをして町内の融和と絆を深めるようにしたい。

  

戒石銘

2011-10-23 22:07:35 | Weblog

2011年10月23日(日) 曇り 
 昨日のつづきです。旧二本松藩戒石銘碑(国指定史跡)の碑文は、今の世の中にも通じるものである。いや通じなくてはならない。特に政治家や公務員の皆さんにはおおいに刻銘の意味をかみ締めて俸給をもらい仕事に励んでもらいたいと願う。
 二本松市のホームページより引用させてもらいます。
  二本松城址(霞ヶ城址)は、福島県二本松市に所在し、江戸時代・寛永20年(1643)から明治元年(1868)までの220有余年にわたる、二本松藩・丹羽氏10万700石の居城でした。城の東手には藩庁があって、藩士達の通用門がありました。その藩庁前に露出した長さ約8.5m、最大幅約5mの自然石の大石に刻まれたのが“戒石銘”です。
 5代藩主(丹羽家七代)丹羽高寛公が、藩儒学者の岩井田昨非の進言により、藩士の戒めとするため、命じて刻ませたもので、寛延2年(1749)3月に完成しました。高寛公はすでに致仕(隠居)し、6代藩主高庸公の治世でした。 
 銘は、露出面の縦1.03m、横1.82mの間に、4句16字を刻んだもので、その書体は非常に典雅さが感じられます。

その読みは
   その意味は

 つまり、「お前(武士)の俸給は、民があぶらして働いたものより得ているのである。お前は民に感謝し、いたわらなければならない。この気持ちを忘れて弱い民達を虐げたりすると、きっと天罰があろうぞ」と解釈される。
 昭和10年(1935)12月24日、教育資料として、また行政の規範として価値の高いものであるため、国史跡「旧二本松藩戒石銘碑」として指定された。

 いかがでしょうか。国会議員定数の削減もしない。国家公務員宿舎の建設(凍結しただけ)公務員の削減もしない。某市会議員は3日くらいで退職したのに1ヶ月の給料をもらっている。また、震災復旧・復興の財源を増税でという時に多額の費用を使って海外旅行をする議員がいる。このような現状を丹羽高寛公ならどのような戒めを説き国を治めていくだろうか。

霞ヶ城址

2011-10-22 17:55:09 | Weblog

2011年10月22日(土) 天気予報どおり 雨 
 気温は高い
 
 昨日のつづきをアップします。約2時間自由散策となったので、城址を巡り歩いた。山城なので本丸跡までは登りで疲れたが行ってみた。地震の影響で石垣がくずれる恐れがあるとのことでロープが張られており近くまでいけなかった。天守閣跡の石垣に登って城下をみたかったがかなえられなかった。

 霞ヶ城(二本松城跡)=初代二本松藩主、丹羽光重公が築いた城。戊辰戦争では東軍の要衝であり、激しい攻防が繰り広げられ、二本松少年隊の戦死などの悲話を残して落城した。現在は城跡が公園となり、その庭園の四季折々の美しさは広く知られている。また、箕輪門は城跡の風格を示すシンボルとなっている。(国指定史跡)=
 
  悠々城址内マップも案内所に無くなっていた。自分勝手に見所の矢印に従って歩いたのですべてをアップできませんが、下記のスライドのようなところを歩きました。はじめに説明だけ書きます。 
 
 バスを降りて霞ヶ城城址の入り口を入るとまず二本松少年隊群像と箕輪門が見える。

①二本松少年隊群像は、戊辰戦争激戦地・大堰口戦場の奮戦姿と、わが子の出陣服仕立てる母の姿を、日本芸術院会員・名誉市民の彫刻家橋本堅太郎氏がブロンズ制作、平成8年建立。
②箕輪門は、光重公入府直後、御殿と共に最初に建造した櫓門。材料のカシの巨木は領内の箕輪村山王寺の御神木を用いたためこの名がある。

 箕輪門を入ると広場がありここが菊人形展会場。そこを過ぎ小規模な回遊式庭園をみながら坂を上ると洗心亭と傘松があった。
 
③洗心亭は、城址内に唯一残る江戸期の建造物で、木造のカヤ葺き・寄棟平屋造りの茶亭。当時は「墨絵のお茶屋」といい、光重公がこよなく愛した。
④傘松は、霞ヶ城公園内にある樹齢約350年の老松(アカマツ)はちょうど傘を広げたような形をしているので傘松と呼ばれている。

更に登っていくと鶴松や滝があったりした。そこを通り過ぎていくと左手に土井晩翠の歌碑があり前には見晴らし台とあづまやがあった。しばし休息し本丸跡を目指して登った。途中に少年隊の丘があり顕彰碑や知恵子抄詩碑があった。
⑤知恵子抄詩碑は、「樹下の二人」「あどけない話」の一節を、伝説が残る大小一対の「牛石」に高村光太郎の直筆の銅版ではめ込んでいる。「あれが阿多多羅山、あの光るのが阿武隈川」。智恵子台と名づけられた展望台には、高村光太郎が妻・智恵子を偲んで詠んだ詩が刻まれている。周辺の円形野外劇場のイメージは草野心平の提案。

 この丘を過ぎて登っていくと本丸跡(天守閣跡)にたどり着いた。しーんと静まりかえって観光客は居ない。天守閣跡に登ってみたかったが地震で石垣が崩れているので危険。ロープが張られ立ち入り禁止。遠くから写真だけ撮って帰る。
 帰路の順路案内がない。どのように歩いたらよいか戸惑っていたら犬の散歩をしている地元の方とお会いした。駐車場への道順を尋ねたら「日影の井戸」の方へ降りて行けばよいと親切に教えてくださった。

⑥日影の井戸は、千葉県印西市の「月影の井戸」、神奈川県鎌倉市の「星影の井戸」と共に日本の三井戸といわれている。

 ここからも駐車場への帰路の順路標識がない。少し不安であったが道筋に沿って下った。しばらくして駐車場の車が見えてほっとした。但し見えている駐車場への道はロープが張られ立ち入り禁止の表示。そして菊人形展示場への表示。少しばかり遠回りになったがバス駐車場へ。集合時間には30分もあったが城址を歩かなかった方は時間を余して早く出発したいと待っていた。しかし、まだ一人本丸跡まで行った方がもどっていないので
私もバスに乗らず、戒石銘を探した。この国指定「戒石銘」のことを知らない人が多い。また、この史跡を案内するものがない。菊人形展もよいがこの「戒石銘」を多くの方に知ってもらうように二本松市も広報されたらよいと思った。
 随分長いブログになったので「戒石銘」については明日アップします。
 下記のスライドもごらんください。
 (つづく)

霞ヶ城址を悠々と歩く