会津の重ちゃん日記

日常の出来事、地方紙の記事、街中散策して見聞したことを発信。

寒中&余寒 見舞い

2014-01-31 18:43:22 | Weblog
2014年1月31日(金)吹雪き 3.9℃~-1.1℃

 天気予報通り荒れ模様で雪が降った。10cm位の積雪だったが久しぶりに雪片付けをした。
 昨年喪中のハガキが来て年末年始の挨拶は交わさなかった。年1回でも賀状をやり取りしている方はどうされているかな? 病院通いなどされていた方は元気になられたか? お孫さんは可愛いさかりだろうな?など気になることも多い。

 
 そんな時「寒中見舞い」&「余寒見舞い」を出している。極寒期に相手の健康を気遣う便りを出し、お互いの近況を報告しあうのが季節の挨拶状である。「寒中」とは二十四節気の「小寒」と「大寒」にあたる期間であり、寒中に相手を見舞う書状なので「寒中見舞い」という。松が明けてから、大寒の最後の日である「節分」までに送る習わしがある。「節分」が過ぎれば「立春」。立春から暦の上で春になる。春になってもまだ寒いので「余寒」であり、この時期に相手を見舞う書状なので「余寒見舞い」という。

 「寒中見舞い」&「余寒見舞い」は
 ・一般的な季節の挨拶として、寒中に相手の健康を気遣う。
 ・先に年賀状を頂き返礼を松の内に送れなかった方へ、年始の挨拶とする。
 ・喪中の方で年賀状を交換できなかった方へ、年始の挨拶とする。
 ・喪中と知らずに年賀状を出してしまった方へ、お悔やみとお詫びを兼ねる。
 ・こちらの喪中を知らずに年賀状をくれた方へ、喪中の報告とお詫びを兼ねる。

 今日はいろいろな思いを込めて数十通の「寒中見舞い」を書いて投函した。
 




二つの新年会

2014-01-30 17:24:56 | Weblog
2014年1月30日(木)晴 0.6℃~-8.3℃

 連日朝方は氷点下の厳しい寒さだが、昼間は陽が照り暖かい。何となく春めいてきたような気がする。しかし実際は大寒過ぎてから寒さが厳しくなり大雪になることが多い。インフルエンザも流行し始めている。外出時にはマスク、帰宅後はうがい、手洗いをしっかりやっていきたい。
 いろいろな役職から身を引いたので忘年会や新年会は減ってきた。それでも1月は「知的のんべえ酒づくり講座」、地域の老人会「きらく会」、「区長会と各種団体交流会」、「豊齢研ITサロン会津」と4回あった。



 28日は会津若松市城西地区区長会・各種団体協議会の合同新年会が市内の割烹大民屋で開かれた。約60人が出席。羽染健一城西地区区長会会長・各種団体協議会長が「協力して城西地区を盛り上げていこう」とあいさつ。室井昭平市長、市会議員2名、会津鉄道社長等が祝辞を述べた。祝舞なども披露され、一層の地域発展を誓って親交を深めた。出席者は男性がほとんどで女性は一桁だった。
このような合同新年会ははじめての試みだったので少々固苦しい雰囲気だったが、それなりに意義があった。

 この新年会に反して29日には豊齢研ITサロン会津の新年会は、昨日もアップしたように東山温泉「御宿東鳳」で32名の参加で行った。
同じ会員だが授業時間が午前と午後の二部制なので顔を合わせ、話し合うことはほとんどない。授業で名刺づくりをした。
そのねらいは次のようなことである。


・名刺をきっかけに話題が広がる
・顔と名前を覚えてもらう
・自分の人となりをわかってもらう
・後日、会ったり、メールをした時に覚えていてもらう
・ホームページやブログにアクセスしてもらう
・仲良くなるきっかけになる
・相手に自分との共通点を見つけてもらう

29日の新年会はパソコンを介しての仲間同士ということと、宴会が始まる前に名刺交換をしたことによって、宴会では初めての人とも会話が弾み和やかな雰囲気でとってもよかった。また、祝謡、祝吟で始まり、踊りがあり大いに盛り上がった。





教育と教養

2014-01-29 18:41:37 | 健康
2014年1月29日(水)晴 3.0℃~-3.6℃

 朝方の冷え込みは今季一、二の寒さ。水道管の蛇口が凍ったとか窓が開かなかったとかと聞く。今日は豊齢研ITサロン会津の新年会を東山温泉「御宿東鳳」で行った。1月の学習で「名刺づくり」をした。その出来上がった名刺を交換しながら会話を交わす。午前中(初心者)と午後の会員との接点はあまりない。新年会・暑気払い・春夏の野外研修のみ。
今年の新年会は32名の参加があり、イス・テーブルで行った。
祝謡、祝吟で始まり、踊りがあり大いに盛り上がった。本当に楽しいん宴会で参加者全員満足、満足のひと時であった。
  
 豊齢研ITサロン会津ではパソコンを介してわいわいがやがやと楽しく過ごしています。ますます増える多くの高齢者には今後“教育”と“教養”が必要です。高学歴の方、いろいろな分野で深い教養をお持ちの方には失礼かもしれません。今さら教育? 教養?お思いでしょう。教育とは「今日行くところがある」ということ、教養とは「今日用事がある」ということです。
 病院に行き何時間も過ごし診察を受けそしてたくさんの薬を貰ってくる。こんな光景があちこちで見受けられる。それでは医療費が増え、若い世代に多くの負担をかけてしまう。高齢者は自分の健康を自分で管理し病院に行かないように“教育”と“教養”に真剣に向かい合いましょう。心身共に元気で過ごしましょう。


タブレットの操作

2014-01-28 11:08:58 | パソコン
2014年1月28日(火)晴 2.0℃~-10.5℃

「NTTドコモ」と「大人の休日倶楽部」連携で開催する特別講座「らくらくスマートフォン・タブレット講座」は東京、新潟、甲府、秋田、盛岡で日時をずらして開催された。新潟のみ12組24名。必ず二名で申し込みだったので、妻と共に申込んだところ当選し無料招待を受けた。
当日妻はかぜをひき体調を崩したので一人で参加。受付で事情を話したところ一人でもよいとの返事で安心して受講できた。
講座は1回120分の全2回。スマートフォンまたはタブレットの基本的な操作から旅をより楽しむ活用方法まで学ぶ。

 タブレット講座では、講師の軽妙な話と緻密な資料によるプレゼンテーション、各班に2名ついてくれた親切なサポーターのお蔭であっという間の2時間を過ごした。
 ○基本操作(タッチパネル・メール) ○地図・ナビゲーションの使い方  ○インターネットで観光情報の収集などを行った。写真の撮り方や送り方などはやらなかったが次回にやるのだろう。楽しみである。

初めにしたことは3つの基本的な操作です。タッチパネルの操作は意外と難しい。



タブレットって

2014-01-27 12:34:15 | パソコン
2014年1月27日(月)晴 2.0℃~-4.5℃

会津若松市の下町散策はまだまだ見所がいっぱいありますが今回は昨日までで一休みします。また、アップすることがありますのでその時は下町にお出かけください。
 今日は「タブレット」についてアップしてみます。
 会津若松市では下記のような要請に応えてタブレットを使った講習を行った。私も豊齢研ITサロン会津の役員として参加した。だが、借用したタブレットではその機能を十分に活かしきれない。
≪ICTリテラシー ≫
 総務省は24年度末に「ICTスマートコミュニケーション・プロジェクト」~ipadを使ってICTリテラシーを高めようの事業を実施した。諸般の事情から豊齢研ITサロン会津に協力要請があり参加した。この事業は、近年インターネットや携帯電話の利用が急速に拡大し、ICT(情報通信技術)は、あらゆる領域で活用される万能な道具として私たちの暮らしに無くてはならない存在になっています。一方、ICTの特性を知らないまま間違った使い方をすれば、自ら加害者になったり、ネット詐欺やいじめなど、思わぬ被害やトラブルに巻き込まれる場合があります。つまり、ICTという道具の特性をきちんと理解した上で、安全・安心に使うことがないよりも大切で、ICTを使いこなすことによって、私たちの生活は一層豊かになります。“子どもからお年寄りまで、日常生活を営む上での基礎知識・技能として、ICTリテラシーを学ぶことをコンセプトに、実践的な環境下における育成支援活動に取り組みます。有益かつ、安全安心なインタ-ネット利用を促進するため、図書館・公民館・児童館等の公共施設において、子どもや高齢者でも使いやすい情報端末(タブレット)を配置し活用が始まっている。私たち高齢者もタブレットを使いこなして豊かな生活を送りましょう。

 タブレットはちょっとしたことで買うことになってしまった。衝動買いの面もあったのかな? それとも持っていることがステータスだったのかな? 買ったがほとんど使っていない。パソコンで殆どのことができる、携帯電話のワンセグでテレビも視聴できる。
 でも、パソコン機能があるタブレットは旅先に携帯していくには軽量で重宝する。
 早くタブレットの操作に慣れたいなと思った時、「大人の休日倶楽部」ジパング 1月号が届いた。その記事に「らくらくスマートフォン・タブレット講座」の無料招待があった。応募したら当選し今日第1回目を受講した。会場はホテルメッツ新潟。
 詳しくは明日から少しずつ・・・・・。




 会津藩 軍事顧問 ヘンリー・スネル

2014-01-26 16:46:10 | 地域情報
2014年1月25日(日)晴・雪 4.6℃~-1.6℃

 可月亭の近くに幕末の会津藩軍事顧問をしていたヘンリー・スネルの屋敷跡がある。屋敷跡は市自然景観指定緑地になっているが現在は私邸で公開はしていない。

 ヘンリー・スネルは戊辰戦争時、会津藩軍事顧問(砲術指南)であったプロシア人です。スネルは外国人でありながら鶴ヶ城の城下に屋敷を持ち、ちょんまげを結い「平松武兵衛」と名乗っていました。彼はもともとはオランダ公使館に勤務していましたが、新潟に移って、弟のエドワルドとともにスネル商会という武器を扱う会社を設立しました。幕末に長岡藩家老の河井継之助に武器を売り込んだのもスネル兄弟です。その後、会津藩も河井継之助の紹介でスネル商会から武器・弾薬を購入したことから、兄のヘンリーは会津に住むようになったということです。藩主の松平容保からも信頼されるほどで、彼と会津藩との間には深いつながりがあったことがわる。


 スネルは、日本女性と結婚し子供ももうけ、材木町の屋敷に住んでいました。近くの大工伊藤文吉・お菊の長女が「おけい」は、スネル邸で子守りをしていました。

 会津藩の敗戦後、スネルは藩主松平容保に、ゴールドラッシュにわくカリフォルニアの話をして、藩士らで金鉱を探し、アメリカでの農場経営を勧めました。その了解を得て、明治2年、スネルらの移民団はチャイナ号で横浜を出航した。カルフォニア州に会津若松の人々約40人と共に移住し、サンフランシスコの北東にあるゴールドヒルに土地を購入し「若松コロニー」という名の開拓地を建設した。しかし、日本から持ってきた茶や桑などが育たず、1年ほどで若松コロニーの経営は行き詰まった。明治3年(1871年)、ヘンリーは金策のために日本に戻ったとされるが、その後コロニーに戻ることはなかった。資金難からコロニーは解体、移民団はちりぢりとなりました。
 子守りのため、スネル一家とともに移民団にいた18歳のおけいは、ビーア・カンプに引き取られます。利発なおけいは、家事を手伝い、かわいがられました。しかし、翌年、突然高熱に襲われ、19歳で亡くなります。亡骸(なきがら)は、入植地が見える丘に葬られました。

  ⇒スネル邸跡への交通
西若松駅より徒歩で5分程度。
福島県会津若松市材木町

 追記≪おけい≫アメリカ移民日本女性第一号
 
大正4年(1915)、カリフォルニア在住の記者竹田文治郎は、日本人の少女の墓が残されていることを知ります。墓は、ゴールドヒルの丘にひっそりと立ち、「OKEI」と刻まれていました。  近くに住む農場主ビーア・カンプから、1869年に来た日本移民団の少女の墓であると聞きます。文治郎はこの日本人最初の移民を、アメリカの日系新聞の記事にし、以後日系人から大きな関心を集めました。 日本移民百周年記念碑  人種差別が色濃く残るアメリカで、太平洋戦争中、多くの日系人が強制収容され、非人道的に扱われました。戦後解放された日系人は、おけいら移民団を苦難の先駆者としてたたえ、昭和44年(1969)ゴールドヒルに「日本移民百周年記念碑」を建立しています。 旧藩士 桜井松之助  十数年後、同じ移民団の桜井松之助らによっておけいの墓碑が建てられます。松之助は旧藩士で、同じくカンプ家に引き取られ、67歳で亡くなっています。  会津若松市には、昭和32年に同じ墓が建てられ、今も背炙山(せあぶりやま)から故郷を見つめています。 ◎参考…山本一洋「若松コロニーの跡を尋ねて」

会津の名庭 可月亭

2014-01-25 16:56:05 | 地域情報
2014年1月25日(土)曇 4.8℃~-6.8℃

 下町の名庭として有名な可月亭は年間多大の費用をかけて維持されている。しかし私邸であるので公開はされていない。
この可月亭については会津風土記やその後の会津若松市史関係書には詳しく記載さていない。
 2011年12月に歴史春秋社より発刊された「会津若松城下絵図」に鍋三・星野三郎治家の庭園として記載されていたので引用します。
星野家は伊勢国の出で、葦名家の家臣であったが、葦名氏の滅亡後は南会津、楢原に住み土地の郷頭となった。文禄2年(1593年)蒲生氏郷の鶴ヶ城築城に際し、材木搬出のため材木町に居を構え材木商を営み財を成した。江戸時代初期には鋳物製造、さらに酒造業を営み成功した。寛保元年(1741年)鍋宗が独立、喜左衛門光忠の長男光博が鍋三本店を継いだ。天保2年(1831年)鍋嘉本店星野家が分家して星野三家となる。
 鍋三・星野三郎治家の庭園は御薬園、攬勝亭、と並び会津三庭園の一つに数えられる。元は葦名氏の重臣の庭と言われ、のち遠州流の目黒浄定により改修された。御薬園と同じ池泉回遊式で中心部に心字の池を配し、磐梯山や青木山、大戸岳などを借景とする。東から月が登ると池に綺麗に映ることで名付けられた。時の藩主も鷹狩りや馬揃えの帰りなどに休憩所として利用した。
 十数年前までは「清滝」の銘柄で酒を造っていたが現在は廃業した。

  ⇒可月亭への交通
西若松駅より徒歩で5分程度。
福島県会津若松市材木町





会津の名庭 攬勝亭

2014-01-24 18:08:10 | 地域情報
2014年1月24日(金)曇 1.7℃~-10.6℃

会津の庭園番付一覧をみると昭和8年ころには多くの庭があった。その多くは戊辰戦争(会津戦争)後、会津藩は下北半島陸奥に移住し斗南藩となった。会津藩の土地は国有地となる。その後廃藩置県や地租改正により土地の払下げが行われた。
 ※『地租改正(ちそかいせい)とは、1873年(明治6年)に明治政府が行った租税制度改革である。また、この改革により日本にはじめて土地に対する私的所有権が確立したことから、地租改正は土地制度改革としての側面を有している。』

 払下げに応じたのは城下や本郷・高田などの商人や農民など財力を持った人たちだった。
 家老内藤家や周辺は裁判所や若松県庁などの役所となり白露庭が残っている。その他番付の横綱、大関などの庭は会津藩士の庭であり、昭和の終わりころまでは料亭や旅館の庭として鑑賞できた。しかし、諸事情から廃業が相次ぎ番付に載っている庭はほとんど残っていない。残っていても私邸であり管理維持が大変だそうです。10数年前番付の庭を見学し、写真を撮りまとめてみたいと数人で計画したが実現できず終わってしまったのが心残りである。庭が次々と消えていく中、下町の名庭は手入れはままならないが残っている。持ち主の方は維持管理が大変でしょうが、歴史的に意義ある庭なので手入れをし一般公開していただければありがたい。市としても観光施設として指定し補助費などの援助を考えてもらいたい。
 以下記事と一部写真は“西若松方面のホーム”ページより借用しました。




 
⇒攬勝亭への交通
会津若松駅より車で10分程度。
現在は私有地になる為、基本的には非公開。
(元佐藤歯科医院敷地内)

福島県会津若松市柳原町

 攬勝亭は天元年間に景勝地とされた庭園に、保科正之が名づけ、三代正容が目黒浄庭に改築させた庭園。
 御薬園・可月亭とともに会津三庭とされ、容敬を補佐して信任の篤かった家老で丹羽五郎の曽祖父、丹羽能教が隠居後に住んでいた事もあったそうです。
 現在は、この庭園と茶室(?)位しか残されていないそうです。
木製の表門に僅かに「攬勝亭」の文字が書かれた看板が掛かっています。 庭園内には容保公の
 「風をのみいとひし庭のもみぢばを けふは雨にも散らしぬる哉」という碑が建立されているそうです。(…歌碑らしいのはあったのですが、磨耗しきってて文字が読み取れないので確信が…)

※一時荒れ果てていたが、最近は管理する方がおられきれいになっている。





会津の庭園 番付

2014-01-23 18:52:32 | 地域情報
2014年1月23日(木)晴 2.5℃~-2.1℃

大寒なので寒さは厳しいが雪があまり降らないので雪片づけをしなくて良い。雪道運転も普通にできる。凌ぎやすい。
今晩から明日までは冷え込み厳しく、場所によってはダイヤモンドダストの現象がみれる。昼になると気温は上昇し全国的に〝春型”の天気になり暖かくなるようだ。このまま冬が終わることはないだろうが、大雪にならないことを願っている。
 下町散策の資料を作っている時「市内庭園番付」一覧表なるものをみつけた。
 至徳元年  若松城築城 材木町住吉神社鎮座五百五十年記念 として昭和8年秋に作成され、昭和48年5月3日に発見され復元された。
発行元は分からない。
「トウザイ 此の庭園相撲は取り組みも配置もすべて腰ためし、只呼び出しの声に応じ土俵にのぼせたるものなれば次第不同且伺い漏れ多し。されどそれも取り直しもせず挌上げて御一覧に供したるは甚だご無礼なれどもノコッタ ノコッタ ノコッタなしにお許しを願います」の口上が書いてあった。

<勧進元は 徒ノ町 楽壽亭 御薬園 、鶴ヶ城 御庭園跡 銀星苑>
<行司は 柳原 攬勝亭 、材木町 可月亭 、一ノ丁 白露庭>
<東方の横綱 栄町 米熊 三宅庭 、西の横綱 栄町 和泉 御櫻庭>

この庭園番付一覧に下町の攬勝亭と可月亭の名園がある。この名園について少し調べてアップします。



下町散策 住吉神社・若松特別地域気象観測所

2014-01-22 18:05:33 | 地域情報
2014年1月22日(水)曇 2.2℃~-4.0℃

秀長寺に隣接して住吉神社がある。西側には応古川が流れており南山の材木が運ばれてきていた。この川原や点在する農家などが戦場になったのだろ。隣接の秀長寺の秀長寺古戦場の碑」などのように境内に小さな標柱「会津藩戦勝地跡」があり、大勝利だった材木町の戦いが偲ばれる。

住吉神社
天照寺境内にあったという。至徳元年(1384)芦名直盛が会津繁栄のために農工商の守護神である住吉神社の勧請を発願し、簗田盛胤に命じて京都に上らせ、将軍足利義満より許されて大阪住吉大社の分霊を材木町の川原に勧請し奉鎮したのをもって創始とする。祭神は、底筒男命・中筒男命・神功皇后を合祀した。

鎮座地:福島県会津若松市材木町1丁目10−13

祭 神:住吉三神
底筒男命(そこつつのおのみこと)・中筒男命(なかつつのおのみこと)表筒男命(うわつつのおのみこと)・息長帯姫命(おきながたらしひめのみこと)【神功皇后】この四神を総称して住吉大神と云っています。
        
末 社:秋葉社・神明社・八幡社・稲荷社・菅原社

神社の案内版には、北朝の後小松天皇の名と年号が記してあります。
会津藩主(七代) 葦名直盛公の命により鎌倉から当地に来て移住していた簗田盛胤は上京し足利将軍義満公より会津四郡並び隣国まで商人の司となることを許され帰国にあたり大阪住吉大社の御分霊をこの地に勧請して新たに市場を開くことがあれば自ら烏帽子、直垂を着して商人等を従い当神社に詣で市神祭を行い商法の式を定めたという。
これは、正月十日会津若松十日市の始祖なり。
元は簗田市と云って大町に於いて俵引きなどを行った。

住吉神社の北側には会津藩の酒蔵「清美川」があった。その跡地に若松測候所の庁舎があり気象観測をしていた。今は若松特別地域観測所となり福島気象台で管理している。経緯は下記の通り。

若松測候所の前身である猪苗代測候所は大正12年2月磐梯山の火山のため
地震観測と翁島にある高松宮別邸に対する天気予報の提供を主業務 として
猪苗代町から土地の寄贈を受け、福島測候所会津出張所として発足しました。
 若松測候所は、東北、東京両電力会社の賛意と会津若松市や福島県関係機関の
協力もあって昭和27年末正式に設立が決定、昭和28年7月15日より業務を
開始しました。なお、猪苗代測候所は同日に廃止になりました。

 平成22年10月より無人化となり、若松特別地域気象観測所として気象観測を
継続しています。 自動観測による気象データは、NTT回線で福島地方気象台に
送信されており、 気象台では24時間体制で監視しています。 若松の気象データを
お知りになりたい方は、どうぞ気象台までお問い合わせください。