2018年5月26日(土)晴 27.2℃~11.9℃
「戊辰戦争 戦死者の埋葬」
歴史を知り改めて自らの地域を眺めると、日頃見慣れていた風景が、突如として、新たな意味を持ち、私達に物語を語りかけてくる。
若松城(鶴ヶ城)の西の地区は、葦名時代からの史跡が点在している。御薬園、攬勝亭とともに会津の代表する名園と言われている可月亭がある。
此の庭を核として「城址界隈まちづくり協議会」が発足し活動している。
今年の総会では、戊辰150年にちなみ会津史談会 大川原史郎氏による「戊辰戦争戦死者の埋葬について」の講演があった。
「慶応4年4月20日(6/10)白河口の戦いから始まった会津戦争において、会津藩は9月22日(11/5)までの間の戦闘で多くの戦死者を出すが、ほとんど戦死地で埋葬されている。1ヶ月に及ぶ籠城戦、または直近に亡くなった遺体の埋葬を、長期にわたり、許可しなかったという風聞が、現在も多くの会津人に伝えられているが虚実を検証する」
資料:明治戊辰戦役受難者の霊奉気紀の由来
降伏後の遺体の処置についての新政府側の命令は「彼我の戦死者の一切に対して、決して何らかの処置をしてはいけない。もしこれを破る者がいたら厳罰に処する」とあり、これで誰一人、埋葬するものもいないので、遺体はみな狐狸鳶鳥の餌になるか、腐敗して悲惨な状態になって来る。 (中略)
この惨状を救済しようと町野主水、高津仲三郎の両氏が請願。幾十回も・・・。隊長の三ノ宮氏が聞き入れて各地のを招集し薬師堂河原及び小田山山麓へ。その後、普通人によって阿弥陀寺と長命寺へ埋葬」
資料:遺体埋葬の実姉報告 「戦死 屍、取仕末金銭入用帳 (平成29年10月)の資料が見つかり、埋葬箇所、費用などがわかった。
資料:「戦死之墓所麁絵図」郊外も含め埋葬、改葬記録16ヶ所)
いろいろな資料から、原田対馬以下旧会津藩士や伴百悦等の働きにより、戊辰戦争の戦死者の埋葬の経過がわかってきた。
「戊辰戦争 戦死者の埋葬」
歴史を知り改めて自らの地域を眺めると、日頃見慣れていた風景が、突如として、新たな意味を持ち、私達に物語を語りかけてくる。
若松城(鶴ヶ城)の西の地区は、葦名時代からの史跡が点在している。御薬園、攬勝亭とともに会津の代表する名園と言われている可月亭がある。
此の庭を核として「城址界隈まちづくり協議会」が発足し活動している。
今年の総会では、戊辰150年にちなみ会津史談会 大川原史郎氏による「戊辰戦争戦死者の埋葬について」の講演があった。
「慶応4年4月20日(6/10)白河口の戦いから始まった会津戦争において、会津藩は9月22日(11/5)までの間の戦闘で多くの戦死者を出すが、ほとんど戦死地で埋葬されている。1ヶ月に及ぶ籠城戦、または直近に亡くなった遺体の埋葬を、長期にわたり、許可しなかったという風聞が、現在も多くの会津人に伝えられているが虚実を検証する」
資料:明治戊辰戦役受難者の霊奉気紀の由来
降伏後の遺体の処置についての新政府側の命令は「彼我の戦死者の一切に対して、決して何らかの処置をしてはいけない。もしこれを破る者がいたら厳罰に処する」とあり、これで誰一人、埋葬するものもいないので、遺体はみな狐狸鳶鳥の餌になるか、腐敗して悲惨な状態になって来る。 (中略)
この惨状を救済しようと町野主水、高津仲三郎の両氏が請願。幾十回も・・・。隊長の三ノ宮氏が聞き入れて各地のを招集し薬師堂河原及び小田山山麓へ。その後、普通人によって阿弥陀寺と長命寺へ埋葬」
資料:遺体埋葬の実姉報告 「戦死 屍、取仕末金銭入用帳 (平成29年10月)の資料が見つかり、埋葬箇所、費用などがわかった。
資料:「戦死之墓所麁絵図」郊外も含め埋葬、改葬記録16ヶ所)
いろいろな資料から、原田対馬以下旧会津藩士や伴百悦等の働きにより、戊辰戦争の戦死者の埋葬の経過がわかってきた。
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