あかない日記

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小説家 森鴎外 3 観潮楼

2022-07-17 | 人物忌

      (2010・H22)年12月)

完成後の「文京区立森鴎外記念館」
  (文京区千駄木1-23)

 

 森鴎外が 30歳(1892年)の時から
亡くなるまで
30年間住んだ
「観潮楼」の跡地は
記念公園となった後 
鴎外生誕100周年「鴎外記念室」を併設した
「文京区立鴎外記念本郷図書館」が開館し
 鴎外生誕150周年の2012(H24)年には
「文京区立森鴎外記念館」として
開館している。

 

説明文には

「森鴎外(林太郎・1862~1922)は、
通称“猫の家”(現向丘2-20-7
・鴎外が住み後夏目漱石も住んだ)から
明治25年(1892)ここに移った。

2階書斎を増築し、東京湾の海が
眺められたので観潮楼と名づけた。

 鴎外は、大正11年(1922)60歳で
没するまで、30年間ここに住んだ。

 観潮楼の表門は、藪下通りに面した
この場所にあり、門の礎石や敷石は
当時のままである。
庭には戦火で焼けた銀杏の
老樹が生きかえっている。
三人冗語の石はそのままであるが、
鴎外の愛した沙羅の木は、
後に植えかえられた。

 鴎外は、「舞姫」「青年」「雁」や
「阿部一族」などの小説、史伝、
評論などを書き、
ここは文学活動の中心舞台であった。
また、詩歌振興のため観潮楼歌会を開き、
若い詩人、歌人に大きな影響を与えた。

    
  文京区教育委員会   」

 

*「三人冗語の石」は、鴎外が腰掛け
 幸田露伴(1867-1947)
 斎藤緑雨(1868-1904)
 と共に写真撮影をした庭石をいう。

1892(M25)年1月 
 当初平屋であったが 
 12畳の2階を8月に増築している

入居当時の鴎外は
 陸軍軍医学校教官で

 同居したのは(*年齢)
  父・静男 (57) 
  母・峰子 (46)
  祖母・清子(74)

  長男・於菟(2) 
  弟・潤三郎(13)
   他に住み込み女中 

 

 

  (森於菟「父親としての森鴎外」から)

 

森 於菟の「 父親としての森鴎外」
観潮楼の様子が書かれている。

「  楼 の 情景 は 永井荷風 の
「 日和下駄」 の 中「 崖」 の 章 に
精しく、 初秋 の 夕 暮 上野 の 鐘 を
聞き ながら 待つ 所 に 赤筋 の 入っ た
カアキ 色 の 洋服 と 白襯衣 だけの
休日 の 兵隊 さん の よう な 父 が
上っ て 来 て、 気軽 に 対談 する 様 が
描い て ある。
しかし 東南 に 廻り 縁 を 有し、
西 が 上野 の 山 に 対し た
この二階 が 八 畳 と 六 畳 との 二間 と
記し て ある のは 誤り で、
十 二 畳 の 一間、 北西 に 閉じ て
東南 に 開き 東南 の 廻り 縁、
幅 は 三尺、 東側 は 長 さ 二間 で、
谷中 の 森 に 向い その 北端 に
階段 の 上り 口 あり、
南側 は 長 さ 三 間 その 西端 は
西日 を 避け て 戸袋 が
設け られ て いる。
上野 の 山 は この 東南 の 角 の
向う に 見える。
北側 に 一間 の 床の間 と 一間 の
違い棚 あり、 西側 には 六 枚 折 の
無地 の 金屏風 一双 を めぐらし
南側 の 縁 に 近く
その 西 寄り に 机 が 据え て あっ た。」

*永井荷風(1879-1959)
「日和下駄」(1915年)

 

 

 

 



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