あかない日記

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ベトナム紀行(192) 国家銀行

2014-12-16 | ベトナム紀行

 

 

途中 リータイトー公園の前に

林越しに ライトアップされた素敵な建物を見る。

 この建物 「ベトナム国家銀行」(旧インドシナ銀行)で

 日本銀行のような銀行。


1930年 建築家 ”ジョルジュ・トローブ” の設計で建てられている。

外観は 伝統にとらわれない モダニズム様式を


内装は アール・デコ様式の装飾が各所に施されている。 

八角窓には ベトナム伝統建築の装飾も用いられている。


インドシナ銀行が撤退した後は ベトコム銀行が ここで営業し

 その後 1999年にベトナム国家銀行となっている。

 

 


 

 


ベトナム紀行(191) オペラ座

2014-12-15 | ベトナム紀行

 

ホアンキエム湖に向かう途中

六叉路ロータリーに差し掛かると 

壁面が黄色と白で統一された建物が眼の前に現れる。

 

「ハノイ市劇場」で 1901年着工し1911年に完成している。

パリのオペラ座(1874年築)を模してできていることから

「オペラ座」とも言われ ハノイのフランス風建築の一つにあげられているが

 解放後は市民劇場なり 1997年に大規模な改築がなされて 客席は600程

今でも ベトナム歌手のコンサートや劇 クラシックコンサートなどが催されている。

しかし 一般公開はされていないため 外からの見学に限られているそうだ。


ベトナム紀行(190) 一柱寺

2014-12-14 | ベトナム紀行

 

ホー・チ・ミン廟近くに建つ仏教寺院の「一柱寺」へ。

蓮池の中に建つ 高さ4m 直径1m余りの石柱1本の上に


蓮花台と呼ばれる楼閣が乗っている。


宙に浮いたように見えるこの寺は 

独特な建築様式として ベトナムの歴史・建築・美術遺跡に認定されている。


李朝の王リー・タイ・トン(在位1028-1054)が1049年 創建し


正式な寺院名は「延祐寺」で 王の長寿を願って命名された。

 
先の太宗は 蓮華の上で子供を抱いた観音菩薩の夢を見てから

 間もなく子供を授かったことから


太宗は夢の観音に感謝し、ハスの花に見立てて

この寺を建立したと言い伝えられている。

そのため 今でも世継ぎの誕生を願って

お参りするベトナム人が多くおり


花が供えられ線香の煙が揺らいでいた。


建設当時は楼閣だけだったが 

周囲に池を掘り回廊を設けるなどしてきたが


幾度となく戦禍にさらされて 

現在の姿になったのは1955年のこと。

 

 


ベトナム紀行(189) ハノイ

2014-12-13 | ベトナム紀行

 

 

 ここで「ハノイ」について

ハノイは ベトナム北部 ホン川(紅川)河口より上流

約150kmの西岸に位置する北部最大の都市で

ベトナム社会主義共和国の首都でもある。

「ハノイ 」とは ”川の中”という意味。

面積約921km2、人口約620万人である。


1010年に建国されたリー(李)朝の首都となり

一時フエに首都は移ったが

1880年代から第2次世界大戦後までは

フランス領インドシナの首都となり

1959年から北ベトナムの首都

1975年以降は ベトナム社会主義共和国の首都となって 現在に至っている。

市街地は ホアンキエム バディン ドゥンダ ハイバチュンの

4つの地区からなっているが

町の中心は ホアンキエム地区で 

フランス支配時代のコロニアル式洋館が点在し

観光名所のホアンキエム湖がありる。


第2の都市ホーチミンよりは 落ち着いた雰囲気があるように見えた。

 

 


ベトナム紀行(188) ホーチミン博物館

2014-12-12 | ベトナム紀行

 

ホーチミン廟の脇に「博物館」を遠くから見る。

ベトナム人指導者 ホーチミン と外国の支配に抵抗する

ベトナムの革命闘争に捧げられた博物館になっている。

ホーチミン生誕100周年の1990年5月に 

旧ソビエト連邦の建設援助を得てオープンしている。


当時は 社会主義が衰退傾向にあり 

その対策から旧ソ連が手を貸したようだ。


博物館は12,000m²あり ホー・チ・ミンの遺品・愛用品

革命の歴史の展示などをしている。


博物館には「ドラゴンハウス」のニックネームもある


 


ベトナム紀行(187) ホーチミン廟

2014-12-11 | ベトナム紀行

ホー・チミンの聖域を守る兵士が立つ。

 

 タンロン遺跡から ホー・チミン廟へ。

2年の歳月をかけて建てられ 1975年9月2日に完成した

 この霊廟の中には 永久保存処置をされた

ホー・チミン主席の遺体が安置されています。

真っ白な制服の兵士によって厳重に警備されている。

写真を撮ろうと近づいたら脇から兵士が出てきて

 ダメとあっちへ行けの合図で叱られてしまった。

霊廟の前には ホー・チンミンが

1945年に 独立宣言を読み上げた バーディン広場が広がる。


 


ベトナム紀行(186) フラックタワー

2014-12-10 | ベトナム紀行

 

端門の南側に芝生が広がり アオザイの女性群の向こうに

赤い旗がはためく塔が見える。


ベトナム軍事歴史博物館の敷地内に建つ 高さ33.4mの旗塔だ。 

タンロン城址の一部にもなっている。


「国旗掲揚塔」は グエン朝ザーロン帝によって

1805年にハノイ城の監視塔として

フランスの技術協力を得て7年かけて建てられた。


ハノイの多くの歴史建造物と異なり 

1896年のフランス統治時に取り壊されずに残っている。


この塔数字に拘っているようで 

三重の台座部分と 八角柱の塔で構成されており 

36の花の形をした窓と 6つの扇形の窓が 採光用についている。

 

ついでに 端門から

ベトナム学生群の卒業アルバム写真を撮る。

クラス名か? “A1” “O” 等の人文字が見える。

 


ベトナム紀行(185) タンロン遺跡2

2014-12-09 | ベトナム紀行

 

入り口から入り  発掘した遺跡を保存するためかガラス張りの所がある。

覗くと下にはレンガのようなものが見えた。

また その反対側は 啓天殿の建物が見えるが

 今も遺跡調査が続けられている。

 
眼の前には板塀が張り巡らされ その向こうに入れない。

入場料をとっているため 申し訳ないという意味なのか

 塀には発掘や建物 歴史等の写真が張ってあった。

そのため すぐに見学が終わってしまった。

 


ベトナム紀行(184) タンロン遺跡(世界遺産)

2014-12-08 | ベトナム紀行



文廟から 北にある 「タンロン遺跡」へ。

ここでも 卒業写真の撮影がなされ 

アオザイ姿の学生で広い広場が埋めつくされていた。


タンロン遺跡は 旧ハノイ城跡周辺とタンロン城跡をあわせたエリアになっており


7世紀から19世紀頃にハノイの行政中心地だった場所。


ベトナム最初の長期王朝を築いた リー・タイトーが

1010年に今のハノイへ遷都を行った際


1匹の黄金の龍が現れたことから 

都をタンロン(昇龍)と名付けたことに由来している。

その後 9代200年以上に及ぶ支配が続いたが 

1802年 西山朝2代皇帝阮光纉が滅ぼされ

最後の王朝となる阮(グエン)朝越南(ベトナム)王国が

首都をフエに定めたことで、タンロンは800年におよぶ栄華の幕を閉じた。

 しかし 仏領インドシナ時代にフランス軍の兵営を

建設するとして城は取り壊されてしまう。


北ベトナムの誕生とともにハノイは再びベトナムの首都になり

 タンロン城のあったところに 国会議事堂(バーディン大会堂)が置かれた。

社会主義共和国時代になって 2002年 バーディン大会堂を

隣接地に移転新築するため 基礎工事を始めたところ

李朝以前のものも含む巨大な遺跡が出土したのだ。

 
2010年 ベトナムで6ヶ所目の世界遺産に登録されている。

 


ベトナム紀行(183) ベトナムの女性

2014-12-07 | ベトナム紀行

 

文廟では アオザイをまとった 

多くの若きベトナム女性に めぐり合うことができた。

当方の見た女性は すべてスタイルが良く 太った人は一人もいない。

また アオザイをまとった姿には 清楚感が漂い 魅力的だった。

ベトナムの女性は 太ることは親の責任となり 

また 痩せることへの美意識があるとのこと。

それ故 食事でも”菜食傾向”であり。

加えて 卒業や結婚までは アオザイ を着るうえからも

 スタイルに気をつかうことは 必須の条件となる。


さらに 資料によれば  

優しく素朴で 純情で慎み深く 恥らう心を持ち 

家族を大切にし、義理の親を実の親のように大事にしている。

また 親と同居することも嫌がらず 中国の女性と違って

 結婚相手に対して
容姿や金銭にこだわらず人柄を大切にし

 とても魅力的である。

とあった。

卒業写真の女子学生の姿に関しては

当方も 日本で多く見てきたが

貸衣装で 皆同じ袴スタイルで 自分で誂えた姿は見れない。

ベトナム女学生のアオザイは 皆同じように見えるが

自分の体に合わせて設えているそうだ。

 


ベトナム紀行(182) 文廟 国子監

2014-12-06 | ベトナム紀行

 

 

第四から 大聖堂の奥 第五区画に 

ベトナム最古の大学「国子監」がある。

        孔子廟の外側にある細い通路の「啓聖門」を入ると

あるのだが 外の騒ぎに気をとられ 行きそびれてしまった。

しかし 資料によれば

国子監は 1076年に時の皇帝 リー・ニャン・トン によって建立されたが

1946年 抗仏戦争の際に 完全に破壊されてしまった。


その後 2000年に再建された。


左右にある細長い建物は 大学の授業が行われていた講堂である。


中央の2階建ての建物の1階には 教師の一人であった

チュー・ヴァン・アンの座像の他に


今と昔の文廟・国子監の模型や 実際に国子監で使用されていた

教材や筆記具などが展示されている。


2階には ベトナムの教育の発展に貢献した

3人の皇帝の木像が祀られているそうだ。

 


ベトナム紀行(181) 文廟 大聖堂

2014-12-05 | ベトナム紀行

 

 

第三から 大成門をくぐって第四区画へ

そこは広場になって 正面に 文廟(孔子廟) 「大聖堂」がある。

 堂には 立派な祭壇がおかれ、訪問者たちが祈りを捧げている。

祭壇の上には「萬世師表」と書かれているが

これは「永遠に人々の模範となる先生」という意味で 孔子を表す言葉。

大聖殿に入る際は、孔子に対して礼を失することのないよう

必ず頭を下げるようにと ここの敷居は高く造られているのだそうだ。

孔子像のほかに 4人の高弟の像も置かれいる。

また 祭壇の両脇には 長寿を願う 亀の背中に乗って 

極端に
首の長い鳥が置かれている。

 


ベトナム紀行(180) 文廟 科挙

2014-12-04 | ベトナム紀行

 

 

奎文閣をくぐって第三区画へ ティエンクアン(天の井戸)という名前の池があり 

その両側 屋根の下に 
石碑『進士題名碑』がずらっと並ぶ!

1484年から約300年間続き 3年に一度の官僚登用試験である

科挙の合格者1306人の名前と出身地が刻まれた碑が

石造りの亀の上に乗っている。 

その試験の回数である 82頭を数える。

また 亀の表情が1頭ずつ違っているがベトナムでは

亀は長生きの象徴になっている

因みに ベトナムの科挙制度は1075年に始まり

1919年に廃止されるまで続いた。

中国は1905年に廃止しているので 

ベトナムが東アジアで最後に科挙制度を終えている。

また  「進士」とは 官吏登用試験である科挙に合格した人のこと。

 

 

 


ベトナム紀行(179) 文廟 奎文閣

2014-12-03 | ベトナム紀行

 

 

 更に進むと 第二と第三区画の境に 

3つ目の門 「奎文閣」(ケイブンカク)がある。

この門は ハノイのシンボルてき存在で 

市票のデザインにもなっており

また ベトナムの紙幣10万ドン札にも描かれている。
 

19世紀のグエン(阮)朝時代に建造されて

「奎文」とは 学問の星の意味で 天上の孔子を表している。

 

 


ベトナム紀行(178) 文廟 大中門

2014-12-02 | ベトナム紀行

 

バッチャン焼の煉瓦が敷かれた道を進むと 

第一と第二区画との境に 2つ目の門「大中門」がある。


重厚さが漂う 瓦屋根に 赤塗の柱が 印象的だ。

また 瓦屋根の上を跳ね上がる一対の鯉の姿が見える。

鯉は 困難に打ち勝ち成功を収めるものの象徴で

 中国 後漢書の登竜門の話に


「その昔 登ることは不可能であり もし登ったものがいたとしたら
 
そのものは龍となるだろうと言われた滝があった。


多くの魚が挑戦し登れなかった中で 

ある日 とうとう滝を登り切った魚が出て


そして見事に龍になった。

以後 この滝は“竜門”と呼ばれるようになり

 この魚が鯉だった。」

 ここに学ぶ学徒にとって 

この鯉を見て 大いに鼓舞されたことだろう・・・