アンダンテのだんだんと日記

ごたごたした生活の中から、ひとつずつ「いいこと」を探して、だんだんと優雅な生活を目指す日記

弾く理由、聴く理由

2016年01月07日 | ピアノ
バッハ無伴奏の魂こもった迫力ある演奏をしてくれた千住真理子さんだけれども、二十歳くらいのころ、しばらくバイオリンを弾けなくなったことがあるそうだ。

   にほんブログ村 クラシックブログ ピアノへ←ずしんとくる演奏。それは、ストーリーを聞いたせい?

そこからの回復のきっかけになったのはホスピスでのボランティアだった。どうしても(死ぬ前に)千住さんに会いたいという人から電話があって、行って弾いたのだけど、数か月まったくさわっていなかったのでろくに弾けなくて(というのがどの程度だったのかわからないが)、落胆していたところ、

「その人は両手で私の手を包んでくれ」「目に涙を溜めて、本当に心からありがとうと思ってくれている」

でも「この人の一番大切な時間に、自分の人生の中で一番酷いヴァイオリンの音を出してしまった。何という酷いことをしたのだろうと、私はいたたまれない罪の意識でいっぱいになり、ありがとうと言われれば言われるほど逃げたくなりました。」
(「ヴァイオリニストは音になる」(千住真理子))

その後の千住さんは、家に誰もいないときにコソ練したりして、もう一度あの人の前で演奏しようと思い、連絡をしてみたのだけれど、その人はもう亡くなっていた。

そして「完璧に弾く、あるいは誰よりも早く弾く、というような天才弾きではなくて、心の通った、血の通っている音を望んでくれる人がいるのであれば、その人の前で私はヴァイオリンを弾きたい」という心境が生まれ、徐々にステージに戻っていった。

そういえば、同じくバイオリンを弾けなくなった時期がある五嶋みどりさんも、立ち直るときにはボランティア活動が深く関わっていたようだ。

傍からみれば、なんの挫折もなくすんなり演奏家として活躍できるようになった天才少女であっても、大人になる途中で、他ならぬ自分がバイオリンを弾く意味というのがわからなくなり、道に迷うことがあるのかもしれない。

そしてそういう人が自分なりの弾く理由をつかみ直し、成熟した演奏家として立ち直ったときには、聴く側もその厚みを味わいながら演奏を聴くのだろう。

千住さんは「演奏家は繕うことができない」、ステージ上ではすべてが音楽に出てしまうといっている。ギドン・クレーメルのコンサートにいったときの感想「人生そのもの、まるで金太郎飴を切ったかのように、クレーメルの断面図がわっと音楽に出てきているのです。」要するに、普段から、どういう人生観を持ち、何を考えているかが大事であると…

ただ、「すべてが音楽に出てしまう」というのは一面の真実かもしれないけれど、それは文字を読むような意味で紛れなく具体的に表現されているわけではないし、音楽を感じ取る力も人それぞれ限界がある。だから、演奏を聴くときというのは、たとえばその人の著作を読むなり、そこまでしなくてもパンフレットに書いてある紹介文を読むなり、やはり事前情報を手掛かりにしたうえで「すべてが出ている」音楽を受け取れるということが多いのではないだろうか?

あまたあるコンサートの中で、ほかならぬそれにまず足を運ぶということも事前情報なしには成り立たないし、鑑賞のとっかかりとしてもやはり演奏家の持っているストーリー(ストラディバリウスの名器と奇跡の出会いをして大借金して購入したとか)は音楽の聴き方に影響を与えると思う。

例えば、七本指しか使えないピアニストであるというようなことも…

彼は、ジストニアを患う前も演奏家として成功していたので、決して「そういう目で見てもらわないと」価値のないピアニストなどではない。しかも、復帰コンサートも、主催者の強い要望で、使えない指があることについては秘密にしたままコンサートをしたのだ。そして、大喝采を浴びたのち、主催者側からお客さんに暴露した。「先にジストニアのことを話してしまうと、お客さんや参加者は、指の支障のことを頭に入れた上で音楽を聴くけど、言わなきゃ君の音楽だけを聴いて評価できるだろ?」
(「7本指のピアニスト」)

実際、その演奏(ショパンノク13)はすばらしい演奏で、発病前も含めて彼のすべての演奏の中でいちばんよかった(師匠談)というくらいのものだったのだけれど、それはたぶん、10本指を使えたころの彼がたまたま調子がよければできるような演奏ではなく、深い挫折から一歩一歩組み立てなおしていったときに得たもののすべてがこめられていて、より心に届く演奏になっていたのだろう。

そのときは、聴衆に、彼が「七本指」であることは知られていなかったかもしれないけれど、そのことで有名になってしまえば、もはや知らないで聞きに来るということはなくなる(よくも悪くも)。

演奏家の人生、あるいは、弾く理由というものも含めて、すべてが音楽に表れる。それはある程度ほんとうで、でも素人が聴く場合に文字情報が音楽を聴くきっかけや助けになることはあり、それはそれでいいことだと思う。というか、切り離すことはできない。

だからそれだけに…さむらなんとか事件のように、ストーリーに大嘘があった場合、そしてそれにコロリと騙された人が大量にいた場合というのはやるせない。騙されたということがわかったあとに聴いても「やっぱりいい曲だな」と思うのであればそれは別に損ではない部分だと思うけれど…やはり、ストーリーに価値を感じるのはほどほどにして(きっかけ、入り口)、あとは音楽を全身で受け止めることにしておいたほうがガッカリすることは少ない。聴くほうも、それくらいは真剣になったほうがいい。

にほんブログ村 ピアノ  ←ぽちっと応援お願いします
にほんブログ村 ヴァイオリン ←こちらでも
にほんブログ村 中高一貫教育


「はじめての中学受験 第一志望合格のためにやってよかった5つのこと~アンダンテのだんだんと中受日記完結編」ダイヤモンド社 ←またろうがイラストを描いた本(^^)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする