松本城が築城された頃からの歴史ある町人屋敷町である本町通り。
なまこ壁、或いは白塗りの土蔵造りの建物が数多く整然と建ち並ぶ目抜き通りにある中でもひときわ大きく重厚な店構えを誇る、黒瓦に設えられた屋根付きの看板に『神倉屋』と記された店の暖簾を、圭佑は元気良く潜り抜けた。
「ただいま、秀一兄ちゃん」
すると、店に座って煙草盆を傍らに置いた姿で煙管をふかしながら大福帳に何事かを書き付けていた二十代半ばの男が、筆を止めてから圭佑に向かって微笑む。
「おや圭佑、今日は町で見事な大立ち回りを演じたそうだね」
「ええーっっ!何で知ってるの兄ちゃん?」
驚きを隠せない弟に、秀一はロイド眼鏡の蔓に手をやってから答える。
「ちょうどウチのお客さんがあの騒動に居合わせたのさ」
あまり危ないことをしてはいけないよなどど口では諫めつつ、その実は弟の活躍が愉快で堪らないらしい秀一に向かって、圭佑は自慢げに答える。
「大丈夫だよ、信乃も優吾も一緒だったから」
「そうか、あの二人が居れば安心だな」
眠い猫を思わせる糸目を更に細めながら呟く秀一。現在は神倉屋の番頭として父を扶けて働く彼は、家族の中でも特に年の離れた弟である圭佑を溺愛していた。
「そう言えば、お前が助けたお嬢さんは女子職業学校の女学生だったのかい?」
煙草盆の灰落としに煙管の灰を落としてから問い掛ける秀一に、圭佑は素直に頷いてみせる。
「うん、そうだよ」
「実はね、今度父さんの勧めでお見合いをすることになったのだけど、相手はまだ女学生だと言うんだ」
ひょっとしたらお前が助けた娘さんがそうかも知れないなと笑う秀一に、何故かいきなり難しい表情になる圭佑。
「うーん、だとしたら、ちょっと嫌だな、おれ」
「おや、どうしてだい?」
普段は温厚極まりない秀一の、眼鏡に隠れた瞳が奇妙に底光りするのにも気付かぬまま、圭佑は続ける。
「別に礼を言って欲しかった訳じゃないけどさ、あの女学生(メッチェン)、信乃にばかり礼を言って、おれと優吾には見向きもしなかったんだ」
そりゃ信乃は奇麗だから見とれて他の男が見えなくなっても仕方ないけどさ。などと唇を尖らせる圭佑に、秀一は普段通りの瞳に戻って促す。
「おっと、そろそろ夕飯の時間だ。一度部屋に戻って鞄を置いてきなさい」
「うん!そう言えば何だか腹減ってきたよ」
先程まで縄手通りで信乃や優吾と共にさんざん鯛焼きを喰らってきたとは思えぬことを呟きつつ奥の間に消える圭佑の背中を見送りながら、秀一は再び煙管の吸い口を咥えてから大福帳に筆を走らせ始めた。
「うーむ、『松高の、三羽烏の飛ぶ空は』……かな?いやいや、どうもしっくり来ない」
なまこ壁、或いは白塗りの土蔵造りの建物が数多く整然と建ち並ぶ目抜き通りにある中でもひときわ大きく重厚な店構えを誇る、黒瓦に設えられた屋根付きの看板に『神倉屋』と記された店の暖簾を、圭佑は元気良く潜り抜けた。
「ただいま、秀一兄ちゃん」
すると、店に座って煙草盆を傍らに置いた姿で煙管をふかしながら大福帳に何事かを書き付けていた二十代半ばの男が、筆を止めてから圭佑に向かって微笑む。
「おや圭佑、今日は町で見事な大立ち回りを演じたそうだね」
「ええーっっ!何で知ってるの兄ちゃん?」
驚きを隠せない弟に、秀一はロイド眼鏡の蔓に手をやってから答える。
「ちょうどウチのお客さんがあの騒動に居合わせたのさ」
あまり危ないことをしてはいけないよなどど口では諫めつつ、その実は弟の活躍が愉快で堪らないらしい秀一に向かって、圭佑は自慢げに答える。
「大丈夫だよ、信乃も優吾も一緒だったから」
「そうか、あの二人が居れば安心だな」
眠い猫を思わせる糸目を更に細めながら呟く秀一。現在は神倉屋の番頭として父を扶けて働く彼は、家族の中でも特に年の離れた弟である圭佑を溺愛していた。
「そう言えば、お前が助けたお嬢さんは女子職業学校の女学生だったのかい?」
煙草盆の灰落としに煙管の灰を落としてから問い掛ける秀一に、圭佑は素直に頷いてみせる。
「うん、そうだよ」
「実はね、今度父さんの勧めでお見合いをすることになったのだけど、相手はまだ女学生だと言うんだ」
ひょっとしたらお前が助けた娘さんがそうかも知れないなと笑う秀一に、何故かいきなり難しい表情になる圭佑。
「うーん、だとしたら、ちょっと嫌だな、おれ」
「おや、どうしてだい?」
普段は温厚極まりない秀一の、眼鏡に隠れた瞳が奇妙に底光りするのにも気付かぬまま、圭佑は続ける。
「別に礼を言って欲しかった訳じゃないけどさ、あの女学生(メッチェン)、信乃にばかり礼を言って、おれと優吾には見向きもしなかったんだ」
そりゃ信乃は奇麗だから見とれて他の男が見えなくなっても仕方ないけどさ。などと唇を尖らせる圭佑に、秀一は普段通りの瞳に戻って促す。
「おっと、そろそろ夕飯の時間だ。一度部屋に戻って鞄を置いてきなさい」
「うん!そう言えば何だか腹減ってきたよ」
先程まで縄手通りで信乃や優吾と共にさんざん鯛焼きを喰らってきたとは思えぬことを呟きつつ奥の間に消える圭佑の背中を見送りながら、秀一は再び煙管の吸い口を咥えてから大福帳に筆を走らせ始めた。
「うーむ、『松高の、三羽烏の飛ぶ空は』……かな?いやいや、どうもしっくり来ない」