旧小坂家住宅の瀬田四丁目広場から静嘉堂文庫へ移動。
ですが~、これが場所がなかなかなかなかわかんない。それもこれも高低差のせい!旧小坂家住宅は国分寺崖線の縁に沿ってあるので、敷地の中は斜面が半分。なので敷地の外に出ても坂があります。んでも地図では高低差がよくわからない。目指す静嘉堂文庫へはどないしていけばいいのだろうか?
そこへやってきた男子高校生。ここはひとつ道を聞いてみよう。
ってな事で無事に静嘉堂文庫の正門に到着です。
なにげに綺麗な紅葉が私を招いてます。(気のせい)
あまりの晴天に明暗がくっきりとなってしまったので、振り返ってもう一枚。
道の奥へ進むと、また出た!高低差っ!!マジか~。
しょうことなしに道に沿って坂を上ります。
発見した見取図。これって…。まさかせんでもこの丘全体が岩崎家の私有地なんかいっ!!金持ちって嫌いだっ!!つーか、金持ちは自分の足で坂なんか上らないのよ~~。ぼやいてばっかりですが、まずは見取図にある岩崎家の廟へ向かいます。
トップ画像が廟の建物です。
廟の前には左右に狛犬。
中央には青銅の鼎。
青銅には有名人の名前が多数刻まれてました。が、撮影忘れた~。やっぱ岩崎家の廟だもんな。錚々たるメンツです。
さて、何度の出て来る岩崎家。まさか解説いらないと思ったけど、一応軽く説明しますと…。
「静嘉堂文庫は、岩崎弥之助(1851-1908 弥太郎の弟、三菱第二代社長)と岩崎小弥太(1879-1945 三菱第四代社長)の父子二代によって設立され、国宝7点、重要文化財83点を含む、およそ20万冊の小典籍(漢籍12万冊、和書8万冊)と6500点の東洋古美術品を所蔵しています。」
つまり岩崎家というのは、三菱財閥を作った家系なのですね。明治期の西欧文化崇拝の時代に、軽視されていた日本の文化財を収集した弥之助は偉いっ!!
さてトップ画像の説明に戻ります。
岩崎家廟は、納骨堂です。この廟は明治の巨匠、ジョサイア・コンドル(1852-1920)の設計により、明治43年(1910)に建てられました。
鹿鳴館の設計で知られるコンドルは、岩崎弥之助の深川邸洋館(現・清澄公園内、現存しない)や高輪邸(現・関東閣)、三菱一号館(2009年復元)など、岩崎家ゆかりの建物も数多く手がけてます。
廟は現在も墓所として使用されているので、本日の記事のカテゴリーは『墓所巡り』に分類しました。
墓所は丘の尾根にあって、尾根には参道もあります。つーか、そもそもそっちから丘を上がればよかったのですが、正門を突き当たった時、右折して丘を上っちゃったのが敗因。あれを左折すればよかったのですが、高級自動車が停車中でそっち側に道があるのを気づかなかったのだ。
だからしてそっち側も見に行ったの。
立派な青銅製の燈籠がありました。見頃の紅葉も素敵です。
さて、廟所を見学した後は、静嘉堂文庫の建物に戻ります。
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ですが~、これが場所がなかなかなかなかわかんない。それもこれも高低差のせい!旧小坂家住宅は国分寺崖線の縁に沿ってあるので、敷地の中は斜面が半分。なので敷地の外に出ても坂があります。んでも地図では高低差がよくわからない。目指す静嘉堂文庫へはどないしていけばいいのだろうか?
そこへやってきた男子高校生。ここはひとつ道を聞いてみよう。
ってな事で無事に静嘉堂文庫の正門に到着です。
なにげに綺麗な紅葉が私を招いてます。(気のせい)
あまりの晴天に明暗がくっきりとなってしまったので、振り返ってもう一枚。
道の奥へ進むと、また出た!高低差っ!!マジか~。
しょうことなしに道に沿って坂を上ります。
発見した見取図。これって…。まさかせんでもこの丘全体が岩崎家の私有地なんかいっ!!金持ちって嫌いだっ!!つーか、金持ちは自分の足で坂なんか上らないのよ~~。ぼやいてばっかりですが、まずは見取図にある岩崎家の廟へ向かいます。
トップ画像が廟の建物です。
廟の前には左右に狛犬。
中央には青銅の鼎。
青銅には有名人の名前が多数刻まれてました。が、撮影忘れた~。やっぱ岩崎家の廟だもんな。錚々たるメンツです。
さて、何度の出て来る岩崎家。まさか解説いらないと思ったけど、一応軽く説明しますと…。
「静嘉堂文庫は、岩崎弥之助(1851-1908 弥太郎の弟、三菱第二代社長)と岩崎小弥太(1879-1945 三菱第四代社長)の父子二代によって設立され、国宝7点、重要文化財83点を含む、およそ20万冊の小典籍(漢籍12万冊、和書8万冊)と6500点の東洋古美術品を所蔵しています。」
つまり岩崎家というのは、三菱財閥を作った家系なのですね。明治期の西欧文化崇拝の時代に、軽視されていた日本の文化財を収集した弥之助は偉いっ!!
さてトップ画像の説明に戻ります。
岩崎家廟は、納骨堂です。この廟は明治の巨匠、ジョサイア・コンドル(1852-1920)の設計により、明治43年(1910)に建てられました。
鹿鳴館の設計で知られるコンドルは、岩崎弥之助の深川邸洋館(現・清澄公園内、現存しない)や高輪邸(現・関東閣)、三菱一号館(2009年復元)など、岩崎家ゆかりの建物も数多く手がけてます。
廟は現在も墓所として使用されているので、本日の記事のカテゴリーは『墓所巡り』に分類しました。
墓所は丘の尾根にあって、尾根には参道もあります。つーか、そもそもそっちから丘を上がればよかったのですが、正門を突き当たった時、右折して丘を上っちゃったのが敗因。あれを左折すればよかったのですが、高級自動車が停車中でそっち側に道があるのを気づかなかったのだ。
だからしてそっち側も見に行ったの。
立派な青銅製の燈籠がありました。見頃の紅葉も素敵です。
さて、廟所を見学した後は、静嘉堂文庫の建物に戻ります。
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