氷室椿庭園から徒歩で約10分程度で開高健記念館に到着です。

ところで、開高健さんってご存知です?
私もさすがに名前くらいは知ってます。随分前になくなった方ですね。
開高さんについて思い出すと、写真本『オーパー』。世界の辺境で釣りするかわいいおじいちゃん。これが私の開高健さんのイメージで、これだけの知識で開高健記念館へお邪魔したのですが…。
開高さん凄い人だったのねっ!!

記念館は開高さんの晩年暮らした自宅がそのまま使用されています。

開高さんの飾らない言葉は、私の胸にさっくりささってしまうのです。
一昨日から福島第一原子力発電所の電源がまたまたまたまた止まってしまった!しかも原因が分からない。ってな事を今更報告してみました(しれっ)BY東京電力
みたいなニュースに、一庶民は呆れてしまったのですが、こんなにいい加減な会社に責任が取れるハズもなく。まあうちに責任なんかサラサラない!と東京電力は思ってるのでしょうが…。そんなの当てにしても前進しない。なら私たち個人個人が今出来る事する方がいいや。と。開高さんのお家に周辺に配置されてる言葉を見て悟った!
さて。何が開高さんにこんな言葉を書かせたのか?
記念館で短い映像を見ました。
開高さんは言います。「男がね、夢中になれるのは、危険と遊び」
競馬につぎ込んで破滅する人がいるでしょ?危険なのは分かってるけど、熱中しちゃうんだねえ。
ンな夢中になって、熱中して行動する男・開高健さんは、ベトナム戦争の戦地取材へ突撃しました。

開高さんは言います。「ベトナムへ取材にきてる連中ね。戦争なんか見た事ない。見ないでホテルで記事を書いちゃう。僕はダメだ。アメリカの兵隊にくっついて行った。今ヘリに乗ったらちゃんと帰れるってのに、残ってジャングルに行く。ジャングルの中で銃撃されると大概翌日には死ぬか殆ど死んでしまう。玉がね、木に当たって跳弾してとんで来る。そいつに当たると、特に腹に当たるとドリルでえぐられたみたいな傷になる。そうするとダメだ。壊疽でやられちゃう」う~む。1回映像を見ただけなんで細部の記憶は曖昧なんですが、臨場感溢れる言葉で、上っ面なニュース文面とは全く違うんだよ~。おそらくベトナム戦争の取材は、開高さんにとっても人生の転機の一つになったようです。帰国後、越前の宿に向かい執筆したそうです。そんでトップ画像です。トップ画像の下部に写っている水仙は、越前の水仙。この時宿泊した宿の水仙を女将さんが送ってくれたもの。思索を巡らす庭にも、越前の水仙が沢山ありました。

なので、氷室椿庭園を訪れたなら、セットで開高健記念館にも訪問するといいと思い今日の記事にしてみました。だって、今ならまだかろうじて水仙の花が残ってるんだもの…。上の画像は開高さんのお宅です。画像の左奥に、水仙の咲く区画がありました。

記念館は若い頃の開高さんの写真が何枚か展示されてるのですが、なんか私の知ってる開高さんとは別人のよう。

なんか、NHKとかTBSのドキュメンタリー番組で、スコットランド貴族の領地の川でトラウト釣りをする番組とか、モンゴルだかシベリアの川でイトウ釣りをする番組とか、アマゾンで巨大魚を狙う番組に出ていたちょっと小太りで、頑固で、でもってたまに笑うとかわいい感じのおじいちゃん。あの番組の中で見たのが開高さんなんだよねえ~。

あ。タバコをふかしながらとか、ウィスキーとかあおりながら。
んでもって記念館には開高さんの書斎も残してありました。

ち~か~づ~け~な~いィいいいィイ~~~。でもあこそで書いてたんだろうなあ。

開高さんが晩年一番長く過ごしたと思われる場所。何気に開高さんの趣味の品で一杯。巨大魚の剥製はともかくっ!上の画像の奥の部屋の壁をよ~く見て!
なんか、黒いのがかかってるよね?これが何か分かりますう~?
これね。熊!
熊の毛皮をかけてあるの。
あ。ちなみに、玄関入ってすぐの部屋の壁にはこんなんもあった!

これって、狩りの獲物かしら?つーか、ドキュメンタリー番組では大概ボウズで何も釣れないのがお約束だったんだが。
はっ!!これは…。

一応、毎日のように文章書いてると、こういうのを忘れがちだよね。
偏屈というか、ヘソ曲がりな私は、大衆に迎合する事が出来ません。つーか、右へ習えが基本な日本人。なんだけど、人と同じな事が出来ないのが私。大概「変わった人」だとか「あられちゃんが分からない」って言われるんですが、別に平均的な人と反対を向いてても迷惑かけてないから気にしません。ええ。はた迷惑上等なの(コラ~~っ。宣言するなってツッコミがあちこちから聞こえてくるなあ)。
なんとなく開高さんにシンパシィー。まさか作家さんだったとは知らずにお家訪問する無謀な私。
記念館の展示物は、開高さんのエポック的なものがありましたが、足が止まったのはコレ。
司馬遼太郎さんによる開高健さんの葬儀で読まれた『弔辞』の原稿です。
司馬さんと開高さんの交遊は晩年、司馬さん的には浅い交遊らしい。記念館の最後に開高さんの著書や掲載雑誌を置いてある一画があるのですが、中に弔辞をワープロ打ちしたクリアーブックがありました。司馬さんらしい、小難しく長い長文です。確か出だしは…『年齢はボクの方がキミより7歳年上だが、物書きとしてはキミの方が7歳早かった』みたいな…。弔辞の中で長く裂いて触れていたのは『キミが「チンギス・ハーンの墓を探す」と言った時、ボクは無理だと思った。でもキミを止めても無駄だと分かっていた。キミは少年のようなキラキラとした瞳でチンギス・ハーンの墓の場所について篤く語った』というような内容です。印象的なのは『キミと最後に会ったのは大阪のホテルだった。こりゃ長くなる、逃げようとする私をキミは熱心に誘い場所を写してバーで飲みながらまたチンギス・ハーンについて話した。帰ろうとした時、キミはほつりと『また書こうと思うんだ』と言ったを『止めたほうがいい』とボクは言ってしまった。それが最後だった。キミの雑文が載った雑誌を読んでいる時にキミの訃報が届いた…』
あ。手元に長文の原文を持ってないので、一読した文章から私は適当にそれらしく書いています。原文が読みたい人は記念館へ足を運んで下さい。特に司馬さんの弔辞は長文で読むとそれなりに時間がかかります。一緒の訪問したダンナの姿を見失い。後半は流し読みにしてしまい熟読出来なかったので、司馬さんの文章を正確に意図した部分が読み取れてない可能性が…。すみませ~~んっ。巨匠に対してあるまじき所業っ!!
ついでに、開高健さんのお墓は、北鎌倉の円覚寺の塔頭・松嶺院さんにあります。
あ。あとね。弔辞のクリアーノートは司馬遼太郎さんの『弔辞』だけじゃなく、もうお一方井伏鱒二さんの『弔辞』も入ってます。
井伏鱒二さんの弔辞は短い。確か3ページ。開高さんと井伏さんが多摩川上流で一緒にアユ釣りしたお話だったような…。
井伏鱒二さん、学生時代の8月30日前後に何度かお世話になりました。
何って即ち夏休みの宿題の読書感想文です。
井伏鱒二さんのお話って短いのが多いから好きっ。さすがに超有名な『山椒魚』は避けて『屋根の上のサワン』を選んで読書感想文を書いたのだ。
んでもね。井伏鱒二ってプロレタリアート文学ってくくりだよね?それって大正時代じゃなかったっけ?何故に開高さんの弔辞を書けたんだろう?
………。いつものWIKIで検索かけた。なんと!井伏鱒二って1993年(平成5年)に死去してた!な・長生きされたのね。
ちなみに、開高健記念館の次に向かったのはここ。

記念館から南へ300-400メートルに、太平洋があります。よ~く見ると、画像奥に烏帽子岩が写ってるんだが、見える?
ちなみに、海に浮いてるのは、サーファー。サーファーって波乗りする人ってイメージだったけど、観察してたら大部分の時間は波間に浮いてるだけなんだね。これなら年配のサーファーが多い理由も納得だわ~~。昨今、断熱素材は優秀だしな。
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ところで、開高健さんってご存知です?
私もさすがに名前くらいは知ってます。随分前になくなった方ですね。
開高さんについて思い出すと、写真本『オーパー』。世界の辺境で釣りするかわいいおじいちゃん。これが私の開高健さんのイメージで、これだけの知識で開高健記念館へお邪魔したのですが…。
開高さん凄い人だったのねっ!!

記念館は開高さんの晩年暮らした自宅がそのまま使用されています。

開高さんの飾らない言葉は、私の胸にさっくりささってしまうのです。
一昨日から福島第一原子力発電所の電源がまたまたまたまた止まってしまった!しかも原因が分からない。ってな事を今更報告してみました(しれっ)BY東京電力
みたいなニュースに、一庶民は呆れてしまったのですが、こんなにいい加減な会社に責任が取れるハズもなく。まあうちに責任なんかサラサラない!と東京電力は思ってるのでしょうが…。そんなの当てにしても前進しない。なら私たち個人個人が今出来る事する方がいいや。と。開高さんのお家に周辺に配置されてる言葉を見て悟った!
さて。何が開高さんにこんな言葉を書かせたのか?
記念館で短い映像を見ました。
開高さんは言います。「男がね、夢中になれるのは、危険と遊び」
競馬につぎ込んで破滅する人がいるでしょ?危険なのは分かってるけど、熱中しちゃうんだねえ。
ンな夢中になって、熱中して行動する男・開高健さんは、ベトナム戦争の戦地取材へ突撃しました。

開高さんは言います。「ベトナムへ取材にきてる連中ね。戦争なんか見た事ない。見ないでホテルで記事を書いちゃう。僕はダメだ。アメリカの兵隊にくっついて行った。今ヘリに乗ったらちゃんと帰れるってのに、残ってジャングルに行く。ジャングルの中で銃撃されると大概翌日には死ぬか殆ど死んでしまう。玉がね、木に当たって跳弾してとんで来る。そいつに当たると、特に腹に当たるとドリルでえぐられたみたいな傷になる。そうするとダメだ。壊疽でやられちゃう」う~む。1回映像を見ただけなんで細部の記憶は曖昧なんですが、臨場感溢れる言葉で、上っ面なニュース文面とは全く違うんだよ~。おそらくベトナム戦争の取材は、開高さんにとっても人生の転機の一つになったようです。帰国後、越前の宿に向かい執筆したそうです。そんでトップ画像です。トップ画像の下部に写っている水仙は、越前の水仙。この時宿泊した宿の水仙を女将さんが送ってくれたもの。思索を巡らす庭にも、越前の水仙が沢山ありました。

なので、氷室椿庭園を訪れたなら、セットで開高健記念館にも訪問するといいと思い今日の記事にしてみました。だって、今ならまだかろうじて水仙の花が残ってるんだもの…。上の画像は開高さんのお宅です。画像の左奥に、水仙の咲く区画がありました。

記念館は若い頃の開高さんの写真が何枚か展示されてるのですが、なんか私の知ってる開高さんとは別人のよう。

なんか、NHKとかTBSのドキュメンタリー番組で、スコットランド貴族の領地の川でトラウト釣りをする番組とか、モンゴルだかシベリアの川でイトウ釣りをする番組とか、アマゾンで巨大魚を狙う番組に出ていたちょっと小太りで、頑固で、でもってたまに笑うとかわいい感じのおじいちゃん。あの番組の中で見たのが開高さんなんだよねえ~。

あ。タバコをふかしながらとか、ウィスキーとかあおりながら。
んでもって記念館には開高さんの書斎も残してありました。

ち~か~づ~け~な~いィいいいィイ~~~。でもあこそで書いてたんだろうなあ。

開高さんが晩年一番長く過ごしたと思われる場所。何気に開高さんの趣味の品で一杯。巨大魚の剥製はともかくっ!上の画像の奥の部屋の壁をよ~く見て!
なんか、黒いのがかかってるよね?これが何か分かりますう~?
これね。熊!
熊の毛皮をかけてあるの。
あ。ちなみに、玄関入ってすぐの部屋の壁にはこんなんもあった!

これって、狩りの獲物かしら?つーか、ドキュメンタリー番組では大概ボウズで何も釣れないのがお約束だったんだが。
はっ!!これは…。

一応、毎日のように文章書いてると、こういうのを忘れがちだよね。
偏屈というか、ヘソ曲がりな私は、大衆に迎合する事が出来ません。つーか、右へ習えが基本な日本人。なんだけど、人と同じな事が出来ないのが私。大概「変わった人」だとか「あられちゃんが分からない」って言われるんですが、別に平均的な人と反対を向いてても迷惑かけてないから気にしません。ええ。はた迷惑上等なの(コラ~~っ。宣言するなってツッコミがあちこちから聞こえてくるなあ)。
なんとなく開高さんにシンパシィー。まさか作家さんだったとは知らずにお家訪問する無謀な私。
記念館の展示物は、開高さんのエポック的なものがありましたが、足が止まったのはコレ。

司馬さんと開高さんの交遊は晩年、司馬さん的には浅い交遊らしい。記念館の最後に開高さんの著書や掲載雑誌を置いてある一画があるのですが、中に弔辞をワープロ打ちしたクリアーブックがありました。司馬さんらしい、小難しく長い長文です。確か出だしは…『年齢はボクの方がキミより7歳年上だが、物書きとしてはキミの方が7歳早かった』みたいな…。弔辞の中で長く裂いて触れていたのは『キミが「チンギス・ハーンの墓を探す」と言った時、ボクは無理だと思った。でもキミを止めても無駄だと分かっていた。キミは少年のようなキラキラとした瞳でチンギス・ハーンの墓の場所について篤く語った』というような内容です。印象的なのは『キミと最後に会ったのは大阪のホテルだった。こりゃ長くなる、逃げようとする私をキミは熱心に誘い場所を写してバーで飲みながらまたチンギス・ハーンについて話した。帰ろうとした時、キミはほつりと『また書こうと思うんだ』と言ったを『止めたほうがいい』とボクは言ってしまった。それが最後だった。キミの雑文が載った雑誌を読んでいる時にキミの訃報が届いた…』
あ。手元に長文の原文を持ってないので、一読した文章から私は適当にそれらしく書いています。原文が読みたい人は記念館へ足を運んで下さい。特に司馬さんの弔辞は長文で読むとそれなりに時間がかかります。一緒の訪問したダンナの姿を見失い。後半は流し読みにしてしまい熟読出来なかったので、司馬さんの文章を正確に意図した部分が読み取れてない可能性が…。すみませ~~んっ。巨匠に対してあるまじき所業っ!!
ついでに、開高健さんのお墓は、北鎌倉の円覚寺の塔頭・松嶺院さんにあります。
あ。あとね。弔辞のクリアーノートは司馬遼太郎さんの『弔辞』だけじゃなく、もうお一方井伏鱒二さんの『弔辞』も入ってます。
井伏鱒二さんの弔辞は短い。確か3ページ。開高さんと井伏さんが多摩川上流で一緒にアユ釣りしたお話だったような…。
井伏鱒二さん、学生時代の8月30日前後に何度かお世話になりました。
何って即ち夏休みの宿題の読書感想文です。
井伏鱒二さんのお話って短いのが多いから好きっ。さすがに超有名な『山椒魚』は避けて『屋根の上のサワン』を選んで読書感想文を書いたのだ。
んでもね。井伏鱒二ってプロレタリアート文学ってくくりだよね?それって大正時代じゃなかったっけ?何故に開高さんの弔辞を書けたんだろう?
………。いつものWIKIで検索かけた。なんと!井伏鱒二って1993年(平成5年)に死去してた!な・長生きされたのね。
ちなみに、開高健記念館の次に向かったのはここ。

記念館から南へ300-400メートルに、太平洋があります。よ~く見ると、画像奥に烏帽子岩が写ってるんだが、見える?
ちなみに、海に浮いてるのは、サーファー。サーファーって波乗りする人ってイメージだったけど、観察してたら大部分の時間は波間に浮いてるだけなんだね。これなら年配のサーファーが多い理由も納得だわ~~。昨今、断熱素材は優秀だしな。
