「ヒカリの春に、途上の春に」2017年 早春に書いた「旅雑文」です。期間限定公開中。
最高気温14、4度。
「2月は光の春」
高気圧におおわれた四万十は、快晴。おだやかな青空には、一片の雲も見えません。
強さを増した陽ざしに、本格的な春の近さを感じる2月の日曜日です。
村人はにこやかに、洗濯物やフトンを干し、窓を開け、ひとあし早い春を歓迎している。
あたたかな光に服を脱がされた僕は、今年初めて、
上半身ハダカのデカパンオヤジと化して、ベランダの折り畳みベッドの上で本を広げました。
(四万十を留守にしていた)冬のあいだに、
すっかり白くなっちまった肌に、しみいるようなぬくい陽がなんとも気持ちイイです。
【旅とは何か。その問いに対する答えは無数にあるだろう。
だが、私には、大槻文彦が「大言海」で記した次の定義がもっとも的を得たもののように思われる。
《家ヲ出デテ、遠キ二行キ、途中二アルコト》
旅とは途上にあること、と言うのだ。
ここから人生は旅に似ている、あるいは旅は人生のようだという認識が生まれてくる。
人生もまた「途上にあること」と定義されうるからだ。
トールマン・カポーティの「ティファニーで朝食を」の主人公ホリーの名詞には、
「トラベリング」という文字が刷り込まれていることになっている。
彼女にとっては、南米の海岸やアフリカのジャングルだけでなく、
ニューヨークのマンハッタンに住んでいるときでさえ、「トラべリング:旅行者」であることに変わりはないのだ。
まさに、ホリーは「途上にある者」ということになる。
しかし、旅は同時に終わりがあるものである。始まりがあり、終わりがある。
そこに、旅を作る、という要素の入り込む余地が生まれるのだ。】
*「深夜特急ノート」 沢木耕太郎 著より
読みかけの本を閉じた僕は、ぼんやりと春のヒカリとしたしみました。
「カツーン・・コツーン・・」茶色くしなびたセンダンの実が、屋根に落ちる音。
(すくすく育った裏庭のセンダンの木。気がつけば、その枝が屋根にかかるほどに。切らなくては。)
イヌノフグリの小さなムラサキ色の花も咲く陽だまりの庭では、
見たことがない毛の長いネコが、こちらに背中を向け、じーっとうずくまっています。
ベランダから声をかけてみるが、ネコはぴくりとも動かない・・・。
その姿は、何かを真剣に考えている哲学者のようにも見えるのでした。
ネコモマタ、タビノトジョウニアルノデショウ。
ラジオの天気予報は、「明日から木曜日までぐずついた天気に」と伝えてます。
ウエィテング オン ア サニーデイ、か。でも、作物、植物、生き物、にとっては恵みの雨。
春は、一雨ごとに近づいてきます。
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