09/01 廿世紀浴場
09/03 片倉ビル 1
09/07 片倉ビル 2
09/09 静岡ハリストス正教会
09/11 やすらぎの塔
09/13 第一生命相互館ビル
09/28 四谷・曙橋界隈の階段巡り
蒸し暑い夏の日に某局取材同行で四谷・荒木町・曙橋界隈の階段巡り。
No.0450 井戸があるループ状の道
所在地:新宿区須賀町4
段数 :10段
Photo 2013.7.31
10段の階段を上ったところに井戸がある。ループ状になった路地の奥にあるため、訪れる人は少ない。
0097 住吉町の組階段1
0098 住吉町の組階段2
Photo 2013.7.31
住吉町の組階段は久しぶりだった。
#階段・坂 新宿区
第一生命相互館ビル(二代目)
所在地:中央区京橋3-7-1
建設年:1971(昭和46)
構造 :SRC
階数 :14F・B3F・RF
備考 :2009年8月~2010年11月解体
Photo 2006.1.27
銀座中央通りと鍛冶橋通りの交差点に面して建っていたオフィスビル。1・2Fは敷地いっぱいに建てられ、その基壇部の上に直方体が載っかるような墓石型の外観。各階の外周全てにベランダがあり、一時期よく建てられていた日本型のモダニズムオフィスビルだった。
建設当初のことは知らないが、少なくとも後期には低層部に店舗もあったようだ。また屋上階の建屋にはAsahiビールの広告が付いていた。
鍛冶橋通りから
Photo 2006.1.27
なお、初代の第一生命相互館は辰野金吾の設計で、1921年に竣工し、1969年に解体された。戦後、GHQ本部が置かれたことでも知られる有楽町の第一生命館が1938年に完成するまでは、この初代第一生命相互館が同社の本社建物だったそうだ。
跡地に完成した相互館110タワー(三代目)
建設年:2012(平成24)
構造 :S造(CFT柱)+RC造
階数 :12F・B3F・R1F
Photo 2012.7.25
また、二代目解体の後、2012年に完成した現在の三代目は、相互館110タワーと命名されている。二代目の老朽化や耐震性の問題などから建て替えられたようだが、階数は減った。以前は1・2Fは道路際までで3F以上はセットバックしてスリムだったのが、今回の建て替えでは上の方まで道路際からそのまま立ち上がっている。階数は減っても、各階の床面積は増えたのかもしれず、全体の床面積としてはさほど変わらなかったのかもしれない。
この三代目は初代相互館のイメージを採り入れた塔屋を持つややレトロな外観だが、正直言って個人的にはあまり好きではない。塔屋のデザインがなーんかプレハブっぽくて安いというか軽い感じなのと、ボリューム的に、角地にベッタリと面ができてしまって、以前のような軽快さが無いのがどうにもこうにも好きになれない。初代とは階数が違うため、壁面がかなり高く立ち上がって圧迫感があり、塔屋を載せても見上げ角が高すぎて交差点では目立たなくなってしまっている。機能的な面は進化しているのだろうが、なんかどうもバランスがなぁ。
Wikipedia > 第一生命保険、第一生命館
しみずアーカイブズ-清水建設
> 第20回 歴史に残る建造物(その8)「第一生命保険本館(現・DNタワー21)」
2013年度(平成25年度)|ニュースリリース|第一生命保険株式会社
> 三代目相互館の名称「相互館 110タワー」に決定(PDF)
Tokyo Lost Architecture
#失われた建物 中央区 #新しい建物 中央区 #高層ビル #モダニズム
#銀行・保険
やすらぎの塔と広場
所在地:静岡市葵区駿府城公園 Google Map
建設年:1958(昭和33)
解体年:2001(平成13)
Photo 1997.5.4
まちなかの学校に通っていたので、駿府公園(現在は駿府城公園に名称変更)は小さい頃は比較的身近な存在だった。学外授業で駿府公園に行き、やすらぎの塔前の広場で帽子取りをしたりもした。
しかし、やすらぎの塔がどんなものなのか教えられた記憶はない。聞いてなかっただけかもしれないが・・・。
広場を走り回ったりしてばかりだったので、デザインの記憶も曖昧だった。ただ二人の男性が支え合って立っているようなものだった記憶はあった。正直言って、明るく晴れやかなものではなく、やや陰気な気配が漂っていて、なんとなく近づき難い姿形だった。
大人になってから改めて調べてみるとそれもそのはず。やすらぎの塔は、戦没勤労動員学徒の慰霊塔なのだった。
そんな少年時代の記憶をたどりつつ90年代後半に改めて駿府公園を訪れた。そしてその時もやはり学生が放課後に運動をしたりしていたのだった。
1991(平成3)年3月には「駿府公園整備計画」が立案されたが、この計画の中でも、やすらぎの塔は存続することになっていた。祭壇のような部分を中心として、前面の広場は縮小されるようだったが、その他は変わらないはずだった。
しかしやすらぎの塔は、2001年の地震で一部が破損し、このため後日、台座を残して撤去されたという。その後、10年以上が経過しているが、再建はされず現在もそのままらしい。2010年には保全整備と再建の要望書が出されたりもしているが、なにか動きがあったという話は聞かない。
駿府城公園の整備は資金等の面から大幅に遅れてはいるが、現在もその計画に基づく整備が続けられており、現在、坤櫓(ひつじさるやぐら)の建設が行われている。
戦争の記憶を後世に伝える施設はこのまま推移していくのだろうか。
さくらの花びらの「日本人よ、誇りを持とう」 > 風化する戦死者への祈り
いきいき助け合いネット > 戦争の爪痕・駿府公園
静岡の街並み
#公園 #モニュメント
静岡基督(ハリストス)正教会
所在地:静岡市葵区春日3-9 Google Map
建設年:1959(昭和34)
Photo 2012.2.20
谷津山の南側、谷津山と国道1号線の間の住宅地の中にある正教会の教会。正教会はギリシャ正教とか東方正教会とも呼ばれ、古くからの流れを受け継ぐもので、日本にはニコライによりロシア正教会から伝わったという。
建築的にはビザンチン様式が基本で、日本ではニコライ堂などが代表的だ。ここの教会も、装飾などは簡素だが一応ビザンチン様式を採っている。
内部を見学していないので正確なところは判らないが、外から見る限り、十字型の細長い平面形式にはなっていないようで、鐘塔の下の玄関ホールと、正方形の平面を持つ中央ドーム部分、奥の祭壇(写真右手)で構成されているようだ。
それぞれの空間を覆う屋根に小ぶりながらネギ坊主型の装飾が付くのも特徴だ。
鐘塔頂部の十字架も普通の形ではなく、ロシア正教などに特有の八端十字架になっている。屋根は全て銅板葺き。
Wikipedia - 八端十字架
玄関部分。扉上部にも見慣れないマークというか装飾が付けられているのが印象的だ。
鐘塔。遠くからのぞき込んで見たところでは、大中小3つの鐘が下げられているようだ。礼拝の日などに鳴らされたりしているという。
耐震性の問題とかで解体、建て替えが予定されているというが、2013年夏時点ではまだ一応現存している。
下記、リンク先の写真にもあるように、内部にはイコンがたくさん飾られていて、カトリックやプロテスタントの教会ともまた異なる雰囲気の空間になっている。建て替えがいつになるのか判らないが、ビザンチン様式特有の祭礼空間が残されることを期待して止まない。
葵区のこと、知ってるつもり!? 〜 静岡市葵区自治会連合会ブログ
> 静岡ハリストス正教会
備忘録に代えて > 静岡ハリストス正教会
鷹匠日記 > ハリストス正教会
2023.6.25 追記
その後、写真の聖堂は2016年頃に解体され、新しい聖堂が2017年2月に完成したそうだ。新聖堂は、高さがやや低いがほぼ同じ位置に建設されている
日本正教会|ハリストス正教会 The Orthodox Church in Japan
静岡の建築・土木構築物
#失われた建物 静岡県 #教会
都市徘徊blog・1992ロシア日記 > ロシア正教の教会
片倉ビル 玄関内の階段
所在地:中央区京橋3-1-2
建設年:1926(大正15)、1937(昭和12)増築
構造 :SRC
階数 :7F・B2F?・R2F
備考 :2008年末で利用が終了。2010年に解体。
> 片倉ビル1
Photo 2006.1.28
玄関を入ると前室があり、そこで階段を上って1Fホールに至る空間構成になっていた。
玄関内側から
Photo 2006.1.27 以下全て同じ撮影日
玄関ホールの照明
1Fホールは正面にエレベーター、左奥に階段室があり、右手には受付があった。細かいタイルで作られた模様と大理石の壁面が印象的。
1Fホール・受付。玄関を入って直ぐにある受付の背後に給湯室が見えてしまっているのがおもしろい。
廊下は、ドラマとかに出てきそうな昔風のもの。
洗面所。トイレをちょっと拝借したところ、かなり古びた空間だったので、つい撮ってしまった。
内部空間がクラシックな感じなのは良いが、トイレまで"クラシック"だったりすると、ここに毎日勤務する人たちは、この空間を残したいとは必ずしも思えないのかもしれないなぁとも思う。赤外線センサーで水が自動的に流れるタイプに改修されてはいたが、その他はいつの時代のものだったのだろう。配管とか、流下のために、一段上がる構造になっているのも昔風。
大の方もかなり年代物。磨りガラスとはいえ、こんなに大きくガラスが嵌っているトイレの個室扉はあまり見たことがない。こちらも2段上って入る構造になっていて、だからドアノブがかなり低い位置に付いている
Wikipedia - 片倉工業
清水建設 - 創業200年記念「清水建設の歴史」
- 清水建設二百年 作品編 50音一覧
- 片倉館(PDF)・ 片倉館増築(PDF)
超高層ビルとパソコンの歴史 - 東京スクエアガーデン
消えた建築 > 片倉ビル
ゆる~り、ゆるゆると~ > 京橋 片倉ビル(旧片倉館)
ハル設計室の呟きブログ > 片倉ビル
夢織人の街TOKYO散歩&思い出の場所パート1
> ☆京橋の壊される運命のビル達~「片倉ビル(旧・片倉館)」
tnfuk [today's news from uk+]
> そうだ、京橋行こう(再開発で建築物が壊される前に)その2. 片倉ビル
> 片倉ビル(続き)
Tokyo Lost Architecture
#失われた建物 中央区 #近代建築 #オフィス #屋内階段
片倉ビル
所在地:中央区京橋3-1-2
建設年:1926(大正15)、1937(昭和12)増築
構造 :SRC
階数 :7F・B2F?・R2F
備考 :2008年末で利用が終了。2010年に解体。
「片倉・キャロン」の袖看板より左側が増築部分。
片倉ビル 2(内部)
Photo 1994.3.29
鍛冶橋通りに面していた立派な近代建築。隣接地に建っていた京橋三丁目ビル、東京大栄ビルと共に、解体・再開発が行われ、東京スクエアガーデンが2013年に完成した。
Wikipedia - 片倉工業
清水建設 - 創業200年記念「清水建設の歴史」
- 清水建設二百年 作品編 50音一覧
- 片倉館(PDF)・ 片倉館増築(PDF)
超高層ビルとパソコンの歴史 - 東京スクエアガーデン
Photo 2006.1.27 以下3枚も同じ
上記の清水建設のHP内にある竣工時や増築時の写真と比較してみると、7Fや軒先のあたりの装飾が簡略化されたり、カヴァーで覆われていたことが判る。当初、6Fと7Fの間には大きなメダイヨンが6本の柱の上部にあったようだが、私が見た頃は既に取り外されていた。また、軒先のエンタブラチュア(Wikipedia)部分にある軒蛇腹の装飾も、全て鉄板かなにかで覆われてしまっていたようだ。装飾が取り外されたりしていても堂々とした様式建築だったが、これらの装飾が残されていたらもっと立派だったろうと思われる。
玄関部分は装飾がオリジナルのまま残されていたようで、非常に立派。玄関扉も分厚く大きいし、なによりその外枠が重々しい。
壁面に取り付けられたネオンサインは建設当初からあったわけではないようだが、これもクラシックな感じで良かった。
地下に映画美学校という学校があり、1F正面玄関とは別に、東側に地下入口があった。
背面(南側)から Photo 2008.11.29
南側は軒先の装飾がカバーで覆われておらず、オリジナルの様式的な外観を見ることができた。東側の一部がセットバックしているが、この部分は増築部分。ボイラーの煙突があるのも、裏側からでないと見ることができないものだった。
南側出入口 Photo 2008.11.29
正面玄関に比べるとやはり地味だが、それでも大きな入口。建物内には床屋もあったようだ。
消えた建築 > 片倉ビル
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> ☆京橋の壊される運命のビル達~「片倉ビル(旧・片倉館)」
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Tokyo Lost Architecture
#失われた建物 中央区 #近代建築 #夕景・夜景 #オフィス
廿世紀浴場
所在地:台東区日本堤1-34
建設年:1929(昭和4)
構造・階数:木1
2007年末に廃業、2009年に解体
Photo 2008.2.17
日本堤界隈は全く馴染みのない街だったが、この銭湯を見るために三ノ輪から歩いて行った。
東京の銭湯は寺院建築のようで「宮型造り」などと呼ばれる外観のものが多いが、ここはなんともモダンな外観。アールデコ風銭湯などとして紹介されることも多かった。鶴の湯や松の湯など、和風の名前が多い中、二十世紀を名乗っていたのも珍しかったのではないだろうか。
廃業後、しばらくはそのまま残っていたが、2009年5月頃に解体された模様。
Wikipedia > 廿世紀浴場
東京の銭湯・温泉 > 廿世紀浴場
東京浪漫劇場 > 東京湯屋巡礼 > 廿世紀浴場[日本堤]
東京そぞろ歩き > 廿世紀浴場
トーキョーワッショイ > トーキョー銭湯 > 解体される廿世紀浴場
玄関部分 玄関は両引きの引き戸。壁面の中ほどはスクラッチタイル張り。半円形アーチの窓も手が込んでいる。
アールデコ的な書体で縦書きで「廿世紀浴場」と書いてあるのが印象的
ところで、「廿」という字は「にじゅう」と読む。本来は「二」と「十」という二つの漢字からなる単語が、一字になってしまっている。こういうのは漢字なのだろうかと以前からちょっと気になっていたのだが、改めて調べてみたら漢和辞典にはちゃんと載っていた。ちなみに「丗」は「さんじゅう」。ところがこちらは世界の「世」の異体字でもあって、「せ・せい」とも読む。二つともどうも「十」の字から発展した字のようだ。
まちあるきをしていると時々、明治廿三年とか書いてある石碑などがあって、以前は面食らっていたのだが、最近になってようやく覚えた。変な話だが、そのへんを改めて覚えようというきっかけになった建物でもある。
東側側面 建物周りの壁には青いスペイン風の瓦が載り、中華料理の器のような模様が刻まれている。
裏側(北東側)から 正面の玄関まわりは洋風の近代建築デザインになっているが、背後の方のボイラーや煙突まわりはモルタルやトタン張りで、当然ながらやや雑然としている。
玄関上部 窓枠は鉄製だったようだ。また、よく見ると十字型の星状の穴が並んでいたり、四隅だけ異なるタイプの磨りガラスだったりしている。
東側側面の窓は改修されたらしく、アーチ型の窓穴の中に、ひとまわり小さな長方形の窓枠が嵌められていた。
全景 東側角の箱庭のような場所に大きな木があり、建物に覆い被さるようになっていたのも印象的だった。
Tokyo Lost Architecture
#失われた建物 台東区 #銭湯