都市徘徊blog

徒然まちあるき日記

2023年1月 記事一覧

2023-01-31 | 記事一覧 

01/06 東京都住宅供給公社 中野駅前住宅
01/09 中野センター・中野光座
01/12 石森ビル(中野センター・中野ヘルスクラブ)
01/15 笹周
01/18 キャバレー日の丸
01/21 上邸
01/24 ひかり町
01/27 料亭丸染
01/30 旧 稲付郵便局

ブログ内記事のタグ一覧   Tokyo Lost Architecture

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旧 稲付郵便局

2023-01-30 | 北区   
旧 稲付郵便局
所在地:北区 赤羽西2−3
構造・階数:木・1
建築年:1930(昭和5)?
解体年:2008〜09(平成18〜21)
備考 :道路拡幅に伴い解体
Photo 2002.9.23

 赤羽駅南方の岩槻街道沿いにあった郵便局。訪れた時は既に郵便局としては使われておらず、倉庫のようになっていた。
 昔は郵便局だったとする情報をネット上でかなり前に見たのだが、現在はその情報が見当たらず、本当に郵便局だったのか、もしそうならなんという名の局だったのか分からずにいた。最近になって昔の地図をあたったところ、ようやく局名などを含めて分かった次第。どうやら特定郵便局と呼ばれた小さな局で、地域の名士や大地主が土地や建物を無償で提供して設置したものだったようだ。

 ドイツ破風とか半切妻屋根などと呼ばれる切妻屋根の頂部妻面に小さな屋根を付けた姿が印象的。妻面上部にはかつては灯りが付けられていたようだ。下部は煉瓦もしくは煉瓦風タイル張り。屋根は洋瓦(平板)。入口が閉じられたままで長い時間が経過していたようで、老朽化して屋根には雑草が生えていたが、洋風の小さな建物は旧街道沿いでは目立っていた。

 岩淵町全図(1931年発行、注1)や東京都全住宅案内図帳(1962年?発行、注2)には「稲付〒」と記されており、かつては稲付郵便局と呼ばれていたようだ。一方、下記サイトには郵便局の経緯が記されていて、正式には王子稲付郵便局として開設されたものらしい。

 王子稲付郵便局は1930(昭和5)年に開設。従って建物もこの時に建てられたものだったのではないかと思う。1961(昭和36)年12月に北稲付郵便局に改称。1972(昭和48)年10月1日以降は赤羽西二郵便局。

 1973(昭和48)年発行のゼンリンの住宅地図では郵便局は少し南の道路沿い(赤羽西2−2)に移転済み。正確な移転時期ははっきりしないが、上記のどちらかの改称時などに移転もしたのではないかと思われる。従ってこの建物はそれまでの30〜40年の間利用されていたもののようだ。

 2008年までは住宅地図には掲載されていたが、岩槻街道の道路拡幅に伴い解体された。

注1:『番地界入東京府豊島郡岩淵町全図』1/6,000 1931(昭和6).9.10発行 著作・発行 小林又七 発行所 東京日日新聞赤羽出張所
注2:『東京都全住宅案内図帳』1962(昭和37)年? 住宅協会 発行

ちきページ【古よりの地名最後の砦】郵便局データベース赤羽西二郵便局

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#失われた建物 北区  #倉庫・蔵  #公共施設  #郵便局  #旧街道 
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料亭丸染

2023-01-27 | 豊島区  
料亭丸染
所在地:豊島区 南大塚1-43
構造・階数:木・2
建設年:?
解体年:2008〜10(平成20〜22)
Photo 2003.10.15

 大塚三業地にあった料亭。JR大塚駅前から東南へ向かう小石川の谷地沿いに大塚三業通りはあり、かつてはその周辺に料亭が多くあった。丸染は三業通りから北側へ坂を少し上った場所のL字型の路地沿いにあったもの。

 規模はあまり大きくなく庭も小さかったようだが、建物が黒板塀で囲まれ、普通より凝った門があるようすはやはり料亭ならでは。かつてはこの店も賑わっていたのだろう。

 最後の頃、建物の外観は老朽化していてあまり魅力的とはいえなかったが、内部はきれいだったのだろうか。入ったことがないので営業していた頃の実際の様子は不明。

 建物は2008年頃まで残っていたが、いつ頃まで営業していたかは未把握。

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#失われた建物 豊島区  #遊興施設   タグ一覧
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ひかり町

2023-01-24 | 豊島区  
ひかり町
所在地:豊島区 東池袋1-14
建設年:戦後
解体時期:2006〜07(平成18〜19)
Photo 2004.10.10

 東池袋にいくつかあった戦後の闇市由来の飲み屋街のひとつ。戦後、池袋駅周辺には多くの闇市ができたが、それらは次第に整理されていった。ひかり町は、池袋駅東口界隈で戦災復興土地区画整理事業が行われ、現在のような街区に整理される過程で、元闇市の店舗が移転してできたもの。2000年頃まではひかり町の他にも、人世横丁、栄町通り、美久仁小路が東池袋界隈には存在していたが、人世横丁も2008年頃になくなり、現在は栄町通りと美久仁小路のみになっている。


 Photo 2004.10.10

 横丁の道は街区を南北に貫いている。写真は南側から北向きに見たもの。建物は2階もしくは3階建てがほとんどだったようだ。


 横丁の中ほどから  Photo 2003.10.15

 小さな路地なので雨水が流れる溝は中央部に一筋通されている。


 Photo 2003.10.15

 南北に通された小路に対して、東側から入る短い道も造られていた。最後の写真は南北の道に丁字に取り付いた小路部分。

 ネット上には、ひかり町のとある店が2006年頃に閉店したことが記されている。また2008年発行の住宅地図ではこの場所は既に駐車場になっている。その後しばらくして、跡地には「池袋スクエア」が2012年12月にオープンした。

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#失われた建物 豊島区  #街並み 豊島区  #飲食店  #路地 
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上邸

2023-01-21 | 豊島区  
上邸/旧千葉邸
所在地:豊島区 西池袋2-31-3
構造・階数:木・1
設計指導:遠藤新
建設年:1931(昭和6)
解体年:2007〜09(平成19〜21)
Photo 2007.5.20

 自由学園明日館の西側にあった家。玄関とこれに隣接する部屋が洋風になった和洋折衷住宅だった。洋館部分は壁がピンク色、妻壁上部はハーフティンバー(風?)。

 洋館部分は屋根も緑色の洋瓦で葺かれている。隣接して敷地の奥にあった2階建ての方は、和風の2階建てで南側に大きなガラス窓が取られた建物だった。

「帝都」の残映-東京・近代建築撮り歩き-:上邸(旧千葉邸) - livedoor Blog(ブログ)

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#失われた建物 豊島区  #戸建て住宅  #洋館・洋風住宅  #近代建築 
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キャバレー日の丸

2023-01-18 | 豊島区  
キャバレー日の丸/曙ビル
所在地:豊島区 池袋2-3
構造・階数:SRC・5
建設年:曙ビル 1962(昭和37)
備考 :キャバレー日の丸は1970年代に開店した模様。2008〜09に閉店。
    店舗が入居していた曙ビルは2022年7月時点でも現存。
Photo 1997.2.23

 池袋西口エリアにあったキャバレーで、前項の笹周のすぐそば。私自身はキャバレーに馴染みがないので入ったことはなかったが、レトロな電飾が気になる店舗だった。断りなく真正面から撮影すると面倒なことになりそうだったので、遠目から1カットのみ撮影。塔状の目立つ広告看板がコーナー壁面に張り付いているのが印象的だった。


 Photo 2008.2.11

 2008年に通り掛かったら、塔状の広告看板はなくなって3階までの電飾看板に替えられており、ビル全体も塗り替えられていた。白色電球がチカチカ瞬く看板は昭和な雰囲気。ところどころ電球の球が切れて点いていないのも昔を思い起こさせる。最近はLEDなので球切れもなくきっちりしていて、愛嬌というかダサさがない。

 新宿にも同様の店があり、そちらには「しびれるキャバレー日の丸」という看板が出ていたが、こちらには「しびれる」の文字はナシ。ネットには池袋が支店という記載もあり、なんらかの関係はあるようだが詳細は知らず。

 キャバレー日の丸は2008年か2009年に閉店。2009年12月時点のGoogle ストリートビューでは、ネオンサインもなくなりテナント募集中になっている。
 キャバレーが入居していた曙ビルは2022年7月時点でも存在していて、外壁はまた別の色に塗り替えられている。

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笹周

2023-01-15 | 豊島区  
笹周
所在地:豊島区 池袋2-2
構造・階数:木・2
解体年:2009(平成21)
Photo 2008.2.11

 池袋の西口にあった鴨料理を出す料理屋・居酒屋。私自身は訪れたことがなかったので詳細は知らなかったが、立派な造りの建物が気になって写真を撮っていた。

 下記ブログによれば、昔は和菓子屋だったそうで、創業50年だったという。このブログ記事が書かれた時期が分からないので、何年に創業したのか、また和菓子屋を始めてから50年なのか料理屋になってからなのか、そのへんはよくわからない。(ブログ記事が書かれたのが2005〜10年頃のようなので、そこから考えると1955〜60年頃に創業したことになる。)

 建物の建築年代も分からない。ただこの界隈は戦後の1960年代頃に土地区画整理が行われているので、その頃以降に建てられたものだったのかもしれない。区画整理以前に建てられて区画整理時に曳き家をした可能性はあるが・・・。

 廃業の理由は主人が亡くなったためのようだ。廃業したのは2009年らしく、その年の暮れには既にコインパーキングになっていた。西口界隈ではこのような建物が珍しくなっていただけに惜しい。

笹周(東京・池袋、銘酒と鴨料理)=閉店: とうとう高齢者!
笹周(ささしゅう)/池袋

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石森ビル(中野センター・中野ヘルスクラブ)

2023-01-12 | 中野区  
石森ビル(中野センター・中野ヘルスクラブ)
所在地:中野区 中央4-61
構造・階数:RC・5
建設年:1961(昭和36)頃
解体年:2009(平成21).12
Photo 1997.3.30

 中野光座があった中野センター食品街の建物の東隣にあったビル。中野光座と同時期、少し後に建てられたもので、1961年発行の「東京都全住宅案内図帳」では建設中と記されている。また1968年発行の「東京都全住宅案内地図帳」では「三越商事KK・中野センター」となっている。また、1976年発行のゼンリンの住宅地図では「石森ビル・三越商事」と記され、その後の住宅地図では「ファミリーショッピング中野センター」などとも記されている。

 南側は5階建て、北側は2階建て。北側が2階建てなのは、大久保通りが将来拡幅される予定なのが当時既に明らかだったためかもしれない。1階にはファミリー中野センターというスーパーマーケットが入居していた。また、主に2階には中野ヘルスクラブというジムがあった。

 ジムとかボディビルとかの方面には全く疎いのでよく知らないのだが、中野ヘルスクラブは古くからのジムで、草分け的な存在だったらしい。とにかく、外国人と思しきマッチョな男女が外壁に描かれているのがすごく印象的だった。最近のジムにはこのような絵は描かれていない。90年代でも異色な存在だった。またその看板が古びて色褪せたりもしていて妙な迫力を醸しだしていたのだった。いちど入ったら出てこられない雰囲気・・・。

 ファミリー中野センターの方は、西側の中野センター同様、戦後このあたりにできていた小規模店舗をまとめたものが元になっていたのだろう。

 建設当初は、大久保通りの拡幅工事が始まるなら5階建ての側は残して北側を取り壊そうと考えていたかもしれない。しかし用地買収がされる頃には建物も老朽化していて、より高層の建物に建て替える方が良くなったということだったのだろうか。

ついに終焉。中野の闇市ゾーン [中野光座] : 日本ボロ宿紀行

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#失われた建物 中野区  #商業系  ブログ内タグ一覧
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中野センター・中野光座

2023-01-09 | 中野区  
中野センター・中野光座
所在地:中野区 中央4-61
構造・階数:RC・2F(一部3F?)
建設年:1960(昭和35)頃
解体年:2010(平成22).6
備考 :中野光座(映画館)は1994年頃に閉館
Photo 1997.3.30

 中野センター・中野光座は、戦後このあたりにできていた小規模店舗群(マーケット)をひとつの建物にまとめて、更に映画館を併設したもの。中野五差路交差点に面していて赤いトタンで覆われた外観が印象的だった。

 下記リンク先の「消えた映画館の記憶」によれば、1958年の映画館名簿には掲載がなく、1960年のそれには「中野光座」として掲載されているという。1961年発行の「東京都全住宅案内図帳」では「中野センター食品街」とだけ記されているが、このとき既に中野光座も存在していたようだ。その後、1968年発行の「東京都全住宅案内地図帳」には、「中野光座・中野センター食品街」と記されている。


 北西側・大久保通り側 Photo 2006.6.4

 中野光座の入口は北側の角にあった。外壁には「中野光座」のネオンサインが残されていたが、「中野光座」「中野ひかり座」「中野ヒカリ座」と、映画館名簿や住宅地図では表記が一定ではなかったようだ。160席だったそうなので映画館としては小規模。途中からはピンク映画の上映館になっていたという。映画館としては1990年代中頃に閉館したそうだ。私が上京してからもしばらくはやっていたわけだが、残念ながら入ってはいない。またその後も小劇場として2000年代中頃までは利用されていたようだ。写真の時点でも演劇開催の告知が掲出されている。
 航空写真で見たところでは、映画館は2階北側に前室(ホワイエなど)があり、中野通り側(1枚目の右半分側)に劇場スペースがあったのではないかと思われる(あくまで外観などからの想像ですが)。


 東南側 Photo 2006.6.4

 東南側は一方通行の小路に面して飲食店などが店を開いていた。上階の全てを映画館が占めていたわけではなかったようで、写真中央の居酒屋などには2階席もあったように見える。


 隣接したビルとの間に設けられた通路  Photo 1997.3.30

 写真左側は北東側の石森ビル。構造的には別々のビルだったが、こちらのビルの店舗も合わせて中野センターと呼んでいたようだ。


 西側入口付近から  Photo 1997.3.30

 1階には通り抜け可能な変形した丁字型の通路があり、中野五差路交差点に面した角と、東南側の小路側から入れるようになっていた。建物全体は長方形の1つの角を斜めに切ったような平面型をしており、基本的にその長方形の四辺に平行してグリッド状に柱梁が造られていた。交差点に面した角はその斜めに切った部分なので、そこから入ると天井の梁が通路を斜めに横切っていた。そして少し奥へ進むと通路はくの字型に折れていた。この頃はまだ営業している店舗がいくつかあったので、通路にも物が置かれたりしていた。
 店舗は2階建てだったが、通路上部にガッチリした梁が入っていることから考えると、この上に映画館の客席や設備が載っていて部分的には3階建てだったのではないかと思われる。


 丁字型交差部からくの字に曲がった通路  Photo 2006.6.4

 2000年代、解体の数年前の段階になると、営業している店もわずかになりひっそりとしていた。


 丁字型交差部。右へ進むと南側に出られる。  Photo 2006.6.4

 くの字型の部分は上部に劇場があったためかRCの梁とスラブがあったが、丁字型交差部付近から東と南にはスラブがなく、梁だけになっていて、角材と塩ビ版で造られた屋根が載せられたアーケードになっていた。


 丁字型の交差部  Photo 2006.6.4

 2階には店主などが住んでいたのだろう。蛍光灯の灯りが点いている部屋もところどころあった。


 南側の入口付近から  Photo 2006.6.4

 90年代に訪れた時には、通路のところどころに蛍光灯が付けられていたが、2000年代に訪れたらそれはなくなっていて、裸電球がぶら下がった状態になっていた。


 Photo 2006.6.4

 隣接する石森ビルは2009年末に解体。中野光座・中野センターも翌2010年に解体された。

 なお、その後に新築されたビルは、北側を通る大久保通りの拡幅と中野五差路交差点の改良もあり、以前よりかなり下がった位置に建てられている。

中野区の映画館 - 消えた映画館の記憶
ついに終焉。中野の闇市ゾーン [中野光座] : 日本ボロ宿紀行
中野光座 02 ← 中野光座の内部写真あり

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東京都住宅供給公社 中野駅前住宅

2023-01-06 | 中野区  
東京都住宅供給公社 中野駅前住宅
所在地:中野区 中野2-24〜26
構造・階数:RC・4
建設年:1951〜52(昭和26〜27)
解体年:2019(平成31).9〜
Photo 2018.6.7

 JR中野駅南口から線路沿いに東へ少し行った場所にあった団地。昭和20年代に建てられた団地は東京では既にかなり少なくなっているそうで、しかもJR駅の近くというのは珍しいというか貴重ともいえる存在だった。
 建設から70年近く経ち老朽化もしていたことから再開発されることになり、2019年に解体。現在、中野二丁目地区第一種市街地再開発事業が行われていて、2024年には超高層の集合住宅とオフィスビルが竣工する予定という。


 南北に並んだ7号棟と6号棟  Photo 1997.3.30


 手前から2号棟〜5号棟  Photo 2009.2.4


 JR中野駅のホームから1号棟と2号棟  Photo 2017.11.26


 1号棟は線路沿いの道から直接入っていくかたち  Photo 2009.2.4


 Photo 2009.2.4

 当初は風呂が無かったそうで、風呂場は南側のベランダを後から改装して造ったそう。


 Photo 2009.2.4


 入口の周囲にはスクラッチタイルが張られていた  Photo 2009.2.4


 Photo 2009.2.4

中野住宅くらしとすまい|JKK東京 東京都住宅供給公社
1953年完成も、解体間近の「中野駅前住宅」が伝える集合住宅の「原点」とは? | アーバン ライフ メトロ
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