08/03 キッコーマンビル
08/06 三菱銀行 川崎支店
08/09 旧 喜久屋
08/12 中屋旅館、日本通運上田支店田中営業所
08/15 柳沢邸・沽柳堂
08/18 旧 滝本平吉酒造
08/21 中埜酢店 旧本店
08/24 中埜酢店 半田第三工場
中埜酢店 半田第三工場(右)
所在地:半田市 荒古町1丁目
構造・階数:木・2
解体年:2013(平成25)
備考 :奥は半田第二工場
Photo 1994.9.11
半田市内、十ヶ川(半田運河)の川沿いには中埜酢店(ミツカン酢)の工場が建ち並んでいる。事前知識を特に入れず半田市内を車で走っていて、博物館があることに気づいて街道から川の側へ曲がってみたら、いきなり大きな蔵が建ち並ぶ一角に入り込んでしまい驚愕したのだった。
昔はここから荷を揚げたり出荷していたのだろう。川から引き込んだ堀割沿いに大きな倉庫が建ち並んでいる。それらのほとんどの壁は真っ黒。黒光りした倉庫群がこのエリアの風景を印象的なものにしている。
奥:半田第二工場 右:半田第三工場 左の水面は十ヶ川西側の堀割
造り酒屋などでも大きな蔵はあるが、こんなに大きな蔵が建ち並ぶ景色は少ない。野田のキッコーマン醤油など、全国規模の会社ならではの景観なのかもしれない。
十ヶ川沿いの倉庫景観。
奥は萬三商店、ミツカンマークの左側の建物は加周木材・日本木槽木管
黒い板壁に白で大きくミツカンのマークが描かれているのが印象的だ。社名を書かずともこのマークがあるだけでミツカン酢の工場であることがはっきり分かる。
基礎部分には煉瓦が積まれている。蔵の多くは明治・大正期に造られたもののようだった。
黒い板壁なのは潮風から壁を守るためにコールタールが塗られているからだそうだ。上の方は押縁下見板張り、下部は焼板の縦板嵌めで共にコールタールが塗られている。
前項の中埜酢店旧本店と同様、一連の建物群は本社地区の再整備プロジェクト計画に伴い建て替えられた。第三工場跡に新築されたのは中間実験棟という施設だそうで、太陽温熱水パネルなども備えた現代的な建物。かつての建物は西に開いたコの字型平面をしていたが、現在は南側の一辺のないL字型建物となっている。だが、十ヶ川沿いや引き込みの堀割沿い側の外観はかつてのものと似たデザインにされている。
ミツカングループ 本社地区再整備プロジェクト
日本国内の建物や街並み
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中埜酢店 旧本店
所在地:半田市 中村町2-6
構造・階数:木・2
解体年:2013〜15(平成25〜27)
Photo 1994.9.11
1986年に「博物館ミツカン酢の里」となったミツカン酢(中埜酢店)の旧本店建物。ミツカンの一連の工場群は十ヶ川沿いにあるが、旧本店の建物は川の西側、西へ引き込まれた船溜まりの北側に建っていた。訪れたのが夕方だったので、この日は既に閉館した後だった。
「博物館ミツカン酢の里」は2013年秋に一時閉館して、現在の建物への建て替えが行われた。そして2015年11月にミツカンミュージアム(MIM)がオープンした。
ミツカンは本社地区の再整備プロジェクト計画を2011年に発表し、老朽化した工場などを建て替え、ミュージアム機能を充実させたりしたが、建て替えにあたっては旧来の景観や企業イメージに配慮して、運河沿いの建物群はそれまでの外観デザインとほぼ同じものにされている。また旧建物の一部の古材も再利用されているという。
このため建て替え後のミツカンミュージアムの建物も、正面から見ると以前のものとほぼ同じ外観になっている。しかしGoogle Mapの空中写真で見ると、瓦葺きの傾斜屋根になっているのは前面側のみで、後方は陸屋根。全体はかつての木造ではなく、博物館として不燃耐震構造になっているようだ。
旧本店の街区内東南側に残っていた蔵
Google ストリートビューで見たところでは、この建物は2013年9月時点で煉瓦壁以外は既に解体されていた。現在はこの部分も新しいミュージアムの一部になっている。黒い板壁の長い建物は、煉瓦造の妻壁ではなくなったが似たような外観で建て替えられた。また左端の車庫状の妻入り建物はなくなっている。
旧本店の街区内西側に残っていた蔵
この蔵は2013年9月時点ではまだ存続していたが、2015年4月時点では新築工事中となっていた。現在はこの部分も新しいミュージアムの一部になっており、こちらの路地沿いの様子はかなり変化している。
MIM MIZKAN MUSEUM(ミツカンミュージアム)
ミツカングループ 本社地区再整備プロジェクト
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旧 滝本平吉酒造
所在地:半田市 港本町1-48
構造、階数:木、1・2
建設年代 :明治期
解体年代 :1997〜99(平成9〜11)
Photo 1994.9.11
1994年に建築学会の大会が名古屋で開催された際、私は車で名古屋に行き、その後、常滑を訪れ、帰りがけに半田にも立ち寄った。
写真は半田市内を車で走っていた際に見かけた蔵。工場や店の名などが掲出されておらず、なんの工場なのかは現場ではわからなかった。また、撮影場所を記録しなかったため、場所もうろ覚えになってしまった。
撮影から四半世紀が過ぎた最近になって、果たしてこの蔵は今も残っているのだろうかと気になり始め、Googleなどで探したが該当の蔵の写真はうまく出てこない。そこでGoogleストリートビューで探すことにしたのだが、そもそも通った道の記憶があやふやだったので、場所探しも少々難航した。
常滑を見物した帰りで、またこの後、中埜酢店の蔵を見たりしたので、その流れで通ったであろう道筋を調べ、ストリートビューで沿道を見ていく。また、写真に写っている「内藤時計」「常盤館」「竹功電気商会」「一橋旅館」といった看板も検索した。このうち、内藤時計と竹功電気商会は現存していた。常盤館は既になかったがGoogle Mapでなぜか「常盤館跡」が記載されていたため、撮影地がようやく判明。ただ残念ながら写真の蔵は既になく、過去のストリートビュー画像(最古は2013年3月)にも写っていなかった。というわけで、2013年以前に解体されてしまったことが確定。現在、付近は住宅地になっている。
さて、この蔵はなんだったのか? 既に無いのでGoogle Mapを見ても分からず、住所から検索しても何だか分からなかった。仕方がないので国会図書館で2013年以前の住宅地図を閲覧。
このために国会図書館に行くなんて暇だな〜と思うかもしれないが、気になってしまったので仕方ない。すると昔の住宅地図には「滝本」とだけ記されていた。住宅地図によれば、これらの蔵は1997年頃までは存在していたようだ。さて滝本ってなんの会社だったのだろう? そこで、滝本、半田市、で検索したが、出てくるのは市内の別の場所にある電気工事会社で、この蔵の「滝本」には辿り着けなかった。
滝本平吉酒造 明治末頃
出典『ふるさとの想い出 写真集 明治 大正 昭和 127 半田』
分からないままブログに載せてしまおうかとも考えたが、もういちど国会図書館を訪れてこんどは館内資料を検索したところ、半田市の昔の街並みを扱った写真集(下記参考文献)がヒット。同誌を確認したところ、明治時代の末頃に同じ建物を私の写真とは別角度から撮った写真が掲載されており、「滝本平吉酒造」という造り酒屋だったことがようやく分かった。
私の写真は、街道を南から北へ進む途中で南西側から撮ったもの。一方、同誌掲載のものは、同じ街道を反対に北から南へ進み、建物群を北西側から撮ったものである。1枚目写真には妻面が見える蔵が3棟写っているが、2枚目の写真でそれらは左手前からの3棟に相当する。当時と比べて道幅は西側に広げられたようだったが、街道に面した蔵の建物はほとんど変わっていないようだった。
100年近く前の写真が撮影対象判明の直接的な手掛かりになったことは、個人的にはかなり嬉しく、私は国会図書館の端末の前で密かに喜んだのでした。
同誌の写真は明治末頃に撮られたものだが、蔵の建物じたいはもっと前、もしかすると江戸時代のものだったのかもしれない。私が撮影した時点でも古写真から90年程度が経っていた。解体時、建物は少なくとも築100年ほどだったのではないかと思われる。
滝本平吉酒造という会社は「雪山」(せっさん)という酒の蔵元だったという。1909(明治42)に中埜酢店と提携して丸中酒造合資会社が設立され、1915(大正4)には滝本家の雪山蔵は吸収合併されたそうだ。従って滝本酒造という会社自体は、かなり前になくなっていたのかもしれない。恐らくこのため古い住宅地図でも社名が記載されておらず、なんの会社なのかなかなか正確に分からなかったのだろう。
長い間、半田市内の街道筋の街並みの中で存在感を放ち、ランドマーク的な存在だったであろう建物群であり、解体されて普通の住宅地になってしまったのはやはり残念。
参考文献『ふるさとの想い出 写真集 明治 大正 昭和 127 半田』立松宏 編著、国書刊行会、1980
國盛・酒の文化館(中埜酒造)
歴史背景|中埜酒造株式会社|蔵元紀行|地酒蔵元会
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柳沢邸・沽柳堂
所在地:東御市 田中211
構造、階数:木、2・3
解体年代:1999〜2001(平成11〜13)
Photo 1994.8.28
信越本線(1997年10月以降はしなの鉄道)田中駅の駅前にあった木造家屋。手前は2階、奥は3階建ての大型建物だった。
手前側の建物は2階にベランダが巡らされていて、モルタルで洋風の装飾が施されていた。結構華やかなデザインなのだが、逆にどういう用途の建物だったのかよく分からない代物。
一方、奥の3階建て家屋の戸袋には、漆喰で「沽柳堂」と書かれていた。かつてはなにかの店だったのだろう。駅前の3階建ては旅館のようにも見えるが、「沽柳堂」は旅館名としてはちょっと違う気もする。
両方とも撮影時には既に仕舞屋で人の気配もなかった。古い住宅地図にも店名などの記載はなく、昔の用途は結局分からずじまい。田中駅前では2000年頃に駅前広場の整備が行われたため、この建物も写真の後しばらくして解体されてしまった。
古い建物と街並みをもとめて: 三階建ての旅館
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日本通運上田支店田中営業所(左奥)/中屋旅館(手前)
所在地:東御市 田中280/281
構造・階数:木・2
解体年代:1999(平成11)頃
Photo 1994.8.28
JR信越本線田中駅(1997年10月からは、しなの鉄道の駅)の駅前にあった旅館と、日本通運の田中営業所。これらの建物は駅前広場の整備に伴い1999年頃に消失した。
ところで、私が田中駅で下車したのは8月下旬のある日の午後。駅から出た人はわずかで、駅前にはタクシーが1、2台いただけで、バスも普通の自動車もいなかった。当時の駅前がバスが転回できないほど狭かったような記憶もない。地方都市には本当に必要なんだろうかと思ってしまうような道路整備がときどきある。建物が無くなったのが惜しくて言うわけではなく、結局、間延びした駅前広場ができてしまっただけで、整備効果があまりなかったような気がするのだ。
狭い旧街道を少し拡げて車の往来を便利にして、歩行者の安全を確保するのには意味があるが、人も車も少ない駅前広場をやたらに大きくするのは、街の密度を下げてしまい余計に過疎な雰囲気を生んでしまう。もっと賑やかになる将来予想の下で整備したのかもしれないが、もう少し冷静に時代を考えた方が良かったのではないかと気になることがしばしばだ。
古い建物と街並みをもとめて: 駅前日通
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旧 喜久屋
所在地:須坂市 須坂常盤町 723
構造・階数:木・2
解体年:2004〜08(平成16〜20)
Photo 1994.7.31
須坂市内、旧上高井郡役所の近くにあった建物。撮影当時の住宅地図では個人宅として記されていたが、大型の2階建てだったので、もともとは旅館か料亭だったようだ。1971年の住宅地図には個人宅としての名の他に「喜久屋」と記されている。
須坂市では大光楼があった浮世小路、豊よ松周辺が花街(三業地)だったそうだ。この建物はそのエリアからは少し離れた場所にあったので、どちらかというと旅館だった可能性の方が高い気がするが、本当のことは昔を知る地元の方に尋ねてみないと分からない。
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三菱銀行 川崎支店
所在地:川崎市川崎区 砂子2-4-13
構造・階数:RC・3
解体年代:1998〜2001(平成10〜13)
Photo 1994.4.10
川崎駅の東口の駅近くにあった三菱銀行の支店。「東京都大阪府全住宅案内地図帳」の1967(昭和42)年版に掲載があるので、この頃には既にあったようだが、川崎支店の設置年代や、またこの建物がいつ頃建てられたのかは分からず。通り掛かりに一枚だけ撮ったので、街灯の柱が目立つ位置に写ってしまっている。
三菱銀行は1996年に東京銀行と合併して東京三菱銀行になり、2006年にはUFJ銀行と合併して三菱東京UFJ銀行、その後、三菱UFJ銀行となった。建物は90年代末〜2000年頃に解体されたようなので、解体されたのは東京三菱銀行時代のようだ。跡地には2002年7月に川崎ダイヤビルが竣工している。
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キッコーマンビル
所在地:横浜市中区 海岸通1-1
構造・階数:RC・3
建設年:1929〜32(昭和4〜7)頃
解体年:2000(平成12)
Photo 1989.5.27
横浜港大桟橋の北西側の海沿い、象の鼻埠頭のそばには同じような規模(3F建て)のビルが3棟並んで建っていた。キッコーマンビルはその真ん中の建物で、両側には昭和ビルと横浜海洋会館ビルがあった。
通り沿いに長いファサードを持つ横浜貿易協会ビルも含めて、同じような高さ(階数)の建物が並ぶ様子が印象的だったが、なかほどのキッコーマンビルが解体されてしまったため、昭和ビルがひとつだけ離れて残され、連続した街並みが途切れてしまったのは残念。
ただその代わり、現在は日本大通りから象の鼻埠頭の海が開けて見える状態になり、街と埠頭が一体的になったようだ。跡地に別の建物が建ったりせず海沿いの公園になったのは救い。
左から昭和ビル、キッコーマンビル、横浜海洋会館ビル Photo 1989.5.27
昭和ビル/横浜市中区海岸通 - ぼくの近代建築コレクション
昭和ビル - Wikipedia
昭和ビル/キッコーマンビル
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