01/03 川崎ハウス(失われた住宅地)
01/06 古河総合ビルヂング(失われたモダニズム建築)
01/17 芝口五号館(失われた建築)
01/20 赤羽にて(アプローチ階段拝見)
01/23 日本聖書神学校・宣教師館(メイヤー館)(移築された近代建築)
01/28 前傾姿勢(小伝馬町にて)
01/30 大学堂書店・小川楽器店・金宝堂(失われた近代建築)
大学堂書店・小川楽器店・金宝堂
所在地:文京区本郷6-24
建設年:?
構造・階数:木2
2003年頃に解体。
Photo 1994.11.28
本郷通り沿い、東大本郷キャンパスの反対側に並んでいた店舗群。少なくとも左の二軒は構造的に一つの建物。右の金宝堂も壁面がつながっているので、あるいはひとまとまりの棟割長屋を看板建築状に改装したものだったのかもしれない。
金宝堂(時計と洋品)は窓のサッシが替えられていたようだが、大学堂書店(古書)は1F、2Fの扉や窓が木製枠のままで、小川楽器店(琴三弦)も1Fの扉は木製。2Fのアーチ状の飾りの紋様は、改めてみると西洋様式建築ともちょっと違っているようでおもしろい。
ぼくの近代建築コレクション > 魚安、大学堂書店/本郷6丁目
都市風景の旅 > 近代建築 > 東京都文京区本郷6丁目
小伝馬町交差点にて・ゑびや不動産
所在地:中央区日本橋小伝馬町11
Photo 2011.1.26
本日は小ネタ。
日本橋界隈をうろついていたときに、交差点反対側の建物に一瞬目がとまる。最初は目の錯覚かと思ったが、そうではなかった。遠くからでも判別できるというのは、かなりの角度なんじゃないの?
帰宅後、画像を直接測ってみたら、2.2°の傾きだった。写真は斜め方向から見ているので、実際より小さな角度のはずだが、意外に小さな角度だった。2°傾いているだけでかなり傾いているように見えるんだなぁ。よく見ると、奥よりも手前の方が傾きが若干大きいようだ。ねじれるようにどどどっと前に・・・、なんてことにならないでおくれ・・・。
#古い建物 中央区 #街並み 中央区
旧目白福音教会宣教師館(日本聖書神学校宣教師館)(メイヤー館)
所在地:新宿区下落合 3-14
建設年:1912(明治45)
構造・階数:木2
設計 :W.M.ヴォーリズ
備考 :2006.9 解体。千葉県東金市へ移築。
Photo 2006.1.15(本記事内の写真全て)
目白通りから少し南側に入った場所にあった洋館。数年前に解体され千葉県内に移築されたという。上写真は建物北東側からの様子。木の陰に北東側の暖炉の煙突が見えている。
西南側から
南京下見板張りの木造2階建て洋館。明るい緑色の下見板と、壁面にある煉瓦の煙突が印象的だった。といっても、私がこの建物をまじまじと眺めたのはこの一回だけ。確か、この訪問と前後して、解体・移築が明らかになったような記憶がある。
木造2階だが、屋根上にはドーマー窓が付いている(写真1枚目)。また妻側2F上部には高窓らしきものも見える(下写真)。屋根裏部屋があったか、部分的に天井が高い吹き抜けになっていたのかもしれない。
西側から。西北側と南側の暖炉の煙突が見えている。
西北の妻側にある煙突は途中からやや細くなって白色。煙突は3箇所にあったようだ。
しかしちょっと不思議だったのは、その敷地に対する配置。前面道路はほぼ南北なのだが、建物は約45°斜めを向いていた。後から建てられた他の建物は、全体の敷地形状に合わせて、壁面が東西南北それぞれをおよそ向いているのだが、この建物だけ敷地に対して斜め向きだった。神学校の校地中央を広場のように考え、建物をそちらに向けようとしたためだろうか。
煙突の煉瓦はイギリス積み。
撮影時には下見板のペンキも剥げたりしていたが、建設から約80年間、比較的よくメンテナンスがされてきたようだ。
北東側の玄関
神学校の校地内に建てられた宣教師のための住宅だからか、玄関も校地の中央側を向いている。ただ玄関は比較的こぢんまりとしていて、扉も両開きではなく一枚の片開き。建物全体は木と煉瓦だったが、玄関先にだけ様式的な石柱?が建てられていたのが不思議でおもしろい。玄関扉とその両側の小窓だけはこげ茶で、落ち着いた感じだった。
南西角の入口
勝手口だろうか。こちらは両開きで大きく開く。建物内に入ったことなどは当然ないが、後から写真を見ると、内部が当初どの様に使われていたのか、興味がわいてくる。
設計者などの詳細は明らかではなかったが、小道さんの調査によって、W.M.ヴォーリズの設計だったことが、移築後の2009年になって判明。下記「喫茶店で瞑想して、銭湯で元気になる」や「Chinchiko Papalog」には、発見の経緯や、移築後の様子、内観などがレポートされている。
喫茶店で瞑想して、銭湯で元気になる
> ヴォーリズ発見 メーヤー館に会いに行く
Chinchiko Papalog > メーヤー館はW.M.ヴォーリズの仕事だ。
さようなら、メーヤー館。
ヴォーリズのメーヤー館を拝見する。
NEW にゅうぽの写真苦戦日記
> メイヤー館 メーヤー館 メイヤー邸 メーヤー邸
日本聖書神学校
Wikipedia > 日本聖書神学校、煉瓦
近代建築散策 > 日本聖書神学校
ニッポン懐景録 > 新宿区下落合
都市風景への旅 > 近代建築 > 東京都新宿区下落合
Tokyo Lost Architecture
#失われた建物 新宿区 #学校 #W.M.ヴォーリズ #移築保存
赤羽にて
ブロック造のアプローチ階段
所在地:北区赤羽西1-16
Photo 2011.1.19
とある住宅だか作業所の庭かなにかへの階段。コンクリートの基礎は最近打たれたらしく比較的きれいだが、上方の扉まわりはパイプ類を組んだだけで扉にはガラスも入っておらず、なんだかアバウトな感じ。
コンクリートブロックを3列に並べて積み上げているが、幅約60cm、蹴上げ・踏み面約20cm程度だろうか。狭く急で柵も手摺もない。勝手口的な階段とはいえ、結構危なっかしい。上から勢いよく扉を開けて出たらそのまま転落だ。
失礼ながら、これだから非計画的な階段はおもしろい。設計したら普通はできてこない。もしこういうのを設計したらあざとくなる。素だから、気になる。
#階段・坂 北区
芝口五号館
所在地:港区新橋1-5
建設年:?
構造・階数:RC・4F
備考 :2008頃解体
Photo 2007.5.26
新橋駅の東口側にあった小さなオフィス。住宅地図には「芝口五号館」と記されていた。
芝口は新橋駅近くの旧町名。新橋1丁目は昔は芝口1丁目だったそうだ。更に遡ると、江戸時代に芝口御門が造られたことから芝口という町名がついたんだそうな。
ところで昔は一号館から四号館もあったんだろうか? 昔の住宅地図を見れば判るのかもしれないけれど、少なくとも現在は他のナンバーの建物は見あたらない。
撮影の時点で既に1Fの入口にはベニヤ板が張られていて、閉鎖された状態だった。恐らく、その後、程なくして解体されたのだろうと思う。
軒先のディテール
Photo 2007.5.26
デザイン的には大した特徴がないビルだったが、軒先にはちょっとだけデザインがなされていた。少しだけ張り出した軒庇(コーニス)を様式的な持ち送り(コーベル)で支えている。でも他の壁面に全然装飾がないので、まさかそんなところに装飾があるなんて、という感じ。
軒先のディテール(拡大・Photoshopで明るさ修正)
Photo 2007.5.26
軒下部分を拡大して、Photoshopで軒下を強引に明るくしたら、モールディング部分の装飾が見えるようになった。しかし他にほとんど装飾がなかったのはなぜだろう。昔はあったのに取り払われたのだろうか。
建物背面にはアーチ型のデザインもあったようだが詳細は不明。こういう建物は、いつのまにかひっそりとなくなっていくなぁ。
都市風景への旅 > 近代建築 > 東京都港区新橋・浜松町
近代建築撮影日記 > 東京の近代建築(港区新橋界隈) ビル裏側の写真が載っている。
新一ビル別館、他/新橋1丁目 - ぼくの近代建築コレクション
古河総合ビルヂング
所在地:千代田区丸の内2-6
建設年:1965(昭和40)
構造・階数:SRC・9F
備考 :2006年解体。
Photo 2006.2.4
丸の内2-6の街区には、八重洲ビルヂング(1928年竣工)、古河総合ビルヂング(1965年竣工)、三菱商事ビル(1971年竣工)の三棟が建っていたが、2006年に全て解体されてしまった。跡地には丸の内パークビルディングが2009年に完成している。上の写真は解体の少し前に丸の内仲通り側から撮影したもの。
数年前までは、戦後のモダニズム系のオフィスビルにまだあまり関心がなかったので、全景写真は撮らずじまいになってしまった。昨年末に記したJAビル(旧農協ビル)と同じ年に完成したビルで、この建物の完成時には、建築基準法は改正されており(1963年)容積率制に移行していた。ただ確認申請時にはまだ軒高が100尺に規制されていたのではないかと思われる。
当時の丸の内のオフィスビルの多くは、2階までは柱を見せて、かつ壁面を若干後退させて軒下部分をつくっていたようだ。一方、3Fより上の階は窓が連続する横連窓で、窓と床(天井から窓台の下まで)が交互に帯状に重なる、いわゆるモダニズムオフィスのデザインになっている。丸の内に限らず、1960~70年代頃は規模の大きなオフィスビルの多くがこのようなデザインだったように思う。
某blogでは、三菱地所設計のビルには黒い柱の外観を持つものが多く、それが特徴の一つだと書かれているが、この建物でも外周の柱には黒御影石(たぶん)が張られており、重厚感や高級感を演出している。また、遠くから見たときにガラス部分と似たような明るさの柱にすることで、垂直方向の柱の姿を暗く目立たないようにしており、その結果、明るい色の腰壁がつくる水平方向の帯が目立ち、水平の層が重なっているように見えている。収縮色の黒にすることで、柱をやや細くスマートに見せようとしたとか、全体の印象をモダンで軽快な雰囲気にしようとしたというのもあるかもしれない。
3階以上では、柱は窓ガラス面と同一面を成していて、出っ張っていない。写真ではよく見えないが、柱の部分にも景色が映り込んでおり、光沢感が石のようではない。資料を持ち合わせていないのではっきりしないが、柱部分にもガラスが嵌められていたような感じに見える。
古河総合ビルヂング(手前)
八重洲ビルヂング(中)
三菱東京UFJ銀行本店(奥)
Photo 2000.8.6 (Photoshopで遠近感を若干補正)
コーナー部分の腰壁は丸められている。柱があるので角部分は窓ではなく、カーブを描いたパネル状になっている。3~5Fの角は光沢のある素材で、ガラスかアクリルパネルのように見えるが、6Fと7Fはそれより光沢がなくマットな感じ。曲面ガラスはまだあまり使われていなかったのではないかと思うが、設計図などを見たことがないし、この写真だけではわからない。
なお、古河ビルの1F角に見えている「胡同」の文字は、同ビルに入居していた「胡同 MANDARIN 丸の内」(2000年8月開業~2006年5月閉店)のこと。
増改築を重ねてできた建物だったらしく、下記、秋葉OLさんのブログを参考にすると、コメントにもあるとおり、内部に少し古い建物を内包していたそうだ。
1960(昭和35) 街区西南側に建っていた仲10号館別館の東側に建物を増築。
1965(昭和40) 仲12号館を取り壊し、古河ビル(1期)を建設。
1966(昭和41) 仲10号館と仲10号館別館を取り壊した跡に、古河ビル(2期)を建設。この時、1960年に建てられた仲10号館別館の増築部分は解体せず。
1971(昭和46) 三菱商事ビル竣工、古河ビルと外観を一体化
ということになるらしく、仲10号館の増築部分を残して、周囲に順次新しい建物を造っていき、最終的にひとまとめにしたそうだ。仲10号館の増築部分と、後から建てた古河ビルでは階高が違っていたそうで、徐々に両者のフロアのずれが大きくなったいたのだとか。
秋葉OLの楽しみ探し > くっついてるビルヂング【外見篇】
くっついてるビルヂング【解明篇】丸ノ内八重洲ビルヂング
丸ノ内八重洲ビルヂング1 解体直前の外観など
丸ノ内八重洲ビルヂング2 玄関ホール
丸ノ内八重洲ビルヂング3 解体中の様子
川崎ハウス
所在地:港区六本木5-10
建設年:戦後・昭和30年代後半以降
階数 :2F
備考 :2005年取り壊し
Photo 1995.5.27
鳥居坂の西側、国際文化会館の北側にあった戸建て住宅地。芋洗坂の坂下に敷地西側の門があり、写真はそちら側から撮ったもの。
大きな敷地の中に、モダンな洋風住宅が数棟建っているのが見えていた。当時の住宅地図で見ると外国人の名ばかり書かれており、目白通りの徳川ヴィレッジなどと同様の外国人専用の住宅地だったらしい。
ゲーテッド・コミュニティなどと呼ばれる住宅地は、アメリカなどでは富裕層を中心に、資産や身の安全を守り、高級住宅地としての快適性や価値を維持するために増えているのだそうだが、川崎ハウスもちょっとそれに似たものだったのかもしれない。ただ、アメリカのようなやや差別的なものというよりは、生活スタイルが異なる日本で外国人向けに造られた住宅群・住宅地という程度の意味だったのかもしれない。
明治の末頃から戦前期の地図を見ると、川崎邸という邸宅が国際文化会館(旧岩崎邸)の北側にある。戦前は東京川崎財閥の御屋敷だったらしい。戦後、川崎財閥は解体され、川崎定徳株式会社という不動産会社になったそうだ。昭和30~35年の1/10,000地図には建物が記されていない。どうも昭和30年代後半以降に戸建て住宅地がつくられたようだ。
川崎ハウス敷地内の階段
型 :クランク
備考 :同じ写真を「東京の階段 DB」内にも掲載。
> No.0197 川崎ハウス敷地内の階段
Photo 1994.9.2
実はこの敷地内には階段があった。麻布台の高台を背にしたこの住宅地には、敷地内にかなりの高低差があり、その上下をつなぐ階段が造られていた。当時はあまりこの手の住宅地を撮っていなかったのだが、階段の存在のおかげで、このやや閉ざされた住宅地にもちょっと興味を持って写真を撮ったのだった。ただそこから先、いろいろ調べたり、内部に入ろうと試みたりは結局しなかった。今、思えば、管理人さんに頼んで、近くで見せて貰ったり上らせて貰えば良かったと思う。だいいちその後、10年ほどで無くなってしまうとは思ってもみなかった。
当時はまだ単なる学生で、入りたい理由を訊かれても、ちょっと近くで見たいからという理由しかなかった。今なら名刺を出したり著書を見せて、都市の研究の一環でとか、階段研究者なので、みたいなごり押しもできるかもしれないが、当時は門のそばからのぞき込んでチャチャッと写真を撮ってそれでおしまい。でも階段の上はどうなっていたんだろう? 後悔先に立たずなんだけど、写真を見かえすたびに気になる。
こういう閉ざされた場所に興味がないわけではないが、管理してる人の立場とか住民の気持ちなどを考えると、無理を言って入るのは憚られる。ずかずか上がり込んだり入っていくのは相変わらず苦手だし、性に合っていない。だからもちろん、今でも自ら進んで「階段研究家なんです!」と名乗ったりはしない。トンデモ研究家みたいだからなぁ。でも最近は、どうもそういうコトになってしまってるらしいし、他に活動内容を形容する適当な言葉が見あたらないので、そう呼ばれることについては甘受することにしている。
川崎定徳株式会社
Wikipedia - 東京川崎財閥
Maki's Blog ほぼ隔日 > 東京山の手物語(六本木その2)