都市徘徊blog

徒然まちあるき日記

池田靴店

2025-01-06 | 中央区  
池田靴店、旧納米洋服店
所在地:中央区 湊2-7-6
構造・階数:木・2(一部3)
建設年:1928(昭和3)頃
解体年:2023(令和5)
Photo 2006.4.7

 鉄砲洲児童公園の少し南にあったタイル張りの看板建築。右半分が池田靴店。左側は写真の時には既に仕舞屋になっていたが、かつては納米洋服店という店だったという。

 色の異なるタイルで模様が描かれているちょっと華やかで印象的な建物だったが、2023年夏に解体されてしまったそうだ。湊界隈は戦災を免れた看板建築が多数あったが、最近は再開発もあってかなり少なくなっている。

中央区ホームページ/池田靴店
池田靴店、中山印刷所/湊2丁目 - ぼくの近代建築コレクション
池田靴店 中央区湊 - 東京ノスタルジア

Tokyo Lost Architecture  
#失われた建物 中央区  #看板建築  #タイル張り看板建築 
ブログ内タグ一覧
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

峰、スワン理容室

2024-12-24 | 中央区  
峰、スワン理容室
所在地:中央区 日本橋人形町2-6-8
構造・階数:木・3
建設年代:昭和初期
解体年代:2006〜09(平成18〜21)
Photo 1996.10.6

 人形町の一角にあった小さな建物。その経緯については下記『たてもの図鑑 シャンバ』に詳しい。

 建物は、2階の北東側はトタン張り(たぶん)で、路地側はモルタル塗り。1階はタイル張りとモルタル塗り。
 マンサード屋根の屋根裏3階建てだが、屋根裏は小振り。震災後の昭和初期にマンサード屋根やギャンブレル屋根で建てられた看板建築には、もはや屋根裏とは言えないような3階建てもあるが、ここはあくまで屋根裏部屋といった造りになっていた。

 関東大震災後の昭和初期に建てられたものだったそうで、1933(昭和8)年の火保図では建物は既にあったようだが、屋号などが書かれておらず用途は分からず。
 戦後の火保図(1950年、1953年)では「喫茶モリ」。
 1963年の『東京都全住宅案内地図帳』では「コーヒー峰」。
 1973〜80年頃は住宅地図では「洋酒 峰」。
 1980年代〜92年の住宅地図では単に「峰」となっていた。

 そして、1993年の住宅地図では「スワン理容室」。スワン理容室はもともと人形町2-8-5にあった床屋さんで、1992年には同所に5階建てのスワンビルが完成している。下記「ぼくの近代建築コレクション」内の記事に付けられたコメントには、1995年頃には廃業していたことも記されている。
 写真の建物は撮影時、空き家だったようで床屋の看板やサインなどはない。1995〜97年の住宅地図でも空白になっている。恐らくスワン理容室は、ビルへの建て替えの期間中、一時的にここで営業していたのだろう。ビルの完成後、理容室は戻ってしまい、写真の頃は空き屋で理容室時代の庇が残されていたようだ。

 2000〜2003年頃の住宅地図では、ここは「Shumba」という店になっており、前述のように下記『たてもの図鑑』で採り上げられていた。
 しかしこの店も、その後なくなり、2006年の住宅地図では再び空き家。その後、2、3年のうちに解体されたようで、2010年のGoogleストリートビューでは既に消失している。

たてもの図鑑 シャンバ
麻雀明朗、バーバースワン/日本橋人形町2丁目 - ぼくの近代建築コレクション

Tokyo Lost Architecture
#失われた建物 中央区  #銅板張り看板建築 
#ギャンブレル屋根  #マンサード屋根  ブログ内タグ一覧
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

桃乳舎

2024-12-21 | 中央区  
桃乳舎
所在地:中央区 日本橋小網町13
構造・階数:木・2
建設年:1927(昭和2)
解体年:2023〜24(令和5〜6)
Photo 2014.5.6

 看板建築の喫茶店。下記『東京都の近代和風建築』によれば、桃乳舎は1904(明治37)年にミルクホールとして創業。建物は震災後の1927(昭和2)年に建てられたものだそう(注)。ミルクホールではなくなったが、喫茶・軽食の店として営業を続けていて、雑誌等でもレトロな店としてときどき紹介されていた。

 茶色のスクラッチタイル張りの外壁で、2階の窓まわりの付け柱やアーチ、手摺などはモルタル塗り。ファサード上部中央には桃のレリーフが付けられていた。アーチや柱はなにかを支持しているわけではなく装飾的なもの。小さな建物だが案外凝った装飾なのが印象的だった。斜め横から見ると、後方の一部が3階建てだったことも判る。

 ネット上の情報等によると、2023年2月に閉店。その後も建物はしばらくのあいだ残されていたが、やはり解体されたようだ。

 小網町界隈も古い看板建築など残る場所だったが、老朽化や世代交代もあり戦前の建物はかなり少なくなっている。

(注)ネット上の情報では、1889(明治22)にミルクホールとして創業、現在の建物は1933(昭和8)築、とされていたりもして、上記と食い違っている。

参考『東京都の近代和風建築−東京都近代和風建築総合調査報告書』
  東京都教育庁地域教育支援部管理課 編 2009

中央区ホームページ/喫茶軽食 桃乳舎
井筒商会、桃乳舎/日本橋小網町 - ぼくの近代建築コレクション

Tokyo Lost Architecture
#失われた建物 中央区  #看板建築  #タイル張り看板建築 
ブログ内タグ一覧
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

文藝春秋銀座別館/坂口ビルⅡ

2024-12-18 | 中央区  


 Photo 2008.1.26


所在地: 
構造:
階数:
建設年:
解体年:
坂口ビルⅡ(中央) 
中央区 銀座5-5-13  
RC
4
戦前
2021(令和3)
文藝春秋 銀座別館(右)
中央区 銀座5-5-12
SRC
7+B1+R
1972・73(昭和47・48)
2021(令和3)

 銀座5丁目、並木通りとみゆき通りの交差点に面して建っていた2棟のビル。

 写真中央の4階建てはいかにも古そうで縦長の上げ下げ窓で規模も小さい。これに対して右隣の7階建ては横連窓で前者よりは赤っぽいタイルを張ったモダンなオフィスビル。よく見ると階高も異なる。諸々の情報からすると4階建ての方は戦前に建てられたもののようで、一方の7階建ては1972年か73年に建てられたものだったようだ。2010年の住宅地図では「坂口ビルⅡ」と「文藝春秋別館」として記されている。

 ただ、写真をよく見ると二つのビルは壁が繋がっていて一体のようだった。住宅地図で「坂口ビルⅡ」とされている4階建てビルの端、二つのビルの境目に「文藝春秋 銀座別館」という赤い袖看板が付けられている。


 出典『銀ぶら百年』、p.203

 『銀ぶら百年』という本には、1950年当時の文藝春秋社屋の写真が掲載されている。西角の4階建て、後の「坂口ビルⅡ」は、この写真では奥に写っているもの。また、この写真中央の建物、文藝春秋とオール読物の袖看板のある5階建ては、1973年に改築されて最近まであった建物(一枚目写真右側の7階建て)になったと記されている。

 ただしこの写真では当時の社屋は奥の4階建てと階高が概ね揃っていて、また横連窓ではない。『銀ぶら百年』では「改築」としているが、実際は建て替えだったのではないかと思われる。ネット上の不動産サイトの記事では1972年竣工とあるので、翌73年から使い始めたということではないだろうか。

 戦前の火保図では二つのビルの場所には4階建ての「本田医院」が記されている。また戦後の1950年の火保図では、角地部分はバー チエリ、残りの部分が本田医院・文藝春秋・オール読物で、角地と一体のRC造4階の建物とされている。
 文藝春秋の沿革、社史によれば、1950年に本田ビルを買い取って、内幸町の幸ビルから移転したという。『銀ぶら百年』の写真の社屋は5階建てだが、5階は増築だったようだ。

 この後、文藝春秋は、銀座西8-4(現 銀座8-2-8)のエーワンビル(RC・5F)を買収して、本社は1955年11月に移転。以降、この建物は銀座別館になり、翌1956年〜2016年にはB1〜2Fが文藝春秋画廊になっていた。
 1958年の火保図では、角地部分は喫茶店チエリ。

 この後、1960年代〜2000年頃までは、角地は徳屋ビル、東隣は文藝春秋別館。2000年代になると角地は坂口ビル、更に坂口ビルⅡとなった。


 Photo 2012.8.1

 跡地には最近になってビルが建ったが、かつての西角の部分と隣では別のビルが建てられた。設計が同じ会社で工事の期間も似たような時期だったのに別々のビルになったのは、土地所有者が現在も異なっていたりするからなのかもしれない。

参考『銀ぶら百年』泉麻人 著、文藝春秋 刊、2022
  『文藝春秋三十五年史稿』文芸春秋新社、1959
東京紅團(東京紅団)文藝春秋の足跡を歩く

Tokyo Lost Architecture
#失われた建物 中央区  #近代建築  #オフィス  #商業系 
ブログ内タグ一覧
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

亀屋

2024-12-15 | 中央区  
亀屋・亀谷家
所在地:中央区 築地7-14-7
構造・階数:木・2
建設年:1927(昭和2)
解体年:2024(令和6)
Photo 2006.7.23

 築地7丁目(旧小田原町)界隈は戦災ではあまり焼失しなかった地区で、最近まで銅板張り看板建築が多く残されていた。

 下記、中央区の近代建築調査のページによれば、亀屋は老舗のおでん屋だったという。同ページにもあるように、角地にあったが入口のある側のみに銅板を張り、西南側の壁面はモルタル仕上げになっていた。

 軒や戸袋のディテールが凝っていて、2階の戸袋は一文字葺きと菱葺きを組み合わせたもの。

 1階の軒庇は瓦葺きで家紋が付けられており、持ち送りの部分もきれいに銅板で覆われていた。

 店の方は2016年頃に閉店したという。建物の方は仕舞屋としてその後も残されていたが、今年1月に残念ながら解体されたそうだ。

中央区ホームページ/亀屋
亀谷家、やな川水産/築地7丁目 - ぼくの近代建築コレクション

Tokyo Lost Architecture
#失われた建物 中央区  #看板建築  #銅板張り看板建築 
ブログ内タグ一覧
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

旧湯浅屋/細越菓子店

2024-11-27 | 中央区  


 Photo 2001.4.22

 
 
所在地:   
構造・階数: 
建設年:   
解体年:   
左:湯浅屋
(H邸、N邸)
中央区 築地7-10-1  
木・2
1935(昭和10)頃
2020〜21(令和2〜3) 
右:細越菓子店、
クリーニング ユニバース築地店
同左
木・2
震災後〜戦前
2018(平成30)初

 築地、あかつき公園のそばにあった2棟の銅板張り看板建築。あかつき公園の場所はかつては隅田川につながる明石堀という運河で、公園は1970(昭和45)年に運河を埋め立てて造られた。この看板建築はその明石堀に架けられた南明橋の橋詰近くにあったもの。

 左側、角地の建物は、瓦葺きの屋根を隠しておらず、角地に面して屋根も面を取っている。下記、中央区の「中央区近代建築物調査」のページによると、湯浅屋という海産物問屋として建てられたものだったそうだ。
 戦後の1950年発行の火災保険特殊地図では麻雀屋、1965年の住宅地図では日山電機KKとして記されているが、70年代以降は仕舞屋で住宅になっていたようだ。

 右側の建物も、下記、中央区のページによれば「コンクリート製の床に砂を敷き、板床を貼り、乾燥が必要な海産物問屋の設えが残されている。」と記されている。
 こちらも戦後は業態が替わったようで、1950年の火保図や1965年の住宅地図では「細越商店」、その後は「細越菓子店」となっていた。写真の頃は菓子店も既にやめていたかもしれないが、その後も建物は残されていた。

 残念ながらこれらの建物は、平成の終わりから令和に掛けて解体された。築地界隈には第二次大戦の空襲被害から免れていた地区もあり、震災後から戦前に建てられた銅板張り看板建築が数多く残されていたが、老朽化や代替わり、マンション・オフィス需要の高まりなどもあって、近年は解体されることが増え、それらは少なくなっている。

中央区ホームページ/湯浅屋
細越菓子店/築地7丁目 - ぼくの近代建築コレクション

Tokyo Lost Architecture
#失われた建物 中央区  #看板建築  #銅板張り看板建築 
ブログ内タグ一覧
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

尾張町ビル

2024-11-24 | 中央区  
尾張町ビル
所在地:中央区 銀座6-8-3
構造・階数:SRC・7F(当初は6F)
建設年:1933(昭和8)
解体年:2010〜11(令和2〜3)
Photo 2008.1.26

 銀座中央通りのひとつ西側のすずらん通りとみゆき通りの交差点に面して建っていたビル。

 英国屋があったビルという印象だったが、調べてみたら英國屋はこのビルの完成当初から入居していたわけではなかった。
 下記、英國屋のサイトと50年史によれば、同社は日本橋丸善裏で小林洋服店として1940(昭和15)年に創業。1952(昭和27)年に銀座四丁目で(株)英國屋を設立。銀座六丁目店は1953(昭和28)に開店したという。

 従って1950年の火災保険特殊地図では尾張町ビルはあるが、英國屋の名は入居していた店としてはまだない。建物は当初は6階建てで、当時入居していた店としてはTuji洋品、一番(料理店)、バーカジノシローの名が見られる。

 90年代の住宅地図で見てもかなり多くの店やオフィスが入居している。当時、英國屋は1階に店舗、3階に事務所が入っていた。みゆき通りに面していたフタバヤ靴店も同様。尾張町ビルの事務所は4階。1Fには他に陶芸社、マリリン、バー龍、今泉商会の名があり、B1Fにはパブも入居していたようだ。路面店以外のテナントや上層階への入口は写真左手、すずらん通り側にあった。
 大きなビルだったので大きな会社の事務所が多くを占めているのかと思っていたが、実際は多くの店舗やオフィスが入居するテナントビルだったらしい。


 Photo 1995.4.30

 1階は石張り、2階から上は塗装。1階と2階の境部分以外には装飾らしいものがなかったが、縦長の上げ下げ窓があるためクラシックな感じに見えていた。また、すずらん通り側に並ぶ自販機の後ろの開口部はガラスブロックになっていた(当初からのものだったのかは分からない)。

 英國屋は現在は晴海通りより北側のエリアに店を構えている。尾張町ビルの解体直前まであったと思っていたが、2009年11月時点のGoogleストリートビューでは「ロンドンからくり博物館」になっており、英國屋は2008年かその翌年には銀座六丁目店を閉じたようだ。

 なお、同所には2012年8月に銀座尾張町タワービルが竣工している。

オーダースーツの銀座英國屋|東京・大阪に5店舗で創業80年
英國屋50年史

尾張町ビル、第三高嶋ビル/銀座6丁目 - ぼくの近代建築コレクション

Tokyo Lost Architecture
#失われた建物 中央区  #近代建築  #オフィス  #商業系 
ブログ内タグ一覧
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

福隆美術工芸

2024-11-18 | 中央区  
福隆美術工芸
所在地:中央区 銀座2-11-4
構造・階数:木・2
建設年:戦後まもなく
解体年:2019(平成31/令和元)
備考 :福隆美術工芸は1968年頃開店、2019年に八丁堀に移転。
Photo 2006.4.7

 昭和通り沿いにあった骨董店。歩道に張り出して「刀」と大書された看板が目立っていて、古めかしい店の様子とも相俟って印象的な建物だった。


 Photo 2007.5.26

 一帯は戦災で焼失した地域で、古そうに見えたこの建物も戦後まもなくに建てられたものだったようだ。下記『銀ぶら百年』によれば、当初は和菓子屋で、その後は雀荘だったという。昭和40年代に骨董店としたそうで、画家の先代が絵を売り、骨董屋も始めた。そして2代目になって刀剣や鎧などの武具が中心になったのだという。

 下記、同店のサイトによれば、銀座で51年間営業した後、2019年4月に八丁堀に移転したという。なので、逆算すると1968(昭和43)年頃に開店したということになる。


 Photo 2007.5.26

 新店舗はきれいなビルの1階。店内も恐らくきれいなのだろうが、骨董店としては時間が止まったかのような姿をした店の方が似合っているような気がしてしまったりもする。ただもちろんそれは見る側の勝手な期待。廃屋のようだと入りづらくなってしまうし、古い建物で店を続けるのには問題も多い。貴重な商品を扱うお店が老朽化した建物から移転するのはやはり自然な成り行きなのだろう。昔の姿はひとまず写真で残しておくことにするのが良いのかもしれない。

福隆美術工芸 公式ホームページ
参考『銀ぶら百年』泉麻人 著、文藝春秋 刊、2022

Tokyo Lost Architecture
#失われた建物 中央区  #木造店舗  ブログ内タグ一覧
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

久長家住宅

2024-11-15 | 中央区  
久長家住宅・アトリエ久長
所在地:中央区 入船1-6-6
構造・階数:木・2
建設年:1929(昭和4)
解体年:2020〜21(令和2〜3)
備考 :元 米屋の建物
Photo 2013.10.13

 出桁造りの町屋。下記、中央区の「中央区近代建築物調査」のページによれば、米屋として関東大震災後の1929(昭和4)年に建てられたものだったそうだ。

 震災後の都心商業地では、銅板張りなどで洋風に見せた看板建築が多く建てられたが、そのようななかこの米店は在来型の立派な出桁造りを建てた。ただ、1階の店舗の軒先は銅板張りのベランダにしていて、在来町屋とは少々異なる。また、2階の戸袋も銅板張り、側面はモルタル塗り(これは後年の改装だったのかもしれないが)。昭和初期の状況を踏まえて、防火と少しの洋風化を考えたのかもしれないと思わせる。

 後方の別棟はギャンブレル屋根。こちらも屋根裏3Fだったようだ。

 戦後の1950(昭和25)年の火災保険特殊地図では「久長工具」となっているが、1970年代以降の住宅地図では個人宅で仕舞屋だったようだ。2000年代頃以降は「アトリエ久長」。Google ストリートビューでは、2020年2月までは存在を確認できたが、2021年6月の画像では既にコインパーキングで、この頃に解体されて消失したようだ。

中央区ホームページ/久長家住宅

Tokyo Lost Architecture
#失われた建物 中央区  #出桁造り  #銅板張り看板建築  ブログ内タグ一覧
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

丸新青果、森永牛乳販売店

2024-09-21 | 中央区  
丸新青果、森永牛乳販売店
所在地:中央区 新富1-6-10
構造・階数:木・2
建設年:戦後まもなく
解体年:1995~98(平成7~10)
Photo 1995.6.20

 新富1-6街区の南端角にあった2軒続きの看板建築。角地の丸新青果は柱部分は恐らくタイル張り、2階壁面は、わずかに色が異なる2種類の石板か大きめの正方形タイルを市松模様に張っていたようだ。一方、左側の森永牛乳の販売店は恐らくモルタル塗りで縞々模様になっていた。

 左奥の川島産業(株)は、2022年9月時点のGoogleストリートビューで剥落防止のネットが掛けられているが存在している。最近は見ていないので判らないが現存しているかもしれない。
 右奥は新光貨物新富倉庫で、こちらは丸新青果と同時期に解体された模様。現在はHF銀座レジデンスEAST2(1999年の竣工時の名称はメゾン・ド・ヴィレ銀座東)というマンションになっている。

 新富町は戦争では焼失していないようだが、この建物は戦後まもなくの時期に建てられたもののようだ。戦前、1933年の火災保険特殊地図ではここは「新富演芸場(新富座とは別)」となっている。この新富演芸場は戦後は新富2-3、三業地の見番の場所に移転し、1949頃に閉業したという。
 1950年の火災保険特殊地図では、丸新果物S・喫茶店として記載があり、60年代の住宅地図では、八百屋丸新とH邸、70年代には丸新八百屋と森永牛乳、80年代以降は丸新青果と森永牛乳という形で記載されている。

丸新青果店、他/新富1丁目 - ぼくの近代建築コレクション

Tokyo Lost Architecture   #失われた建物 中央区 
#看板建築  #モルタル看板建築  #タイル張り看板建築 
ブログ内タグ一覧
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする