07/03 Pentax MZ-3
07/11 横浜元町の階段(百段弱の長い階段)
07/14 元町百段公園(横浜の小公園)
07/17 早稲田大学 52号館・53号館・54号館 3(教室棟内部)
07/20 早稲田大学 52号館・53号館・54号館 4(教室棟のルーバー)
07/23 早稲田大学 52号館・53号館・54号館 5(双曲放物面シェルの屋上出口)
07/26 新橋共同建築(失われた近代建築)
07/29 新橋亭本社、新橋モダン食堂(失われた近代建築)
新橋亭(中央)、新橋モダン食堂(右)、左奥は新橋共同建築
Photo 1997.3.27
新橋亭
所在地:港区新橋2-6-3
構造・階数:RC・4?
創業年:1946(昭和21)
解体年:2008(平成20)頃
備考 :2007.3末で休業 新橋モダン食堂
所在地:港区新橋2-6-2
構造・階数:RC・3
建設年:?
解体年:2008(平成20)頃
備考 :2005.2末閉店
新橋亭(左)、新橋モダン食堂(中央)
Photo 2003.12.29
新橋亭と新橋モダン食堂の建物の跡地は、新橋共同ビル跡地と共に一体的に建て替え中。
新橋亭はファサードが大幅に改変されていて、もとの建物の様子が分からない。3Fないしは4Fだったので、新しい建物ではないはず。創業は戦後すぐで、その頃の建物か、もしかすると更に古い建物に入居した可能性もなくはない。ただし詳細は不明。
新橋モダン食堂の建物は、軒先に昔風の装飾などが付いており、どちらかというと戦前の建物のように見えるが、こちらも詳細は不明。
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Tokyo Lost Architecture
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新橋共同建築(左:中和ビル、右:甘糟ビル)
所在地:港区新橋2-6
建設年:中和ビル 1929(昭和4)、甘糟ビル 1930(昭和5)
構造 :RC
階数 :中和ビル 5F(後年増築して一部6F)、甘糟ビル 4F
設計 :復興建築助成株式会社
備考 :2008年解体。
Photo 2003.12.29
新橋共同建築は、もとは織田ビル・中和ビル・甘糟ビルの3棟が一体の共同建物だったという。織田ビルはこの2棟より前に解体され、建て替えられていた。
ビル名が別々になっていて、階段もそれぞれの建物毎に設置されていたようだが、構造体としては一体的につながっていたらしい。上の写真で見ても、二つの建物の境目の位置に雨樋があり、二つの建物にまたがるかたちの金具で樋が固定されている。
Photo 2003.12.29
奥の10F建てのビルは先に建て替えられた織田ビル。新橋共同建築は、九段下ビルを設計した復興建築助成株式会社が造った共同建物だが、建設の経緯や考え方が九段下ビルとは異なるようで、外観デザインが建物毎に異なり、廊下や階段、入口なども共通化されていない。資料で共同建築だったと知ることがなければ、ひとまとまりの建物だとはおそらく気づかなかっただろう。
なお、右端の新橋亭本社と、その更に右側(写真外)の新橋モダン食堂のビルもほぼ同時期に解体され、現在、建て替えが行われている。
★近代建築探訪★ > 新橋のビル
CiNii > 復興建築助成株式会社による関東大震災復興期の「共同建築」の計画プロセスと空間構成に関する研究Tokyo Lost Architecture
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■双曲放物面シェルの屋上出口
53号館・54号館の屋上
Photo 2010.3.19
52~54号館の屋上の中央には屋上出口があるが、その上屋の形はちょっと変わった形をしている。
下の階から上ってくる階段が互い違いであるため、屋上には二つの三角形が飛び出すのだが、それらを双曲放物面(Hyperbolic paraboloid)という曲面をしたコンクリートシェルで覆っている。
53号館4F渡り廊下から、52号館の屋上出口
Photo 2008.4.21
現在は屋上へは出られないようになっていて、直接触れることができない。ただ、私が学生の頃は53号館の4階渡り廊下から、3階建ての52号館の屋上へ行くことができた。天気の良い昼休みなどに、この馬の背のような屋根の上でひなたぼっこをしている学生もいた。
なかなか美しい曲面をしているが、コンクリートでこのやや複雑なシェルを造るのは結構大変だったのではないだろうか。ただそれだけに、型枠を外してきれいにできているのを見た時は、さぞかしうれしかっただろうな。
大阪大学大学院情報科学研究科 > 双曲放物面2
#早稲田大学 #大学 #古い建物 新宿区 #安東勝男
■五角形の教室空間
以前にも出したが、以下の図のように52~54号館の建物は、正方形を4分割して十字型の通路を作り、中央に45°向きが回った階段室が造られていて、教室は正方形のひとつの角をカットしたような五角形になっている。
52号館1F 平面図 (右端は53号館、上はキャンパス中庭)
黒板はその斜辺の部分にあり、当然、座席はその方向を向くので、残りの辺とは座席は斜めの位置関係になる。部屋の形に応じて前列から横並びの座席数が異なるので、両端部の座席は非常に変則的である。52号館のような大きな教室では、両端部の座席では黒板を見るにはかなり斜めに視線を送らねばならない。また、端の方の席は壇上の教師からの死角になりやすかった。
だが、授業を受けていると、建築的には案外、合理的な教室のようにも思われた。
52号館101教室 教室後方から前方(2枚の画像を合成、Click:891*405pixel)
Photo 2001.10.11
52号館101教室 教室前方から後方(2枚の画像を合成、Click:946*405pixel)
Photo 2001.10.11
授業を受ける際は、基本的に窓を背にして後方から光が差し込むので、前方が眩しいことはない。また、学生は窓外があまり見えないので、割合集中できる(ハズ)。一方、先生は窓の方を向いて授業ができるので気持ちがよい。
全教室が角部屋になっているので、二方向に窓が大きく開く。このため風通しは比較的良い。2000年頃まで冷房は無かったが、それほど問題ではなかったような気がする。だいたい真夏は授業がない。ただ、近年の液晶プロジェクターを用いる授業では、部屋を暗くしてカーテンを閉め切ってしまう。すると換気ができなくなり、蒸し暑くなる。それもあってか、最近はエアコンが各部屋に取り付けられている。
古い建物なので、照明は間接光ではなくむき出しの蛍光灯。前方から後方にL字型に配列されているのが印象的。個別の明るさコントロールはできないが、大きな教室ではエリア別にスイッチが別れていて、OHPやプロジェクターの使用や、窓際と黒板付近の照度差の解消などへの配慮が一応されている。
■耐力壁
52号館101教室入口付近
Photo 2001.10.11
教室前方の壁面は分厚い鉄筋コンクリートになっている。とりわけ、そこに穿たれた出入口扉の周囲は盛り上がるように厚くされている。これは扉穴を開けることで、壁の耐力性能が落ちることを避けるために、穴で生じた損失分を補うべく周囲の壁を厚くして強化しているのだそうだ。
52~54号館は、教室前方の4組の壁が中心になって、建物を支えているという。
建物中央付近に十字型に入った壁が芯のような役割を果たし、そこから教室の床が花びらのように広がる構造で造られているため、四隅の柱はどちらかというと補助的な役割となっている。中央部にどっしりした壁と柱があるので、窓際には柱が少なくてもよく、教室後方には角以外に柱がない。教室前方の壁とは対照的に、後方には大きな開口部(窓)が確保されている。
教室の天井の梁を見ても、前方の壁付近では梁背(梁の厚さ・高さ)が高く、離れるにつれて梁背が低くなっている。半ば片持ち梁のようにして、床(天井)の重さを前方の壁に集めるようにしていることがわかる。
53号館 北側ファサード
Photo 2008.3.4
外部から見ても、中央の壁に近い部分の梁は高さ(梁背)が高く太いが、四隅の方では細くなっている。
#早稲田大学 #大学 #古い建物 新宿区 #安東勝男
前回の階段(高田坂)は、元町百段公園の方に上る階段ではあるが、いわゆる「元町百段」ではない。元町百段は関東大震災で崩れてしまって現存せず、現在は往時の様子を記念した静かな見晴台小公園があるだけだ。
元町百段公園
所在地:横浜市中区山手町56-1
公園の入口には公園名の由来である元町百段についての解説板が設置されている。以下はパネル写真とそこに書かれている文章。
元町百段
この地は、横浜の開港時から大正期にかけて、浅間山の見晴台と呼ばれ、たいへん眺望のよいところでした。
右の写真は、当時前田橋から「元町の百段」を撮影した貴重なものです。元町二丁目から急な石段が百一段あったのですが、市民は「百段」と呼んで親しんだものです。
この場所には、元町の鎮守厳島神社の末社の「浅間神社」が祭られ、小さな茶屋があり、外人の観光客もよくここを訪れています。浅間神社は、もと横浜村にありましたが、万延元年(一八六〇年)に横浜の村人が元町へ立ち退いたとき、いっしょに移されました。
昔は、ここから港の出船入船や関内地区が手に取るように見え、遠く神奈川宿の旅篭や茶屋までが見渡せました。
この公園は、関東大震災で崩れて、今はない「百段」の歴史をここにとどめるように造られたものです。横浜市 緑政局 中区役所
陶板にプリントされた写真には、丘を一直線に登る石段が道の正面に見え、その段々を上りきった右側には見晴台のようなものも見えている。細長く急な階段のようで、なかなか印象的な石段だ。確かにこれは地域のランドマークとして親しまれたに違いない。
公園からは現在も元町近辺の街並みがよく見える。ビルが建って中華街や関内はほとんど見えないが、遠くにはランドマークタワーなど、みなとみらい21の超高層建物群も見えている。
ところで、最初にも書いたように、この元町百段公園は高田坂の階段を上った先にある。段数は94段で、場所も昔の元町百段とは異なるが、私などはつい、これが100段ならちょうどよいのになと思う。
今回、段数を数えながら歩く際、80段を超えたあたりから、もしかしてこれ、実は密かにぴったり100段なんじゃないだろうかと、私なんかはちょっと期待したわけで、それが結局94段どまりだったというのは、なんだか残念だった。
昔の元町百段と混同されては困る、という意見もあるかもしれない。でも実際は既に、高田坂は百段坂とも呼ばれているようだし、百段公園があるのだから、現在の94段に6段をうまいこと付け足して、ちゃんと新しい元町百段にすればいいのになぁと思う。
横浜元町ヒストリー > 06 百段坂と前田橋
#階段・坂 神奈川県 #街並み 神奈川県 #眺望 #公園
飴色金魚 * ameiro-kingyo > 横浜 元町百段公園
元町百段公園の方へ向かって上る、「元町百段」とは異なる百段じゃない階段。
建築学会関係の街並みの連続立面に関する調査のため、日曜の午後に横浜元町へ。とりあえず元町商店街の建物群の撮影をして1時間半程度で作業終了。蒸し暑い。喫茶店で涼みながら水分を補いつつ、このあとどうしようかと考える。
来るまでは、作業をとっとと終わらせて家に帰ろうと思っていたが、せっかく横浜まで来たのだから、久しぶりに少し見物しようかという気になる。行き当たりばったりなので全然資料は持っていない。元町の南側は山手なので、階段がいくつかあるのは知っているが、どこに行けばおもしろい階段や景色のよい階段があるかは、全くリサーチしてなかった。
ただ、以前いただいたコメントに、元町には昔、元町百段という石段があったというのを覚えていたので、とりあえずそのへんに行ってみることに。
高田坂
所在地:横浜市中区元町2-101と106の間
段数 :94段
Photo 2010.7.4
元町2丁目の角を曲がり、山の方へ向かうと分かれ道のところに階段が現れる。帰宅後に調べてみたら、周辺の昔の地名から、高田坂という名で呼ばれているそうだ。
なんとなく、東京の階段とは違う感じだなと思う。どこがどうだからという明確な相違点ははっきりしないのだが、地形との絡みで階段周辺に漂う雰囲気がちょっと違うような気がする。なんというのかな、なにげなく存在する大きな階段の気配、というあたりだろうか。長い階段が住宅地の中になにげなく、日常生活に隣接して「ふつーに」ある感じがした。
下の部分だけで20段ある。踊り場でL字型に折れ曲がって、まだまだ続く感じがありあり。階段下には絵画教室兼カフェの案内が置かれている。
踊り場で西へ向きを変える。ここから先の方がずっと長い。先行して歩いていた外人さんは途中で時々立ち止まり、大きく息をつきながら上っていった。
途中の左側には先ほどの案内板のお店がある。斜面の中腹に位置していて、景色がなかなか良さそうな感じだ。植木鉢やプランターが置かれ、階段はちょっと路地的な状況にもなっている。
94段の階段を上りきって振り返ってみる。急な階段ではないので、一歩一歩上っていけば上にたどり着くが、いつのまにかかなり上ってしまっている。写真ではほとんど判別できないが、遠方には横浜ベイブリッジの橋塔も見えている。
山手の階段を上り下りして、横浜の階段は手強いなと思った。東京都心の階段とは明らかに違うなとも思った。段数が多く、長く高低差が大きいものが結構あるのだ。蒸し暑い今の季節だと正直しんどい。東京の階段にも長く高低差のあるものはあるが、それほど多くはない。ところが横浜や横須賀にはこのような階段がごろごろある。このように大変なものばかりだと、階段を楽しむ気分にはなれなくなってしまうかもしれない。
そう考えると、東京都心の階段の楽しみ方は、ハードじゃなくてソフトでお気楽な点にあるような気もする。全然、訓練とか修行が必要じゃなくて、お散歩レベルで階段体験ができるところがフレンドリーだ。長崎などでは介護上の問題や、都市防災上の問題が大きく生じているが、東京の場合はそれほどではない。すごい階段はあまりないけど、階段の楽しみの一端には触れることができる。階段歩きというと、すぐに鍛錬とか体力づくりといった修行みたいな話になって、たくさんの段数がある階段を話題にしたくなるが、東京の階段は、そういう意味ではお子様レベルでしかない。でも、だからこそ日常生活に近いところで、ちょっとしたアクセントになっている。
濱之心(はまのこころ)のブログ > 元町百段公園
坂道散歩 > 中区(横浜市)の坂-3: 坂道散歩
下田街道 > 横浜 坂巡り~その1 ミスティの虹いろ日記 > 山手に続く坂~高田坂・汐汲坂
父がペンタックスカメラを所有していた関係で、私もいつのまにかペンタックス派になってしまっていた。ME-Fが壊れた時も、あまり考えずにペンタックスの一眼レフMZ-3を購入してしまった。
Pentax MZ-3(1997発売)
もちろんその前にMZ-5が発売されたときから気にはなっていたのだが、手もとのME-Fでそれなりに撮れていたので、買い換えや買い増しはしないでいた。だが、壊れてしまったら調査などの関係上、やはり買わねばならない。そんなわけで、98年になってMZ-3を購入。
使ってみると、やはり十数年の進歩は大きく、新しいカメラはいいなぁと再認識。なによりペンタックスMZシリーズは全般に軽いのが良い。私の場合、スタジオ撮影などではなく、フィールド調査系が多いので、長時間肩に掛けて歩くのに軽い一眼レフは助かる。もちろん、性能も良く、使い勝手も良かったので、その後はデジカメに乗り換えるまで、ほとんどこれを使うことになったのだった。
それまで中央重点露出のカメラばかり使っていたので、多分割プログラム測光というのはらくちんだなぁと思った。もちろん、露出補正などは多少するのだが、基本的に順光ならおまかせ状態で、シャッターを切るまでの手順がほとんどない。カメラのことはあまり考えずに、気の向くままにレンズを向けてシャッターを押すことができるというのは気楽だった。
だが一方で、露出計をもとにシャッタースピードや絞りを決めて、ようやくシャッターを押すという旧来のカメラでの作業というのも、捨てがたい魅力なのだなぁとも思った。その点、MZ-3は操作感がマニュアルカメラ的でもあるので、マニュアルモードにして、昔ながらの手順を踏むこともできるのは面白い。
デジタル一眼を買ってしまい、ほとんどデジタルに移行した今でも、たまに引っ張り出してみることがあったのだが、最近、使おうと思って、シャッターを押したら、ミラーが上がりっぱなしになってしまい、いきなり故障。しかたなく新宿のペンタックスギャラリーへ持ち込んで修理して貰った。モーター交換などで1万円。最近はあまり使っていなかったので、修理をためらってしまったが、完全に使えなくなるのは悔しいので、やはり直しておいた。
あまり使わずにいると、却って故障が増えるかもしれない。もう少し使ってあげようと思ったのだった。