09/03 旧 加藤物産KK?/旧 村井堀留店
09/06 旧 杉浦商店
09/09 吉田たばこ店
09/12 旧 渡部商店
09/15 旧 東京第二陸軍造兵廠 板橋製造所 140号家
09/18 旧 東京第二陸軍造兵廠 板橋製造所 13号家
09/21 丸新青果、森永牛乳販売店
09/24 青松寺門前町屋・愛宕荘
09/27 湯島天満宮 社殿
09/30 旧カフェー「喜楽」
旧カフェー「喜楽」
所在地:墨田区 墨田3-7-5
構造・階数:木・2
建設年代:戦後まもなく
解体年代:1995〜97(平成7〜9)
Photo 1994.4.17
旧玉の井のカフェー建築。下記書籍によれば、1953年頃は「喜楽」という名の店だったという。赤線の廃止後は普通の住宅だった模様。一見すると普通の住宅かアパートだが、2階コーナー部の庇が丸くなっているあたりはそれらしい感じだった。
左奥にも半円状の壁を立てた看板建築があるが、こちらは美容院だったもの。現在はこれも建て替えられて消失している。
『玉の井色街の社会と暮らし』日比恒明 著、自由国民社、2010
鈴蘭荘、喫茶ナナ/墨田3丁目 - ぼくの近代建築コレクション
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湯島天満宮 社殿
所在地:文京区 湯島3-30-1
構造・階数:木・1
建設年:1885(明治18)
解体年:1994〜95(平成6〜7)
Photo 1994.11.26
学問の神様、菅原道真を祀ることで知られる湯島天満宮。1500年以上前の458年に創建されたという古社だが、現在の社殿は1995年に総檜造りで新築されたもの。旧社殿が1885(明治18)年に建てられてから100年以上が経過して、老朽化が激しくなったため建て替えに至ったそうだ。
上写真は、明治中期に建てられた旧社殿を建て替えの直前にたまたま撮ったもの。
江戸時代、火事が頻繁に起こったため、幕府は防火対策として「焼け跡に建てる建物は全て塗屋造り・土蔵造りで瓦屋根にせよ」と指示していたという。旧社殿はその考えを引き継いで、塗屋造り(土蔵造りの一種)で建てられたものだったそうだ。軒下がはっきり写っていないので、塗屋造りの特徴は判然としないが、素木造りではなかった感じには見える。
Photo 2014.10.21
建て替え後の現在の社殿は純木造で屋根は銅板葺き。都心は多くの場所が防火地域で木造での新築は認められないが、防火対策を整えた結果、特別に認められたものという。
権現造りの全体構成は変わっていないようだが、以前の拝殿は平入りで手前に千鳥破風があり、唐破風の向拝が付く形。しかし新しい拝殿はどうやら妻入りで、手前から奥に向かって棟が置かれ、大型の入母屋屋根の手前に唐破風の向拝が付いている。現社殿の後方両側に張り出して見えている屋根は、入母屋の大屋根上に設けられた千鳥破風。入母屋屋根と千鳥破風が組み合わせられていることには変わりがないが、前面の破風が大きいため以前より立派に見えている。
湯島天神 > 総檜造りの社殿
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青松寺門前町屋・愛宕荘
所在地:港区 愛宕2-6
構造・階数:木・2
建設年代:1960(昭和35)頃
解体年代:1996〜98(平成8〜10)
Photo 1994.6.24
愛宕山の東南側、青松寺の門前にあったモルタル塗りアパート。1960年頃に建てられたものらしい。1990年代後半には居住者がいなくなり、1999年にはこのエリアで愛宕グリーンヒルズの再開発工事が始まった。
下記、Wikipediaの情報によれば、地区の敷地の約6割を所有する青松寺が、「このまま道路沿いで建物の建て替えが個別に進むと、ペンシルビルが建ち並び、寺の門前や、その奥の愛宕山が隠れてしまう。いい解決方法はないだろうか」と1984年に森ビルに相談をし、これを機に再開発事業の検討が始められたとのこと。
従って写真の時期には既に再開発が既定路線になっていて、居住者の転居も始まっていたのではないだろうか。確かに人の気配がほとんどなかったような記憶がある。
再開発では従前の域内道路も全て再整備され、人工地盤も一部に造られたので、今となっては現地で当時の建物位置を正確に特定することはできない。恐らくMORIタワーの場所かその西側の公開空地のあたりではないかと思うが。
愛宕グリーンヒルズ - Wikipedia
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丸新青果、森永牛乳販売店
所在地:中央区 新富1-6-10
構造・階数:木・2
建設年:戦後まもなく
解体年:1995~98(平成7~10)
Photo 1995.6.20
新富1-6街区の南端角にあった2軒続きの看板建築。角地の丸新青果は柱部分は恐らくタイル張り、2階壁面は、わずかに色が異なる2種類の石板か大きめの正方形タイルを市松模様に張っていたようだ。一方、左側の森永牛乳の販売店は恐らくモルタル塗りで縞々模様になっていた。
左奥の川島産業(株)は、2022年9月時点のGoogleストリートビューで剥落防止のネットが掛けられているが存在している。最近は見ていないので判らないが現存しているかもしれない。
右奥は新光貨物新富倉庫で、こちらは丸新青果と同時期に解体された模様。現在はHF銀座レジデンスEAST2(1999年の竣工時の名称はメゾン・ド・ヴィレ銀座東)というマンションになっている。
新富町は戦争では焼失していないようだが、この建物は戦後まもなくの時期に建てられたもののようだ。戦前、1933年の火災保険特殊地図ではここは「新富演芸場(新富座とは別)」となっている。この新富演芸場は戦後は新富2-3、三業地の見番の場所に移転し、1949頃に閉業したという。
1950年の火災保険特殊地図では、丸新果物S・喫茶店として記載があり、60年代の住宅地図では、八百屋丸新とH邸、70年代には丸新八百屋と森永牛乳、80年代以降は丸新青果と森永牛乳という形で記載されている。
丸新青果店、他/新富1丁目 - ぼくの近代建築コレクション
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旧 東京第二陸軍造兵廠 板橋製造所 13号家
所在地:板橋区 加賀1-16
構造・階数:煉瓦・2
建設年代:明治後期〜大正初期
解体年 :2023(令和5).11
備考 :当初は平屋
Photo 2018.2.23
前項同様、これも2019年まで愛歯技工専門学校の施設だった建物。
下記、板橋区の調査によれば、この建物も板橋火薬製造所時代の明治後期から大正初期に建てられたそうで、古地図等によれば、1921(大正10)年時点では「圧延再裁断室」というものだったという。煉瓦造だったので関東大震災で破損したが、その後、再建され、1934(昭和9)年の地図には「上収函仮置場」と記載されているそうだ。資料では、当初は平屋で後年2階を増築したとされているが、2階部分も煉瓦造だったのかどうかは知らず。
この建物も戦後は愛歯技工士養成所(後の愛歯技工専門学校)の施設として利用されていたが、同校の閉校後、昨年解体された。
板橋区公式ホームページ
> 史跡陸軍板橋火薬製造所跡保存活用計画・整備基本計画 > h2.pdf p.138
板橋区のお散歩2023(その8)愛世会愛歯技工専門=跡地 - Anthology -記憶の記録-
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#失われた建物 板橋区 #工場 #倉庫・蔵 #学校
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旧 東京第二陸軍造兵廠 板橋製造所 140号家
所在地:板橋区 加賀1-16
構造・階数:煉瓦・1
建設年代:明治後期〜大正初期
解体年 :2023(令和5).11
Photo 2013.6.1
2019年まで愛歯技工専門学校の施設だった建物。
下記、板橋区の調査によれば、板橋火薬製造所時代の明治後期から大正初期に建てられたそうで、古地図等によれば、1921(大正10)年時点では「第一気鑵室」というものだったという。煉瓦造だったので関東大震災で破損したが、その後、再建され、1934(昭和9)年の地図には「試験室」と記載されているという。
戦後はここに移転してきた愛歯技工士養成所(後の愛歯技工専門学校)の施設として利用されていた。愛歯技工専門学校は、1925(大正14)に設立された私立としては日本初の歯科技工士養成学校。リクリエーション施設等として利用されていたようだが、同校は2019(平成31)に閉校。昨年、建物も解体された。
一帯には他にもいくつか同時期の建物が残っていて、その多くが煉瓦造平屋。この建物は外壁がモルタルで覆われていて、一見すると煉瓦造かRC造なのか判らなかったが、調査資料によればやはり煉瓦造だったそうだ。
下記にもあるとおり、加賀公園と西側の旧野口研究所跡の一部、石神井川北側の旧理化学研究所板橋分室のエリアは史跡公園として整備される予定になっている。ただ、愛歯技工専門学校の跡地はそのエリアにはならず、建物も調査はされたが消失することとなった。
板橋区公式ホームページ
> 史跡陸軍板橋火薬製造所跡保存活用計画・整備基本計画 > h2.pdf
板橋区のお散歩2023(その8)愛世会愛歯技工専門=跡地 - Anthology -記憶の記録-
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旧 渡部商店
所在地:中野区 上高田2-58
構造・階数:木・2
建設年代:戦前?
解体年代:2016〜17(平成28〜29)
備考 :昭和50年代には既に仕舞屋になっていた模様
Photo 1994.4.17
西武新宿線の新井薬師前駅から中野方面へ向かう道沿いにあった旧木造店舗。このエリアは戦災では焼失しなかったようなので、戦前に建てられたものだったのではないかと思われる。さほど立派ではなかったが、一応、出桁造りだったようだ。
建物の前にしばしばクラシックカー(Morgan? MG TF)が駐められていて、ちょっとギャップのある景色だったのが印象的だった。
Photo 2005.11.3
私自身は店舗としての姿は見たことがない。初めて通り掛かった時には既に仕舞屋になっていた。住宅地図で確認したところ、1950年代には「あたりや」、1960年代には「渡部商店」という店だった。ただしそれらが何を売っていた店だったかは不明。
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吉田たばこ店
所在地:渋谷区 広尾5-3
構造・階数:木・2
建設年代:明治?
解体年代:2008〜09(平成20〜21)
備考 :1906(明治39)創業。
たばこ店は2018年頃まで新建物で営業継続。
Photo 1995.5.27
広尾の商店街にあったたばこ屋。明治時代後半の創業だったそうで、この建物もその頃のものだったのかもしれない。建設当初からそうだったのかは判らないが、市松模様に塗られた戸袋が個性的で結構目立っていた。
広尾駅前の商店街周辺は戦災では焼失しなかったようで、この写真を撮った90年代中頃までは2階建てのモルタル看板建築が何軒も並ぶ商店街だった。看板建築ではない木造店舗は当時もほとんどなかったが、2000年代になるとモルタル看板建築も次第に減り、近年は4〜6階建て程度の商業ビルやマンションが増えている。
建物は2008〜09年頃に取り壊されて3階建てのビルになったが、たばこ屋はその後も2018年頃まで営業していた。左隣の看板建築は、店は替わったが現在も存続している。また、商店街の北側の裏通りにはやや古い木造家屋がまだ建ち並んでいたりもする。
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旧杉浦商店
所在地:品川区 南品川6-7
構造・階数:木・2
建設年代:戦前
解体年 :2017(平成29).7
Photo 2006.9.17
ゼームス坂の坂下近くの左側(西側)にあった青果店。住宅地図では杉浦商店、または杉浦青果店などと記されていた。
坂側の間口が比較的広い銅板張り看板建築。この写真では判らないが、下記リンク先掲載の写真を見ると、平入りだったことが判る。
青果店は2000年代前半までは営業していたようだが、その後、10年ほどは仕舞屋になっていた。界隈には戦前に建てられたと思われる銅板張り看板建築が点在していたが、近年はやはり減ってきている。
旧杉浦商店 品川区南品川 - 東京ノスタルジア
杉浦青果店、浅田電気店/南品川6丁目 - ぼくの近代建築コレクション
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