都市徘徊blog

徒然まちあるき日記

2007年3月 記事一覧

2007-03-31 | 記事一覧 

03/01 上高田マーケット(豆タイル円柱のある洋風建築)
03/02 Back To Tokyo 1981(東京新旧写真比較(1981/2007))
03/03 行幸通り-1(東京新旧写真比較-No.1)
03/04 行幸通り-2(東京新旧写真比較-No.2)
03/05 内堀通りから大手町方面(東京新旧写真比較-No.3)
03/07 国立新美術館-1(黒川紀章展見学)
03/08 国立新美術館-2(新しい建築空間を見る)
03/09 国立新美術館-3(失われた近代建築・歩兵第三連隊庁舎)
03/11 祝田橋交差点(東京新旧写真比較-No.4)
03/13 早稲田大学大隈講堂 その6(半年ぶりに時計塔がお目見え)
03/16 階段を撮る人たち(大塚の階段撮影行)
03/24 皀角坂(さいかち坂)(東京新旧写真比較-No.5)
03/26 谷津山の鉄塔(旧NHK静岡ラジオ放送送信塔)
03/29 お彼岸(代々木・正春寺からの景色)


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お彼岸

2007-03-29 | 新宿区  

 お彼岸なのでお墓参り。

正春寺墓地
所在地:渋谷区代々木3-27
備考 :後方は諦聴寺とあいおい損保新宿ビル
Photo 2007.3.21

 ちょっと前になってしまったが、お彼岸に親戚のお墓参りに行ってきた。このお墓に行くのは実は初めて。ひとまず、つつがなくお墓参りは終了したのだが、なんというか、現場が極めて現代的な場所だった。

 お墓のある正春寺は、新宿西口の甲州街道沿い。新宿駅から徒歩10分程度だが、住所は渋谷区。江戸時代から街道沿いにあるお寺で、東側には諦聴寺というお寺もあり、なかなか歴史のある場所なのだが、目の前が西新宿なので、視線を挙げるととにかくオドロク。
 東側を見ると、槇文彦氏が設計した、旧大東京火災新宿ビル(現あいおい損保新宿ビル、24F・112m)のビルが見える。でもまあこの程度なら、今の東京ならよくあることかも。

正春寺墓地から新宿パークタワー
Photo 2007.3.21

 ところがお寺の門の方向を振り向くと、新宿パークタワー(52F・235m)がシューッとそびえておます。

甲州街道・西参道口交差点、首都高速新宿ランプ

 甲州街道上空を走る首都高速4号新宿線の新宿ランプのそばでもあり、西側と正面の玄関前には、高架道路が。写真は、数年前に作られた、上り線用の出口アプローチ。片持ち梁の上に一車線分の細い鋼桁が伸び上がるように載る姿が美しい。

 江戸時代は、新宿の宿場の西側で寂しい場所だったのかも知れないが、現在は、四六時中自動車の音がしていて、仏様もおちおちお休みになっていられないのではないかと、ちと心配。もちろん、オバケなんか全然出そうにないな。

#新しい建物 新宿区  #街並み 新宿区  #街並み 渋谷区 
#寺院  #高層ビル  #道  #橋  #甲州街道 
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谷津山の鉄塔

2007-03-26 | 静岡県  

 静岡の街なかには谷津山という小さな山があり、その頂上近くに二つの鉄塔が建っている。

谷津山の鉄塔 旧NHK静岡(JOPK)ラジオ送信塔
設計 :1930(昭和5) 内藤多仲
完成 :1931(昭和6)
Photo 2007.3.19(新幹線の車窓から撮影)

 新幹線で東京から静岡に到着する直前、右側に見える山が谷津山。二つの鉄塔も車窓からちゃんと見える。私にとっては、まもなく静岡駅到着だなという目印になっている風景でもある。
 谷津山は標高約100m。小さな子供でも簡単に上れる山というか丘で、私自身、小さい頃から何度も登ったことがある。街なかにあるので静岡市民にとって馴染み深い山で、頂上近くにある鉄塔も、皆が知っている。

谷津山頂上東側から Photo 1989.8.21

 現在は東海大学という文字が取り付けられている鉄塔だが、静岡生まれのお年寄りの多くは、これがもともとは、NHK静岡放送局によって設置された、ラジオ送信用アンテナであったことを知っている。コールサインはJOPK。静岡で初めてのラジオ放送が行われた歴史的施設なのだ。谷津山西側の清水山の麓には、清水公園という小さな公園があり、そこにはJOPKの放送記念碑(ラジオ塔)がある。音羽町だったか柚木あたりだったかは忘れたが、山の麓に最初の局舎が置かれたのだそうだ。

 静岡市の中心部にほど近い場所で、存在感を持ってたたずむ二つの鉄塔。だが、ネットで検索すると、意外なほど記載数が少なく、細かいことは分からなかった。ただ、「http://blog.livedoor.jp/helicamera/archives/50448993.html」には、現地視察の記録が載っていて、鉄塔・アンテナとしての機能や現状はなんとなく分かる。
 それによると「鉄塔の基部には「昭和6年製造」の銘板がある」という。また「左右の鉄塔の間にアンテナ線を渡し、丁度その中間から下に給電線を下ろす仕組みの旧式の中波ラジオアンテナで、その形からT型アンテナと言われることもある。」のだそうだ。現在は「給電ケーブルが切れていて」送信はされていないらしい。

 ただ、写真ではよく分からないが、今も二つの鉄塔の間には何らかの空中線があり、その途中から縦の線も下がっている。東海大学は、NHKが駅南の方にラジオ送信塔を建てた後に、この鉄塔を所有することになったという。そしてその後は、送信用ではなく受信用にこれを使っているという話も聞いたことがある。 私が小学生の頃は鉄塔本体に触ることもできたが、大人になってから訪ねてみたら、周囲が囲われていて近づけなくなっていた。詳細は不明だが、やはり何らかの方法で今でも使われているらしい。

 昭和の初期にラジオの送信塔として建設された鉄塔であることは昔から知っていたので、このへんまでは、ある程度、想定の範囲内。でも、これを設計したのが誰かなんてことは、静岡生まれの私でも今まで全く知らなかった。鉄塔だから、どこかの技術者が設計したのだろう程度にしか考えていなかった。

 ところが先日、本屋さんでINAX出版の本を立ち読みしていたら、思いもよらぬ記述を発見。塔博士、内藤多仲について書かれた「タワー・内藤多仲と三塔物語」という本なのだが、それに、静岡のラジオ送信塔も昭和初期に内藤博士が設計したものだと書かれていた。おおーっ!、内藤先生だったのかー!

 内藤多仲博士(1886~1970)は、耐震壁など耐震構造を研究した構造設計の大家だが、名古屋や札幌のテレビ塔、大阪の通天閣、そしてなんと言っても東京タワーを設計した、塔博士として知られる。全国で200以上の鉄塔の設計をしたとも言われ、ある意味、日本の近代の塔のイメージを創ってしまった人なのではないかと思う。子供が描く塔の形ってみんな、東京タワーみたいな形してたもんな。

 静岡のNHK鉄塔は、戦前のもので、ラジオ草創期の送信塔であり、内藤多仲設計の塔の中でも古い部類に属する。なんと言っても築76年。名古屋のテレビ塔(1954)は近代化遺産に指定されたようだが、それよりも更に20年以上古い。でも静岡市民は、内藤多仲博士の設計だなんてことは、ほとんど知らない。またこれが全国的に見て、ラジオ送信塔として古い方の部類のものだということもあまり知られていない。
 二本の鉄塔の間に空中線を張って、それを使って送信するというスタイルも古く、歴史的技術史的に価値があるものなのではないだろうか。1925(大正14)に東京の愛宕山で始められたラジオ放送の際の鉄塔も同じタイプ。東京の方は早々に無くなってしまったが、静岡にはまだ鉄塔が残っている。
 だが、現在、この鉄塔は文化財指定等は全くされていないようだ。静岡の人々は、第二次世界大戦の空襲をくぐり抜けて建ち続けているこの鉄塔の、近代化遺産としての重要性にもっと注目すべきなのではないかと思う。
 

 さて、話はかわるが、小学生の頃、学校で谷津山に関する唄を習ったことがある。
 今回、鉄塔の話を書いていて思い出したので、ネットで調べてみたのだが、詳細は全然分からなかった。メロディーは意外にハッキリ覚えているのだが、歌詞はあやふや。

 「あおい谷津山、お茶の山、みかんもぽつぽつ見えてます。峰はたかだか、陽はうらら。上ろよ上ろ、じゃんけんぽんよ、峰はたかだかお茶の山。」
 とかいう歌詞だった記憶がある。1番と2番がごっちゃになってるのかもしれないが・・・。
 曲名は「お茶の山」か「谷津山」だった気がする。
 でもあの歌は、もしかして私の通っていた学校だけで歌われていた曲だったのかしら??

 唄にもなった谷津山。山だけでなく、鉄塔も静岡市民にとって馴染み深い風景だ。静岡の誰もが知っている風景を成す、谷津山と鉄塔の風景を、これからも是非残して欲しいものだ。

静岡の建築静岡の街並み
#古い建物 静岡県  #街並み 静岡県  #眺望  #山  #塔  #内藤多仲 
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皀角坂(さいかち坂)

2007-03-24 | 千代田区 

東京新旧写真比較(1981/2007) No.5

ここは今回の新旧比較では一番苦労した。

Photo 1981(ノーマル時)、Photo 2007.2.24(マウスオン

 皀角坂(さいかち坂)は、御茶ノ水駅前から中央線沿いに西へ行った先にあり、東京デザイナー学院前から水道橋駅方面に下る坂。昔、皀角の木が多くあったため、皀角坂という名になったのだそうだが、この坂の景色も四半世紀でかなり変わっていた。

 左手の建物が現在もあるので、撮影位置の特定は簡単かと思ったのだが、それ以外に基準になるものがあまりなく、微妙な位置取りにはかなり苦労させられた。結局、基準に使ったのは以下の2点。

1.左端の東京デザイナー学院の窓の見え方
2.後楽園黄色いビルの塔屋と左端建物の窓の位置関係

 最終的にはこの2項目を使ったのだが、そうすればよいと分かるまでに時間が掛かり、二回目までは、撮影ポイントがうまく見つからず、結局、現場に三度通うことになってしまった。
 それもこれも、道路・歩道の状態がかなり変わったためである。特に、左側の歩道が拡幅されて、街路樹が植えられたのが、視覚的に大きな変化をもたらし、撮影時に完全に騙されてしまった。あそこまで歩道が大きく変化しているとは思いもよらなかった。

 道の右側も、81年にはバイクがたくさん停められていて、学生がたむろっていたが、今は歩道が作られている。センターラインの引かれ方も変わり、坂の筋が変わってしまったようにも見える。また、右端の樹木は、かなり大きくなったものの現存していた。
 遠景を見ると、右手の樹木の陰には東京ドームホテルがそびえている。また中央にも3棟の高層ビルが後から建った。その周辺、水道橋駅付近の建物群も中高層化が著しい。周囲に大きな建物が建ったため、後楽園黄色いビルの塔(オレンジ色から、緑系の色に塗り替えられた。)は、やや小さくなったようにも見える。

#東京新旧写真比較 千代田区  #街並み 千代田区  #階段・坂 千代田区
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階段を撮る人たち

2007-03-16 | Weblog 

 某社の方々と、階段の撮影行に出掛ける。

大塚の階段にて Photo 2007.3.13

 このメンバーでの階段歩きは初めて。カメラマンさんと、担当の方、雑誌・ネット媒体の方と、私。40代男ばかり4人。取材だから、気が散らないのでまあ良いんだけど・・・。

 それはともかく、今回の方々もカメラ2台にミニ脚立持参。以前、某Y新聞の時も、新聞社の方が同じような装備で来られた。
 今回は脚立にちょっと上る程度での撮影で収まっていたが、前回のカメラマンさんは、道路に寝ころんだり、そのへんの塀に上って上から撮ろうとしたので、見ていて焦ってしまった。一体全体、何の撮影ですか?ってかんじ。
 大体、住宅街の狭い道で階段を撮ってるだけで目立つし、十分、不審人物なのに、4人でどやどや来て、脚立を立てて、デジタル一眼でバシャバシャッというのは、かなり怪しい。というわけで、せめて目立たぬようにということで、撮影中はおとなしく黙って見学。

 しかしカメラマンさんというのは、淡々ときっちりお仕事をされる。今回は、撮影の狙いどころをあまり明確に説明できなかったので、撮りづらかったかも知れなかったが、いろいろ視点を変えて、たくさん撮っておられた。撮った写真自体はまだ拝見していないが、こういう感じなら良い写真を撮って貰えそうだなと思った。有り難いことだ。

 今回は、丸の内線新大塚から出発して、大塚の斜面を見た後、音羽へまわり、鼠坂、八幡坂などメジャーどころを見て、関口台へ上り、胸突坂を下りて早稲田で終了というコース。
 久しぶりというわけでもないのだが、あちこちで階段に隣接する建物が新築、改修されていて、そのついでで階段の様子も変えられていたりした。

 終了後は早稲田駅近くで、打ち合わせ&懇親会。本当はかな~り遅れているので、呑気に飲んで喋ってる場合じゃないのだ。まずいぞ、俺・・・。

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早稲田大学大隈講堂 その6

2007-03-13 | 新宿区  

 半年ぶりに時計塔がお目見え

Photo 2007.3.12

 外壁のタイル貼り替えと耐震補強等の工事のため、足場で覆われ見えなくなっていた大隈講堂が、再び姿を現した。内部の改修作業はまだ行われていて、今秋の創立125周年記念日に間に合うよう、9月に改修が完了するそうだ。

 大隈講堂は、1927年(昭和2年)に建設されてから約80年になる。長い年月の経過で、外壁のスクラッチタイルなどがやはり傷んでいたそうで、今回の改修では、以前のものと同様のタイルを新たに焼いて貼り替えが行われたという。また、軒先などのテラコッタも新しく作り直して、破損したものと交換したりしたそうだ。

 半年ぶりに見る大隈講堂だが、なんだか少し白っぽくなったようだ。以前のタイルはかなり経年変化をしており、黒ずんでいたので、新しいタイルは明るくてちょっと変な感じ。古びて落ち着いた風合いだった外観は、改修が施されてリニューアルしたのだが、ややきれいになり過ぎた感じで、ちょっと安っぽく見えてしまう。塔の先端部分のコンクリートも、洗浄されたのか、白さが増したような気がする。ただタイルの検討は、2000年頃から数年かけて行われており、いい加減にやったからこうなったわけではない。タイルとタイルの間の目地の色合いについても、検討が行われていたようだ。

 改修する際には、竣工当初の状況にするか、経年変化した現状のイメージを守るかがしばしば問題になる。現状のイメージでタイルを貼ると、今後100年経ったとき、もっと黒ずんでしまって、オリジナルとは全然異なってしまう。そうならないように、ここで一度、竣工当初の色合いに戻したということなのではないかと思う。確かに、古めかしい外観の風合いは懐かしいのだが、真新しくなってきれいになった大隈講堂が、今後、何年もかけて再び馴染んでいくのを見守りたい。

改修前の様子 Photo 2006.1.19

 外観の印象は、日光の当たり具合にも大きく左右される。昨年冬の写真は、西日があたっているため、全体が黄色く輝き、色合いがかなり異なっている(デジカメのホワイトバランスや露出の影響もあるようだが・・・)。また、記憶というものは、しばしば曖昧なもの。再会した当初はちょっと驚くが、しばらくしたら慣れるんじゃないのかと思う。

 というわけで、今秋リニューアルが完了する大隈講堂もまたよろしく。

大隈講堂時計塔足場解体時の様子(2007.03.12)
(「早稲田大学芸術学校 空間映像科」のBlog)
そうか、あの塔のてっぺんって、こういう大きさだったんだな。作業の人が入るとスケールがよく分かる。これ印象的な写真だなぁ。

大隈講堂改修工事について(早稲田大学News / 2006年4月19日)

早稲田大学大隈講堂 その1(2006.01.21 入口付近など)
早稲田大学大隈講堂 その2(2006.01.24 大講堂・貴賓室)
早稲田大学大隈講堂 その3(2006.01.25 階段室と時計塔内部)
早稲田大学大隈講堂 その4(2006.02.16 内部の様子など)
早稲田大学大隈講堂 その5(2006.08.08 改修工事始まる)

関連記事 > 早稲田大学・大隈講堂へのコメント
#古い建物 新宿区  #塔  #早稲田大学  #大学 
#映画館・ホール 
#佐藤功一  #佐藤武夫  #近代建築  #重要文化財 
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祝田橋交差点

2007-03-11 | 千代田区 

東京新旧写真比較(1981/2007) No.4

Photo 1981(ノーマル時)、Photo 2007.1.27(マウスオン

 写真内の信号に「祝田橋」とあり、横断歩道の手前の歩道上から撮ったことがすぐ判るのだが、左右方向の微妙な位置取りが意外に難しい場所だった。

 1981年の建物で現存するのは、左から帝国劇場、第一生命館(DNタワー21)、丸の内警察署、その左後方に見える有楽町ビル、後方に二つ並ぶ有楽町電気ビルヂング。しかし前後の重なりがあまり無いので、撮影ポイントをもう少し右にするか、左にするか、かなり迷う。結局、左右方向の位置特定に利用したのは、以下の2点。

1.丸の内警察署と有楽町電気ビルの位置関係
2.第一生命館と有楽町ビルの間隔

 昔の第一生命館が復元され残されたのと、以前はこの界隈で一番背が高かった有楽町電気ビルが、ザ・ペニンシュラ東京にほとんど隠されながらも辛うじて見えているのが幸いだった。

 DNタワー21やザ・ペニンシュラ東京に加えて、正面奥の有楽町駅近くに21階建てのビルが立ち上がりつつあるため、祝田橋交差点からの景色も、やはり空が少ないものに変わって来ている。

ザ・ペニンシュラ東京  (24F、112m、2007年半ば完成予定)
有楽町駅前第1地区第一種市街地再開発事業施設建築物
 (下層階に丸井が入居、21F、108m、2007年10月完成予定)
 (参照サイト:二件とも「超高層ビルとパソコンの歴史」)

 この他、以前は東宝ツインタワービルが右端に見えていたが、現在は日比谷通り交差点に日比谷マリンビル(朝日生命日比谷ビル)が建ち、見えなくなっている。

 また左端の帝国劇場は、2007年にはほとんど樹木群に隠れてしまっている。お濠端の緑が四半世紀の間にかなり大きくなって、鬱蒼とした樹林になったため、見えなくなってしまったのだ。樹木は毎年少しずつ伸びていくので、成長にあまり気づかないが、やはり四半世紀の時間の経過は大きな変化をもたらしていた。

 建物や樹木以外で、以前との違いを見てみると、昔は交差点に自転車横断帯なんてものが無かったことに気づく。また横断歩道のゼブラは、今と違って梯子状で両サイドに線が引かれていた(現在はただの縞々)。塗料の節約と、雨の時に白い線で囲われた中に水が溜まるの避けるために廃止したと聞いたことがある。建物群が創る街並みだけでなく、その他の道路上工作物等によってできる街並みも、時代とともに次第に変化している。

#東京新旧写真比較 千代田区  #街並み 千代田区  #眺望  #高層ビル
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国立新美術館-3

2007-03-09 | 港区   

 外へ出ると、本館建物の前に小さな3階建ての別館がある。Photo 2007.2.11

 実はこれが旧陸軍歩兵第三連隊の庁舎の一部。昭和11年の2.26事件の際、ここから反乱将校らが出撃したことでも知られる建物。

 国立新美術館と政策研究大学院大学の敷地は、江戸期には伊予宇和島藩の上屋敷だったところだそうだ。明治になり藩邸が無くなった後、大正、昭和戦前期には、旧日本軍の軍用地となり、昭和3年(1928)に、旧陸軍歩兵第三連隊の庁舎が建てられた。

 戦後の一時期は、敷地全体が米軍に接収され、周辺も含めてハーディーバラックスと呼ばれる下士官兵宿舎となる。昭和34年(1959)の接収解除の後は、東大の所有となり、東京大学生産技術研究所となった。

昔の様子 → 東大生産技術研究所(旧歩兵第三連隊兵舎)

 そして数年前にこの東大生産研が移転し、跡地に国立新美術館と政策研究大学院大学が造られた。

 その際、戦前からあった建物は、一部が保存され、別館として再利用されることになった。

 もともとは、環状の平面形をしたかなり大きな建物だったが、現在残るのは、西南角近くの部分のみ。この部分だけは、新美術館と大学院大学の、どちらともあまり関係がない場所だったから辛うじて残されたのかもしれない。残された部分でも、北側は更に削られてガラス張りになっており、新美術館側から見ると、旧建物の雰囲気は一掃されている。往時を思い起こさせるのは、南側の外壁で小さな入口が一つあるところ。まあ記憶を継承したっていうあたりで、これをもって、残ったとはとても言えない。

 もとの建物をそのまま美術館にして、中庭をアトリウムか何かにしてるのだったら、残したと言えるけど、一切れだけ残ったカステラというか、ホントに欠片が残った感じで、これでもって昔を想像しろというのは無理な話だ。

 だが、たとえ外観全部を残そうとしても、多くの人が訪れる美術館の空間にするには、相当の改修が必要で、どのみち残せる部分はほとんどなかったかもしれない。

 パリのルーブル美術館とか、オルセー美術館とか、昔の建物を転用した美術館が欧米にはある。日本でも上野の国立国際こども図書館は、国会図書館の上野分館を安藤忠雄氏が改築した例。やろうとしてやれないことはないが、どちらかというと地味な歩兵第三連隊の建物は、新美術館には向いてなかったかもしれないなとは思う。

 設計の過程で旧建物を残すことにしたことに、黒川氏が激怒したという話も、どこかで見た。建築家というものは、やはり真っ新なキャンバスに絵筆をふるいたい人たちなんだろうな。

 ところで、国立新美術館の目の前に、やけに細くて背が高いマンションが建っていてかなり気になった。あれは何?、なぜあそこに建ってるのかしら?

(参考:「図説・占領下の東京」佐藤洋一、河出書房新社、2006)

#新しい建物 港区  #失われた建物 港区  #古い建物 港区 
#近代建築  #ミュージアム  #黒川紀章 
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国立新美術館-2

2007-03-08 | 港区   

行ったからには、ちゃちゃっと写真も撮った。Photo 2007.2.11

 でもあまりにたくさんの人が写真を撮っていたので、なんだか恥ずかしくなってしまった。一眼レフで一生懸命撮っていた人もいたけど、こんなに人が多い日に撮っても「作品」は撮れまい。ケータイでパシャパシャ記念写真を撮ってる人もたくさんいた。ある程度の写真好きとしては、みんなと同じ写真はできるだけ撮りたくない。同じ写真を撮って何が面白いのかと思う。が、そうそう来る機会もないだろうから、やっぱり犬の小便(マーキングと言った方が良いですね)のように、足跡を残すように撮る。撮りたい場所が重なって、順番に交代することになったりすると恥ずかしい。表参道ヒルズに行ったときも、三角形の吹き抜けの角で同じ現象が起こっていた。そう言いながらやっぱり、みんなと同じ写真、撮っちゃったよ。

 アトリウムに作られたレストランは空中レストランみたいで、ちょっと気持ちよさそうだった。こういう空間構成を作り出す技量はやはりすごい。映画なんかで使えそうな空間のデザインだ。長蛇の列だったけど。

 展示スペースは、自由に使える3つの長方形になっている。多目的の展示に対応するためか意外なほど素っ気ない。だがそれも収蔵品や常設展示を持たない美術館らしく、好感が持てる。

 国立新美術館は、フラクタル理論を用いたという、グネグネしたルーバー壁面を持つアトリウムがとても印象的。ところが、側面に回るとこれが単なる箱なんだということに気づく。そう、ホントに倉庫みたいな感じ。でもこれは非常に潔いなぁと思った。機能、サービス動線側は、あくまで合理的に、シンプルに。正面から見ると新しい形で、斬新さを売りにしてるように見えてしまうが、機能を支える思想は正しくモダニズム的。あまり人が見ることのない側の外観は省略・節約して、皆が訪れる正面側のデザインに注力した感じ。

 また、広々とした敷地に建ち、建物の軒高が高くないので、六本木の喧噪からちょっと離れて、静かな中に佇む感じになっている。正面ファサードの主張は強く、やはり「建築作品」なのだが、街並みを乱すことにはなっていない。江戸東京博物館が、下町にそびえる巨大ロボットみたいなことになっているのとは、かなり様相が異なる。

 曲面に沿って、柱と水平ルーバーがあちこちを向いているので、光の入り方がいろいろにコントロールされる。季節や時刻、天気などによって、明るさや直接光の入り具合が変わるのは面白い。

 「こんなガラス張りの場所造って、夏になったら温室みたいになって大変よ、冷房代いくら掛かるのかしら?」などと、おばちゃん達がしたり顔でケチを付けていた。でもそう言いながら、しっかりレストランでお食事するんだろうな。

 もちろん私も心配だけど、ここは天井があるし、ルーバーでかなり遮ってるので、全面ガラスの古い建物よりはかなりマシなんじゃないかと思うぞ。最近は全面ガラスでも二重だったり、熱線反射だったりして、熱効率の良い建物が増えてるから、ガラス張りだからと言って一概にダメとは言えない。こんなに大規模な建物と、家庭用冷暖房を比較するのがそもそもナンセンスだし・・・。

 一応、建築学科出身なんだけど、最近は細かいところに目が行かないので、ディテールは他のサイトへどうぞ。例えば、秋葉OLさん。私なんかより遙かに良く観察しておられて正直言って驚かされる。なぜにそこまで・・・。

新美術館の箱
「本気か!」★紀章展と新美術館
#新しい建物 港区  #吹き抜け・アトリウム  #ミュージアム  #黒川紀章  #21世紀 
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国立新美術館-1

2007-03-07 | 港区   

ちょっと前のことになるが、1月に開館した国立新美術館に行った。

Photo 2007.2.11

 美術館を見学したいと思って行ったわけではなく、たまたま近くを通りかかったついで。休日だったので、六本木の駅から人の流れができていて、なんとなくついていったらたどり着いてしまった。で、アトリウムに無料で入れるのを知り、野次馬根性からつい入場してしまった次第。

 どちらかというと、昔あった歩兵第三連隊の建物が、部分的とはいえ、どのように残されたのかが気になっていたので、ついでにその確認もすることに。 それにしても人が多い。東京で新しい施設がオープンしたり、特別展が開かれたりすると、いつもこんな調子。人混みが嫌いなので、普段はこういう場所を敬遠しているのだが、今回はつい迷い込んでしまった。絵画展の方は長い列ができていたので回避。

 中に入ってみたら、黒川紀章展をやっていた。建築の展覧会なんて久しぶり。無料だったのでこれもついでに冷やかしてみる。

 見た感想としては・・・面白かった。建築の展覧会というと、模型があって写真や図面があって、静かで、ちょっと気取った感じなんだけど、この展覧会はなんだか様子が違った。

 新美術館オープニング後、初めての連休だったせいかもしれないが、観客がやたらに多かった。都知事選立候補なんていう話題もあり知名度も高く、老若男女がどやどや。みんな口々にいろいろ話しているので場内が賑やか。こんな建築展も珍しいのではないだろうか。いわゆる建築家志望の学生が多数集まり熱気に満ちて、というのとも違う。

 そんな状況を見越したかのように、黒川氏のサービスも派手。とにかく視覚的にうるさいぐらいに主張が文章化されている。図面や写真が壁一面になっているのはともかく、その横にでかでかと文字が並ぶ。10cm角以上もある大きな字で文章が数行ずつ書かれ、離れたところからでも読みやすい。ついつい皆が読んでしまう仕掛けになっている。

 美術館での絵画などの展示というと、絵や彫刻を邪魔しないように、比較的小さな字で説明が付けられていることが多く、説明を読むために人が、壁にべったり張り付いて並んでしまうことが往々にしてあるが、黒川氏は逆の方へ行った。図や写真の全体像を見せつつ、遠くからでも主張が分かるようにという展示。 室内に入って、文字や写真、図面を大量に浴びるような感じで、やや視覚過多、情報疲れをしてしまったが、こういう暑苦しい系の展示は久しぶりだったので結構面白かった。

 ただし、内容的には両手を挙げて賛同してるわけではない。内容は、今までのまとめであり、紀章黒川のほとんどプロモーションなので、へぇーそうだったの、というだけ。環境との共生を謳っているが、エネルギーを集約的に利用するとして、大型の構築物を企てるあたりは、ホントに共生を目指したエコなんだか怪しく見えてしまう。実際のところどうなんだろう。

 ただ、大阪のソニータワーの解体と、中銀カプセルタワーの解体計画に対して、猛然と反論し挑発しているところなどは、まだまだ元気だなぁと思わせられた。確かに解体はとても残念なことなのだが、文句を言う相手がちょっと違うような気もする。どうしても残したいという熱い思いが、そうさせてるんだろうか。70才を超えてるのにまだ枯れてないっていうか、更に元気になって居るんじゃないかとさえ思った。あくまで私見だけど。

#新しい建物 港区  #ミュージアム  #黒川紀章 
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