03/03 大勝軒
03/06 築地木村家ペストリーショップ
03/09 正金アパート 1
03/12 正金アパート 2
03/15 銀座松坂屋
03/18 いちやま旅館
03/21 大光楼
03/24 みこもり煎餅
03/27 漆間銃砲店・読売静岡ビル
03/30 コジマ荷受発送部
コジマ荷受・発送部
所在地:中央区 日本橋横山町4-14
構造・階数:RC・3
建設年:1929(昭和4)
解体年:2019(令和元)
Photo 1996.10.10
株式会社コジマは、衣料製造卸の会社。会社は日本橋横山町4-8にあり、ここは荷受・発送部だったそう。通りからはよく見えないが、セットバックした後方に4階があったようだ。ただ通り沿いのファサードとはデザインが異なるので増築だったのだろう。
Photo 2005.3.27
荷受・発送部なので、半分倉庫のような使われ方だったのだろうか。この界隈は土日に訪れると、多くの会社が休業日で閉まっており、この建物も1階のシャッターが開いているのをみる機会は結局ないままだった。また、2、3階の使われ方も分からなかった。
ただ、Google ストリートビューで昔の写真を見ると、営業時の様子を見ることができる。玄関先には発送用の段ボールが積んであり、台車や自転車が置かれている。玄関シャッターの内側には木製の両開き引き戸があり、扉のガラス越しに室内にも段ボールが山積みになっているようだった。
なお、下記サイトの記事にもあるが、2枚目写真手前の「宮入第二ビル」と書かれた青い看板は、このビルに付けられた袖看板ではなく、この建物とは別の自立した看板で、手前の狭い路地を奥へ行ったところにあるビルのものだったそうだ。
建物は隣接(左側)のビルなどと共に2019年に解体された。現在は日本橋横山町計画として、店舗・寄宿舎用途のRC造11階のビルが建設中で、2022年6月完成予定という。
【×】株式会社コジマ 荷受・発送部 - ずぼら堂懐古録
Tokyo Lost Architecture
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漆間銃砲店(左)、読売静岡ビル(右)
所在地:静岡市葵区 追手町9
Photo 1997.5.4
<漆間銃砲店>
構造・階数:木・2F
解体年:1997(平成9)頃
静岡駅前から市役所や県庁の前を抜けていく目抜き通りに面して建っていた木造の商店。木造2階瓦葺きの店舗が、90年代後半までメインストリート沿いのビル群に混ざって建っていたのも驚きだったが、それが一般市民には馴染みのない銃砲店だったのもかなり意外だった。
漆間銃砲店はこの写真の少し後に解体されたようだ。静岡のこの店に関する情報はネットでは見つからなかった。沼津市に同名の銃砲火薬店があるので関連があるのかもしれない。
<読売静岡ビル>
階数:5F
解体年:2000(平成12)頃
一方、右側の読売静岡ビルも2000年頃に解体された。モダンな建物だったが、5階建てでやや規模が小さく、老朽化して耐震性も怪しかったのだろうか。建設年は分からないが昭和30年代頃に建てられたものではないかと思う。
なお、跡地に建てられた現在の読売静岡ビルは、7+B1Fで、2002(平成14)竣工。
この界隈は駅前から続くメインストリートなので、現在は大きな建物が建ち並んでおり、昔の面影はほとんどない。
静岡の建築
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みこもり煎餅
所在地:川越市 連雀町15
構造・階数:木・2
建設年:1920(大正9)
解体年:2018(平成30)
備考 :2008(平成20)閉店
Photo 2009.7.19
川越市内、大正浪漫夢通りの角にあった店舗。壁面は石積みを模したトタン張りで、窓は縦長の押し開き観音扉の洋風建築だった。ただ、洋風建物にしては深めの軒庇が巡らされており、また上方には和風の瓦屋根が見えていて、若干、和洋が混在した雰囲気だった。
その後期においては全体が赤色にペイントされて、妙な感じになっていたが、この写真より前の時期は、確かトタンが錆びついて壁面全体が黒っぽかったように思う。下記「ぼくの近代建築コレクション」には1989(平成元)年の写真があり、黒っぽい壁面を確認できる。またこの頃は軒裏にも斜めに板が張られていたようだが、私が撮った頃にはそれもない。
塗り直したのでまだ存続させていくのかと思っていたが、煎餅屋さんは2008年に閉店。その後、2018年に右隣の建物「菓子の高松屋」と共に解体され、2021年時点ではコインパーキングになっている。下記サイトの記事では、管理がされず崩れそうになったため市が強制的に解体したと記されている。
2023.5.12 追記
下記『小江戸ものがたり』には「大黒屋という餅菓子屋が飲食店として建てた建物。二階のフォトスタジオはビリヤードやダンスホールだったこともある。」と記されている。
『小江戸ものがたり−第四号 川越の洋風建築特集』川越むかし工房 編集・発行、2003.4
みこもり煎餅/川越市連雀町 - ぼくの近代建築コレクション
川越名物「発狂くん」(埼玉県川越市 ご当地グルメ?): 日本隅々の旅 全国観光名所巡り&グルメ日記
日本国内の建物や街並み
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大光楼
所在地:須坂市 須坂上中町192
構造・階数:木・2
解体年:1996〜2000(平成8〜12)頃
Photo 1994.7.31
旧料亭、旅館。明治期の建物だったらしい。界隈は明治末期から大正期にかけて形成された花街。大光楼わきの浮世小路は入口に大光楼があるので、大光楼小路とも呼ばれたという。
現在は建て替えられて一般の住宅になっているが、玄関部分のむくり屋根と「大光楼」の看板が移設されており、往時の雰囲気をわずかに残している。
町並み漫歩館 > 須坂
須坂の裏道散歩2 - 食・彩園s倶楽部
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いちやま旅館
所在地:松本市 中央2-1
構造・階数:木・3
建設年:1935(昭和10)
解体年:1996(平成8)
備考 :建て替え後のいちやま旅館は2007(平成19)閉館
Photo 1992.11.22
松本市の中心部、公園通りに面していた旅館。木造3階モルタル塗り、切妻屋根の瓦葺き。下記「工芸の五月 -2012」によれば、本館は1907(明治40)年築。東館は大正時代、西館は昭和戦前期のものだったという。ただ、写真の3階建てが、本館、東館、西館のいずれなのかは把握できなかった。
松本市の中心部は城下町であまり道幅が広くなく、古くからの空間構造が残っていた。しかし中央西土地区画整理事業(1985〜2002年度に実施)によって、一部の建物は曳家されたりしたが、大半は取り壊されて近代的な空間構造の街となった。いちやま旅館も同事業に伴い1996年に解体されたという。
たしかに以前は自動車の渋滞もかなりあった。1970〜80年代、夏場に家族で自動車で訪れたりしたが、当時はまだコインパーキングなどというものがなかったこともあり、デパートの駐車場や市営駐車場への入庫のために1時間以上待つなんてこともあった。たぶん今はもうそんな事はないだろう。道も広がり自動車などにとっては快適な空間になったに違いない。
ただ、Googleストリートビューなどで見ると、現在の街並みはどうも殺風景に見える。いちやま旅館が面していた公園通りは、かつてはあまり広くない一方通行の道だった。現在も一方通行だが、両側にはゆったりした歩道が造られた。道が広がり明るくなり、安全になったのは良いことだが、どうも間延びした印象に見える。ごちゃごちゃ感がなくなって、賑わいがなくなり却って静かな町になってしまったように見える。城下町の街並み風景や往時の空間構造が消えていくのはやはり残念だ。
中央西土地区画整理事業 松本市ホームページ
1995年から1999年の写真 松本市ホームページ
工芸の五月 -2012
いちやま旅館 : 旅と建築と日常
日本国内の建物や街並み
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松坂屋銀座店
所在地:中央区 銀座6-10
構造/階数:RC/7+R1+B1F
建設年:1924(大正13)
解体年:2013(平成25)
備考 :2013.6.30 閉店
Photo 1992.3.8
関東大震災後の1924(大正13)年に建てられたのは、北側の約3分の1の部分だったようだ。「松坂屋銀座店の歴史」を見ると、当初はクラシックなビルでコーナー部に塔屋があったことが分かる。また、解説文には、黒光生命保険(現 第一生命)からのビル賃貸申し入れを機に出店を具体化させ、建設工事を進めたとある。当初は黒光ビルという名だったという話もあるが、この説明からすると、最初から百貨店として賃貸する予定でビルを建てたようだ。
戦災で大半が焼失したが、戦後の1952(昭和27)年に全館が完成。更に1964(昭和39)年にA.レーモンドの設計で、旧館部分を建て替えるなどの増改築を行ったという。また、1996(平成8)年にも外装を改修している。
上写真は1996年の外装改修以前のもの。この頃までは、屋上に同社のマークを戴くシンボルタワーがあった。
1963(昭和38)年の銀座通り
2枚目写真は知人から頂戴した写真で、銀座通りを走るバス車内から撮影したもの。左側が松坂屋、右側には小松ストアーやヨシノヤ靴店の看板も見える。上にも記したように、この頃、松坂屋は増改築を行っていて足場や工事囲いで囲まれていた。
Photo 1993.11.21
北側コーナー分の3階から上と袖看板は、1996年の改装でも変わらなかったようで、最後の頃の様子とあまり違わない。階段室の灯りは白熱灯だったようで、ネガフィルムの色温度特性の関係もあり、オレンジ色に写っている。
Photo 2005.6.12
1996年までは網が掛かったような外観で、ややもっさりした印象だったが、改装でコントラストがはっきりしたグリッド模様になり、少し新しめのモダンな雰囲気になった。またこの時期以降、北側コーナー部分がGUCCIやFOREVER 21など人気ブランドの路面店になった。このため全体の統一感はやや失われることになった。
Photo 2013.7.2
松坂屋閉店直後の頃の全景。GINZA SIXは中央通り東側の2ブロックを使って建てられたので、写真手前の2棟も解体された。
北側階段室 Photo 2009.1.18
2000年代に照明が電球型蛍光灯に変えられたようで、階段室はクールな印象になった。冬場などはやや冷たい感じで、これが良かったのかどうかはわからない。
Photo 2009.1.18
上から見ると窓越しに銀座の街を歩く人や車が見えるのがよかった。
店舗裏(東側)の通り Photo 2013.7.2
こちらは搬入口などになっており、やや雑然とした様子。GINZA SIXを造る際、この区道は廃道にされ、同所には車輌用通路がビルを貫通する形で造られた。
Photo 2013.7.2
別館とのあいだには渡り廊下があった。
Photo 2013.7.2
こちらは従業員用の入口だったのだろうか。
松坂屋銀座店 - Wikipedia
松坂屋銀座店の歴史
銀座松坂屋/銀座6丁目 - ぼくの近代建築コレクション
Tokyo Lost Architecture
銀座松坂屋:都市徘徊blog - 2019.7.30
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正金アパート
所在地:中央区 新富1-17
構造・階数:RC・5+R1
建設年:1931(昭和6)
解体年:2015(平成27).4
Photo 2006.1.28
内部に入ったのはいちどだけ。この頃はまだ居住者も多かったようで、昼間でも人の気配がかなりあり、むやみに歩きまわるのがためらわれたので、2階にしか行かなかった。他の方の記事では屋上階に洗濯場などがあったようだが、それは見ずじまいだった。上写真は2階の手前から。
2階
中廊下型で中庭側にも数軒があったようだ。ピンクの公衆電話やお知らせ用の黒板もあった。火災報知器、消火器、非常口のサインなど、防災関連は比較的しっかり対応していたようだ。
2階から3階への階段
階段を意識した窓割になっていないので、窓が足元と頭上にある状態になっている。
玄関内側
古い建物なので内部はやや薄暗く、ヤニで茶色になっていたが使えなくはない状態。ただ、銀座の近くにこの状態のアパートメントがあるのは意外な感じ。
階段の手すり
上側と下側が別々ではなくクロスしているのと、折り返し部分の支柱が天井にまで達しているのはやや珍しい。
玄関脇の郵便受け
昔のものなので、A4サイズなど大型の封筒には対応していなかったようだ。
『オカシミと寝落ち』(かつて入居していた方の再訪記)
> さようなら。お化けアパート。【正金アパート】
> さようなら。正金アパート。その2【今までで最長かも】
収蔵庫・壱號館 > 正金アパート
アクトデザイン凛太郎のブログ > 新富町散策 Ⅰ 正金アパート
正金アパート/新富1丁目 - ぼくの近代建築コレクション
環境デザインマニアック > 2013〜2020 消えゆく東京 > 正金アパート
正金アパート - 東京ノスタルジア
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正金アパート
所在地:中央区 新富1-17
構造・階数:RC・5+R1
建設年:1931(昭和6)
解体年:2015(平成27).4
Photo 2006.4.7
新大橋通り沿いに威容を見せていた昭和初期のアパート。正金アパートについては現存していた2013年にいちど採り上げていたが、その後、解体されてしまったので、未掲載の写真も含めて改めて記事化する。
新大橋通りに面した1Fには店舗が入居していたいわゆる下駄履きアパート。上写真の時点ではまだ多くの店舗が営業していた。2〜5階の住居部分にはわき(写真左手)の玄関から入り、階段で上って行く。エレベーターはなし。
2、3Fは大型の窓で一つ一つに庇と小さなベランダが付いている。小さく狭いので外に出られる感じではなかったようだ。4、5Fは窓の幅がみな小さく、個別に庇やベランダはない。その代わり全体を巻くように庇が付けられている。両者で窓まわりのデザインが異なるのは、内部の間取りを反映した結果だったのだろう。
Photo 2006.1.28
コーナー部は面が取られていた。この部分の部屋は変則的な形をしていたのだろうか。
アパート側面 Photo 2013.10.13
玄関を入るとすぐ上階への折返し階段がある。玄関の上の窓内に見えるのは階段室踊り場の床。踊り場に面した窓は他の窓と半階ずれた高さに開けられていることが多いが、正金アパートでは同じ高さに窓があったので、内部から見ると、踊り場の足下と天井近くの2ヶ所に窓がある状態だった。また当初はその2、3Fの窓にもベランダがあったようだが、これは撤去されて柵などの痕跡が残る状態だった。もしかすると当初は階段が別の場所にあったのかもしれない。
新大橋通り側壁面の様子 Photo 2006.1.28
現代のベランダとは異なり、木造家屋の2階ベランダのような大きさ。外に出るのではなく、窓辺に腰掛けて外を眺めたり、風を取り込むような使われ方が中心だったのかもしれない。
古色蒼然として、一見すると廃墟のようにも見えるが、内部は掃除もされていて比較的きれいだった。大通り沿いに建っているため、採り上げているサイトやブログも多い。
同アパートは2015年に解体された。同所には「正金アパートメント入船」という13階建てマンションが2017年に竣工している。
『オカシミと寝落ち』(かつて入居していた方の再訪記)
> さようなら。お化けアパート。【正金アパート】
> さようなら。正金アパート。その2【今までで最長かも】
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築地木村家ペストリーショップ
所在地:中央区 築地2-10
構造・階数:木・3
建設年:震災後
解体年:2021(令和3)
備考 :1910創業。2021.6.17閉店、2021.8解体
Photo 2006.4.7
銀座木村家からののれん分けで創業したという店。洋風の小型ビルのような外観だが、木造の3階建てだったという。
右側にある出桁造りの大野屋米店は2013年に解体され、4F建てのビルに建て替えられたが現在もそこで営業している。その奥、銅板張り看板建築の福市だんごと、新大橋通り角の3階建てフレッシュフルーツ水作(水作果物店)は、2010〜13年に解体され、最近まで駐車場になっていた。
Photo 2013.10.14
タイル張りでほぼシンメトリーで、ペンシルビルのような外観。3階の窓と小窓が人の顔のように見えるちょっと可愛らしい建物だった。
Photo 2018.9.26
壁面に取り付けられた袖看板には「あら!懐かしや明治のあの味、あの香り、築地木村屋ケシあんパン」と書かれている。この看板では「木村家」ではなく「木村屋」になってしまっているのもとぼけた感じでおもしろい。頂部に花の絵が描かれているのも可愛らしかった。2階の窓にはエアコンの室外機が置かれてしまっていたが、両サイドに縦長の窓があり、もともとは洒落た窓だったのだろうかと想像させる。
築地木村家 - Wikipedia
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111年愛されたパン界工房巨星「築地木村家」閉店、あんぱん道追求は継続 - 社会 : 日刊スポーツ
築地木村家、他/築地2丁目 - ぼくの近代建築コレクション
築地木村家・大野屋米店 中央区築地 - 東京ノスタルジア
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