東京新旧写真比較(1997/2008) No.26 新宿区西新宿
Photo 1997.1.18(ノーマル時)、Photo 2008.12.23(マウスオン) 撮影地:新宿区西新宿1 小田急デパート玄関前から
東京モード学園他が入居するモード学園コクーンタワーができたので、景色の印象はかなり変化したのだが、それ以外の構成要素はほとんど変わっていない。11年しか経っていないからとも言えるが、西新宿でも7丁目など、新宿駅から遠いエリアは激変しているので、駅前でそれほど建て替えが激しくなかったのはちょっと意外だった。もちろん、コクーンタワーの存在感はかなり大きいので、風景はかなり変わったという方が正しいのだろうが・・・。
コクーンタワーに関しては、いろいろ意見がある。自治体の景観審議会などでも話題になったが、デザインの質を云々してこれをコントロールするのが難しかったのか、結局あまり介入しなかったと聞く。都市景観の分野の人の間でも議論が分かれる。
今まで西新宿にはモダニズム系のすっきりした角形のビルが多かった、というか全国的にそういうのが多数派だった。だから、コクーンタワーの濃いデザインは、調和を乱すという意見がある。確かに今後、こんなビルばかりが建つとちょっと風景的にはうるさい。中国やドバイはその手の主張する建物だらけで、しばらく見ていると疲れてくるのだが、日本もそうなるのではないかという懸念を持つ人々もいる。
一方で、今までのつまらない形より面白い形のビルがもっと増えても良い、もっと増えた方が良いという人もいる。
今まで新宿の超高層ビルは素人目にはどれがどれだか分からないことが多かったことは事実だ。西新宿を歩いていると、この界隈をあまり知らない人が、建物を振り仰いではどれがどれなんだろ?という顔をしていることがしばしばある。また、都庁の展望台からビル群を眺めて、あれは何ビルじゃないの?とか、あそこが新宿御苑かしら?なんて言っている人たちが大勢いるのだが、たいがいがなにかしら間違っている。
東京でほとんどの人が間違わないのは東京タワーぐらい。また、新宿では東京都庁(第一本庁舎)の知名度は高い。テレビなどで見る機会が多いのと、双塔が特徴的であるからなのだろう。これに対して第二本庁舎の方はいきなり知名度が落ちる。また同じ丹下健三デザインによる新宿パークタワーが都庁と混同されることがしばしばある。以前、都庁の展望室でおじさんがパークタワーを指差して、「あれが都庁だろ」と言っていたのには驚いた。今、自分がいる場所が都庁だよ。そんなにたくさん都庁はないよ〜。もちろんこれはかなりの例外なんだけど、地上から見てパークタワーと都庁を混同する人は結構多い。
新宿では、住友三角ビルがよく知られている。三角(よく見ると六角形)の形が特徴的で、新宿には類似のものがないのと、超高層ビルの初期に建てられて知名度が比較的高いのが理由だろう。次点は損保ジャパン(旧安田火災海上)とNSビルだろうか。損保ジャパンはスカート型が話題になったし、NSビルは高さはないが巨大な吹き抜けが特徴的だ。
その他、新宿には20以上の超高層ビルがある。だが、他は外観からは全然区別が付かないらしい。京王プラザホテルは、ホテルとしては良く知られているが、その外観の知名度はさほど高くない。
1981年の写真は、後方左から、エステック情報ビル、工学院大学、中央通りを挟んで奥がホテルセンチュリーハイアット、新宿住友ビル、新宿センタービル、新宿エルタワー。手前は左側角が明治安田生命ビル、右側角がスバルビル、その右側が松岡セントラルビル。
2008年の写真では、新宿センタービルがモード学園コクーンタワーに完全に隠されてしまったが、他は一緒(ホテルセンチュリーハイアット東京は、2007.10にハイアットリージェンシー東京に名称変更)。手前の建物も屋上広告が変わったりはしているが、建物には変化がない。ただ、スバルビルの屋上にある時計が、いつのまにかデジタルからアナログに変わり、明治安田生命ビルの天気予報電光掲示板がなくなったりしていた。
どうでしょう。これらのビルは、名前は知ってるけど形やデザインとビル名が全部は一致しないという状況なのでは? そう考えると、コクーンタワーはアクの強いデザインだけど、誰もが知る可能性を持った建物かもしれない。
もちろん、東京モード学園も丹下事務所もそのへんを狙って建物をデザインしたわけで、ビル全体が広告塔のようなものなのだ。大隈講堂が早稲田大学を、安田講堂が東京大学を代表し、ユニバーシティ・アイデンティティを創る形であるのと同じように、コクーンタワーは東京モード学園のUIとなる形なのだろう。そういう意味では、王道的戦略なんだが、いかんせん図体が大きい。大隈講堂や安田講堂はイメージとしては記憶に残るが、そんなに遠くからは見えない。渋谷にある青山製図専門学校もド派手な建物で、これも学校のアイデンティティを象徴する広告塔なのだが、大きな建物ではないので、地元の人と建築系の人以外の一般人にはあまり知られておらず、影響は限定的である。
新宿の超高層ビル街に建つコクーンタワーは、人々の視線を吸い寄せる。どうにもこうにも目立つので気にならずにはいられない。新宿駅に近い街区に建ったため、他の多くのビルはコクーンタワーに主役の座を奪われて、引き立て役に回ってしまったようでさえある。
1991年に東京都庁が建った時も、他よりも目立っている印象はあった。だが都庁は新宿駅の方から見ると西の奥にあるため、他の超高層ビルに隠れがちで、群としてみると意外に目立たなかった。だがコクーンタワーは群の中から前に出るように建っている。視線を吸い寄せる状態は当分続きそうだ。
丹下健三が手掛けたものとしてはフジテレビの知名度も抜群に高い。テレビでしばしば登場してくるからというのもあるが、他の局がそんなことになっていないことを考えると、やはり形の力が大きいのだろう。
ところでコクーンタワーが新宿にあると、非常に目立つのだが、お台場にあったらどうだろう。周辺に昔ながらの市街地が広がっているわけではなく、フジテレビみたいなキワモノもあるわけで、ここだとコクーンタワーは全然違和感がない。今後、もっと怪しい建物が建つ可能性もあって、そういう場所ならご自由にどうぞ、という感じ。池之端にあったソフィテルの時にも書いたが、埋め立て地や新開地ではこういうのを建てても良い気がする。西新宿は、比較的地味なモダン超高層ビルが建ち並ぶ街のイメージが、もう出来上がっているのかもしれない。だが、新宿でも歌舞伎町だったら、ネオンサインがないコクーンタワーは意外に地味な存在になってしまうかもしれない。
コクーンタワーは、丸の内の皇居近くだったら、反対が強くなって建てられなかったんじゃないかなと思う。西新宿だと、いろんな意見は出るけど一応建つ。お台場やドバイ・上海だと、また一つ変なのが建ったという程度。
ここまで考えてみると、新宿の超高層ビル群の街並みに一つだけあるぐらいはまあ許せるのかもしれない。みんなが同じような形じゃ凡庸でつまらない。かといって百家争鳴状態だと、やはり混乱状態になり、形がうるさくて疲れる。
だから、これ以上変なのを建てないでね、という感じ。名古屋には同じモード学園がスパイラルタワーというねじれた外観のビルを造ったが、あれがコクーンタワーの隣に並んだら、デザイン的な騒々しさが倍増して、イヤな感じになってくる気がする。
#東京新旧写真比較 新宿区 #新しい建物 新宿区 #街並み 新宿区 #高層ビル
昭和40年代頃は、回るレストランとか展望台というのが流行った時期のように思う。私の田舎には無かったが、東京には回るレストランや展望台がある。有名なのは、ホテルニューオータニ本館と、有楽町の東京交通会館の二つで、これらは現役。
ニューオータニの回転台は、戦艦大和の砲塔の仕組みを利用したという話を聞いたことがあるが、ホテルのHPにもそれは記載されていた。小学生の頃、父と「はとバス」で東京見物をしたことがあり、その際、ニューオータニのラウンジでお茶をした。当時はまだ周辺に高いビルがなく、遠くの方まで見渡すことができた記憶がある。
・ホテルニューオータニ本館(千代田区紀尾井町・1964竣工)東京の展望塔としては、飛鳥山の展望塔が有名だったが、残念ながら体験しないうちに解体されてしまった。東京近辺では西武園ゆうえんちにジャイロタワーという回転しながら昇降する展望塔があり、そちらには乗ったことがある。
17F「VIEW & DINING THE Sky」
・東京交通会館(千代田区有楽町・1965竣工)
15F「東京會舘 銀座スカイラウンジ」
ラシントンパレスの項でも書いたが、回るレストランは、客寄せのために造るのだろうが、その多くは廃止という結果になっている。世界的に見て、経済成長が著しい時に、庶民的な夢の具現化という形で回るレストランは造られているような気がする。だが日本の場合、もはやそういう感覚でレストランを選択する時代ではなくなっているようだ。展望や景色だけでは、レストランにお客は来てくれない。おいしくないと人気が上がらず、回す意味もなくなってしまう。
だが、ネットで回る展望台とか回るレストランを検索してみたところ、いろいろ出てきた。実は今でも回るレストランは結構あって、意外なことに比較的新しいものもあった。
おかしかったのは「回るレストラン」で検索すると、回転寿司や中華料理の店がかなりヒットすること。こちらはお客もろとも回るレストランを探していたのだが、料理が回るレストランがたくさんヒットした。現代においては客が本当に回ってしまうレストランは圧倒的に少数派なのだった。
「ぬっとあったものと、ぬっとあるもの 近代ニッポンの遺跡」ポーラ文化研究所、1998、という本には、回転展望台や展望レストランが列挙されている。
以下、ネットで調べた範囲で、○は現在も回転しているもの、△は回転していないが建物としては残っているもの、×解体されたもの。
国内海外の事例はちょっとだけ紹介されている。実際はもっと多いらしい。
○筑波山頂コマ展望台(つくば市、1959開業)
△ららぽーとTOKYO-BAY(船橋市)9F 現在は回転しておらず美容室
△千葉ステーションビル ペリエ千葉 RF(元千葉民衆駅展望台)
→現在は回転しておらずオフィスとして使用。
○ホテルニューオータニ(東京都千代田区、1964竣工)
○東京交通会館(東京都千代田区、1965竣工)
×ラシントンパレス(新宿区)2006解体。
×湯島プラザホテル(文京区)展望部分は客室に改装されていた。
2006年末でホテルじたいが閉館。既に解体。
△横浜ドリームランド・ホテルエンパイア(横浜市、1965開業・1995閉鎖)
和風の外観だが最上階に回転展望台があった。
現在は横浜薬科大学の図書館となり、内外が大幅に改装されているという。
参考記事(Wikipedia)
△中日ビル(名古屋市)現在は回転していない。参考記事1、参考記事2
△三ヶ根山回転展望台(愛知県、1963開業、2001閉鎖)
参考記事1、参考記事2
○須磨浦山上遊園回転展望閣(神戸市、1958開業) 参考記事1、参考記事2
×六甲山:回る十国展望台(1957完成、2002年営業終了、後に解体。)
増築され三層構造になっていた。参考記事1、参考記事2
△博多ポートタワー(福岡市)現在は回転していない。
参考記事1(Wikipedia)、参考記事2
△ホテルクリオコート博多(福岡市)
現在は回転レストランについての記載なし
○?沖縄都ホテル 15F スカイバンケット花笠
(HPには回転の記述がないが、現在も回転しているらしい。)
○那覇タワー(回転部分が二重になっている)
参考記事1、参考記事2、参考記事3
○?大連広播電視塔(大連)1997年火災に遭う。参考記事1、参考記事2この他、ネットで検索した結果、ヒットしたものは以下。もちろん国内でも探せばまだあるのではないかと思うけど。
○合和中心ホテル(香港)(1980竣工)参考記事(Wikipedia)
○京澳飯店(メトロパークホテル マカオ)
×ホテルフラマ(香港)数年前に無くなった模様。
○新錦江大酒店(上海)参考記事
○センチュリーロイヤルホテル(札幌)23F「スカイレストラン・ロンド」似たようなことを考える方は私以外にもやはりおられるようで、以下のようなBlog記事もあった。
△青森県観光物産館アスパム 14F 回転展望レストラン
(1986開業、2005.3まで営業。現在は閉鎖)
×犬吠スカイタワー(1968~1977撤去解体)回転昇降式・高さ30m
参考記事
○そごう柏店・14F 展望回転レストラン チャイニーズガーデン桃亭
→「市街をはじめ、はるかに富士山まで眺望を楽しめる」とある。
×飛鳥山公園スカイラウンジ(東京都北区、1970完成、1993解体。)
参考記事
○日本海タワー(新潟市、1970~現存)
同市水道局の南山配水場の屋上に設置されている回転式の展望台 参考記事
△豊田駅西ファッションビル T-FACE 11F
(以前は回転レストランだった。)
△比叡山頂回転展望閣(1959~、現在は回転していない。設計村野藤吾)
参考記事1、参考記事2、参考記事3
○リーガロイヤルホテル京都 14F フレンチダイニング「トップオブキョウト」
×神戸ニューポートホテル(1966営業開始、既に解体。)
昭和の終わり頃には既に回転していなかったらしい。参考記事
○瀬戸大橋タワー(1988~)参考記事
○ひろしま国際ホテル 14F レストラン&バー「ル・トランブルー」
△萩グランドホテル 6F(山口県萩市)
(昔は回るレストランだったらしいが、現在は回転しておらず、貴賓室。)
○ふくの関 火の山店(山口県下関市)
○ひびきタワー(北九州市)
回転展望レストラン知らないだけで他にもあるのかもしれないが、こうしてみると、なんだか西日本の方が多い気がする。東日本の人々はこういうのにはあまり関心がないのかしらん。
海外では、モスクワのオスタンキノテレビ塔と、本にもあった中国の大連テレビ塔で、回るレストランを体験したことがあるが、なぜかその後これらのタワーは火災に遭ってしまった。だから両方の回るレストランが現在どうなっているか知らない。上海の東方明珠電視塔は開業間もない頃に訪れたため、まだ回るレストランは営業していなかったが、現在はたしかあるはず。
本やネットによれば、どうも現在は中国にたくさん回る展望レストランがあるようだ。アメリカやオーストラリアなどにもあるようだが、ヨーロッパにはあまりないらしい。やっぱり回るレストランって、どちらかというとミーハー系というか無邪気なものなのかもしれない。
#失われた建物
#眺望
回るレストランつながりで、もう一つ。
湯島プラザホテル
所在地:文京区 湯島3-30
解体年:2007(平成19)
備考 :2006末閉館
Photo 2006.4.25
湯島プラザホテルにも昔は回転していたとおぼしき塔がついていた。春日通りを東へ、本郷の方から少し下っていくと、正面の角地に印象的な姿を見ることができた。下部の本体部分に比して回転部分が結構大きいのが特徴的。この建物のちょうど向こう側が湯島天神で、ホテルの右側の通りには鳥居がある。
回転部分はずいぶん前から回転しておらず、客室になっていたという。どういう部屋になっていたのかがちょっと気になるが、それはわからずじまい。一応、普通のホテルだったらしいが、場所柄もあり、そのへんは微妙なホテルだったのかもしれない。
今回調べてみたら、ホテルは2006年末で閉館し、既に解体されてしまっていた。おやおや残念。屋上のネオンサインが点いた姿を見ておきたかった。
Tokyo Lost Architecture
#失われた建物 文京区 #ホテル・旅館
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ラシントンパレス(羅府会館)
所在地:新宿区新宿2-5-12
階数 :10F
備考 :2006 解体
Photo 2006.2.19
新宿2丁目の方というのは、あまり馴染みが無く、最近まで実はよく知らなかった。数年前から、赤線時代の名残などを訪ねて、散策したりするようになって、ようやく様子を知ったのだが、この建物はその過程で、初めて知った建物。
最初、名前を見た時、ワシントンパレスの間違いじゃないかと思ったが、この建物はラシントンパレス。ラシントンの名の由来は知らない。検索してもラシントンという言葉が何を指すのかさっぱり分からなかった。
日本語訳?で羅府会館となっていたのも謎。羅府って何だ?、中国語なんだろうかと思い、「羅府」を検索してみると、ロサンゼルスのことらしい。中国語の漢字を元に日本語で当て字をつくったもののようだ。それならロサンゼルス会館とかになるはずなのに、ラシントンパレス。やっぱりよく分からない名前だ。
最上階は「SKY GYM」という施設(サウナ)だったという。ネットで調べてみると、ここは「発・展・場」注)と言われる場所になっていたのだそうだ。そういう世界を全く知らないので、へぇー、としか言いようがないのだが・・・。
円盤状の形が目立つが、やはり最初は回るレストランだったのだそうだ。客寄せのために造ったのだろうが、思ったほどお客さんが集まらなかったり、周囲にビルが建ち景色が悪くなって、次第に集客力が落ちたり、維持管理が大変になったりして、ある時点から回さなくなってしまったのだろう。
しかし、回るレストランなんて今では珍しいのではないだろうか。最近の学生などは知らないんじゃないかと思う。
注)漢字じゃなくてカタカナの方が良いのかもしれないけど、妙な業者等からのアクセスがやたらに増えそうなので漢字にしておきます。また自動検索ソフトに引っ掛からないように、なかぐろを文字間に入れております。悪しからず。
Tokyo Lost Architecture #失われた建物 新宿区 #商業系 #遊興施設
慶応機械開発研究所・石井溶接工業
所在地:中央区月島3-26
構造・階数:木?・2F
数年前に解体、解体年不明
Photo 2001.6.24
月島西仲通りの西南端にあった建物。外壁の様子からRCなのかと思っていたのだが、写真をよく見ると、寄棟状の瓦屋根だったことが判る。もしかすると木造だったのかもしれない。
工場建築系なので壁面にはほとんど装飾がない。縦長の少し大きな上げ下げ窓が並ぶが、角部分は閉じられていた。長屋などが建ち並ぶ月島の町外れに、長方形の大きな建物が佇む様は少々異様で、気になる存在だった。
撮影の時点で既に人気はあまりなく、ひっそりしていた。撮影当時の住宅地図では、機械開発研究所と溶接工業という二つの名が見られるが、船舶関連の仕事だったのだろうか。ちょっと謎めいた雰囲気の会社の姿なのだった。
Tokyo Lost Architecture #失われた建物 中央区 #オフィス
料亭・明月
所在地:墨田区向島5-23
建設年:1945(昭和20)頃
構造・階数:木2
備考 :2008.2解体
Photo 2007.5.27
料亭明月は、一年近く前に解体された老舗料亭。向島の料亭街に残っていた古い建物の中では、規模が大きく立派だった。跡地にはマンションが建つという。
以下、情報はリンク先のブログ記事を御覧下さい。私自身は二度ほど外から見ただけで詳細は知らないので、ここでは若干の外観写真のみに留めます。
月刊旧建築 > 向島の老舗料亭「名月」取り壊しへ(正しくは「明月」)
2007年春に向島界隈を訪れた時、立派な料亭があることを知った。向島界隈にはあまり詳しくなかったので、このような大きな料亭が昔のままの様子で残されていたのには少々驚いた。料亭じたいは都内でもまだところどころにあるが、大きなお店の場合、建て替えられて近代的なビルなどになっていることが多く、木造二階の古い建物で大きな庭を持つ料亭は、貴重だったのではないだろうか。ただ、下見の時点で既にお店の名前が消されていたので、そのうちに無くなってしまうのかもしれないなとは思っていた。
その後、講座での街歩き当日に通りかかったら、既に「解体工事のお知らせ」が板塀に貼られ、内部でも関係者が解体の準備を始めていた。そして、2008年になったら新聞にも記事が載った。最近は現地を訪れていないが、2月にも取り壊しとあったので、既にこの景色を見ることはできなくなったのだろう。
改めて写真を見ると、立派な枝振りの木が庭に何本もあることに気づく。マンションにする際は、これらの木もなくなってしまったのだろうな。
築60年余、確かに登録文化財級の建物だが、仮に文化財に指定されたとしても、保有して維持するのは大変だっただろうと思われる。このような物を残すためには建物を残すだけでなく、使いながら維持するための手段を考えなければならないのだろう。とすると料亭文化じたいを残さねばならないことになるが、時代、社会構造の変化もあり、これを取り巻く状況は厳しい。あとは区などに寄贈、移管して建築展示物として保存する方向だろうか。
他の近代建築や町屋などの場合もそうだが、暮らしたい都市の姿、都市の構造、そこでの生活のあり方、すなわちライフスタイルと、これらの古い建物の存亡は、結局は関連がある。建物や文化を残し、維持して行くために、少しの不便を我慢し、あまり「発展」しない、変化が緩やかな社会を選ぶか、発展し続け、古い物をどんどん捨て去る社会の流れに任せるか。究極的には、そのへんの選択が関わってくるような気がする。そう考えると、それは今後の私たちの生き方と根底ではつながっている。
地方都市に比べると東京は、変化しないことを選択するのが難しい都市だと、改めて思わずにいられない。
2010.11.09 訂正 正しい名称表記は「明月」でした。
Tokyo Lost Architecture #失われた建物 墨田区 #遊興施設
野村邸
お屋敷町・白金らしい立派な洋館も残念ながらなくなった。
野村邸
所在地:港区白金2-7
建設年:1928(昭和3)
構造・階数:木2
備考 :最近解体された模様。
Photo 1995.2.23
「ニッポン懐景録」というサイトに、2005年5月に撮影された写真が載っているので、ここ2、3年の間に無くなったようだ。
徒歩で訪ねると、傍らを高級外車がたくさん通り過ぎ、なんとなく落ち込むから、白金・白金台にはあまり行くことはない。そんなわけでずっとご無沙汰だったのだが、この建物の存否はずっと気になっていた。都心でこんなに立派な建物を個人で所有し続けるのは大変。代が替わったら、まず残らないだろうと思っていたので、いつかはマンションなどになるのだろうと危惧していた。
でも、意外といってはなんだが、比較的最近まで建物は残っていたようだ。Google Mapの航空写真でも、特徴のある屋根形状は確認できる。だから大丈夫かなと思っていたのだが、Google Street Viewのサービスが始まったので、改めて確認してみたら、やっぱり無くなってマンションになっていた。航空写真はちょっと古かったらしい。残念。
建物の規模が大きいだけでなく、敷地も広い。すぐそばに三光起業所有の服部邸のお屋敷(三光起業白金寮)があり、そちらはとんでもなく広くて中を覗き見ることすらかなわないので別格だが、こちらも結構大きな物件だった。
屋根上に小窓が並び、庭には棕櫚の木、玄関が西北側だったので、午後になると通りからの姿が明るくモダンな感じで、美しかった。反対側(庭側)は東南面で、これまた明るいお庭だったのではないかと想像される。
右手前側に斜めに突き出しているのは玄関上の高窓部分だろうか。正面のポーチ部分の屋根は少し緩やかで、屋根傾斜がカーブを描いて変化している。門のところから少し見えている姿と、塀越しにしか様子は分からなかったが、住んでみたくなる羨ましい洋館だった。
ニッポン懐景録 > 港区白金1~4丁目
Tokyo Lost Architecture #失われた建物 港区 #洋館・洋風住宅
理容ヤオ
所在地:品川区南品川5-10
建設年:戦前?
構造・階数:木・2
Photo 1995.7.26
1995年に研究室で行った都市景観調査の際に、南品川のゼームス坂の途中で撮った写真。2階部分の装飾がやや凝った、銅板貼り看板建築の床屋さん。三角形の頂部があるためか、プロポーションがやや縦長で、それがちょっと印象的だった。
2階部分は当初は縦長の三連の観音開き窓だったのだろうか。3つの半円形アーチが銅板貼りで造られている。また、頂部が切妻屋根の端部らしく、わざわざ瓦屋根のように銅板で造っているのが面白い。もしかすると本当の瓦屋根を端部だけ銅板で覆ってしまっているのかもしれない。
この建物は「下町や東京昭和遠ざかる」村岡秀男著、彩流社、2007の、p.67にも写真が載っている。2006年の写真では新しい建物が写っており、やはり数年前に建て替えられたようだ。
今年もよろしくお願いします。
2022.12.30追記
1936(昭和11)年発行の火災保険特殊地図に「床屋ヤオ」として名があり、建物が写真のものと同一かどうかは不明だが、ヤオという理容店は既に存在していたことが分かる。1953(昭和28)年発行の同地図では「八尾床屋」。ゼンリンの住宅地図(1973年以降)では「ヤオ理容室」と記されている。
全ての年の住宅地図(ゼンリン)をチェックしたわけではないが、2005年頃以降のものでは理容店としての記載がなくなり、仕舞屋・住宅になったようだ。現在の建物は写真のものとは異なるので、この頃に建て替えられたのかもしれない。ただ、妻入りの2階建てなのは以前と同じなので、もしかすると構造はそのままでリフォームしたのかもしれない。
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