10/02 白山神社東参道
10/03 白山神社の参道階段
10/04 白山通り沿いの階段
10/05 白山の狭いアプローチ階段
10/06 白山界隈
10/08 御殿坂・小石川植物園・播磨坂
10/09 日暮里富士見坂からの富士が・・・
10/10 小石川5丁目あたり
10/11 文京スポーツセンター
10/17 湯立坂と網干坂
10/18 湯島中坂
10/20 下谷箭弓稲荷神社
10/21 三組坂
10/22 清水坂
10/23 明神女坂
10/24 やぶそば
10/25 昌平橋あたり
10/27 神保町にて
本日は小ネタ
篠原学園(右)
所在地:千代田区神田神保町1-52
Photo 2011.10.9
神保町交差点から水道橋へ向かう白山通り沿いの建物。左はいわゆる怪しいビデオ屋さん。では右は?というと、実はこれ、篠原学園という専門学校。
ホームページを見ると、保育士・幼稚園教諭や、医療秘書・診療情報管理士というものを養成する学校らしい。もちろん学校法人。
優しげでフレンドリーな感じを出そうとして、よかれと思ってピンク色を使ったり、ガラスドアに水玉模様の金属パネルを付けている。また、夜間でも目立つように明るい照明が2階部分の道路際に付けられている。玄関まわりはモダンなデザインになっていて、ベタな学校の広告や、校章などがあまり見あたらず、重々しくなく軽快な感じ。
でも、あの~その~、なんていうのかな、建ってる場所がついてないというか・・・。誤解を与えるような結果になってしまってるよ~な気がする。
白山通り夜景
Photo 2011.10.9
建物上部のネオンもピンク。ピンクって使い方が難しい色だと思う。ちょっと別の「学園」に見えてしまったのは私が男だからでしょうか。考え過ぎなのかしらん。学校関係者の方、見てたらすみません。でもやっぱりこのデザインは損している気がする・・・。
保育士・医療事務になる東京の専門学校-篠原学園専門学校
#街並み 千代田区 #夕景・夜景 #学校
昌平橋からJR総武線神田川橋梁(奥は聖橋)
所在地:千代田区外神田2丁目 Google Map
建設年:1932年(昭和7)
全長 :56m
Photo 2011.10.9
総武線の橋はややアクロバティックなハの字型橋脚で神田川を斜めに渡っていく。昌平橋から見る神田川、総武線の橋と聖橋、丸ノ内線の風景は、昭和期にできあがった後世に残していきたい都市的景観の一つではないかと思う。鉄でなくても気になる、とても印象的な風景だ。日本橋川あたりの首都高速のように川の中に橋脚を立ててしまわず、橋脚自らも川を跨いでしまっているのは、まだ舟運がそれなりにあったためだろうか。
Wikiなどで確認すると、総武線は震災前までは両国が始発だったが、震災復興の際に中央本線に乗り入れる計画を立て、両国駅・御茶ノ水駅間の高架路線の建設と中野までの複々線化を行ったそうだ。というわけで、総武線の神田川橋梁と松住町架道橋は1932年(昭和7)に完成。
この写真を撮った昌平橋は1923年(大正12)、写真奥の聖橋は1927年(昭和2)の完成。煉瓦アーチが印象的な中央本線の一連の高架橋は、これより少し前の1904年(明治37)?~1912年(明治45)にかけての建設だそうだ。明治末期から関東大震災を経て、震災復興が完成する昭和初期までのおよそ30年弱の内に、徐々にしかし大掛かりに、現代でも機能し続ける都市基盤が整備され、そしてこの界隈の景観は激変を遂げた。
JR総武線松住町架道橋
所在地:千代田区外神田1丁目と2丁目の間
建設年:1932年(昭和7)
全長 :72m
Photo 2011.10.9
かなり高齢でなければ、この景色が生まれる以前の様子は知らないだろう。もしかするとそれまでこの界隈には、のんびりした川沿いの景色が広がっていたのかもしれない。そのような中で当時の鉄道関係者は、秋葉原駅も含む大規模かつ立体的な鉄道高架を構想して実現した。現代に生きる私たちもその構想力には驚かされるし、またその姿は現在もなお私たちを魅了する。震災から復興した東京という都市を象徴する意義深い都市景観であり、また、当時の技術者の景観構成力の凄さや到達点を感じさせる風景である。
Wikipedia > 中央・総武緩行線
きまぐれ旅写真館 > 第5回 橋 ~ 川を跨ぐ
> 鉄道橋(その3)
> 万世橋高架橋 (JR中央本線)
> 昌平橋架道橋 (JR中央本線)
> 紅梅河岸高架橋(JR中央本線)
> 松住町架道橋 (JR総武線)
> 神田川橋梁 (JR総武線)
> 神田川の橋(その2)
東京の古い橋 > 昌平橋・聖橋
#街並み 千代田区 #鉄道 #橋 #海・川・池 #ヴィスタ
かんだやぶそば(神田藪蕎麦)
所在地:千代田区神田淡路町2-10 Google Map
Photo 2011.10.9
夕暮れ時に有名なお蕎麦屋さんのあたりに辿り着く。この一角は戦災には遭わなかったため、古い木造のお店がいくつか建ち並んでいる。
しかし近辺にはビルが次々と建ち、いつのまにかここも超高層ビルの谷間といった感じに近づきつつあるようだ。
奥で建設中の超高層ビルは、WATERRAS TOWER RESIDENCE(ワテラス タワーレジデンス)という名で、淡路町二丁目西部地区北街区再開発によるもの。 41F、高さ164.8m。用途はオフィス・住宅(20階~41階:戸数333戸)・店舗で、2013年3月竣工予定だそうだ。。
ワテラスという奇妙な名は、住民、学生、就業者が担い手となったコミュニティの「輪を照らす」街づくり、ワ+テラス(和のモチーフを採り入れた段丘状の敷地形状)、WATER(水)+TERRA(地球)の三者から来ているという。3つもの理由を付けているのには笑ってしまった。そこまでするか・・・。
門の脇の板塀にもたれかかって本を読む少女が一人。両親は蕎麦を食べているが「私、蕎麦嫌いだから外にいる~」なんだろうか。なんだか不思議なとりあわせが気になる。
超高層ビルとパソコンの歴史
> WATERRAS TOWER RESIDENCE(ワテラス タワーレジデンス)
安田不動産 ニュースリリース(PDF)
三井不動産レジデンシャル > WATERRAS TOWER RESIDENCE
明神女坂?
所在地:千代田区外神田2-7と湯島1-2の間 Google Map
Photo 2011.10.9
神田明神の東南側にあるくの字に折れ曲がった階段。
階段下にあった建物が解体され、長らく空き地になっていてあまり良い景色になっていなかったが、北側にコンクリート打ち放しのビルが建ち、南側でも建物の建設が始まっていた。木造建物が建つ以前のような風情はなくなったが、街中らしい感じになってきたのはまだ好感が持てる。
神田明神には男坂はあるが女坂はない。男坂の北側にあった女坂は、現在は廃道になってしまったといい、HP内の境内図にも女坂は記載されていない。なので、今までは女坂とはせずに、新女坂?としていた。
ただ、直線的な男坂に対して、くの字型でやや狭く、男坂の南側にひっそりある様子は女坂的で、いくつかのサイトでも明神女坂として扱われたりしている。
「明神女坂」と記された掲示
Photo 2011.10.9
ところが最近現地を訪れてみたら階段の途中に「明神女坂」の文字が。発注者は千代田区。明神男坂もこの階段も区道だが、区役所内でもこの道は明神女坂と呼ばれているらしい。神社としては公式には認めていないのかもしれないが、周辺の人は既にこの坂を明神女坂として認識しはじめているのかもしれない。
東京23区の坂道
> 千代田区の坂(8)~神田明神方面 > 明神女坂
坂学会のページ > 全国・坂のプロフィール
> 東京23区の坂(千代田区)
清水坂
所在地:文京区湯島2-1と3-1の間 Google Map
Photo 2011.10.9
湯島天神前の道を南下すると清水坂に至る。神田明神の北西側にあるこの清水坂もなかなか良い景色を持った坂。タモリさんも坂道の本で語っておられるが、カーブしたり折れている坂は美しい。清水坂の場合、折れ曲がりはわずか5°程度なのだが、それが景色にアクセントを与えている。
坂を下りて蔵前橋通りを横断し、向かいの坂を少し上ると右側が東京医科歯科大学で左側は湯島の聖堂。そしてその先は聖橋、ニコライ堂だ。残念ながら湯島聖堂やニコライ堂は清水坂からは見えない。奥に見える高層ビルは御茶ノ水駅前の御茶の水サンクレール。その手前に聖橋があるようだが、ほとんど分からない。
清水坂の石柱
裏側に大正十三年一月と書かれている。
Photo 2011.10.9
坂道の東側の歩道上には「清水坂」と記された石柱がある。自治体が立てた説明標識には「大正時代に入って、湯島天満宮とお茶の水の間の往き来が不便であったため、清水精機会社が一部土地を町に提供し、坂道を整備した。そこで、町の人が、清水家の徳をたたえて、「清水坂」と名づけ、坂下に清水坂の石柱を建てた。」とある。
石柱には「大正十三年一月」とあった。関東大震災の翌年だなぁと思い、帰宅後、帝都復興街路事業の地図を見てみると、東京市執行の補助線街路として事業が行われた道だった。また周辺は全て震災復興土地区画整理事業が行われた地域でもある。ちょっと調べたら逆になんだかよく分からなくなってきた。
説明として微妙なのは「清水精機会社が一部土地を町に提供し、坂道を整備した。」という部分で、「会社が坂道の整備もした」とも取れるし、「会社が土地を提供した結果、(東京市が)坂道を整備できた」とも読める点だ。この坂はそもそも清水家が造ったのか、帝都復興事業に際して清水家が土地を提供して東京市が整備したのか、どちらなんだろう?
清水家が坂道を造ったとして、かつ帝都復興事業との関係を整理すると、以下のようになる。
清水坂自体は震災よりも前に清水家によって造られたが、震災後、帝都復興事業で拡幅整備され、その際、石柱が立てられた。大正5~10年に作成された1/10,000地形図にはこの道は画かれていないので、大正中期のわずかな期間の間のどこかで清水家が建設した後、すぐに震災になり帝都復興で再整備されたことになるが、可能性がないわけではない。
もう一つは、帝都復興街路事業と土地区画整理事業に際して、清水家が土地を提供して坂道ができた可能性。
清水坂という名が付いた由来もあるので、清水家が関わったのは事実だろう。だが、東京市は帝都復興街路事業として道路を整備している。また、区画整理事業を行ったのなら、地域が協力して減歩して街路分の土地を捻りだしたのだろう。大半を清水家が所有していたので、事実上、清水家が道路分を全て提供したのかもしれない。だから御苦労様、有り難うございますということで、石柱を立てたということだろうか。土地提供だけでなく道路整備も清水家がやったのか、整備は東京市なのか、そのへんは資料を細かく見ないと分かりそうにない。
帝都復興街路事業による整備についても看板でちょっと書いてあると、大正13年1月という石柱と坂の由来の関係性が分かるのだが・・・。細かいことなんだけど、気づいてしまうとどうも気になる~。
東京23区の坂道 > 文京区の坂(1)~湯島方面
坂学会のページ > 全国・坂のプロフィール
> 東京23区の坂〔文京区) > profile/清水坂
三組坂上から御徒町方面
所在地:文京区湯島3-5・12・13と14・15・19の間
Google Map
Photo 2011.10.9
湯島界隈では湯島天神前の道を境に東側が急激に落ち込んでいる。ここも武蔵野台地(本郷台地)の東端部で、奥の方は隅田川・荒川沿いの低地。急傾斜の場所だが、道路網はグリッド状で、この斜面にある坂は皆、見通しがよい。
坂が急に始まるので、坂上の交差点から見ると走っている車の一部が隠れて見えてしまったりするのが印象的だ。このような坂に出会うと、階段も良いけれど、坂にもいい坂があるなと思う。
三組坂の名の由来は、この地に住んでいた「三組の者」と呼ばれた人たちから来てるんだそうだが、そのへんは以下の坂道サイトに譲ることにして、とりあえず私は、この都市的な風景を愉しむことにしようと思う。
正面奥には、台東区台東2丁目の昭和通り沿いのマンションと、墨田区太平4丁目のオリナスタワー(139m、31F)、Brilliaタワー東京(159m、45F)の3者が重なって見えている。3者の中で一番高く見えているのは、錦糸町駅付近にある高さ160m近いBrilliaタワー東京で、これにもまた驚かされる。
東京23区の坂道 > 文京区の坂(2)湯島方面(その2)
坂学会のページ > 全国・坂のプロフィール
> 東京23区の坂〔文京区) > profile/三組坂
#階段・坂 文京区 #ヴィスタ #眺望
湯島駅のそばでなんだかすごい神社を発見。
下谷箭弓稲荷神社(したややきゅういなりじんじゃ)
所在地:台東区上野1-14 Google Map
Photo 2011.10.9
今まで何度かこの道は通っていたのだが、素通りしてしまっていた。木造2階の入口にくっつくように鳥居とお狐様があるのに気づき、おそるおそる中へ入ってみる。
通り沿いの建物内に祭壇があるのかと思ったがそうではなく、入ってみるとそのままこの建物をくぐってしまう。
社殿と銀杏
旧社殿・御神木は関東大震災により類焼。
焼け残った神木を資材として現社殿を造営。
1979年(昭和54)に再建50周年を記念して修復され現在に至る。
→大正末~昭和初期に建てられた社殿らしい。
Photo 2011.10.9
建物にほとんど接するように2本の銀杏の木が立っていて、更にそのすぐ先にお社が建っている。なんだこりゃ?
改めて外に出てみると、上の写真で見ても分かるように、奥に銀杏の木が聳えている。境内地がかなり狭い神社で、参道の上部に社務所を作ったのだろうか。
あれ、でもこの2階はどうやって上るんだったかな? チェックしてくるのを忘れてしまった。2階が社務所というのも仮定なので、本当のところは今のところ分からない・・・。
もともとは武家屋敷の境内に祀られていた邸内社だったようで、だから今もかなり狭い場所にひょっこり鎮座しているようだ。しかし、それでもビルなどにならずに存続し続けているのには驚く。
WithFox~江戸の石狐~ > 江戸の お稲荷さん
> 箭弓稲荷神社
#神社 #古い建物 台東区
中坂 湯島中坂下交差点の東側から
所在地:文京区湯島3-21~24と25~29の間 Google Map
Photo 2011.10.9
遠くから見ていいなぁと思う。もちろん坂のこと。
中坂途中の出桁家屋とモルタル看板建築
所在地:文京区湯島3-28
Photo 2011.10.9
坂沿いには昔はもっと多くの出桁町屋や看板建築が建ち並んでいたが、多くがマンションなどに建て替わり、残るものは少ない。
上げ下げ窓があるモルタル看板建築は、後ろがマンサード屋根(平入り)になっている。
東京23区の坂道
> 文京区の坂(2)湯島方面(その2)
坂学会のページ > 全国・坂のプロフィール
> 東京23区の坂(文京区) > profile/中坂
#階段・坂 文京区 #古い建物 文京区 #街並み 文京区
以前は大して気に留めていなかった湯立坂と網干坂。でも調べてみたらなかなか興味深い名前だった。
湯立坂(ゆたてざか)
所在地:文京区大塚3丁目と小石川5丁目の間 Google Map
Photo 2011.9.27
湯立坂の標識には、「里人の説に往古はこの坂の下は大河の入江にて氷川の明神へは河を隔てて渡ることを得ず。故に此所の氏子ども此坂にて湯花を奉りしより坂の名となれり。」と、昔の記録(江戸志、御府内備考)に記されていると書かれている。標識板の方には更に、
我方を 思ひふかめて 小石河
いづこを瀬とか こひ渡るらむ
道興准皇「廻国雑記」(文明18年(1484)6月より3月までの
北陸、関東、奥州諸国の遊歴見記)より。
とも記されている。坂下の小石川(千川)は、室町時代には船でも渡りにくい大きな河だったようなのだ。
網干坂(あみほしざか)と簸川神社
所在地:文京区千石2丁目と白山3丁目の間 Google Map
Photo 2011.10.3
網干坂の方も、昔は坂下の谷地が入江になっていて舟の出入りがあり、漁師が網を干していたという話から付いた名だという。大きな川だったから舟で漁をする漁師もいたということだろうか。小石川の方には旧戸崎町という町があるが、この町名も岬の地形から付いたとか、船が舳先を並べて泊まったことから舳先町になり、それが変化して戸崎になったという話があるそうで、なにかと川や海に関連のある場所である。
約6,000年前の縄文時代前期には、気候変動により現在より海面が数m高かったそうだが(縄文海進)、坂下の共同印刷通りとの交差点付近の現在の標高は9.5mなので、やはりその頃でも海ではなかっただろう。だが小石川植物園内では貝塚が発掘されているとのことなので、海に近かったことは事実らしい。また、現在と縄文海進時の海面の差については、2~10m程度まで諸説あるそうなので、縄文期に坂下の谷地が海中だった可能性も無くはない。
もちろん室町時代は当然それよりずっと後なので、海水面が高く海だったなどということはない。ただ、谷地はほとんどが湿地や水田で、川の水量もかなりあって、船で往き来するような場所だったようだ。水郷のような場所をイメージすれば良いのだろうか? 徳川家康が江戸に来た頃でも現在の大手町のあたりまでは日比谷入江が入り込んでいたというので、それより前の室町時代なら、小石川近辺が川の入江近くだったというのも分からなくはない。でもやはり、今の街並みを見ていると、大河の入江だったなどということは俄には想像できない。
大正期に宅地化が進み、洪水がたびたび起こるようになったため、千川(小石川)は1934年(昭和9)に暗渠とされ、千川通りになったという。今では川の痕跡を示すものもほとんどなくなっているが、水辺の記憶が相対する二つの坂名に残されて生き続けているのが興味深い。
東京23区の坂道
> 文京区の坂(13)~大塚・千石方面 網干坂・湯立坂
坂学会のページ > 全国・坂のプロフィール
> 東京23区の坂(文京区) > 網干坂・ 湯立坂