都市徘徊blog

徒然まちあるき日記

2024年11月 記事一覧

2024-11-30 | 記事一覧 

11/03 旧川越保健所/川越市勤労会館
11/06 加藤家住宅
11/09 大黒湯
11/12 理容室ハシモト
11/15 久長家住宅
11/18 福隆美術工芸
11/24 尾張町ビル・英國屋
11/27 旧湯浅屋、細越菓子店

Tokyo Lost Architecture   日本国内の建物や街並み 
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旧湯浅屋/細越菓子店

2024-11-27 | 中央区  


 Photo 2001.4.22

 
 
所在地:   
構造・階数: 
建設年:   
解体年:   
左:湯浅屋
(H邸、N邸)
中央区 築地7-10-1  
木・2
1935(昭和10)頃
2020〜21(令和2〜3) 
右:細越菓子店、
クリーニング ユニバース築地店
同左
木・2
震災後〜戦前
2018(平成30)初

 築地、あかつき公園のそばにあった2棟の銅板張り看板建築。あかつき公園の場所はかつては隅田川につながる明石堀という運河で、公園は1970(昭和45)年に運河を埋め立てて造られた。この看板建築はその明石堀に架けられた南明橋の橋詰近くにあったもの。

 左側、角地の建物は、瓦葺きの屋根を隠しておらず、角地に面して屋根も面を取っている。下記、中央区の「中央区近代建築物調査」のページによると、湯浅屋という海産物問屋として建てられたものだったそうだ。
 戦後の1950年発行の火災保険特殊地図では麻雀屋、1965年の住宅地図では日山電機KKとして記されているが、70年代以降は仕舞屋で住宅になっていたようだ。

 右側の建物も、下記、中央区のページによれば「コンクリート製の床に砂を敷き、板床を貼り、乾燥が必要な海産物問屋の設えが残されている。」と記されている。
 こちらも戦後は業態が替わったようで、1950年の火保図や1965年の住宅地図では「細越商店」、その後は「細越菓子店」となっていた。写真の頃は菓子店も既にやめていたかもしれないが、その後も建物は残されていた。

 残念ながらこれらの建物は、平成の終わりから令和に掛けて解体された。築地界隈には第二次大戦の空襲被害から免れていた地区もあり、震災後から戦前に建てられた銅板張り看板建築が数多く残されていたが、老朽化や代替わり、マンション・オフィス需要の高まりなどもあって、近年は解体されることが増え、それらは少なくなっている。

中央区ホームページ/湯浅屋
細越菓子店/築地7丁目 - ぼくの近代建築コレクション

Tokyo Lost Architecture
#失われた建物 中央区  #看板建築  #銅板張り看板建築 
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尾張町ビル

2024-11-24 | 中央区  
尾張町ビル
所在地:中央区 銀座6-8-3
構造・階数:SRC・7F(当初は6F)
建設年:1933(昭和8)
解体年:2010〜11(令和2〜3)
Photo 2008.1.26

 銀座中央通りのひとつ西側のすずらん通りとみゆき通りの交差点に面して建っていたビル。

 英国屋があったビルという印象だったが、調べてみたら英國屋はこのビルの完成当初から入居していたわけではなかった。
 下記、英國屋のサイトと50年史によれば、同社は日本橋丸善裏で小林洋服店として1940(昭和15)年に創業。1952(昭和27)年に銀座四丁目で(株)英國屋を設立。銀座六丁目店は1953(昭和28)に開店したという。

 従って1950年の火災保険特殊地図では尾張町ビルはあるが、英國屋の名は入居していた店としてはまだない。建物は当初は6階建てで、当時入居していた店としてはTuji洋品、一番(料理店)、バーカジノシローの名が見られる。

 90年代の住宅地図で見てもかなり多くの店やオフィスが入居している。当時、英國屋は1階に店舗、3階に事務所が入っていた。みゆき通りに面していたフタバヤ靴店も同様。尾張町ビルの事務所は4階。1Fには他に陶芸社、マリリン、バー龍、今泉商会の名があり、B1Fにはパブも入居していたようだ。路面店以外のテナントや上層階への入口は写真左手、すずらん通り側にあった。
 大きなビルだったので大きな会社の事務所が多くを占めているのかと思っていたが、実際は多くの店舗やオフィスが入居するテナントビルだったらしい。


 Photo 1995.4.30

 1階は石張り、2階から上は塗装。1階と2階の境部分以外には装飾らしいものがなかったが、縦長の上げ下げ窓があるためクラシックな感じに見えていた。また、すずらん通り側に並ぶ自販機の後ろの開口部はガラスブロックになっていた(当初からのものだったのかは分からない)。

 英國屋は現在は晴海通りより北側のエリアに店を構えている。尾張町ビルの解体直前まであったと思っていたが、2009年11月時点のGoogleストリートビューでは「ロンドンからくり博物館」になっており、英國屋は2008年かその翌年には銀座六丁目店を閉じたようだ。

 なお、同所には2012年8月に銀座尾張町タワービルが竣工している。

オーダースーツの銀座英國屋|東京・大阪に5店舗で創業80年
英國屋50年史

尾張町ビル、第三高嶋ビル/銀座6丁目 - ぼくの近代建築コレクション

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#失われた建物 中央区  #近代建築  #オフィス  #商業系 
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福隆美術工芸

2024-11-18 | 中央区  
福隆美術工芸
所在地:中央区 銀座2-11-4
構造・階数:木・2
建設年:戦後まもなく
解体年:2019(平成31/令和元)
備考 :福隆美術工芸は1968年頃開店、2019年に八丁堀に移転。
Photo 2006.4.7

 昭和通り沿いにあった骨董店。歩道に張り出して「刀」と大書された看板が目立っていて、古めかしい店の様子とも相俟って印象的な建物だった。


 Photo 2007.5.26

 一帯は戦災で焼失した地域で、古そうに見えたこの建物も戦後まもなくに建てられたものだったようだ。下記『銀ぶら百年』によれば、当初は和菓子屋で、その後は雀荘だったという。昭和40年代に骨董店としたそうで、画家の先代が絵を売り、骨董屋も始めた。そして2代目になって刀剣や鎧などの武具が中心になったのだという。

 下記、同店のサイトによれば、銀座で51年間営業した後、2019年4月に八丁堀に移転したという。なので、逆算すると1968(昭和43)年頃に開店したということになる。


 Photo 2007.5.26

 新店舗はきれいなビルの1階。店内も恐らくきれいなのだろうが、骨董店としては時間が止まったかのような姿をした店の方が似合っているような気がしてしまったりもする。ただもちろんそれは見る側の勝手な期待。廃屋のようだと入りづらくなってしまうし、古い建物で店を続けるのには問題も多い。貴重な商品を扱うお店が老朽化した建物から移転するのはやはり自然な成り行きなのだろう。昔の姿はひとまず写真で残しておくことにするのが良いのかもしれない。

福隆美術工芸 公式ホームページ
参考『銀ぶら百年』泉麻人 著、文藝春秋 刊、2022

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久長家住宅

2024-11-15 | 中央区  
久長家住宅・アトリエ久長
所在地:中央区 入船1-6-6
構造・階数:木・2
建設年:1929(昭和4)
解体年:2020〜21(令和2〜3)
備考 :元 米屋の建物
Photo 2013.10.13

 出桁造りの町屋。下記、中央区の「中央区近代建築物調査」のページによれば、米屋として関東大震災後の1929(昭和4)年に建てられたものだったそうだ。

 震災後の都心商業地では、銅板張りなどで洋風に見せた看板建築が多く建てられたが、そのようななかこの米店は在来型の立派な出桁造りを建てた。ただ、1階の店舗の軒先は銅板張りのベランダにしていて、在来町屋とは少々異なる。また、2階の戸袋も銅板張り、側面はモルタル塗り(これは後年の改装だったのかもしれないが)。昭和初期の状況を踏まえて、防火と少しの洋風化を考えたのかもしれないと思わせる。

 後方の別棟はギャンブレル屋根。こちらも屋根裏3Fだったようだ。

 戦後の1950(昭和25)年の火災保険特殊地図では「久長工具」となっているが、1970年代以降の住宅地図では個人宅で仕舞屋だったようだ。2000年代頃以降は「アトリエ久長」。Google ストリートビューでは、2020年2月までは存在を確認できたが、2021年6月の画像では既にコインパーキングで、この頃に解体されて消失したようだ。

中央区ホームページ/久長家住宅

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理容室ハシモト

2024-11-12 | 千代田区 
理容室ハシモト
所在地:千代田区 神田須田町1-30
構造・階数:木・3
建設年:戦前?
解体年:2016(平成28)
Photo 2014.3.16

 神田須田町、靖国通りから南へひとつ入ったところにあった、角地モルタル看板建築。1階は改装されていたらしくタイル張り。上部に小さな切妻屋根が見えていたので、ギャンブレル屋根を用いた屋根裏3階だったのかもしれない。壁面が下から真っ直ぐ立ち上がっているので事実上普通の3階建てだったけれど。。

 戦前、1935(昭和10)年の火災保険特殊地図では、店名はないが「床屋」と記されており、恐らく戦前に既に開業していた店だったようだ。一帯は戦災では焼失しなかった地域なので、建物もあるいは戦前のものだったのかもしれない。

 同所では写真周辺の建物がほぼ同時期にみな取り壊された。その後、街区全体が開発され、2018年にパークホームズ千代田淡路町という12階建てマンションが竣工している。

神田万彦、理容室ハシモト/神田須田町1丁目

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大黒湯

2024-11-09 | 足立区  
大黒湯
所在地:足立区 千住寿町32-6
構造・階数:木・1
建設年:1929(昭和4)?、1945(昭和20)?
解体年:2022(令和4)
備考 :1929(昭和4)創業。2021(令和3)閉店。
Photo 2001.5.27

 国道4号線から西へ入ったところにあった立派な銭湯。軒高が高く、入母屋屋根前面には大きな破風が付く。玄関部も入母屋と唐破風を組み合わせたもので、宮造り型の銭湯の中でもひときわ豪華なものだった。

 創業は昭和初期。下記『東京都の近代和風建築』には、「昭和4年の建立と伝えられる銭湯」と記されていて、建築年は「昭和4年(1929)(口伝)」とされている。そして、「建物は昭和32年に清水産業有限会社所有になったのを契機に、改修整備され現在の姿に至っている。」とも記されている。

 一方、周辺は戦災で焼失したエリアで、大黒湯も戦後再建されたものだったという話もあり、それによると戦後すぐの1945(昭和20)年に建てられた、ということになっていて、ネットでもこちらを記しているサイトがいくつかあり、私にはどちらなのか分からない。

 ただ、戦後すぐの時期は住宅等では資材統制がされていて豪華なものは造れなかった。銭湯は規制されなかったのかどうか知らないが、資材も不足していたはずなのに立派な建物が建てられたのには少々驚かされるし、やや違和感がある。ただこれも、戦後すぐには暫定的な建物を建てていて、上にもあるように昭和32年に改修されて立派になったということなら納得できるわけで、結局、建設年については私はよく分からない。

 銭湯研究の第一人者で庶民文化研究家の町田忍氏が「キングオブ銭湯」と呼んだとされ、ファンの間でも著名な銭湯だったそうだが、2021年6月30日に営業終了し、建物は翌2022年4〜9月に解体されたという。ただ、玄関の唐破風だけはクラウドファンディングを経て安養院(千住5-17)に移設されている。

参考『東京都の近代和風建築−東京都近代和風建築総合調査報告書』
  東京都教育庁地域教育支援部管理課 編集・発行、2009

大黒湯の解体現場で、 - 荒川三歩

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加藤家住宅

2024-11-06 | 埼玉県  
加藤家住宅
所在地:川越市 連雀町11-8
構造・階数:木・2
建設年:明治30年代(1897〜1906)
解体年:2023(令和5)
備考 :川越市有形文化財。上写真の時期は、小松屋和菓子店。
    右の家屋はこの頃には既に仕舞屋で、その後解体。
Photo 2001.2.15

 大和屋という金物商の店蔵として明治30年代に建てられたものと推定されている。正面側は土蔵造りで、他の外壁は大谷石をコの字形に巡らせており、川越の蔵造りの中でも特徴的な建物だったという。


 手打ちそば「連雀」だった頃  Photo 2009.7.19

 貸し店舗としていたようで、1990年代や2000年代半ばまでは和菓子店だったが、その後はそば屋になり、2010年代後半にはイタリア料理店になっていた。


 Pizzeria Wood Bakersとなった後の様子  Photo 2022.10.28

 外壁が両側にせり出しているのも特徴的。隣接地の仕舞屋が建て替えられて後退したため、この頃は側面の大谷石の外壁が良く見えていた。大正浪漫通りの中でも立派な建物のひとつだった。


 焼失後  Photo 2023.1.27

 2023.1.20の夜に火事が起こり全焼。翌週に川越に行く機会があったため訪れたところ、前面の土蔵造りの壁面や側面の壁は残っていたが屋根は落ちており、また後方は全て焼け落ちてしまっていた。
 その後、再建されるのだろうかと気になっていたが、再建にはやはり高額の費用が掛かるそうで、残念ながら解体されることになり、同年7月頃に解体された。跡地は2024年4月時点でもまだ更地。

川越市の近代建築
指定文化財の建物が全焼 埼玉・川越「大正浪漫夢通り」のレストラン [埼玉県]:朝日新聞デジタル
再建に億の費用…築120年、川越の蔵造りの文化財全焼 無念の解体 [埼玉県]:朝日新聞デジタル

日本国内の建物や街並み
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旧川越保健所/川越市勤労会館

2024-11-03 | 埼玉県  
川越市勤労会館・川越地方労働組合連絡協議会/旧川越保健所
所在地:川越市 六軒町2-15-2
構造・階数:木・2
建設年:昭和初期
解体年:2020〜22(令和2〜4)
Photo 2001.2.15

 かつては川越保健所だった建物だそうだが、いつごろまで保健所だったのかは未把握。古い住宅地図を検索したところ、1970(昭和45)年には既に勤労会館になっていたので、保健所だったのはかなり前のことだったようだ。

 一方、下記「川越の歴史年表」によれば、川越保健所の設置は1944(昭和19)年とのこと。建物が保健所として建てられたのなら、戦時中ということになるが、それだと他の情報で見た昭和初期に建てられたという話と少々異なる。昭和初期に建てられた時はまた別の用途で、後に保健所になったということかもしれないが、そのあたりの詳細はネット情報では分からず。

 建物は洋風の下見板張りで日本瓦葺き。木造の事務所建物なので装飾等はなし。窓もアルミサッシに替えられていた。南側のスペースには後から車庫屋根が作られ、自転車が数台駐められていたりして、最後の頃までいろいろ使われていたようではあった。


 Photo 2009.7.19

 Googleストリートビューで確認したところ、2018年4月までは建物外にエアコンの室外機が置かれていたが、2018年9月の画像では室外機がなくなってポスター類も無くなり、2019年には周囲にチェーンが巡らされ封鎖されていた。2020年の画像まではその状態のまま存在していたことが確認できるが、2022年末の画像では解体されて跡地はコインパーキングになっている。
 どうやら、建物は2018年頃に使われなくなり、2020年秋から2022年までの間に解体されたようだ。

川越市の近代建築
川越雑記帳(川越原人のホームページ)川越の歴史年表

日本国内の建物や街並み
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