04/01 初日(東京ミッドタウン)
04/05 謎の木造建物(下落合・山楽ホテル裏)
04/07 Google Mapで地図づくり2
04/09 神田神保町3丁目(東京新旧写真比較-No.6)
04/16 Photolog(写真日記について)
04/16 愛宕山から(静岡市内の風景)
04/17 銀座にて(Dior 銀座とGUCCI 銀座)
04/18 茨城県東京宿泊所(根津・失われた近代和風建築)
04/19 大塚4丁目(3階建て看板建築)
04/20 旧服部別館(銀座・失われた近代建築)
04/21 味の素記念館(高輪・失われた近代和風建築)
04/23 森田電機店(谷中・失われた看板建築)
04/24 東上野・噺家長屋(失われた木造長屋)
04/25 淡路町交差点そば(東京新旧写真比較-No.7)
04/27 中野四十五番街(失われつつある横丁空間)
04/29 萩原木材(南品川・失われた出桁商家建物)
04/30 早稲田大学第二学生会館(失われたモダニズム建築)
複雑な歴史を持ち、ある時代のシンボルでもあった建物。
早稲田大学第二学生会館
所在地:早稲田鶴巻町516
建設年:1965(昭和40)
構造・階数:RC6
設計 :武 基雄
備考 :1990改修、2002秋解体・建て替え
Photo 2002.6.19
早稲田大学理工学部建築学科の、武 基雄 教授の設計により建てられた学生会館建物。部、サークルなどの部室が入居した建物だった。中二階を多用し、あちこちにたまり場空間がある建物だったと記憶している。昭和初期の校舎が建ち並ぶ西早稲田キャンパス周辺では、この建物はやや異色の存在だったかもしれない。 建物外側をジャングルジムのように柱梁が取り囲む。各々の柱は、二本一組で、角部分は各面に一本ずつになっている。柱に掛かる加重から考えた合理的なデザインらしい。
しかしこの建物は不運な建物だったといわれる。建設後すぐに、学生運動の時代を迎え、学生会館は運動の拠点となり、大学当局との争いの現場になったという。当時の新聞写真を見ると、活動家・学生が、大隈講堂と学生会館に立てこもり、機動隊が周囲を取り囲み、放水したりしている。そしてこの後、第二学生会館は長らく閉鎖されてしまったのだそうだ。
当時の写真は、毎日新聞のMAINICHI Photo Bankで御覧下さい。キーワードに「早稲田大学 第二学生会館」と入力して検索すると、1969年9月3日の攻防時の航空写真を見ることができます。(データベース内のページにダイレクトにリンクを貼るのは控えます。)
諸々の記載から、第二学生会館について適宜整理すると、
1965年 竣工
1969年4月 第二次大学紛争(本部と第二学生会館を学生が占拠)
1969年10月 機動隊を導入して、占拠を強制解除。以後閉鎖
1980年 部分的に利用再開
1990年 改修工事の後、全館の利用再開
1995年 戸山キャンパスに新学生会館を建設することになる。
1998年 新学生会館着工
2001年 第一、第二学生会館の利用中止と解体が決まる。新学生会館完成・利用開始
2002秋 第二学生会館の解体開始
2006年2月 跡地に大隈記念タワー(26号館)完成
ということにおよそなる。ここでは運動の詳細等について述べる気はない。当時、私はまだ生まれたばかりで、現場をリアルタイムで体験したわけでもないし、当時の空気を理解しているわけではないので、軽々にこの顛末についてコメントすることは不可能だ。興味のある方は、また別にお調べ頂きたい。あくまでここでは、建築物としての記述にとどめる。
私自身は、大久保工科大学などと呼ばれた理工学部に居たので、この建物にはほとんど縁がなかった。建築的に見たとき、第二学生会館は、構造体を表現の一部とした、モダンなデザインで、どちらかというと好きだった。また二本一組で細く見える柱が、どことなく和風建築的で繊細な印象をもたらしていたようにも思う。
だが、内部についての私のイメージはあまり良くない。建物内に入ったのは、もちろん改修後だが、あまりきれいではなかった気がする。大学が最低限のことしかしなかったからかもしれないし、部室があるスペースなんて、どこでも雑然としているのが当たり前だったのかもしれない。だが、なんだか独特の雰囲気が漂っていた気がするのも確かだった。多くの学生が出入りする建物なのだが、建物にコミュニティが存在するような感じ。部外者である私などが出入りするのが、かなりためらわれる雰囲気を持った建物だった。
竣工当初は違っていたのかもしれないが、紛争の際、火を焚いたり、火炎瓶を投げたり、また放水で水浸しになったりして、建物のコンクリートなどはかなり傷んでいたとも云われる。実態としての劣化と、独特の経緯からくる薄暗さが、マイナスイメージを私に与えたのかもしれない。
学生当時は、上述のような歴史のある建物だということはよく知らなかった。大学紛争時の砦だったという話ぐらい。長期間閉鎖されていたということもよく分かってなかった。でもこうして建物の歴史を見てみると、早稲田において、学生運動の一つのシンボル的な建物だったのだなぁと改めて思う。それは、裏返せば、大学としては負の遺産、負のシンボルで、これを建て替えて、消し去ることは、当時の清算でもあり、ある意味、悲願だったのだろうなと思われる。だから解体決定から利用中止、退去に至る過程では、実力による排除など、かなりのことがあったようだ。
新学生会館の建設にあたっては、以前の学生会館が老朽化とともにやや手狭になっていたということもあったようだ。学生会館が6階建てと聞くと、そんなに大きいのに手狭とは、と思われるかもしれないが、なにしろ早稲田は学生だけで数万人で、ちょっとした地方都市よりも人口が多い。20m四方の6階建てビルでは、とても収容できなくなっていたのは事実だ。新学生会館は11階建てで床面積も相当大きくなったが、それでも全てが入居できたわけではない。
さて、第二学生会館は5年ほど前に解体された。解体後、引き続いて、大隈記念タワー(26号館)の建設が行われ、2006年2月に完成、昨年から共用が開始されている。新しい建物は、学生会館ではなく、大学院などの研究室と、校友会スペース等として利用されている。本屋さんなどがあった一角も買収され、現在は総合設計制度に基づく芝生の公開空地になっており、人々が行き交っている。
今ではほとんどの現役学生は、第二学生会館を見たことがない。建物の解体とともに、記憶も資料の中だけのものとなり、過ぎ去ってゆくのかもしれない。
Tokyo Lost Architecture
#失われた建物 新宿区 #早稲田大学 #モダニズム
品川宿の旧東海道沿いに建っていた出桁造り商家。
萩原木材
所在地:品川区南品川2-7-6
構造・階数:木・2
解体年:1998〜2000(平成10〜12)頃
Photo 1994.2.6
10年以上前に撮影した立派な出桁造り商家。昨年、再び品川宿界隈を訪れた際に、残っていることを期待して探してみたのだが、この木材屋さん自体が廃業したらしく、どこにあったのかさえ分からなくなってしまった。
仕方がないので、都立中央図書館で昔の住宅地図を見て、ようやく旧所在地を確認。撮影時に無精をして所在地を記録せずにいると、後で却って厄介なことになる。
長い角材や板が屋外に立てられた、昔ながらの木材問屋さんというのも、都内では次第に減っているような気がする。通りかかると木の香りがしたりするのが懐かしいのだが。
掘り下げて資料探索したわけではないので、建設年までは知らない。二階建てで背丈が比較的高いところからすると、江戸期ではなく、明治〜昭和初期の建物だったのではないかと思う。
品川宿にはまだ、出桁町屋や看板建築がいくつか残っている。旧東海道の宿場ということでPRしている面もある商店街で、休日ともなると、街道を歩く中高年の方々も少なからずいる。それだけに、古い建物を使いながら残せれば、観光的にも魅力的だと思うのだが、廃業したりしてしまうと、やはり木造の古い建物を残すのは難しいのだろうな。
2022.12.30追記
1936(昭和11)年発行の火災保険特殊地図では「○○木材」もしくは「長浜木工所」と記されているようだが、文字が明瞭ではなく正確には読めない。1953(昭和28)年発行の同地図では、既に「萩原木材」になっている。また、1998年発行の住宅地図には掲載されているが、2001年の同地図では既になくなっており別の施設に建て替えられている。
Tokyo Lost Architecture
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東京新旧写真比較(1981/2007) No.7 千代田区神田淡路町1-2付近
簡単に分かりそうだが、最初はさっぱり分からなかった場所。
Photo 1981(ノーマル時)、Photo 2007.1.28(マウスオン)
「宛名印刷機 アベアドレス」という看板が大きく掲げてあるので、ちょっと探せば見つかるだろうとタカをくくったのだが、これが大間違い。
実は、私はこの建物を今まで全く見たことがなく、写真で見るのも初めてだった。それでも都心の建物やお店なら、ネットで検索すればすぐに見つかると思った。ところが、現在の千代田区内にアベアドレスは無かった。住宅地図を眺めてもなさそう。
予想が外れて、いきなり手掛かりを失い、途方に暮れてしまう。仕方がないので、画像を拡大して、手掛かりを懸命に探してみると、電柱に取り付けられた看板に「かんだ やぶそば →この先」とあるのを発見。となると、やはり藪蕎麦の近くで、片側2車線以上の交通量の多い通りで、角が鈍角ないしは面が取られている交差点、ということになる。しかしこれだけでは場所特定の決め手にはならない。
「かんだ やぶそば」の電柱広告と3階建て看板建築
参ったなぁ、迷宮入りかと思い、がっかりしつつ、ふと左端の3階建て看板建築を見た時、あれ、どこかで見たことあるなぁ、変だなーと、ぼんやりした記憶が・・・。でもこんな看板建築を神田界隈で見たことは無いし、写真集かなんかで見たのかなぁ?、おかしいなぁ・・・、というわけで必死に思い出してみる。
しばらく脳内を検索して出てきた答えは、小金井の江戸東京たてもの園で見た、という記憶だった。3階の窓の両側に付く、楕円形の飾りが記憶の片隅に埋め込まれていて、神経衰弱ゲームよろしく、図像が重なったというわけ。移築後の様子しか見ておらず、元の場所では見ていなかったので、最初は全然わからなかった。どうりでなかなか思い出せなかったわけだ。
花市生花店(江戸東京たてもの園移築後の様子)
旧所在地:千代田区神田淡路町1-2
建設年:1927(昭和2)
Photo 2002.1.14
早速、江戸東京たてもの園のHPなどで旧所在地を確認して、淡路町の現場へ行ってみる。さてはて、現地には昔の面影は全くなかった。3棟の建物は1つの大きな建物に置き換わっていた。鈍角の角地部分はカーブした壁面になっていた。アベアドレスも当然ない。
ただ、電柱はまだ立っていた。電線の張り方は変わったが、やぶそばの看板も健在。もちろん電柱も看板も新しいものに交換されたりしたのだろうが、やぶそば看板の案内矢印は全然変わっていなかった。
手前の交通量の多い通りは、外堀通りだった。車がたくさん止まって写っているのは、淡路町の交差点で引っかかっていたから。このへんの状況は現在も変わっていなかった。
スライドからまだ見ぬ場所を探し出す作業は、推理ゲームのようで楽しい。始めるとやみつきになる。
ところで、最近になって、広尾にある都立中央図書館で、古い住宅地図を閲覧したところ、確かに神田淡路町1丁目に「アベアドレス」が掲載されていた。隣の出桁造りは、志のだ寿司の建物(反対側に移転して仕舞屋?)だった。古い住宅地図を見れば、比較的簡単に場所が分かったのかもしれないが、敢えて写真と記憶を頼りに探すのも一つの楽しみ方。ぼくの近代建築コレクション > アベアドレス/神田淡路町1丁目
#東京新旧写真比較 千代田区 #失われた建物 千代田区
#古い建物 都下 #移築保存
同潤会上野下アパートの正面にあり、噺家長屋と呼ばれた長屋建物。
通称 噺家長屋がある木造家屋群
所在地:台東区東上野5-1
構造・階数:木・2
Photo 1994.6.22
写真に写っている一連の木造家屋の内、奥の方に見える四軒長屋部分を指して、噺家長屋と称していたらしい。一連の木造家屋群をまとめてそう呼んでいたのかと、最近まで思っていたが、どうもそうではないらしい。四軒長屋部分は数年前に取り壊され、現在はコインパーキングになっている。林家彦六(八代目林家正蔵)が住んでいたことでも知られた木造家屋だったそうだ。手前の家も既に無く、木造家屋が連続する風景は完全に失われてしまった。最近の様子は歯抜け状態で、なんとも寂しい景色。こうなるともう街並みとは言えない感じ。
Photo 2006.8.26
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言問通り沿いにあった個性的な看板建築
森田電機店
所在地:台東区谷中 1-2
建設年:大正末期
構造・階数:木・2F
解体年:2006.11
Photo 2003.12.7
根津の交差点から少し坂を東へ上り、文京区から台東区に入ったあたり、天眼寺の門前にあった建物。
店舗であるためか、三間半と間口が比較的大きく立派な感じ。特に、二階窓上部に付けられた、巨大な唐破風庇がなんといっても印象的だった。銅板貼りの看板建築は数多くあるが、このように大仰な庇デザインのものは他に記憶があまりない。改めて写真を見てもごっつい唐破風だ。こういうのって、誰がデザインしたんだろう? 持ち主がお店として目立つようにデザインを決めたのか、棟梁が良かれと思って勝手に造っちゃったのか?
電器屋さんなので、上部と二階窓、両サイドに日立やナショナルの広告看板が付いていて、壁面全体の様子が見えないのだが、老朽化したそれらの広告と銅板貼りの壁面が、なんとも言えない味を出していて、何度か写真を撮った記憶がある。
この写真の時点で、どの程度営業していたかは分からない。もしかすると既に廃業して仕舞屋だったのかもしれない。それでも最近まではそのまま残されていたのだが、昨年の秋に解体されたのだそうだ。
根津あたりに行ったときに、ちょっと見て楽しんでいた建物も、もうない。こういう楽しみを与えてくれる建物が次第に減って、なんの変哲もないマンションが増えていくので、まちあるきも、もしかすると次第につまらなくなってしまうのかもしれないな。
Tokyo Lost Architecture
#失われた建物 台東区 #看板建築 #銅板張り看板建築
味の素記念館(旧鈴木邸) 所在地:港区高輪 3-13 建設年:1932(昭和7) 解体年:2003(平成15) Photo 1995.6.6
Tokyo Lost Architecture #失われた建物 港区 #洋館・洋風住宅
旧服部別館
所在地:中央区銀座 4-3
建設年:1938(昭和13)頃
構造・階数:RC・4F
備考 :戦後(1958)に増築して6階建てとなる。2002年頃解体
Photo 2001.6.24
HP「街の風景」内、(株)和光並木通り売場(旧服部別館)によると、竣工当時はオフィスビルで、戦後の1958年に増改築が行われたという。外壁も当初とはかなり異なるのだそうだ。
Tokyo Lost Architecture #失われた建物 中央区 #オフィス
春日通り沿いに建っていた銅板貼り看板建築
Photo 1996.10.12
銅板張り2階建て看板建築
所在地:文京区大塚4-46-5
構造・階数:木・2
建設年:?
解体年:2002〜03(平成14〜15)
備考 :左から、空室、U邸、Y邸
銅板張り3階建て看板建築
所在地:文京区大塚4-45-18
構造・階数:木・3
建設年:?
解体年:2003(平成15)
備考 :左から、K邸、サニークリーニング、今井洋服
三階建ての銅板貼り看板建築自体は最近までは意外に多かったが、右側の建物のような、三軒長屋状のものはあまりなかったのではないかと思う。正面からだけ見れば、パッと見ではビルのようにさえ見えただろう。でも写真のように側面が見えると、三階が屋根裏か増築のような木造建物だったことが分かる。
想像でしかないが、平入り二階の三軒長屋を改造して、道路際を三階とし、前面から後方への片流れ屋根にしたのではないかと思う。もちろん、建設当初からそのような造りにした可能性もあるが・・・。そんなこともあってか、三階の階高は少々低い。
また、二棟の間にある路地の奥には、木造二階屋が数軒建っており、そこだけが異空間状態になっていた。
この二つの建物はその後もしばらくは建っていたが、春日通りの拡幅に伴い2003年頃に解体された。二棟の跡地では道路からセットバックした位置に、アトラスアベニュー文京大塚(RC・14F)が、2004年12月に竣工している。
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