05/03 旅館 鴻生館
05/06 人形町交差点の角地モルタル建築
− 喫茶RON・ナカジマパッケージ・みどりや靴店
05/09 多和田歯科
05/12 A邸・S邸
05/15 東通工・ヤスダビルメン
05/18 エトワール海渡第三ビル(海渡ビル)
05/21 原利商店
05/24 友醸社
05/27 旧 六光通商
05/30 協友社
協友社
所在地:中央区 湊1-7-6
構造・階数:木・2
建設年:震災後〜戦前?
解体年:2020(令和2)
Photo 2013.10.13
中央区湊1丁目の角地に建っていたちょっと洋風な建物。界隈は戦災では焼失しなかった地区なので、この建物も恐らく戦前に建てられたものだったのだろう。
賃貸だったのか年代によって入居している会社は様々に入れ替わっていたようだ。1962年時点では個人宅、1973年では長谷川運輸、1982年では日本商工出版販売所、1991年には(株)協友社と(株)協進精螺になっている。
また、下記「ぼくの近代建築コレクション」には、「区役所の出張所が置かれていたこともあるらしい。」とあって、確かに、1950年発行の火災保険特殊地図には「中央区役所第二出張所」と記されている。なお、戦前版では小規模の建物の場合、名称が記されなかったりするため詳細は不明。
籠平、他/湊1丁目 - ぼくの近代建築コレクション
Tokyo Lost Architecture
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旧 六光通商
所在地:中央区 八丁堀3-20-8
構造・階数:木・2
建設年:震災後〜戦前?
解体年:2018(平成30)
Photo 2014.9.30
八丁堀駅近くの小路に面して建っていた銅板張り看板建築。小さな商店が多く建ち並んでいたため、住宅地図で見てもどれが該当するのか実はよくわからなかった。
住宅地図では六光通商となっていたが、何を扱う会社だったのかは不明。同名の会社が八丁堀2丁目にあったので、そこに移転したらしいが、現在はそれもないようで、やはり詳細は分からず。
かつては1階にも扉や引き戸があったのではないかと思うが、写真の頃にはそれもなく車庫になっていた。奥にある狭い階段が2階に続いている小さな建物。
八丁堀の路地裏にある銅板貼り看板建築 - 東京ノスタルジア
金陽堂印房、他/八丁堀3丁目 - ぼくの近代建築コレクション
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友醸社
所在地:中央区 八丁堀2-14-4
構造・階数:木・2
建設年:戦後まもなく?
解体年:2020(令和2)
Photo 2011.5.24
八重洲通り、八丁堀交差点のひとつ西の角地に建っていたタイル張り看板建築。蔦に覆われたタイル張りの外観と、黒地に金文字の袖看板が印象に残る。道の反対側からは、屋根がコンクリート瓦?で葺かれていることも見て取れる。
友醸社は醸造用機械器具を扱っている会社だそうだが、現在は入船1丁目に移転している。
Photo 2019.5.7
2、3枚目の写真の頃には既に移転していたようで、灯りは点いていなかった。
Photo 2019.5.7
1枚目写真の金文字の袖看板は移転先のビルに移設されているようだ。このため3枚目のこの写真では袖看板が既に取り外されている。
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原利商店(はらり商店)
所在地:中央区 日本橋横山町10-6
構造・階数:木・2
建設年:戦後まもなく?
解体年:2009(平成21)
Photo 2005.3.27
横山町大通りが清杉通りに出るあたりにあったタイル張り看板建築。両サイドの壁が壁面より前に張り出していたが、装飾などはほとんどなかった。1階の軒先と窓上の庇は洋瓦で葺かれていて、庇の下部もタイル張りだった。
ネットで検索したところ、原利商店はユニフォームやワーキングウェア等を取り扱う卸問屋だそうで、現在は少し南の日本橋横山町5-8にオフィスを構えて営業しているらしい。そしてこの建物は写真の約4年後に解体された。跡地には14階建てのマンションが建てられている。
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エトワール海渡第三ビル(旧海渡ビル、旧小松ビル)
所在地:中央区 日本橋横山町6-10
構造・階数:RC・6+R
設計 :中村與資平
建設年:1928(昭和3)
解体年:2021(令和3)
Photo 2005.3.27
静岡市役所や静岡銀行などを手がけた中村與資平が設計したオフィスビル。
最初はエトワール海渡ではなく、小松ビルとして建てられたという。当初は2階から上がタイル張り、1階は石張りで、軒先にはロンバルディア帯もあったとそうで、写真の頃の外観は当初とはかなり違っていたようだ。下記リンク先「中村與資平記念館新館」には当初の写真が掲載されている。
昭和30年代に海渡(現 エトワール海渡)の建物になり、その後、外壁が改装されて現在の姿になったという。
2階から上は金属板張り、1階は当初とは異なる石張り。外壁が変わってだいぶん様子が変わっていたが、玄関上部の装飾等は残されていた。タイル張りや石張りをやめてしまったのはメンテナンスが大変だったからだろうか。玄関周りの装飾は華やかだったが、ほかの壁面とギャップができてしまっていて、もったいない感じではあった。
また、建物はセットバックしていたが、周囲の道があまり広くないので、5階から上はほぼ見えなかった。
小松ビル | 中村與資平記念館新館
海渡ビル、横山町ビル/日本橋横山町 - ぼくの近代建築コレクション
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東通工・ヤスダビルメン
所在地:中央区 日本橋人形町3-4-11
構造・階数:木・3
建設年 :震災後〜戦前?
解体年代:2004〜05(平成12〜17)
Photo 1996.10.6
人形町交差点近くの横丁、前項の家の少し南側にあった木造ビル。3階建てビルのような外観だが、瓦屋根なので木造だったのではないだろうか。(火保図ではRC造で記載されているが)
写真の頃は2軒の事務所が入っていて、左側が(株)東通工、右側(株)ヤスダビルメン。
ヤスダビルメンで検索すると、日本橋蛎殻町2-6-5のオフィスが出てくるので、この建物から退去した後はそちらに移ったようだ。一方、東通工は詳細不明。
正面1階はレンガ張り、2、3階はタイル張りだったようだ。柱の間の窓下や、側面はモルタル塗り。軒先に軒蛇腹があり、窓の下にも幾何学的な模様がつけられている。西洋建築様式を踏まえたデザインではないが、洋風立面を持つタイル張り看板建築だった。
建設年代の詳細は不明だが、これも震災後〜戦前期のものだったのだろうか。戦後、1949年の火保図では「法律宮代」とあり、当初は法律事務所として建てられたものだったのかもしれない。
一誠、東通工/人形町3丁目 - ぼくの近代建築コレクション
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A邸・S邸
所在地:中央区 日本橋人形町3-4-10
構造・階数:木・2
建設年代:震災後〜戦前?
解体年代:1997〜99(平成9〜11)
Photo 1996.10.6
人形町交差点近くの横丁に面して建っていたモルタル看板建築。建設年代はよく分からない。戦後の火保図や住宅地図を見ると、店舗や事務所ではなくずっと住居として複数の居住者の名が記されていて住宅だったようだ。だが建物の構えはなんらかの店舗や事務所だったような感じなので、もしかすると戦前期に建てられてその頃は店舗か事務所だったのかもしれない。
上写真では1階の戸が外されて車庫のようにして使われている。しかしいつも見ている下記「ぼくの近代建築コレクション」内の記事中の写真はこれより14年前のもので、当時はガラスの引き戸がはまっていて、やはりかつては商店などの入った建物だったのではないかと思われる。また2階の窓も昔は観音開きだったが、上写真の時には上下2段の突き出し窓に替えられている。
1階部分は改装以前から洋風とは言い難い感じだったようだが、2階から軒先までは洋風の設えで、付け柱上部や窓の上部には装飾が施されていた。モルタル看板建築だがやや変わったデザインのファサードが印象に残る建物だった。
加藤伍、末広亭/人形町3丁目 - ぼくの近代建築コレクション
Tokyo Lost Architecture
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多和田歯科
所在地:中央区 日本橋人形町2-7-13
構造・階数:木・2
建設年:震災後〜戦前
解体年:2021(令和3)
備考 :右隣は三倉屋米穀(株)、2000〜06に消失
Photo 1996.10.6
歯科医院の看板が出ているのだが数寄屋っぽい日本建築で、妙な医院建築だなぁと思っていた建物。いつも見ている下記「ぼくの近代建築コレクション」内の記事で、かつては「三河屋」という「待合」だったという記述を読んで納得。たしかに戦後まもなくの火災保険特殊地図(1947年)には三河屋と記されている。
1階のコーナー部は窓が大きく取られていて、これは歯科医院にする際に改装したのだろう。2階には火灯窓があったり、手摺のある張り出しがあったりして、やはり御座敷建築的。待合から歯科医院への転用というのは珍しくかなり意外でおもしろい。
上写真の右奥は三倉屋米穀店。その奥、写真右端の木の陰は加島酒店。多和田歯科の左側の喜寿司(喜は、七を3つ書くもの)と加島酒店は現在も営業していて建物も現存している。三倉屋米穀店の建物は解体されて現在は5階建てのビルになっている。
Photo 2014.5.4
この界隈はかつては貸座敷、料理屋、芸者置屋がある三業地で、芳町花街と呼ばれた場所だった。最近(2010年時点)では、濱田家という料亭があるのみで、芸者さんは16名とのこと。かつての面影はかなり薄れているが、人形町駅周辺には旧料亭と思しき建物が並ぶ路地もあり、わずかだが往時の雰囲気が感じられる。
Photo 2014.5.6
左側の喜寿司は1923(大正12)創業。木造家屋が建ち並ぶ街並みはかつての花街の記憶を残すものだったが、旧待合の建物も消失して、周辺には高層のマンションやオフィスが建ち並ぶようになっている。
2024.8.26追記
多和田歯科の開業時期は正確には判らなかった。ただ、1953年版の火保図で「待合三河屋」、1963年発行の「全住宅案内図帳」で「多和田医院」とされているので、この間(1953〜63)に待合をやめて歯科になったようだ。
また、上写真の少し後の1997年頃には歯科もやめたようで、この頃以降は、歯科の看板は掲げられていたが、住宅地図では個人宅として記載されていた。
既往記事:人形町 - 都市徘徊blog(2014.7.27)
多和田歯科/日本橋人形町2丁目 - ぼくの近代建築コレクション
三倉屋米店、京樽/日本橋人形町2丁目 - ぼくの近代建築コレクション
花街の紹介(芳町) | 東京花柳界情報舎
Tokyo Lost Architecture
#失われた建物 中央区 #医院 #木造店舗 #遊興施設
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左から、喫茶RON・ナカジマパッケージ・みどりや靴店
所在地:中央区 日本橋人形町1-19-5
構造・階数:木・2
建設年:関東大震災〜戦前期
解体年:2020〜21(令和2〜3)
備考 :Photo 1996.10.6
人形町交差点に面して建っていたモルタル看板建築。3軒ほどの店が入っていたが、構造的にはひとまとまりの建物だったようだ。下記「ぼくの近代建築コレクション」内の記事によれば、矢島洋品店として建てられたものだったそうだ。建設時期は関東大震災以降、昭和戦前期だろうか。
同記事の写真には1983年撮影のものがあるが、この頃には歩道上にアーケードがあったことが分かる。Wikipediaによれば、アーケードはこの翌年の1984年に撤去されたそうで、同記事中の1991年の写真には確かにアーケードはない。
写真の1996年時点では左から喫茶RON、ナカジマパッケージ、みどりや靴店。日曜だったのでこの日は店がみんな閉まっていた。
中央上部にメダイヨンがあり、軒先のデザインも共通なので、当初はRONもナカジマパッケージも右側のみどりや靴店のようなファサードで、窓も縦長のものだったのではないだろうか。
Photo 2014.5.4
みどりや靴店は2000年代までは営業していたようだが、この2枚目写真の頃には既に廃業(もしくは移転?)していたらしく、2階壁面には日本和装と不動産の広告が掲出されていた。
Photo 2014.5.4
また、ナカジマパッケージは靴とバッグの修理などをする店になっていて、これが建物全体の消失直前まで続いていた。
Photo 2014.5.6
最初の矢島洋品店は、そもそもは馬具商として1780(天明元)年に創業し、その後、両替商、唐物屋を経て、大正期の地図には矢島洋傘帽子店と記されているお店。そして喫茶RONはその矢島洋品店が1965(昭和40)年に商売替えしたものだったそうだ。
喫茶RONは2018(平成30)年秋に閉店。その後も建物全体はしばらく残っていたが、2020年頃に解体され、10階建てのビルが2023年に完成している。
ロン、みどりや靴店/人形町1丁目 - ぼくの近代建築コレクション
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