都市徘徊blog

徒然まちあるき日記

2024年12月 記事一覧

2024-12-31 | 記事一覧 

12/15 亀屋
12/18 文芸春秋銀座別館/坂口ビルⅡ
12/21 桃乳舎
12/24 峰、スワン理容室

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峰、スワン理容室

2024-12-24 | 中央区  
峰、スワン理容室
所在地:中央区 日本橋人形町2-6-8
構造・階数:木・3
建設年代:昭和初期
解体年代:2006〜09(平成18〜21)
Photo 1996.10.6

 人形町の一角にあった小さな建物。その経緯については下記『たてもの図鑑 シャンバ』に詳しい。

 建物は、2階の北東側はトタン張り(たぶん)で、路地側はモルタル塗り。1階はタイル張りとモルタル塗り。
 マンサード屋根の屋根裏3階建てだが、屋根裏は小振り。震災後の昭和初期にマンサード屋根やギャンブレル屋根で建てられた看板建築には、もはや屋根裏とは言えないような3階建てもあるが、ここはあくまで屋根裏部屋といった造りになっていた。

 関東大震災後の昭和初期に建てられたものだったそうで、1933(昭和8)年の火保図では建物は既にあったようだが、屋号などが書かれておらず用途は分からず。
 戦後の火保図(1950年、1953年)では「喫茶モリ」。
 1963年の『東京都全住宅案内地図帳』では「コーヒー峰」。
 1973〜80年頃は住宅地図では「洋酒 峰」。
 1980年代〜92年の住宅地図では単に「峰」となっていた。

 そして、1993年の住宅地図では「スワン理容室」。スワン理容室はもともと人形町2-8-5にあった床屋さんで、1992年には同所に5階建てのスワンビルが完成している。下記「ぼくの近代建築コレクション」内の記事に付けられたコメントには、1995年頃には廃業していたことも記されている。
 写真の建物は撮影時、空き家だったようで床屋の看板やサインなどはない。1995〜97年の住宅地図でも空白になっている。恐らくスワン理容室は、ビルへの建て替えの期間中、一時的にここで営業していたのだろう。ビルの完成後、理容室は戻ってしまい、写真の頃は空き屋で理容室時代の庇が残されていたようだ。

 2000〜2003年頃の住宅地図では、ここは「Shumba」という店になっており、前述のように下記『たてもの図鑑』で採り上げられていた。
 しかしこの店も、その後なくなり、2006年の住宅地図では再び空き家。その後、2、3年のうちに解体されたようで、2010年のGoogleストリートビューでは既に消失している。

たてもの図鑑 シャンバ
麻雀明朗、バーバースワン/日本橋人形町2丁目 - ぼくの近代建築コレクション

Tokyo Lost Architecture
#失われた建物 中央区  #銅板張り看板建築 
#ギャンブレル屋根  #マンサード屋根  ブログ内タグ一覧
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桃乳舎

2024-12-21 | 中央区  
桃乳舎
所在地:中央区 日本橋小網町13
構造・階数:木・2
建設年:1927(昭和2)
解体年:2023〜24(令和5〜6)
Photo 2014.5.6

 看板建築の喫茶店。下記『東京都の近代和風建築』によれば、桃乳舎は1904(明治37)年にミルクホールとして創業。建物は震災後の1927(昭和2)年に建てられたものだそう(注)。ミルクホールではなくなったが、喫茶・軽食の店として営業を続けていて、雑誌等でもレトロな店としてときどき紹介されていた。

 茶色のスクラッチタイル張りの外壁で、2階の窓まわりの付け柱やアーチ、手摺などはモルタル塗り。ファサード上部中央には桃のレリーフが付けられていた。アーチや柱はなにかを支持しているわけではなく装飾的なもの。小さな建物だが案外凝った装飾なのが印象的だった。斜め横から見ると、後方の一部が3階建てだったことも判る。

 ネット上の情報等によると、2023年2月に閉店。その後も建物はしばらくのあいだ残されていたが、やはり解体されたようだ。

 小網町界隈も古い看板建築など残る場所だったが、老朽化や世代交代もあり戦前の建物はかなり少なくなっている。

(注)ネット上の情報では、1889(明治22)にミルクホールとして創業、現在の建物は1933(昭和8)築、とされていたりもして、上記と食い違っている。

参考『東京都の近代和風建築−東京都近代和風建築総合調査報告書』
  東京都教育庁地域教育支援部管理課 編 2009

中央区ホームページ/喫茶軽食 桃乳舎
井筒商会、桃乳舎/日本橋小網町 - ぼくの近代建築コレクション

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#失われた建物 中央区  #看板建築  #タイル張り看板建築 
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文藝春秋銀座別館/坂口ビルⅡ

2024-12-18 | 中央区  


 Photo 2008.1.26


所在地: 
構造:
階数:
建設年:
解体年:
坂口ビルⅡ(中央) 
中央区 銀座5-5-13  
RC
4
戦前
2021(令和3)
文藝春秋 銀座別館(右)
中央区 銀座5-5-12
SRC
7+B1+R
1972・73(昭和47・48)
2021(令和3)

 銀座5丁目、並木通りとみゆき通りの交差点に面して建っていた2棟のビル。

 写真中央の4階建てはいかにも古そうで縦長の上げ下げ窓で規模も小さい。これに対して右隣の7階建ては横連窓で前者よりは赤っぽいタイルを張ったモダンなオフィスビル。よく見ると階高も異なる。諸々の情報からすると4階建ての方は戦前に建てられたもののようで、一方の7階建ては1972年か73年に建てられたものだったようだ。2010年の住宅地図では「坂口ビルⅡ」と「文藝春秋別館」として記されている。

 ただ、写真をよく見ると二つのビルは壁が繋がっていて一体のようだった。住宅地図で「坂口ビルⅡ」とされている4階建てビルの端、二つのビルの境目に「文藝春秋 銀座別館」という赤い袖看板が付けられている。


 出典『銀ぶら百年』、p.203

 『銀ぶら百年』という本には、1950年当時の文藝春秋社屋の写真が掲載されている。西角の4階建て、後の「坂口ビルⅡ」は、この写真では奥に写っているもの。また、この写真中央の建物、文藝春秋とオール読物の袖看板のある5階建ては、1973年に改築されて最近まであった建物(一枚目写真右側の7階建て)になったと記されている。

 ただしこの写真では当時の社屋は奥の4階建てと階高が概ね揃っていて、また横連窓ではない。『銀ぶら百年』では「改築」としているが、実際は建て替えだったのではないかと思われる。ネット上の不動産サイトの記事では1972年竣工とあるので、翌73年から使い始めたということではないだろうか。

 戦前の火保図では二つのビルの場所には4階建ての「本田医院」が記されている。また戦後の1950年の火保図では、角地部分はバー チエリ、残りの部分が本田医院・文藝春秋・オール読物で、角地と一体のRC造4階の建物とされている。
 文藝春秋の沿革、社史によれば、1950年に本田ビルを買い取って、内幸町の幸ビルから移転したという。『銀ぶら百年』の写真の社屋は5階建てだが、5階は増築だったようだ。

 この後、文藝春秋は、銀座西8-4(現 銀座8-2-8)のエーワンビル(RC・5F)を買収して、本社は1955年11月に移転。以降、この建物は銀座別館になり、翌1956年〜2016年にはB1〜2Fが文藝春秋画廊になっていた。
 1958年の火保図では、角地部分は喫茶店チエリ。

 この後、1960年代〜2000年頃までは、角地は徳屋ビル、東隣は文藝春秋別館。2000年代になると角地は坂口ビル、更に坂口ビルⅡとなった。


 Photo 2012.8.1

 跡地には最近になってビルが建ったが、かつての西角の部分と隣では別のビルが建てられた。設計が同じ会社で工事の期間も似たような時期だったのに別々のビルになったのは、土地所有者が現在も異なっていたりするからなのかもしれない。

参考『銀ぶら百年』泉麻人 著、文藝春秋 刊、2022
  『文藝春秋三十五年史稿』文芸春秋新社、1959
東京紅團(東京紅団)文藝春秋の足跡を歩く

Tokyo Lost Architecture
#失われた建物 中央区  #近代建築  #オフィス  #商業系 
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亀屋

2024-12-15 | 中央区  
亀屋・亀谷家
所在地:中央区 築地7-14-7
構造・階数:木・2
建設年:1927(昭和2)
解体年:2024(令和6)
Photo 2006.7.23

 築地7丁目(旧小田原町)界隈は戦災ではあまり焼失しなかった地区で、最近まで銅板張り看板建築が多く残されていた。

 下記、中央区の近代建築調査のページによれば、亀屋は老舗のおでん屋だったという。同ページにもあるように、角地にあったが入口のある側のみに銅板を張り、西南側の壁面はモルタル仕上げになっていた。

 軒や戸袋のディテールが凝っていて、2階の戸袋は一文字葺きと菱葺きを組み合わせたもの。

 1階の軒庇は瓦葺きで家紋が付けられており、持ち送りの部分もきれいに銅板で覆われていた。

 店の方は2016年頃に閉店したという。建物の方は仕舞屋としてその後も残されていたが、今年1月に残念ながら解体されたそうだ。

中央区ホームページ/亀屋
亀谷家、やな川水産/築地7丁目 - ぼくの近代建築コレクション

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#失われた建物 中央区  #看板建築  #銅板張り看板建築 
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