11/03 嶺田邸
11/06 日本館(武井日本館)
11/09 高瀬邸
11/12 宮さ和
11/15 本郷館
11/18 宇都木家具店、大津義男商店
11/21 清水橋
11/24 文京区立第六中学校
11/27 旧 理化学研究所43号館(理化学研究所駒込分所)
11/30 旧 高野瀬歯科医院(日本ナショナルトラスト事務所)
(財)日本ナショナルトラスト事務所・旧高野瀬歯科医院
所在地:文京区 西片2-18
構造・階数:木・2
建設年:1910〜20(大正期)
解体年:2012(平成24)頃
Photo 2008.3.28
撮影時は日本ナショナルトラストの事務所だったが、もとは歯科医院だったという(建設当初からそうだったのかは不明)。ナショナルトラストの事務所がさほど大きくはない家屋にあったのは意外だったが、案外似合っていたような気もした。
上げ下げ窓が並ぶ2Fの様子が印象的。2Fに窓が多いことからすると、もしかすると昔はこちらが診療所だったのかもしれない。
玄関扉は外側観音開き。案外がっちりと両側に柱状の壁が立って扉を取り囲んでいる。
玄関上部の灯り。当初からのものだったのだろうか? 残念ながら庇裏の塗料はところどころ剥げていた。
なお(財)日本ナショナルトラストは、現在は、千代田区麹町4-5 海事センタービル4Fに事務所を置いている。
アクトデザイン凛太郎のブログ 日本ナショナルトラスト事務所 ( 旧高野瀬歯科医院 )
西片町教会、旧高野瀬歯科/西片2丁目 - ぼくの近代建築コレクション
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旧 理化学研究所43号館(理化学研究所駒込分所)
所在地:文京区 本駒込2-28-49
構造・階数:RC・3+R
設計 :土浦亀城
建設年:1940(昭和15)
解体年:2010〜12(平成22〜24)
Photo 2006.4.9
下記リンク先などの記述によると、当初は円筒形の部分にガラスブロックが「大胆にあしらわれていた」そうだ。撮影の時点でも円筒部には一部にガラスブロックが嵌っていたが、当初はもっと大きな面積だったのだろうか。ガラスブロックの円筒のような感じだったとしたら、かなりモダンで格好が良かっただろうなと思う。
西側から
壁面は平滑で、軒先にだけ庇が巡らされている。東側ファサードは撮り忘れてしまったが、南北の壁面には大きな窓が開けられておりこれもモダンだ。エアコンの室外機やその配管が外壁にあったが、それがなければ装飾のない非常にシンプルな姿だっただろう。そしてガラスブロックが多用された円筒部がアクセントになっていただろう。
門扉は後の時代のもののようだったが、門柱は古いものだった。アールデコ?
玄関庇は水平のスラブがただ伸びて支柱があるだけのような、これまたシンプルなもの。断面にはえんじ色の細いタイルが並べて張られていた。
西北側から
跡地には2013年に文京グリーンコートテラスが竣工している。
理化学研究所駒込分室(旧・理研43号館) | 収蔵庫・壱號館
理化学研究所: ★近代建築探訪★
理化学研究所の門/本駒込2丁目 - ぼくの近代建築コレクション
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文京区立第六中学校
所在地:文京区 向丘1-2
構造・階数:RC・3
建設年:1933(昭和8)
解体年:2013(平成25)
備考 :「追分尋常小学校」及び「本郷高等小学校」として完成
Photo 2008.3.28
建物の写真は中山道の側から撮ったこの一枚だけ。本郷通りの側からなら通り沿いの校舎がしっかり撮れたはずだが、モダニズムの装飾の無い建物にあまり食指が動かなかったのかもしれない。機会があったらまたそのうちに、などと考えていたらいつのまにか時間が経ち建て替えられてしまった。
この建物の経緯はなんだかややこしい。1933年に「追分尋常小学校」と「本郷高等小学校」の二つを擁する校舎として造られたそうだが、現在は一つの学校で、今に至る経緯がいまいちわかりにくい。そこで、現地にあるパネルや現在の区立第六中学校のサイトなどの情報を整理すると、以下のようになった。
本郷高等小学校〜文京区立第六中学校
1908(明治41) 本郷尋常小学校(現文京総合体育館の場所(本郷7-1))の一部を仮校舎として開校。
1910(明治43) 現在地(追分尋常小学校の隣接地)に木造3階建て校舎を新築して湯島から移転。
1933(昭和8) 「追分尋常小学校」と「本郷高等小学校」2校併置の鉄筋校舎落成。
1941(昭和16) 「東京市本郷第一国民学校(高等)」となる。
1947(昭和22) 3月、学制改革により廃校。4月、誠之小学校内に「文京区立第六中学校」が開設される。
1948(昭和23) 生徒増のため指ヶ谷分校を設置
1952(昭和27) 9月、本校が東京学芸大学付属追分小学校の一部に移転、誠之分校、指ヶ谷分校の3校体制となる
1955(昭和30) 汐見分校設置、4校体制となる
1960(昭和35) 元町分校設置(汐見分校解消)
1961(昭和36) 追分校舎全面使用となり、分校が全て解消する。
区立第六中学校は元を辿ると本郷高等小学校に繋がるようだが、高等小学校が廃校となった1947年から、第六中学校が利用し始める1952年までの5年間は、その流れの校舎としては使われていなかったようだ。
一方の追分尋常小学校はどうだったのかというと。
追分尋常小学校
1904(明治37) 現在地で開校
1905(明治38) 高等科を設置
1908(明治41) 学令改制により高等科を分離
1933(昭和8) 「追分尋常小学校」と「本郷高等小学校」2校併置の鉄筋校舎落成。
1941(昭和16) 国民学校令により追分国民学校となる。
1944(昭和19) 戦時下の男性教員の不足を補うために東京第二師範女子部が創設され、校舎が女子部の校舎として提供された。
1945(昭和20) 4月、追分国民学校が国に移管され、東京第二師範女子部附属国民学校となり、尋常科と高等科が併設された。
1947(昭和22) 尋常科が東京第二師範附属小学校となる。高等科は附属追分中学校となる。
1951(昭和26) 東京学芸大学附属追分小学校と、同中学校に改名。
1954(昭和29) 東京学芸大学附属追分中学校が附属竹早中学校に合併移転。
1961(昭和36) 東京学芸大学附属追分小学校が附属豊島校と共に附属小金井小学校に合併移設され閉校。文京区立第六中学校が当地の校舎の全面使用を開始。
こちらは1904(明治37)年から1961(昭和36)年まで、約半世紀ここにあったが現在は無い。
内務省作成の1906〜09(明治39〜42)の地図には学校を示す「文」マークが描かれている。この時点では本郷高等小学校は移転して来ていないので、これは追分尋常小学校を示しているようだ。
また、1916〜21(大正5〜10)の地図にはコの字型の校舎が二つ描かれている。この頃は追分尋常小学校と本郷高等小学校がそれぞれ木造校舎を用いていたのだろう。そして震災後に両方を合わせたRC造の校舎が造られた。更に戦後、この併存状況が徐々に整理されて最終的に区立第六中学校のみになった、ということのようだ。
学校の沿革 - 文京区立第六中学校
文京区立第六中学校/向丘1丁目 - ぼくの近代建築コレクション
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清水橋
所在地:文京区 西片1・2丁目と本郷6丁目の間
構造 :RC
建設年:1936〜37(昭和11〜12)頃
解体年:2018(平成30)
Photo 1994.11.28
昔からある橋で近代土木遺産の一つでもある橋だったが、橋をメインにした横からの写真は撮っていなかった。
清水橋と西詰の階段 Photo 1994.11.28
この写真も階段を中心にしていて橋はよく見えない。
Photo 2008.6.4
横からは撮らなかったのに、下からは撮っていた。橋桁の隅角部分が1/4円になっている。表現主義的と言っても良いのだろうか。
Photo 2008.6.4
この橋については、以前は建設年代がよく分からなかった。『日本の近代土木遺産』((社)土木学会編、2001年刊)では、写真の橋は1926(大正15)に架けられたもので、長さ18.04mと記されている。しかし橋の架け替え後、文京区が橋の東詰に設置したパネルには、1936・37(昭和11・12)年頃に架橋されたと考えられているとあり、現在はそれが公式見解のようだ。
現在の清水橋の橋詰に設置された説明板(上写真)から転記
清水橋(からはし)の今昔
西片町(西片一・二丁目)と森川町(本郷六丁目)を結ぶこの橋は、正式名を「清水橋」といい、地元では 「からはし」(空橋、伽羅橋、唐橋)とも呼ばれています。
江戸時代、西片町側には備後国福山藩阿部家、森川町側には三河国岡崎藩本多家の江戸屋敷がありました。当時はまだ、西片町と森川町の間に橋はなく、谷底に一筋の清水が流れる急峻な谷間で隔てられていました。この地に清水橋が最初に架けられたのは、明治13年(1880)に阿部邸前から本多邸前への道が整備された頃と考えられています。同じ頃、谷底は道路として整備され、清水の流れも道の端に残るだけとなったことから「からはし(空橋)」とも呼ばれるようになったと伝えられています。この地ゆかりの文人、樋口一葉の日記にも「空橋」として登場するなど、多くの人々から親しみ、愛されてきました。
清水橋はこれまで4度架け替えられており、二代目の木橋は、明治39年(1906)に、旧福山藩士の生まれで、著名な建築家の武田五一(1872〜1938)の設計によるものでした。三代目の橋は、大正13年 (1924)に撮影されたと思しき写真が残されているのみで、残念ながら設計図等の資料が残っていないため、架橋された年代、構造等の詳細については不明です。四代目は、コンクリート造の橋で、地元の方々の話から、昭和11、12年(1936、1937)頃に架橋されたと考えられています。
そして、この五代目となる清水橋は、当時の木橋だった頃の面影も感じられる木目調のコンクリート橋として、平成31年 (2019)に架橋されました。
パネル掲載の図版、左から、二代目清水橋の設計図(武田五一設計)、三代目清水橋(大正13年撮影)、四代目清水橋(平成29年撮影)平成31年2月 文京区
橋詰のパネルには、1924(大正13)年に撮られたという現在とは異なる桁橋の写真もある。従ってこれが3代目となり、近年まであった橋は4代目、現在の橋は5代目となる。
個人的には、大正期に架けられた3代目を、昭和11、12年頃に改修・補強して近年まで使っていた可能性もあるのではないかと思うが、そのあたりは詳細な資料を見ていないので分からない。
清水橋/西片2丁目 - ぼくの近代建築コレクション
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宇都木家具店、大津義男商店
所在地:文京区 本郷4-7
構造・階数:木・2
建設年:1924(大正13)
解体年:2014(平成26)
Photo 2014.7.15
宇都木家具店の建設年は不明。大津商店と繋がっているようでもある。構造的に一体かどうかは分からないが、高さや間口の大きさ、壁面位置の具合が似ているので、あるいは4軒長屋の東半分(大津商店の部分)を銅板張り看板建築に改修したものだったのかもしれない。
大津義男商店 Photo 2008.2.1
大きなガラスの木製扉。手前側の扉は枠の部分も銅板張り。上部には模様入りのガラスが嵌っていた。
大津商店、諸井邸/本郷4丁目 - ぼくの近代建築コレクション
【×】宇津木家具店・大津義男商店 - ずぼら堂懐古録
宇津木家具店・大津義男商店 文京区本郷 - 東京ノスタルジア
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本郷館
所在地:文京区 本郷6-20
構造・階数:木・3
建設年:1905(明治38)
解体年:2011(平成23)
Photo 1997.7.25
木造3階の大型下宿。明治期後半の建物で、文化財級だとも言われていたが、老朽化、耐震性の不足、火災の危険性などから、家主が建て替えに踏み切って解体された。全体は中庭のある鋭角のL字形。木造下見板張りの総3階は都内では珍しく、現地で見ると圧倒的な迫力のある建物だった。
Wikipediaなどによれば、当初は旅館、大正期には東京女子高等師範学校(現 お茶の水女子大学)の寄宿舎だったりもしたそうだ。その後、1919(大正8)年頃に賄い付きの下宿になり、以降、経営者が変わったりはしたが下宿として多くの人が住んでいたという。
1990年代には外壁の補修がされたりもして、維持しようとしていたことが窺われる。
Photo 2002.6.17
5年もすると外壁の板の色は周囲と同じになっていた。この間、トタン屋根も塗り直されたようだった。
Photo 2007.2.3
本郷館は本郷台地西側の崖上に建っていたので、清水橋の架かる谷の側から見ると石垣の上に聳えており、迫力のある姿を見せていた。
崖下、清水橋の架かる谷の道から Photo 2007.2.3
南北方向に長い建物だったので、西側から見ると手前のビルなどよりかなり大きかった。
Photo 2007.2.3
谷へと下る道沿い、東北側のようす。壁面が3階まで一気に立ち上がっている様子は他にはないもので迫力満点。しかし一方で下見板張りの巨大な壁を見て、もし火事などが起こったら大変なことになるだろうなと思ったことも事実。
Photo 2008.6.4
東北側、坂下側からのようす。敷地の関係で北側は鋭角をしていた。坂下側から見ると土台の高さも加わって尖った姿が更に強調され、正面から見た時とは全く異なり、高く聳え立つ印象になっていた。
Photo 2007.2.3
一部の部屋は出窓になっており、それも大きな壁面に変化を与えていた。外観デザイン上の意図ではなく、恐らく内部の間取りの関係だろうが、小窓があったり、雨戸のある窓と無い窓があったりするのも複雑さを増すことに繋がっていた。
Photo 2007.2.3
基礎部分は煉瓦。一段ごとに長手積みと小口積みが交互に繰り返されるイギリス積みになっていた。そのうえに細長い石を並べ、石の束を置いた上にベースの木材を渡している。長年の経過で基礎の煉瓦も含めて全体がやや歪んでいるようだった。
江戸東京たてもの園への移築などができれば良かったのになぁと、写真を見返すたびに思う。
本郷館/本郷6丁目 - ぼくの近代建築コレクション
本郷館 - Wikipedia
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旧 宮さ和
所在地:新宿区 荒木町12
構造・階数:木・2
創業年:1968(昭和43)頃
解体年:2021(令和3)
Photo 2004.6.5
荒木町界隈は昔から三業地・花街だったので、恐らくそれ以前からこのあたりも料亭とか貸座敷や料理屋だったのではないかと思うが、旧料亭・割烹料理「宮さ和」は1968(昭和43)年頃に創業したそうだ。
この宮さ和は、2010(平成22)年に閉店。同年中に「赤坂 光楽亭」となったという。Google Street Viewを見ると、通り沿いは壁が塗り替えられ、看板が掛け替えられているが、建物はそのままだったようだ。Google Mapの航空写真で見ると、奥の方に日本家屋のお座敷がある。奥の方の建物も赤坂光楽亭が継承して使っていたようだ。
ただ、少し前に土地所有者が代替わりしたそうで、老朽化を理由に現土地所有者が建て替えの意向を示したことから、赤坂光楽亭は2020年12月末で閉店。2021年3月に通り掛かったところ、解体中だった。
割烹 宮さ和/荒木町 - ぼくの近代建築コレクション
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高瀬邸
所在地:新宿区 中落合4-21
構造・階数:木・1
建設年:昭和初
解体年:2009(平成21)頃
Photo 2006.2.19
林芙美子記念館わきの四の坂を上った先の坂上通りに面していた家。門の両側には他の住宅があったが、通用門付きの門の奥に平屋の洋風家屋が見えていた。
文化住宅のような建物だったのか、手前は赤い洋風瓦で出窓のある小屋、奥の方は日本瓦の建物がわずかに見えていた。
Google Street Viewで確認したところ、2008年6月時点では存続していたが、2010年1月では既に消失していた。2009年頃に解体されたようで、樹木も伐採されて跡地には複数の家が建てられている。
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日本館(武井日本館)
所在地:新宿区 高田馬場1-9
構造・階数:木・2
建設年:1936(昭和11)
解体年:2020(令和2).3
Photo 2017.11.9
中に入ったことがなかったので内部の詳細は知らないままだったが、他のサイトなどの情報によれば、男子専用で賄い付き、部屋は4畳半+床の間・押入付きで、全24室だったという。
Photo 2009.5.10
中庭のあるロの字型平面で、東南側の角に玄関がある形。この部分だけ壁面がカーブを描いている。基本は瓦屋根だが玄関部分だけは洋風で、四分円の円錐型の銅板張り屋根で、壁面も庇もカーブを描いている。カーブした玄関上部も貸室だったらしいが、この部屋は縦長の窓だった。
Photo 2008.3.4
建物が敷地いっぱいに建っているので、門柱は玄関のすぐわきにある。庇裏もモルタル仕上げ
Photo 2008.3.4
塀はブロック状の石を隙間を空けて積んだもの。一部を除いてコンクリートブロックが積み増されていた。
古い建物と街並みをもとめて: 早稲田近くの下宿屋さん『日本館』
建築マップ 男子下宿・日本館 3695
武井日本館 新宿区高田馬場 - 東京ノスタルジア
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