中野センター・中野光座
所在地:中野区 中央4-61
構造・階数:RC・2F(一部3F?)
建設年:1960(昭和35)頃
解体年:2010(平成22).6
備考 :中野光座(映画館)は1994年頃に閉館
Photo 1997.3.30
中野センター・中野光座は、戦後このあたりにできていた小規模店舗群(マーケット)をひとつの建物にまとめて、更に映画館を併設したもの。中野五差路交差点に面していて赤いトタンで覆われた外観が印象的だった。
下記リンク先の「消えた映画館の記憶」によれば、1958年の映画館名簿には掲載がなく、1960年のそれには「中野光座」として掲載されているという。1961年発行の「東京都全住宅案内図帳」では「中野センター食品街」とだけ記されているが、このとき既に中野光座も存在していたようだ。その後、1968年発行の「東京都全住宅案内地図帳」には、「中野光座・中野センター食品街」と記されている。
北西側・大久保通り側 Photo 2006.6.4
中野光座の入口は北側の角にあった。外壁には「中野光座」のネオンサインが残されていたが、「中野光座」「中野ひかり座」「中野ヒカリ座」と、映画館名簿や住宅地図では表記が一定ではなかったようだ。160席だったそうなので映画館としては小規模。途中からはピンク映画の上映館になっていたという。映画館としては1990年代中頃に閉館したそうだ。私が上京してからもしばらくはやっていたわけだが、残念ながら入ってはいない。またその後も小劇場として2000年代中頃までは利用されていたようだ。写真の時点でも演劇開催の告知が掲出されている。
航空写真で見たところでは、映画館は2階北側に前室(ホワイエなど)があり、中野通り側(1枚目の右半分側)に劇場スペースがあったのではないかと思われる(あくまで外観などからの想像ですが)。
東南側 Photo 2006.6.4
東南側は一方通行の小路に面して飲食店などが店を開いていた。上階の全てを映画館が占めていたわけではなかったようで、写真中央の居酒屋などには2階席もあったように見える。
隣接したビルとの間に設けられた通路 Photo 1997.3.30
写真左側は北東側の石森ビル。構造的には別々のビルだったが、こちらのビルの店舗も合わせて中野センターと呼んでいたようだ。
西側入口付近から Photo 1997.3.30
1階には通り抜け可能な変形した丁字型の通路があり、中野五差路交差点に面した角と、東南側の小路側から入れるようになっていた。建物全体は長方形の1つの角を斜めに切ったような平面型をしており、基本的にその長方形の四辺に平行してグリッド状に柱梁が造られていた。交差点に面した角はその斜めに切った部分なので、そこから入ると天井の梁が通路を斜めに横切っていた。そして少し奥へ進むと通路はくの字型に折れていた。この頃はまだ営業している店舗がいくつかあったので、通路にも物が置かれたりしていた。
店舗は2階建てだったが、通路上部にガッチリした梁が入っていることから考えると、この上に映画館の客席や設備が載っていて部分的には3階建てだったのではないかと思われる。
丁字型交差部からくの字に曲がった通路 Photo 2006.6.4
2000年代、解体の数年前の段階になると、営業している店もわずかになりひっそりとしていた。
丁字型交差部。右へ進むと南側に出られる。 Photo 2006.6.4
くの字型の部分は上部に劇場があったためかRCの梁とスラブがあったが、丁字型交差部付近から東と南にはスラブがなく、梁だけになっていて、角材と塩ビ版で造られた屋根が載せられたアーケードになっていた。
丁字型の交差部 Photo 2006.6.4
2階には店主などが住んでいたのだろう。蛍光灯の灯りが点いている部屋もところどころあった。
南側の入口付近から Photo 2006.6.4
90年代に訪れた時には、通路のところどころに蛍光灯が付けられていたが、2000年代に訪れたらそれはなくなっていて、裸電球がぶら下がった状態になっていた。
Photo 2006.6.4
隣接する石森ビルは2009年末に解体。中野光座・中野センターも翌2010年に解体された。
なお、その後に新築されたビルは、北側を通る大久保通りの拡幅と中野五差路交差点の改良もあり、以前よりかなり下がった位置に建てられている。
中野区の映画館 - 消えた映画館の記憶
ついに終焉。中野の闇市ゾーン [中野光座] : 日本ボロ宿紀行
中野光座 02 ← 中野光座の内部写真あり
Tokyo Lost Architecture
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