都市徘徊blog

徒然まちあるき日記

ロシア日記 1992.10.03~10.17

2006-12-01 | ロシア  
 大学院の修士2年の時、研究室の調査旅行でロシアへ2週間滞在した。訪れたのは、ロシア極東の、ハバロフスク、ウラジオストク、それから首都モスクワ。
 帰国後、この旅行中に書き留めていた日誌を加筆して、ひとまとまりの日記とした。
 当時はワープロ(Canoword)でテキストを入力していたのだが、1994年頃になって、これをMS-DOSフォーマットに変換、FDで保管した。更にMacを使うようになり、スキャナーも購入したため、当時の写真をスキャンしてテキストと合わせてレイアウトし、個人的日記として冊子体裁のものを一つ作り、データはMOで保管していた。

 軍港都市ウラジオストクは、冷戦の終結を受け、90年台になって、ようやく外国人の立ち入りが認められた街で、1992年当時は、訪れる外国人もまだ少ない状態だった。現在では、かなりアジア系の外国人も多くなったようだが、当時はまだ日本人などは珍しがられた。ソビエトからロシアになったばかりで、経済状態・経済感覚も、日本とは全く異なる文化であるので、かなりのカルチャーショックを私は受けた。

 今後、個人情報等の問題のない範囲で、当時の日記を順次、Web上に公開していこうと思う。帰国後加筆しているため、帰国後に起きた事柄も記載されているが、原則的に、帰国当時(1992~93年)の時制で記しているので、現在では既に状況が異なる事柄も、相当多いかもしれない。
 1992年当時に書いた文章なので、92年の日記としてエントリーする。Blogというシステム自体が存在しなかった時代に、Blogを使って日記を書いたことになってしまうのだが、かなり以前に書いた文章を、現在の年月日でエントリーするのも変なので。
 90年代の極東ロシアの状況について興味のある方は、Entry Archive欄の、1992年10月、もしくは1992年10月 記事一覧から御覧下さい。
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帰国

1992-10-17 | ロシア  

1992ロシア日記

1992.10.17(Sat) Khabarovsk → Japan

 08:45 起床。2週間のこの旅行も今日で終わり、帰国である。

 09:00 朝食。お世辞にも美味しいとはいえないロシア料理だったが、本場ではこれが最後となるとちょっと残念だ。慌ただしく荷物をまとめて帰国の準備をする。

 10:30 ホテルから出発。

 10:50 空港到着。例のホールで出国手続き。ごった返す中で記念撮影をする。

 12:00 出国手続完了。絵画など美術品の持ち出しには許可証と税が掛かる。私は全然関係ないはずだったが、ロシアの基準を知らないので税関チェックの際、数日前に1,000RBで買った小さな油絵のことがほんの少しだけ気になる。

 結局、私は何事もなく手続きを終える。しかしF氏は長髪の外見が災いしたのか、入念にチェックを受ける事態になり、税関で中身を開帳することになる。スーツケースを開けると中には楽器や土産物がたくさん・・・。こう沢山の品物が納まっていると、税関は手荷物として輸入しようとする業者かと疑ってしまう。バンドネオンなどは紙製の箱に入っていたのでそれも開けさせられる。すると中の隙間にもマトリョーシカが詰め込まれていたりするので余計に怪しく思われてしまった。まるで麻薬かなんかの密輸業者のような詰め方だと思われたらしい。F氏は面倒くさいのと恥ずかしいのでちょっと困り顔になってしまう。バンドネオンやマトリョーシカの数は妙に多いが、どうやら輸入業者ではないらしいということで無事放免されたF氏だったが、パズルのように詰め込まれていたため、元に戻すのに難儀してしまう。

 ボディチェックのゲートで振り返るとアレクサンドル氏が見送っている。そこでカメラを取り出しアレクサンドル氏を写す。手荷物検査の所で写真を撮ってしまったが、特に問題はなかった。考えてみれば随分やばいところで撮ったものだ。アレキサンドル氏は飛行機に乗る直前まで手を振ってくれていた。

 12:30 TU-154に搭乗。離陸。
 13:30 軽食。

 14:15=13:15、時差により-1時間。新潟上空に到着。

 13:30 新潟空港に着陸。ハバロフスクの天気も良かったがこちらも快晴だった。日本への帰国時の入国手続きはいたって簡単だ。20分程で帰国手続と荷物のキャッチが完了。ここら辺の彼我の差には全く驚かされる。どこがどう違うとこんな差になるのだろうか?

 14:05 新潟駅行きのバスに乗る。
 15:00 新潟駅で新幹線あさひに乗車。車内で早速駅弁を食べる。2週間ぶりの日本食だったが、私は思ったほど懐かしいとは感じなかった。実際、帰宅後もしばらくいわゆる日本食は食べなかった。S氏やF氏は食堂車へ行って早速カレーなどをたらふく食べた模様。

 17:05 東京到着。S氏と私はF氏の彼女の車で送って貰う。
 18:00頃 帰宅。やはり疲れた。

 深夜のニュースでウラジオの話をしていた。前より親近感を感じた。荷物の整理は後日にして久しぶりに自宅のベッドで安眠する。

1992ロシア日記 了

1992年10月 ロシア日記・記事一覧

#飛行機
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アムール川でラッパ

1992-10-16 | ロシア  

 アムール川の岸に着く頃には、日は既に沈み、空は真っ赤な夕焼けになっていた。静かな川の夕暮れを何枚か写真に撮る。S氏は早速包みをほどいてラッパを取り出し、誰もいない川に向かって思いっきり吹いていた。でかいチャルメラのようなこのラッパには、押さえて音程を変えるキーがない。従って口元での吹き方の加減で音を変えるしかない。それで出せる音階はドミソだけなので、できる曲は非常に限られ、結局この時S氏が吹いたのは正露丸の曲だった。ドッドドドッド、ミッミミミッミ、ドーミドミソッソッソー、ドッドドドッド、ミッミミミッミ、ドーミドーッ、というCMでもおなじみの例の曲である。正露丸は元々は征露丸だったとかで、日露戦争の時にロシアを征する為に携行した薬だという。それを考えると、現代のロシアでこんな曲を披露するのは実はけしからん話なのだが、この曲しかできないんだから仕方ない。誰もいないし正露丸の曲なんてこちらでは皆知る由もないだろうから、そこら辺は気にしないことにする。

 S氏がラッパを吹き続けるので、F氏もおもちゃの太鼓を包みから取り出して、堤防にそれを置いて叩き出す。私は他にすることがないので夕焼けの中の二人のシルエット写真を撮る。正露丸の曲以外にできる曲がないのでS氏は気の向くまま吹き続け、F氏も適当に叩く。あまりにちゃちな太鼓なのですぐに壊れてしまいそうで、当然彼も本気にはなっていなかった。

 そうこうする内に孫とおぼしき幼い児を連れた老人が向こうから歩いてきて、私たちを何者かといぶかしそうに見ていた。私なぞは老人がまた何事かロシア語で怒鳴るのではないかとちょっと身構えてしまったが、それは杞憂に終わった。私達が挨拶をすると彼はその曲を続けてくれと言う。F氏は「えっ、こんなの聞きたいんか? ほんまはお腹の薬の曲やぞ、おい」とかなんとか言いながら、また太鼓を叩く。S氏もなんか他の曲ないかなあなどと言いつつ、笑いながらまた正露丸の曲を吹き、正露丸マーチが続く。老人は子供の手を引いて、足踏みをして、ほら踊ってごらん、楽しいよとか何とか言っている。ようやくそこで私たちは彼が続けてくれと言ったわけが判ったのだった。子供もはにかみながらもニコニコしながら跳ねている。しばらくして老人と少し話をする機会を得た。彼はゴルバチョフになって国は良くなったと言った。ソビエト時代は自由がなくて、今思えば唾を吐きたくなるような時代だったという。そのようなことを彼は子供に微笑みかけながらも強い調子で語った。そうかロシアになって平和で明るい世の中になったのだなあと改めて感じたのだった。

 その後、これを書いている2014年までに20年余が経った。自由主義経済の荒波にもまれたロシアでは高齢者(年金生活者)が生活苦に陥っているともいわれる。あの時の老人と子供は今どうしているだろう。

 19:00 カールマルクス大通りにあるRestaurant Sapporoで、30分遅れでロシア最後の夕食を取る。

 20:40 夕食を終えてホテルに帰着。明日は帰国だ。土産物をスーツケースに入れ準備をする。その後、21:30頃から、S氏の部屋でアレキサンドル氏を招いて、ウォッカで最後のお別れ会をする。この旅行の間はツアーコンダクターのアレキサンドル氏にいろいろお世話になった。私達は次第に彼に親近感を持ち、また彼の真面目な人柄は我々に強い記憶を残した。とりわけS氏はウラジオでのヒアリングその他の行動の様々な場面で彼にお世話になったために、非常に去りがたい気持ちになったのだろう。互いにつたない英語で長いこと話をしたのだった。

 ところで、話をしている時にK氏がホテル備え付けのポットを絨毯の床にちょっと落としてしまった。すると魔法瓶(古い言い方だが)はいとも簡単にあっけなく中のガラスが割れてしまい、底からお湯が流れ出してきた。ひっくり返して見ると、このポットには底蓋がなく、中の真空のガラスビンが裏から見えているという、いかにもロシア的な代物なのだった。当然外枠との間にクッションが挟まっているわけがないので、ちょっと落としたりするとあっという間に割れてしまう。これじゃしょうがないねなどと言いながらも、最後になってもいろいろあるなぁと思うのだった。こういうこと一つとってもそうなのだが、何故このようになっているのか理解できないことがしばしばあるのが旧ソビエトである。

 25:40 飲み会を終えて就寝。

1992年10月 ロシア日記・記事一覧

#海・川・池  #夕景・夜景 
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コムソモール広場2

1992-10-16 | ロシア  

 歩いていると向こうからS氏とF氏が歩いてきた。他にも多くの人が歩いているのだが、東洋人だからか、キョロキョロしてるからか、人々の中から私たちは互いを容易に見分けることが出来る。二人共やや大きな包みを抱えている。包みといっても茶色いザラ紙をクルクルッと巻いただけで、F氏のものなどは買って間もないのに既にところどころが破れてしまっている始末だった。その中身は、S氏はラッパでF氏は太鼓だった。日本で楽器を買えばたいがい段ボールか何かに入っている。ビロードの付いた化粧ケースに入っていることもしばしばだ。しかし極東のこの地ではザラ紙にくるまれ、破けたところからは中が見えてしまっているのだった。このへんの感覚はやはり共産主義時代の名残なのだろう。家に持ち帰ったあと捨ててしまうようなものは最初から付けないのだ。でもしまっておくときの箱ぐらいあると良いのだが。

 S氏はラッパを買ってなかなかご機嫌で、カメラを向けるとラッパを吹くポーズをとってくれる。夕暮れが近づき、夕焼けが綺麗になってきたので、川まで行ってラッパを吹こうとS氏が言い出したのでまたまた川の方へ向かう。なんだか川とカールマルクス大通りを行ったり来たりしてるだけだが、他に対した見どころがないのでこれでいいのだ。

 コムソモール広場は夕焼けに包まれていた。共産主義のシンボルである星を先端に付けたオベリスク状のモニュメントが妙に美しく感じられる。

 広場で結婚式が終わったばかりの人々に出会う。盛り上がっていたので近づいていったら快く写真を撮らせてくれた。後で写真を見て気づいたのだが、彼等は広場でグラスで酒を飲んでいた。一体どこから持ってきたのだろう?

1992年10月 ロシア日記・記事一覧

#広場  #公園  #モニュメント  #塔  #夕景・夜景 
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映画館

1992-10-16 | ロシア  

 3人組から離れた後、カールマルクス通りへ焦って戻る。とりあえず大通りの方が逆に気楽なことに気づく。表通りとは違って裏通りにはやはり人があまり歩いていない。大通りに出てホッとしながら、しかし相変わらずやや警戒しながらキョロキョロしながら歩いていると、道の反対側の角で電話を掛けている女性に気が付いた。すると近くの男がその女性に脇からつかつかと近寄り、いきなり彼女が片手に持っていたバッグをひったくろうとするではないか。ビックリして注視していると、彼女は電話を掛けながら大声で何か叫びバッグをまた手元に引き寄せた。わずかの間、引っ張り合った後、男はあきらめて走り去ったが、女性は男の後ろ姿を睨み付けて立っていた。でも何故か周囲の人は全く手を出さなかった。僕自身、男が走って道をこちら側へ横断したので、やや危険を感じて女性よりも男に注意を払いながら素知らぬふりをして足早に歩き続けた。これだからやはりあまり気が抜けない。

 通りを再び北の方へ行くと映画館がある。劇場であるためか他の建物とは少々異なり、道路から後退して建っていて、入口前には小さな広場が設けられている。映画の看板は当然ロシア語で書かれている。日本と違って文字主体の看板なので、何の映画なのかはさっぱり判らない。片隅に描かれた絵から推測すると、どうやらハリウッド映画がこちらでも上映されているようではあったが、描かれた俳優の顔立ちがロシア人風になってしまっているので、仮にそれがアメリカの有名俳優だったとしても(例えばシュワちゃんでも)、僕等には判らない。描く人がロシアの人だと、日本人でもアメリカ人でも何となくロシア人風になってしまうらしい。日本でも同様のことは起こっているのだろう・・・。ところでロシアの映画館ではハリソンフォードも、ブルースウィリスもロシア語を喋ってるのだろうか。もっと時間があればそんな彼等を見てみたかったのだが、なにぶん時間がないので見ることはかなわなかった。

1992年10月 ロシア日記・記事一覧

#映画館・ホール 
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3人組の写真を撮る

1992-10-16 | ロシア  

 歩いていると3人組の男達が芝生の反対側から声を掛けてきた。声に反応して一瞬視線を合わせてしまったので仕方なく軽く手を挙げて会釈する。するとなにやら了解したものと思ったらしく、彼等はあっという間に近くに寄ってきた。どうやら写真を撮ってくれと言っているようだった。私が首からカメラを提げて一人で建物の写真を撮っていたのを見てそう考えたらしい。

 仕方なく3人の写真を撮ってあげる。しかし彼等は1枚では納得しなかった。1枚を立ちポーズで撮ったら、次はしゃがんだ所を撮ってくれとさっさと3人揃ってしゃがんでしまう。仕方ないので2枚目を撮る。なんでこんな写真を撮らなくちゃならないんだ、というかんじ。

 漸く2枚撮って、ハイ、サンキューと言って立ち去ろうとすると、彼等はスバヤク私を取り囲んでしまった。何となく人相がぱっとしない男3人が1人の僕を取り囲むのだから、私は急速に焦った。彼等は妙に近づいてああだこうだと言っていた。意識をそらせている間に財布を抜き取ろうとしているのではという悪い予感がして私は身を固くする。良くわかんないよ、ロシア語できないんだよと英語で言うが、彼等にはそれも通じず、彼等は僕を離してくれない。

 らちが明かないのでとりあえずノートを取り出して、最後のページを開き、言ってることを書いてよと身振りで示してペンを渡す。わかったわかったと彼等はノートに大きな字でコメントを書き殴った。うわぁマッタク汚い字だなぁと思いつつ、少しは理解しようと努めるのだが、ロシア語は聞く方も書く方も全く出来ないのだから判るわけはない。だから書いて貰っても大して意味はないのだが、でもここは判ったふりをしないと逃れられないと思い、OK!OK!を連発し、I Understand!、I See!、All Right!、とアホでも判る英語(でも純粋のロシア人じゃダメか・・・)で、合間にダー、ダー(これはロシア語のYes)とかも言いながら、引きつった笑顔を見せながらノートを引っ込める。ノートを仕舞おうとすると、彼等はノートに書いたことに未練を持つかのように3人であーだこーだ言っていた。何なんだ?

 数分後、漸く解放?されて、相変わらず引きつった笑顔をしながら彼等と別れる。走り去りたい気分だったが、ここはそんな気持ちを抑えて足取りを一定に保ちながら、しかし緊張感一杯のまま少しずつ、少しずつその場から立ち去る。まるで熊から逃げる時みたいだ。しばらくして彼等が見えなくなると、私は大きな溜息をつき、あーやばかった!と独り言を言いながら足早に歩いたのだった。

 この後、夕食時に、このノートを添乗員のSさんに見せて訳して貰ったところ、「来週の月曜にこの公園で待ってるから、その時に出来た写真をくれ」と言っていたことが判った。月曜というのは3日後だったが、僕等は明日には帰国してしまう。だから月曜にこの公園には行けない。私は無理な注文に笑顔でOKをしてしまったのだった。月曜日の午後、彼等はここで私が来るのを待っていたのだろうか。そして彼らは、私が来ないがために日本人に失望したかもしれない。そんなわけで私は彼等に対してちょっと済まない気分になったのだった。でもあの頼み方はやっぱりちょっと脅しが入ってた気がする・・・。

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極東国立体育大学

1992-10-16 | ロシア  
極東国立体育大学  Google Map

 文化と憩いの公園内の階段を上りきったところには極東国立体育大学があり、旧ソビエト時代に造られたとおぼしき銅像が正面にある。旗を掲げて前に疾走するその姿はいかにも共産主義っぽい。これに共感したりしていたのだろうか。そこら辺やっぱり私個人としては不思議だった。更に行くと大学のゲートに辿り着く。入っていいのだろうかとやや心配になりながらも、周囲に人がいないのをいいことに通り抜けてしまう。ゲート自体は料金所みたいな近代的建築物だった。

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#大学
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アムール川畔の展望台

1992-10-16 | ロシア  

 川沿いを歩いて展望台の真下まで行く。丘が川際まで突きだしたところにある展望台は下から見るとちょっと昔の砦のようで意外に格好が良い。更に遠くには遊覧船だろうか、割合に立派な客船が停泊していたが、そこまで行ってしまうと街外れになってしまうような気がしたので、そちらには行かなかった。中心部をもう少し見たくなったので、また川から離れて、今度は大通りの裏側を廻ってみることにする。ハバロフスクの中心部は基本的にグリッドパターンなので、およその方角さえ間違えなければ大きく迷うことはない。

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#海・川・池  #塔 
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アムール川・船着き場

1992-10-16 | ロシア  

 下流の方には船着き場が見える。緑色をした2階建てで、木造の館を模したものだが、船着き場としてはやや奇妙な姿だ。簡便な施設だが、対岸は外国なので一応税関や入国審査の部屋があるようだった。しかし小型ボートさえあれば簡単に中国に行けそうな雰囲気で、そこらへん国境のあり方というのはよく判らないものだ。

1992年10月 ロシア日記・記事一覧

#海・川・池  #船 
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アムール川

1992-10-16 | ロシア  
アムール川   Google Map
Wikipedia > アムール川

 公園を抜けて川に出て水際へ行く。前に来たときと違って天気が良いので、川も穏やかに見える。西日の中に対岸が見えていた。この時は対岸は中国かと思ったのだが、後で調べたところ、中国はもっと上流のほうだった。

 川沿いの砂地になぜかベンチがぽつんとおかれていて、そこで二人の女の子が話し込んでいた。夏には海水浴客で賑わったりもするらしいが、晩秋の川は人影も少なく静かだ。

1992年10月 ロシア日記・記事一覧

#海・川・池
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