01/01 謹賀新年・宝竜寺坂
01/06 今川小路
01/09 東京都下水道局 和泉町ポンプ所
01/12 福田屋/O邸
01/15 まつや米店
01/18 小林雅尚堂
01/21 池田屋ラシャ店
01/24 神田多町通りの看板建築
01/27 秋田接骨院・珈琲の店びいんず
01/30 上市園
上市園
所在地:千代田区 神田須田町1-12
構造・階数:木・2
建設年:戦前
解体年:2019(平成31/令和元)
Photo 2014.3.16
靖国通りから南に入る小路に面してあった出桁造り商店。看板には「銘茶、乾海苔、食料品」とあった。
戦前の火保図(1935年発行)に既に名前は記載されているので、建物も震災後から昭和初期のものだったのではないかと思われる。ただ、戦後の火保図(1950年発行など)を見るとそちらには「渡辺やすり商店」とあり、1973年の住宅地図でも「渡辺やすり製作所」となっている。しかし1982年の地図では上市園(渡辺)になっているので、40〜50年前に業種を変えたようだ。
下記「ぼくの近代建築コレクション」内の記事やGoogleストリートビューの画像で確認したところ、2009年の画像までは2階の屋根も瓦葺きだが、2013年でそれでは2階がトタン葺きに換えられている。
その後は訪れていなかったが2019年6月に通り掛かったところ、ちょうど解体中だった。都心では銅板張り看板建築だけでなく、出桁造りの商家建物も次第にかなり少なくなっている。
上市園/神田須田町1丁目 - ぼくの近代建築コレクション
アクトデザイン凛太郎のブログ 松本家住宅主屋 + 上市園
Tokyo Lost Architecture
#失われた建物 千代田区 #木造店舗 #出桁造り ブログ内タグ一覧
秋田接骨院・珈琲の店びいんず
所在地:千代田区 神田須田町1-10
構造・階数:木・2
建設年:戦後まもなく?
解体年:2014(平成26).4
Photo 2011.10.9
2軒の店が入った妻入りのモルタル看板建築。戦後まもなくの時期に建てられたのではないかと思うが、戦前の可能性もあり詳細は不明。昼間の写真を撮り損ねてしまったため、手もとにあるのはこの一枚のみ。
撮影した時期には接骨院と喫茶店になっていたが、ここの店舗はずっと同じだったわけではなかったようだ。戦前の1935年の火保図では小林医院?、戦後の1950年の火保図では水谷歯科、1954年作成・1959年修正の火保図では菊地歯科と信濃デンキと記されており、戦前から戦後にかけて医院がいろいろ替わっている。
その後、1973年には大京印刷・オクムラネーム店、1982年にはコーヒーびいんず・オクムラネーム店と記されている。びいんずという喫茶店はこの頃からのもののようだ。
旧村木商店、びいんず/神田須田町1丁目 - ぼくの近代建築コレクション
Tokyo Lost Architecture
#失われた建物 千代田区 #看板建築 #モルタル看板建築
#夕景・夜景 ブログ内タグ一覧
多町通りの看板建築
所在地:千代田区 神田須田町1-10
構造・階数:木・2/3
建設年:戦前?
解体年:2012〜13(平成24〜25)
Photo 2011.10.9
靖国通りから南に入る多町大通り沿いにあった一連の木造店舗群。これも日中の写真を撮りそびれてしまった。撮影時点で既に「建築計画のお知らせ」看板が設置されていて解体間近だった。ただ、その際はまだ詳細が決まっていなかったらしく、実際の解体は翌年以降だったようだ。
拙ブログの写真では画像が暗くてよく分からないが、下記「ぼくの近代建築コレクション」内の写真によれば、右端の「COFFEE AIKO」とその左隣、「EDWARD'S」の看板庇のある平入り2階建ての建物は、2階が銅板張りの看板建築だったようだ。「中華料理 支那」も銅板張りかトタン張りの平入り看板建築。
銅板張りの看板建築だったなら、関東大震災後の大正末期から戦前期に建てられたものだったのかもしれない。消失前の時点の店が最初の頃からあったわけではなく、戦後の火保図や住宅地図を見ると、戦後すぐの頃はゴザ屋や菓子店だったりして、その後の様子とはかなり異なる。
一方、写真の中華料理の支那は1980年代から、またEDWARD'Sも1990年代から営業していた。右端の喫茶店AIKOは1950年代には相子という菓子店、80年代頃からは同名の喫茶店になったようで、業態は異なるがこちらは60年程度に渡って営業していたようだ。
2024.11.24 追記
下記『東京ふつうの喫茶店』によれば、喫茶店AIKOは「相子」という苗字の方が経営している店だったという。同書によれば、建物は関東大震災直後に建てられたもので、喫茶店は1954(昭和29)年に開店したという。
参考『東京ふつうの喫茶店』泉麻人 著、平凡社、2010年
支那、相子/神田須田町1丁目 - ぼくの近代建築コレクション
Tokyo Lost Architecture
#失われた建物 千代田区 #木造店舗 #看板建築
#夕景・夜景 ブログ内タグ一覧
池田屋(柏山邸)
所在地:千代田区 神田須田町1-5
構造・階数:木・3
建設年:大正末
解体年:2012(平成24)
Photo 1995.6.3
須田町界隈には紳士服の生地である「ラシャ(羅紗)」を扱う店が多く集まっていた。交通博物館のそばにあった池田屋もそのひとつ。
建物は銅板張りギャンブレル屋根(マンサードと言われたりもする)の屋根裏3階建て。ギャンブレル屋根に特有の腰折れが右側だけでシンメトリーでないのは、後年3階に押入を増築したためという。
上写真の1995年時点では「池田屋」の袖看板も出ていたが、下記「ぼくの近代建築コレクション」掲載の2003年時点では既に袖看板が無くなっており、この頃には廃業していたようだ。
北東側から Photo 2011.10.9
屋根裏3階になっているのは道路側で、後方は2階で屋上(物干し台・物置)になっていた。
Photo 2005.3.25
銅板張りのギャンブレル(マンサード)屋根3階建てはやはり次第に少なくなっていて、都心では数えるほどになっているのではないかと思われる。池田屋の外観は銅板張りが比較的きれいに維持されていた。千代田区景観まちづくり重要物件にも指定されていたが、10年ほど前に残念ながら解体された。
池田屋ラシャ店/神田須田町1丁目 - ぼくの近代建築コレクション
池田屋 | 千代田遺産
神田須田町の銅板葺き看板建築 - 御光堂世界~Pulinの日記
千代田区神田須田町~ありがとう、90年。神田銅板建築 柏山邸お別れ会
- 東京 DOWNTOWN STREET 1980's
続・東京銭湯お遍路 看板建築。
Tokyo Lost Architecture
#失われた建物 千代田区 #看板建築 #銅板張り看板建築 #ギャンブレル屋根
ブログ内タグ一覧
小林雅尚堂
所在地:千代田区 神田須田町1-4-7
構造・階数:木・2
建設年:戦前?
解体年:2005(平成17)
Photo 2005.3.25
神田須田町、靖国通りの少し南側の通りに面して建っていた銅板張り看板建築。氏名や屋号はないが、1935年発行の火災保険特殊地図にはそれらしき建物が描かれており、これも関東大震災後の大正末期から昭和初期に建てられたものではないかと思われる。
小林雅尚堂は表具師のお店だそうだ。戦後の1954年作成の火保図には小林としか書かれていないが、1973年発行の住宅地図には雅尚堂として掲載されている。
この写真の後しばらくのうちに解体されたようで、翌年の住宅地図には建物はもう記載されていない。ただ小林雅尚堂じたいはWebサイトがあり、近くの神田須田町1-19に移転して営業を続けているようだ。
モダン表装・表具の小林雅尚堂
山房商店、雅尚堂/須田町1丁目 - ぼくの近代建築コレクション
Tokyo Lost Architecture
#失われた建物 千代田区 #看板建築 #銅板張り看板建築
ブログ内タグ一覧
まつや米店
所在地:千代田区 神田神保町3-25
構造・階数:木・2
建設年:戦前
解体年:2018〜19(平成30〜31)
Photo 2011.1.17
神保町3丁目の裏通りに面してひっそり建っていた銅板張り看板建築。
1935(昭和10)年発行の火災保険特殊地図で既に「米店」と記されているので、震災後の大正末か昭和初期に建てられたものだったようだ。
住宅地図等での表記は年代によって少々異なる。戦後の火保図では「まつや主食販売所」、ゼンリンの住宅地図が発行されだした頃(1973年)のものでは「まつや食糧販売所」、80年代以降は「まつや米店」。主食販売所や食糧販売所といった表現は時代を感じさせる。
撮影時は既に廃業していたが、5年ほど前までは仕舞屋として建物が存続していた。2018年5月のGoogleストリートビューには建物が写っているが、2019年6月ではなくなっている。
ビルの谷間の銅板張り看板建築 千代田区神田神保町 - 東京ノスタルジア
【×】神田神保町三丁目(1) - ずぼら堂懐古録
Tokyo Lost Architecture
#失われた建物 千代田区 #看板建築 #銅板張り看板建築
ブログ内タグ一覧
福田屋/O邸
所在地:千代田区 神田神保町3-13
構造・階数:木・2
建設年:戦前?
解体年:2002(平成14)
Photo 2002.7.27
靖国通りの南側、すずらん通りとさくら通りを西へ行った先の通りに面していた銅板張り看板建築。銅板張り看板建築は大概、関東大震災の後から第二次大戦の敗戦時頃までに建てられたものだそうなので、この連続した2棟もその頃に建てられたものだろう。奥側の庇の付いたものは福田屋酒店、手前側がO邸。
1935(昭和10)年発行の火災保険特殊地図では外形が似た建物が描かれている。ただ、屋号や居住者名の記載はない。戦後の同地図(1951年作成、1954年修正)では、福田酒店、O邸と記されており、この時点で既に最終盤の状況とほぼ同じになっている。撮影時点では酒店は既に廃業していたらしく、翌年発行の住宅地図では更地になっている。跡地には集英社神保町3丁目ビルが2005年2月に竣工した。
下記「ぼくの近代建築コレクション」内の記事には1987年時点の様子が掲載されている。当時は東側にも看板建築が並んでいたようだ。
尚輪社、他/神保町3丁目 - ぼくの近代建築コレクション
Tokyo Lost Architecture
#失われた建物 千代田区 #看板建築 #銅板張り看板建築 ブログ内タグ一覧
東京都下水道局 和泉町ポンプ所
所在地:千代田区 神田和泉町 1-3-12
構造・階数:RC・2+B1
建設年:1922(大正11)
解体年:2023(令和5)
Photo 2001.5.9
和泉町ポンプ所は下水処理関連の施設。公共施設ではあるが一般のオフィスや店舗ではないので、都市にとっては重要な施設だが一般市民にはあまり馴染みのないもの。RC造2階で角にちょっとした塔屋が付いているが、入口の看板を見ないと何の施設なのか判らないものだった。
大正時代、関東大震災より前の建物だが、インフラ系施設であるからか装飾はほとんどなく、地味でモダンな雰囲気を漂わせていた。訪れた時はピンクがかったタイル張りで、白い目地がやや目立つ外観をしていたが、これは外壁の補修をした後の様子だったらしい。下記「ぼくの近代建築コレクション」には改修以前の写真が掲載されている。以前は煉瓦色のタイルを張った外観だったようだ。また、以前は頂部や窓台は打ち放しで灰色をしていたが、改修後はその部分もピンク色にペイントされていた。
いちど訪れてからずっと見ないでいたら、昨年5月から解体され建て替えられたという。
和泉町ポンプ所/神田和泉町 - ぼくの近代建築コレクション
「旧和泉町ポンプ所」に解体工事のお知らせが掲示されていた。 - 歩・探・見・感
和泉町ポンプ所 - 千代田遺産
和泉町ポンプ所(千代田区・2023年解体)
Tokyo Lost Architecture
#失われた建物 千代田区 #インフラ #公共施設 ブログ内タグ一覧
今川小路
所在地:千代田区 鍛冶町1-1・中央区 日本橋本石町4-2
構造・階数:木・2
建設年:1951(昭和26)頃
解体年:2017〜18(平成29〜30)
Photo 2017.10.2
今川小路はJR神田駅の少し南にあったガード下の飲み屋街で、ここは昔、竜閑川という川がガードをくぐって流れていた場所。竜閑川は江戸時代に造られた堀割のひとつだが、第二次大戦後に瓦礫処理のために埋め立てられたという。そしてその跡地に1951年頃から近辺の居酒屋などが集まってガード下飲み屋街ができたのだそうだ。
竜閑川は日本橋から北上する中央通りと直交していたが、それらがなしている碁盤目状の街区をJRが斜めに横切っているため、神田駅近辺のガードはほぼ全てがJRを斜めにくぐっている。今川小路もJRを斜めにくぐるガードに造られた飲み屋街だった。またこのあたりでは竜閑川が区界になっており、小路の北側が千代田区、南側は中央区である。
70年近くに渡って営業を続けてきたが、JRが高架の耐震補強工事を行うことになったため、2017年9月末で閉鎖され、その後、解体された。
私が訪れたのは10月になってからで、既に営業している店はなく解体を待つばかりだったが、写真を撮っているとぽつりぽつりと訪れる人があり、私同様写真を撮っていた。
今川小路 - Wikipedia
今川小路 - 千代田遺産
昭和の風景残す東京・神田ガード下「今川小路」 再開発の影で消えゆく戦後横丁(1/3ページ) - 産経ニュース
【現存せず】東京駅至近のド都心にある奇跡の光景!激渋昭和ガード下バラック飲食街「今川小路」 - 東京DEEP案内
Tokyo Lost Architecture
#失われた建物 千代田区 #失われた建物 中央区
#鉄道 #路地 #アーケード ブログ内タグ一覧