都市徘徊blog

徒然まちあるき日記

新早稲田館

2024-07-24 | 新宿区  
新早稲田館
所在地 :新宿区 西早稲田2-17-14
構造・階数:木・2
建設年代:戦前?
解体年代:1996〜97(平成8〜9)
Photo 2005.6.24

 JR高田馬場駅と早稲田大学の中間、西早稲田2丁目の静かな住宅地にあった下宿屋さん。界隈は戦災では被災しなかったエリアだそうなので、もしかすると戦前の建物だったのかもしれない。

 既出の運輸省早稲田寮(現 財務省西早稲田寮)も、学生下宿ではないがひとつ西の道沿いにあった。
 かつては界隈には学生寮や官舎、社宅などが多く、90年代まではこのような木造下宿も結構残っていたので、あまり気に留めておらず写真もさほど撮らなかったのだが、いつのまにかかなり減ってしまったようだ。新早稲田館もこの写真の頃までは居住者がいたようだったが、この後、1、 2年のうちに取り壊された。

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旧 料亭一松

2024-07-21 | 新宿区  
旧 料亭一松
所在地 :新宿区 西新宿4-18
構造・階数:木・2
建設年代:戦後
解体年代:2019〜20(平成31〜令和2)
備考  :旧十二社三業地の料亭
Photo 2012.1.31

 西新宿の高層ビル街の西側の一角は、かつて十二社三業地だった場所。江戸時代、灌漑用に湧水を用いた池が造られたが、その周囲に次第に茶屋が建ち並んで遊興地として賑わったのが始まりという。明治期になると界隈は花街となり、最盛期には料亭や茶屋が60軒余、芸妓も約100名いたといい、池には貸ボート、屋形船、釣り舟もあって賑わったそうだ。

 しかし昭和になると、水質の悪化もあって池は徐々に埋め立てられ、1968(昭和43)年の十二社通りの建設に伴い完全に埋め立てられた。池の消滅と共に料亭も少なくなり、次第にマンションなどになっていった。かつての十二社では、このような料亭が池の周囲に数十軒建ち並んで花街の街並みを創っていたが、それも時代の移り変わりとともに消えていった。


 Photo 2012.1.31

 一松の建物はそのようななかで最近まで残っていて、かつての花街を思い起こす手掛かりとなっていたものだった。戦前の住宅地図では、当該地は料亭「楽々」となっているが、十二社周辺は戦災で焼失したそうなので、一松の建物は戦後まもなくに建てられたものだったらしい。

 界わいのかつての料亭の中では小規模な方だったようで、間口はさほど大きくない。道路沿いには庭と呼べるようなものはほぼなく、玄関前に細い松の木と小さな植え込み、植木鉢が少しある程度だった。だがそれらはよく手入れされていて、塀や玄関まわりもきれいに保たれていた。ご縁がなかったので、残念ながら内部、御座敷などの様子は知らない。また、建物は写真の頃まで残っていたが、料亭としては2009年頃までに廃業していたようだ。


 Photo 2017.6.11

十二社(じゅうにそう)の池(新宿区西新宿) : 東京の水 2009 fragments
BCR日記: 江戸の面影・十二社の池(その2)

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松の湯

2022-06-15 | 新宿区  
松の湯
所在地:新宿区 西早稲田1-4
構造・階数:木・1
建設年:1969(昭和34)
解体年:2020(令和2)
備考 :営業開始は1969.4.19。2020.7.31閉店、
Photo 2009.5.10

 早稲田通り、都バス西早稲田バス停前にあった銭湯。開業時期は分からないが、建物は50年ほど前のものだったそうだ。いわゆる宮造り型だが、道路ぎわの部分は改修されていたものだろう。2020年7月末で閉店し、その後解体された。

 現在、跡地では「ザ・パークハウス アーバンス 早稲田」が建設中。RC造13階建ての共同住宅で、2023年1月末竣工予定。

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明治安田生命新宿ビル(旧 安田生命本社ビル)

2022-06-12 | 新宿区  
明治安田生命新宿ビル(旧 安田生命本社ビル)
所在地:新宿区 西新宿1-9-1
構造・階数:SRC・9+B3
建設年:1961(昭和36)
解体年:2020(令和2)
備考 :明治安田生命ホールは2017(平成29)に閉館。
Photo 1997.3.3

 新宿駅の西口駅前広場に面して建っていた大きなオフィスビル。南北に長い直方体がベースで、1、2Fが広場側に張り出した形。なんの変哲もない形ではあったが、直方体の縦横奥行きのプロポーションが良かったように思う。各階にルーバー庇を巡らせた姿は繊細さも感じさせた。庇やベランダが巡らされている姿は日本的なモダニズムだったが、RCのベランダではなく金属製のルーバーだったので、軽快な印象だった気がする。一方で1、2Fは柱が道路側に並び、ビルの前を歩くと重厚な印象もあった。

 上写真は安田生命時代のもの。安田生命は2004年に明治生命と合併して明治安田生命となった。


 Photo 2012.5.31

 2枚目写真は合併後の2012年のもの。当初は低層部屋上の緑化はされていなかったようだが、この頃には既に樹木や植栽が見える。


 小田急百貨店から Photo 2018.7.23

 駅西口の南の方はヨドバシカメラなどの電気店が多く、ごちゃごちゃと賑やかな景色だったが、西口の中央は明治安田生命ビルがどんと構えていて、いかにもビジネス街という雰囲気だった。


 ビル東南側から Photo 2010.6.9

 低層部、道路ぎわに店舗などが全くなかったため、その意味ではやや殺風景だった。


 南側面 Photo 2010.6.9

 ルーバーがあるため、近くから見上げると窓ガラスや建物内はあまり見えない。

 建物の解体は既に終了し、跡地では西新宿一丁目地区プロジェクトとして新しいオフィスビルの建設が2021年から行われている。新ビルは、S・RC・SRC造、23F・B4Fで、高さ126m。オフィスの他に店舗、ホール、子育て支援施設を含む建物で、2025年7月末に竣工予定だそうだ。

「明治安田生命新宿ビル」他の跡地 地上23階、高さ約126mの「(仮称)西新宿一丁目地区プロジェクト」 建築計画のお知らせ掲示!: 東京・大阪 都心上空ヘリコプター遊覧飛行

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新宿東宝会館・新宿プラザ劇場

2022-06-09 | 新宿区  
新宿東宝会館/新宿プラザ劇場
所在地:新宿区 歌舞伎町1-19
階数 :9(12?)+B3
建設年:1969(昭和44)
解体年:2011(平成23)
Photo 2009.2.25

 新宿コマ劇場の北側に隣接してあった複合商業施設。

 住宅地図等で確認したところ、1〜3階が新宿プラザ劇場、4・5階は飲食店、6階はビリヤード、7階がボウリング場、8・9階は歌舞伎町クラブハイツというキャバレー(1973(昭和48)年オープン)、地下1階は飲食店、地下2階はクリーニング、理髪店、サウナ、そして地下3階にも店舗があったという。


 Photo 2011.2.4

 ただ、この写真では、建物は11階ないしは12階建てだったように見える。住宅地図では9階までの商業施設がリストアップされていたため取り敢えず9階建てとしたが、上部に関連のオフィスなどがあったのかもしれない。

 新宿プラザ劇場も2008年末に閉館。コマ劇場同様、2011年春頃まではそのまま残されていたが、その後解体された。そしてこの新宿東宝会館と新宿コマ劇場の跡地には、シネコンとホテルを併設した新宿東宝ビルが2015年に完成している。

新宿プラザ劇場 - Wikipedia
新宿東宝ビル - Wikipedia
新宿プラザ劇場 (港町キネマ通り)
歌舞伎町「新宿プラザ劇場」、10月31日閉館へ-39年の歴史に幕 - 新宿経済新聞

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新宿コマ劇場

2022-06-06 | 新宿区  
新宿コマ劇場 
所在地:新宿区 歌舞伎町1-19
建設年:1956(昭和31)
解体年:2011(平成23)
備考 :2008(平成20)末閉館。新宿東宝会館と合わせて再開発。
Photo 1996.11.10

 歌舞伎町の名は、戦後、区画整理を行った際に老若男女が楽しめる「道義的繁華街」の創設を目標として歌舞伎劇場の誘致を目指し、東京都の石川栄耀(当時都市計画課長)の助言も得て命名されたもの。歌舞伎劇場の誘致はできなかったが、1956(昭和31)年にコマ劇場が開場。周辺の映画館と併せて一大興行街となった。

 2000年頃までは、当初からの外観で営業していたが、その頃の全景は撮っていなかった。上写真は、西側、コマ劇場の入口側の様子。おそらく演歌歌手のショーの開場直前で、多くの観客が開場を待っている。


 Photo 2005.7.13

 2005年頃はクイーンのトリビュートミュージカル「We Will Rock You」が行われていた。この時には全体が黒く塗られ、ロゴも KOMA になっていた。西南側から。


 Photo 2005.7.13

 歌舞伎町の広場、シネシティ広場から。 このときの改修で壁面には大型ビジョンが設置された。


 Photo 2011.2.4

 コマ劇場とシアターアプルは2008年末に閉館したが、建物は2011年春頃までは閉鎖された状態でそのまま残されていた。


 Photo 2011.2.4

 歌舞伎町、センター通り側、南側正面


 Photo 2009.2.25

 1階にあった飲食店街。再開発後のビルにも、店は違うが飲食店街が設けられている。

新宿コマ劇場 - Wikipedia
新宿歴史博物館 データベース 写真で見る新宿
演劇・映画文化を発信し続ける新宿の街のシンボル「新宿コマ劇場」と、そのDNAを継ぐ「新宿東宝ビル」<前編>

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鈴木邸・旧 杉卯七邸

2022-06-03 | 新宿区  
鈴木邸・旧 杉卯七邸
所在地:新宿区 下落合2-14
構造・階数:木・2
建設年:1923(大正12)
解体年:2012(平成24).4
設計 :あめりか屋
Photo 2009.6.8

 下落合2丁目、日立目白倶楽部(旧学習院目白寮)のそば、近衛町と呼ばれる住宅地にあった洋館。
 壁面の多くは洋風の下見板張、2階の一部はハーフティンバー風と言えば良いのだろうか。

 窓枠は昔からのものが維持されていたようで、細く華奢で装飾的な窓が印象的だった。

 F.L.ライトがデザインに関わったのではないかという話もあったが、どうやら「あめりか屋」という洋風住宅建設会社によるものだったようだ。下記ブログの記事にはその詳細が記されている。

近衛町の杉卯七邸を拝見する。(下):落合学(落合道人 Ochiai-Dojin):SSブログ

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#失われた建物 新宿区  #住宅系  #洋館・洋風住宅  #近代建築  #大正期 
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国立霞ヶ丘陸上競技場

2022-05-23 | 新宿区  
国立霞ヶ丘陸上競技場
所在地:新宿区 霞ヶ丘町10
構造・階数:RC・4F
建設年:1958(昭和33)
解体年:2015(平成27)
備考 :1964(昭和39)の東京オリンピックに合わせて増築。
    2014年5月31日閉場
Photo 1993.11.21

 いわゆる国立競技場、2021年にオリンピック・パラリンピックが行われた競技場の前の代の競技場で、1964年のオリンピックや、サッカーの試合などで多くの人に親しまれた建物。

 江戸時代末期、現在の国立競技場の場所は、幕府の煙硝蔵や寺(寂光寺・立法寺)、御賄方大縄地などだった。明治になり、1886(明治19)年に青山練兵場が造られた後はその一部となった。そして明治天皇が崩御した後、神宮外苑が計画されて練兵場は代々木に移転し、神宮外苑の諸々の施設群が建設された。

 外苑のこの場所に最初に競技場ができたのは、1924(大正13)年のこと。明治神宮外苑競技場と呼ばれたその施設では、1943(昭和18)年10月には学徒出陣壮行会も行われた。
 戦後の一時期(1945〜52)はGHQに接収されて、ナイル・キニック・スタジアムという名で使われたが、接収解除後は再び一般開放された。ここまでで述べた競技場は初代のもので、2014年に解体されたのはいわば二代目。

 写真のその二代目競技場は、アジア競技大会と国体で使うために建設が始まり、1958(昭和33)年に竣工したもの。その後、1964(昭和39)年の東京オリンピックのために主にバックスタンド側が大増築された。この他にも多少の改修はあったようだが、これが2014年まで使われた競技場だった。
 2000年代になり、国際的なサッカー試合や陸上競技会を開催するための条件を満たさなくなってきたため、建替られることとなり、2014(平成26)5月末で閉場、2015年1月から解体が行われた。

 上写真は増築されたバックスタンド側を東南側から見た様子。スタンド上部の左端にはオリンピックの聖火台が見えている。


 同じくバックスタンド側を東側から西南向きに見たもの
 Photo 2006.2.19


 東京都体育館方面からメインスタンドへ至るブリッジ上からスタンド北側
 Photo 2006.2.19


 東京都体育館の側から全景。手前の道は外苑西通り
 Photo 2006.5.1


 メインスタンド正面入口
 Photo 2006.5.1


 正面入口 Photo 2006.5.1

 入口上部には日の丸、五輪と共に優勝者の名が刻まれていた。「The Games of The XVIII Olympiad Winners」「第18回オリンピック競技大会優勝者」の文字が読める。

 アテネの第1回オリンピックスタジアムを訪れた時、大理石に記録が刻まれていたのが印象的だった。旧国立競技場のこのレリーフなどはどこかに保存されているのだろうか?

 残念ながら内部の写真は撮りそびれた。何度か入ったことはあるのだが、そのたびカメラを持っていなかったりして撮っていない。最後の頃の見学会も行きそびれてしまった。

 新しい競技場は、旧競技場の照明塔よりは屋根の高さが低いが、全体のヴォリュームは以前よりもずっと大きい。競技場を今後どのように使っていくのか、また、外苑全体の更新をどうしていくのかも気になるところだ。

国立霞ヶ丘競技場陸上競技場 - Wikipedia
国立競技場の歴史詳細 | 国立競技場 | JAPAN SPORT COUNCIL
ヒストリー~大成建設と国立競技場~| 大成建設株式会社
国立競技場 - 環境デザインマニアック - 多摩美術大学環境デザイン学科
旧・国立競技場アーカイブ

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日本ワックスマン財団

2022-05-20 | 新宿区  
日本ワックスマン財団
所在地:新宿区 大京町30
構造・階数:CB・1
建設年:1958(昭和33)
解体年:2015.4〜16.2(平成27〜28)
Photo 2010.11.27

 慶応大学病院の施設群の間にこじんまりとあった平屋の建物。隣接する建物群の多くは戦前のもので様式的デザインだったが、この建物はモダニズムで南側全面がガラス窓。一方で東側は玄関以外は全て壁という作りだった。

 日本ワックスマン財団は1957(昭和32)年設立だが、同財団のサイトにはこの建物の情報は見当たらない。しかし、慶應義塾百年史に以下の記述と写真があった。

 『昭和33(1958)年10月には日本ワックスマン財団事務所が竣工し、翌年1月19日に同財団から義塾に寄贈された。予防歯科医学研究所跡に建てられたコンクリートブロック造平屋建18坪の建物で、これはストレプトマイシンの発見者ワックスマンの篤志によって、同薬品の製造特許料の一部を毎年わが国における医学研究および奨学助成資金として寄付されるにあたり、その運営機関として設けられたものである。』

 上記のようなわけで、この建物は最初から日本ワックスマン財団のために建てられ、慶応大学に寄贈された小さな建物だった。なお、現在、同財団は東側の大学病院内に事務所を置いている。

日本ワックスマン財団 Dr Selman A. Waksman
慶應義塾百年史: 下巻

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江崎邸

2022-05-17 | 新宿区  
江崎邸
所在地:新宿区 市谷加賀町2-5
構造・階数:木・2F
解体年:2012〜13(平成24〜25)
Photo 2006.8.27

 かつて、市谷加賀町の御屋敷町の一角には長屋門のある御屋敷があった。

 『ガイドブック新宿区の文化財』(注)によれば、幕末の御殿医の住宅で、亡命した孫文が一時期住んでいたこともあったという。

 正確な建設年は知らず。ただ幕末期だったとしても150年以上経っていたのではないだろうか。 60〜100cmほどの高さの石垣が連なり、その上に建物が並んでいる様は、山手線の内側の都心ではほぼ唯一のものとなっていた。残したかったが取得費用が多大でできなかったという話も新宿区関係の方からは伺った。敷地も大きく立派な家だっただけに惜しい。

 注)『ガイドブック新宿区の文化財(7)建築』新宿区教育委員会 編集・発行、1983


 西北側から Photo 2010.7.11

 出窓のある下見板張りの家屋と長屋門が連なる様は武家屋敷のような感じで、周辺の建物とは全く異なる雰囲気を醸し出し異彩を放っていた。通り沿いに古い建物が連なっていたため、北側の道からは敷地奥の様子がわからず、この後ろ側にも古く立派な日本家屋があるのかとも思ったが、資料や航空写真によれば期待したような古い御屋敷は残っていなかったようだ。


 Photo 2006.8.27

 同書には「入口はガラス戸引違に改造されてはいるが、その内側に開戸が現存し、東隣りの潜りと共に旧態をよく保存している。」とある。この家の場合、かつては内側から引いて開ける戸を使っていたようだ。


 Photo 2006.8.27

 2階建て部分の1階は出窓で、堅格子と呼ばれる縦の桟が沢山入った窓になっていた。
 

孫文が潜伏した長屋門屋敷。:落合学(落合道人 Ochiai-Dojin):SSブログ

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