都市徘徊blog

徒然まちあるき日記

旧陸軍兵器補給廠の煉瓦塀

2023-02-06 | 北区   
旧陸軍兵器補給廠の煉瓦塀
所在地:北区 西が丘3-3
構造 :煉瓦
解体年:2002〜03(平成14〜15)
備考 :西が丘住宅への建て替えに際して撤去
Photo 2002.9.29

 環七の姥ヶ橋陸橋・交差点の少し西北側にあった煉瓦塀。撮影時は知らなかったのだが、調べてみたら旧陸軍の兵器補給廠を囲んでいたものだった。この場所は明治19年に東京鎮台の武器庫が置かれた場所。その後、名称は変わったりしたが終戦まで陸軍、戦後はGHQに接収され、いずれも武器庫・兵器庫として使われていた。

 接収が解除されて日本に返還された後、同所には国関連のオフィスが建てられたが、塀は部分的に残されていた。しかし最終的には西が丘住宅の建設に際して往時の記憶を残すこの塀は撤去された。
 この地区の移り変わりは以下。

 1886(明治19) 東京鎮台武器庫
 1906(明治39) 陸軍省板橋兵器庫
 1928(昭和3) 東京陸軍兵器支廠(岩淵町全図1931でも同様の表記)
 1945(昭和20) 終戦時は東京陸軍兵器補給廠
 戦後 GHQに接収され、TOD第1地区となる。
 1958(昭和33) 日本に返還
 1965(昭和40) 住居表示が西が丘になる
 住宅地図 1973(昭和48)版 東京地方検察庁第二庁舎
 住宅地図 2001(平成13)版 東京入国管理局第二庁舎
 住宅地図 2003(平成15)版 空白
 2004(平成16) 4月、西が丘住宅竣工

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旧 陸上自衛隊十条駐屯地 赤羽分屯地

2023-02-03 | 北区   
旧 陸上自衛隊十条駐屯地 赤羽分屯地(赤羽駐屯地)
所在地:北区 赤羽西5-2
建設年代:1917〜30(大正6〜昭和5)
解体年代:2002〜03(平成14〜15)
パノラマ画像:左右にスクロール可能です。
Photo 2002.9.29

 十数年前にナショナルトレーニングセンター陸上トレーニング場と北区の赤羽スポーツの森公園に転用された場所。1995年までは陸上自衛隊の十条駐屯地赤羽分屯地でどうやら兵器庫だったらしいが、廃止された後は数年間使われていなかったようだ。

 写真は解体の直前に西側の都営アパートから撮影したもの。左奥の方に見えるのは1999年に開園した赤羽自然観察公園の緑。

 この場所は戦前は旧陸軍の兵器庫だったが、それがいつ頃建設されたのか詳細は未把握。以下は手もとの地図や航空写真、その他の情報による把握状況。大正時代後半から昭和初期の時期に建設されたものではないかと思われる。
 「陸地測量部 25,000地形図」(1917〜28年測図・修正)にはまだ記載がない。
 「岩淵町全図」1931年発行では、陸軍兵器庫。
 終戦時には陸軍東京兵器補給廠。
 戦後、GHQに接収されてTOD第2地区となる。一部(おそらく自然観察園の側)は米軍戦車練習場。
 1958年、日本に返還され、陸上自衛隊十条駐屯地赤羽地区となる。
 1970年代〜90年代前半の住宅地図では、陸上自衛隊十条駐屯地赤羽分屯地。
 1995年 陸上自衛隊の当該地の機能が茨城県土浦市に移転。
 2001年の住宅地図では、施設名の記載なし。建物外形の記載はあり。
 2003年の住宅地図では、敷地全体が空白になり、建物も解体済み。
 2008年1月21日 ナショナルトレーニングセンターの陸上トレーニング場が開設。
 2010年4月1日 赤羽スポーツの森公園競技場が開園。

 2003年には住宅地図でも建物の記載がなくなり解体済みになっているので、この写真の少し後には解体作業が始まったようだ。

 敷地内西南側にある建物が分屯地で最大のものだったようだ。外観上は2階建て(中央部は3階建て相当)で、東西の長さが100m近い大きな倉庫だった。


 南側中ほどの門から

 自衛隊が使用していた頃は撮影できなかったのではないかと思うが、この時は既に移転した後だったので門の前で撮ることもできた。


 西が丘サッカー場交差点の歩道橋から

 かつては同施設西南端の西が丘サッカー場交差点に歩道橋が架かっていた。この写真はその歩道橋上から撮ったもの。塀で囲まれた場所で内部の様子はあまり分からなかったが、周辺にはある程度の高さの場所があり、覗き込めないわけでもなかったのでした。

 この写真も同じく歩道橋上から撮ったもの。外から2階へ上がる階段や、2階へ直接物資を搬入する台など、独特な設備も印象的だった。

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旧 稲付郵便局

2023-01-30 | 北区   
旧 稲付郵便局
所在地:北区 赤羽西2−3
構造・階数:木・1
建築年:1930(昭和5)?
解体年:2008〜09(平成18〜21)
備考 :道路拡幅に伴い解体
Photo 2002.9.23

 赤羽駅南方の岩槻街道沿いにあった郵便局。訪れた時は既に郵便局としては使われておらず、倉庫のようになっていた。
 昔は郵便局だったとする情報をネット上でかなり前に見たのだが、現在はその情報が見当たらず、本当に郵便局だったのか、もしそうならなんという名の局だったのか分からずにいた。最近になって昔の地図をあたったところ、ようやく局名などを含めて分かった次第。どうやら特定郵便局と呼ばれた小さな局で、地域の名士や大地主が土地や建物を無償で提供して設置したものだったようだ。

 ドイツ破風とか半切妻屋根などと呼ばれる切妻屋根の頂部妻面に小さな屋根を付けた姿が印象的。妻面上部にはかつては灯りが付けられていたようだ。下部は煉瓦もしくは煉瓦風タイル張り。屋根は洋瓦(平板)。入口が閉じられたままで長い時間が経過していたようで、老朽化して屋根には雑草が生えていたが、洋風の小さな建物は旧街道沿いでは目立っていた。

 岩淵町全図(1931年発行、注1)や東京都全住宅案内図帳(1962年?発行、注2)には「稲付〒」と記されており、かつては稲付郵便局と呼ばれていたようだ。一方、下記サイトには郵便局の経緯が記されていて、正式には王子稲付郵便局として開設されたものらしい。

 王子稲付郵便局は1930(昭和5)年に開設。従って建物もこの時に建てられたものだったのではないかと思う。1961(昭和36)年12月に北稲付郵便局に改称。1972(昭和48)年10月1日以降は赤羽西二郵便局。

 1973(昭和48)年発行のゼンリンの住宅地図では郵便局は少し南の道路沿い(赤羽西2−2)に移転済み。正確な移転時期ははっきりしないが、上記のどちらかの改称時などに移転もしたのではないかと思われる。従ってこの建物はそれまでの30〜40年の間利用されていたもののようだ。

 2008年までは住宅地図には掲載されていたが、岩槻街道の道路拡幅に伴い解体された。

注1:『番地界入東京府豊島郡岩淵町全図』1/6,000 1931(昭和6).9.10発行 著作・発行 小林又七 発行所 東京日日新聞赤羽出張所
注2:『東京都全住宅案内図帳』1962(昭和37)年? 住宅協会 発行

ちきページ【古よりの地名最後の砦】郵便局データベース赤羽西二郵便局

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リーブルテック(旧 東京書籍、旧 東京書籍印刷)

2019-01-16 | 北区   
リーブルテック(旧 東京書籍、旧 東京書籍印刷)
所在地:北区 堀船1-23
建築年:1936(昭和11)
構造・階数:事務棟 RC・3F、工場 RC+S・平屋、守衛所 RC・平屋
解体年:2015(平成27)
備考 :「DOCOMOMO JAPAN選定 日本におけるモダン・ムーブメントの建築」選定
Photo 2015.6.20  写真は事務棟・守衛所

 教科書でもお馴染みだった東京書籍の印刷工場。当初は東京書籍株式会社だったが、印刷部門の分離・独立に伴い東京書籍印刷株式会社となり、更に2009(平成21)に社名変更して株式会社リーブルテックになったという。

 王子駅から少し歩いた場所に長いヴォールト屋根が並ぶ工場建物が塀越しに垣間見え、正門のわきにはスクラッチタイル張りの守衛室があり、その奥に、これもスクラッチタイル張りの3階建て事務所が見えていた。昔の姿を今に伝える都心では数少ない戦前からの工場建築だった。

 事務所はもともと2階建てだったが、1952(昭和27)に3階が増築されたそうだ。また、3棟並んだ工場はかまぼこ型の屋根をしており、その屋根内には柱がなく広い工場空間になっていたという。

 「DOCOMOMO JAPAN選定 日本におけるモダン・ムーブメントの建築」にも選定されていたが、2011年に工場が埼玉に集約されたことから、工場は訪問時点で既に解体工事が始まっており、周囲が囲いで覆われ始めていた。

 アーチ型の屋根の工場には外光を取り入れる半円型の窓が並んでおり、その姿も印象的だった。

 2016年には北東側に新本社ビルが完成し事務所も移転した。事務棟も解体され、現在、跡地は大きなホームセンター(2017年6月オープン)になっている。

東京書籍 - Wikipedia
DOCOMOMO JAPAN選定 日本におけるモダン・ムーブメントの建築 - Wikipedia

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#失われた建物 北区  #近代建築  #工場  #docomomo japan 
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都営桐ヶ丘アパート E47号館

2018-12-17 | 北区   
都営桐ヶ丘アパート E47号館・北西側から
所在地:北区桐ヶ丘1-8
建設年:1970(昭和45)
構造 :SRC
階数 :14F
Photo 2018.11.3

 現在、桐ヶ丘1丁目アパートへの建て替えが進められている桐ヶ丘団地。1960〜70年代に建てられた団地の建物はほとんどが5階建て以下で、一部にメゾネット6階があるだけ。その中で唯一この建物だけは14階建てで、団地のシンボルタワーのような存在だったそうだ。


 南側からの全景と、団地の給水塔

 桐ヶ丘団地は詳細には見ておらず、この建物も近づいたことがなかった。先月訪れた際、灯りが点いておらずちょっと異様な雰囲気を漂わせていたため近くに行ってみた。すると解体の掲示が出ており、そのとき初めてこの建物がなくなることを知った次第。


 玄関付近

 結局内部には入らずじまい。平面形はほぼ正方形、吹き抜け中庭のあるロの字型の建物だったという。解体直前だったので補修もされておらず、あちこちの塗料が剥げていた。

 解体工事は10月30日からの予定とされていたが、11月3日に訪れた際にはまだ工事は特に始まっていなかった。ただその後1ヶ月以上経ったので、現在はたぶん解体作業が始まっているだろう。

 1Fには桐ヶ丘小売市場という店舗もあったようだ。昔は周辺地域からも多くの人が訪れていたのだろうが、訪問時は既に無人でひっそりしていた。

 階段室・EV室のある壁面の見上げ。近くで見るとなかなかの迫力がある外観をしている。


 非常階段の見上げ

 錆び付いた階段が上方に伸びる姿は迫力があり存在感があった。建物名で検索すると昔の写真も出てくるが、非常階段に布団を干しているのが印象的だった。高層で外側にベランダがなかったためそんなことになっていたようだ。

 壁面から片持ち梁を2列張り出して、それに鉄製の階段を載せている。一見すると素っ気ないが無駄のない合理的な姿はある意味潔くて格好が良い。

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#失われた建物 北区  #公営・公団・公社・公立住宅  #集合住宅 
#高層ビル  #塔 
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東京第一陸軍造兵廠 275号棟

2018-03-31 | 北区   
東京第一陸軍造兵廠275号棟(北東側から)
所在地:北区十条台1-2
建設年:1919(大正8) 東京第一陸軍造兵廠275号棟として建設
構造 :煉瓦、屋根小屋は鉄骨造
階数 :1F
規模 :54×27m
備考 :現在は北区立中央図書館「赤レンガ図書館」の一部
Photo 2002.9.29

 東南側から Photo 2002.9.29

 一帯の陸軍施設は組織の改編などに伴い、以下のように名前を変えた。また戦後の一時期は米軍に接収され、返還後は陸上自衛隊の施設等になった。

 1923(大正12)陸軍造兵廠火工廠十条兵器製造所
 1936(昭和11)陸軍造兵廠東京工廠銃砲製造所
 1940(昭和15)東京第一陸軍造兵廠第一製造所
 1945(昭和20)終戦
 1947(昭和22)米国陸軍に接収され、TOD(Tokyo Ordnance Depot:東京兵器補給廠)第四地区となる。
 1958(昭和33)第四地区の一部が日本に返還される。
 1959(昭和34)陸上自衛隊武器補給処十条支所となる。また、返還された施設の一部は民間会社に貸し出され、275号棟は東洋ゴムが運営していたタイヤ再生施設として利用された。
 1989(平成元) 東洋ゴムのタイヤ再生施設が閉鎖される。
 2008(平成20)北区の新中央図書館となる。


 再生前の様子 Photo 2002.9.29

 この写真を撮影した2002年当時は、何にも使われておらず廃墟状態だった。既に自衛隊の敷地ではなかったようだが、立入禁止で鉄条網や柵越しに眺めるしかなく、遠くからむりやり撮った写真しかない。撮影当時は解体の気配が濃厚だったので、見納めかもしれないと思いつつ、柵越しに一所懸命に撮ったものだ。

 だがその後、北区の中央図書館として保存しながら使うという展開になったために、現在は建物の中にさえもあっさり入れるようになっている。


 北区立中央図書館 Photo 2011.6.11

 赤煉瓦倉庫の本体を残しつつ、上側に被せるように新しい建物を建てている。


 東南側から Photo 2002.9.29

 図書館になって多くの人が使うようになったのは喜ばしいことで、赤煉瓦建物の歴史を多くの人が知ることになったのも良いことなのだが、個人的には雑草の原の向こうに建っていた廃墟状態の時の景色も懐かしい。明日にも壊されてしまうかもしれないという様子には哀愁が漂う。こんなボロボロの状態だった建物が、再生されてきれいな文化施設になったということも記憶に留めておきたい。


 北区立中央図書館 北西側から Photo 2017.1.23

 図書館になる前は、近づくことができなかったし、西側からも見ることができなかったので、北西側から見ることができるようになったのは感慨深い。この方向からだと煉瓦倉庫全体を残しながら図書館にしたことがよくわかる。


 北区立中央図書館・ホール Photo 2002.9.29

 図書館内部では窓などを取り払っており、往時の壁を通り抜けて開架書庫へ向かうことができるようになっている。


 北区立中央図書館・カフェテラス Photo 2002.9.29

 煉瓦造の倉庫でそのままでは耐震性に問題があるため、内側にRC造の壁をもう一つ建てて建物を支持しており、現在は煉瓦壁には構造的な負荷が掛かっていないのだそうだ。


 Photo 2002.9.29

 上層に新建物が載っていない場所には、昔からの鉄骨の小屋組が残されている。

関連記事 > 『東京人』都市出版社刊、2008年5月号、p.52
都市徘徊blog > 北区立中央図書館
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三村ミシン商会

2017-03-05 | 北区   

 赤羽西口通り(旧岩槻街道)沿い、都道補助73号線の拡幅事業で消失した建物。

三村ミシン商会
所在地:北区赤羽西1−15
構造・階数:木造2F
備考 :2009.10〜2013.7の間に解体・消失
Photo 2011.1.23

 シンガーミシンの看板が付けられていた看板建築。2階などの壁面はアルミサイディングかなにかで改装されていたようだ。

 2009年10月のGoogle SVにはまだ姿が写されているが、その次の2013年7月の写真には姿がない。

 奥はイトーヨーカドーが入居している赤羽駅前の再開発ビル・パルロード3。

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出桁家屋

2017-03-01 | 北区   

赤羽西口通り(旧岩槻街道)沿い、都道補助73号線の拡幅事業で消失した建物。

出桁家屋
所在地:北区赤羽西1−22
構造・階数:木造2F
備考 :2002.6〜2006に解体
Photo 2002.6.15

 岩槻街道から静勝寺への参道の入口角にあった出桁家屋。この建物も視線や騒音の遮蔽のために、建物周囲にトタン板塀が巡らされていた。1階の階高が比較的高く、一方で2階のそれはやや低い建物だった。2層目の道路側に窓が無いことを考えると、2階建てではなく、大きな屋根裏を持つ平屋だったのもしれない。

 参道沿いの赤いトタン屋根の細長い小屋は、地蔵だったか観音様の祠だったもの。普通と違って道路と平行にスリムな小屋が建てられており、この場所にあった頃から妙な感じになっていた。道路拡幅に伴い、近辺のお寺あたりに移設されたのだろうと思うが、移設先の詳細は未確認・・・。

 この写真でも板壁を補修などがされており、比較的きれいな状態で残っていたが、やはりこちらも2006年の住宅地図では既になくなっていた。

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旅館 宮城荘、野島旅館

2017-02-26 | 北区   

 赤羽西口通り(旧岩槻街道)沿いの建物。つづき。都道補助73号線の事業化による拡幅で消失した沿道の旅館。岩槻街道でこのあたりの宿場だと、荒川近くの方に岩淵宿があるが、少し離れたこの界隈の通り沿いに旅館が数軒在るのも宿場町の名残なのだろうか。

旅館 宮城荘
所在地:北区赤羽西1−15
構造・階数:木造2F
備考 :2004.4〜2006に解体
Photo 2002.6.15

 門のそばの洋風小屋が古そうだった物件。窓が木枠で木製の洋風の桟が入っていた。ただ、外壁はログハウス風にも見える微妙なものだった。

 この写真の後、2004年4月に訪れた時にはまだあったが、2006年の住宅地図には既に掲載がないので、その間に解体されたものと考えられる。

野島旅館
所在地:北区赤羽西1−15
構造・階数:木造2F
備考 :2002.6〜2006に解体
Photo 2002.6.15

 こちらの旅館は大型の総二階建て。玄関は路地を入った妻面側。1階道路側に板塀を立てて、街道側からの視線や騒音を遮断している。

 写真左端に見えている三浦表装店は、2009年10月のGoogle SVには写っているが、これも2013年6月までには解体されている。野島旅館の方は2006年の住宅地図で既に掲載がない。

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赤羽家畜病院

2017-02-22 | 北区   

 赤羽西口通り(旧岩槻街道)沿い、通りの西側に建っていた木造平屋。そしてこれも都道補助73号線の事業化による拡幅で解体・消失したもの。

赤羽家畜病院
所在地:北区赤羽西2−17
構造・階数:木造平屋
備考 :2009.10〜2013に解体(Google SVによる確認)
Photo 2002.9.23

 動物病院ではなく、家畜病院だったのが興味深い。昔は家畜を飼っていた農家が近辺に多かったということだろうか。

 営業していたのかどうかは分からないが、2002年の時点では看板を出していた。いつ頃まで営業していたのかは不明。Google SVで確認すると、2009年10月時点の画像には写っていたが、2013年6月では既に3階建てマンションに建て替えられていた。

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