ニチレイ築地別館
所在地:中央区築地2-6-4
構造・階数:木・2
建設年代:戦前?
解体年代:2001〜03(平成13〜15)
Photo 1995.6.20
築地の裏通りに建っていた洋館付き木造建物。銀座にもほど近く、外観を見た限りでは会社の社交倶楽部か接待所として使われていたような感じだった。それほど大きくはない町なかの一軒家のようで、どういう経緯を持つ建物なのか詳細は知らないままでいるうち、数年前に建て替えられてしまった。
道路に近い場所にハーフティンバーの洋館部分があり、奥まった方は和風の佇まいだった。道路沿いの板塀が洋館部分に接していて、窓が目隠しされたようになっていたのが妙に記憶に残っている。
Web上ではあまり紹介されていないが、下記サイトによると1950年には個人宅だったようだ。
ぼくの近代建築コレクション > ニチレイ築地別館/築地2丁目
年明けの1月中旬に、BS朝日で階段をテーマにした番組が放送されることに。
階段をテーマにした30分番組が作られてしまうということじたい、結構驚きなんですが・・・。
BS朝日「STYLE BOOK」
2010.01.16(土) 23:30~24:00
ちょっと遅い時間帯ですが、よろしければ御覧下さいませ。
先日、文京区内でロケをして参りました。この日の収録以外にもスタッフの方がいろいろ撮影しておられる様子なので、東京の階段だけでなく、意外にあちこちの階段が登場するかもしれません。
さてさて、どんな番組になるのかな?
#階段・坂 #マスメディア
京樽本社
所在地:中央区日本橋蛎殻町1-36
建設年:1913(大正2)
構造・階数:RC・4F
解体・2000年の住宅地図で既になし。
Photo 1997.5.13
大学に入った頃までは、京樽はあちこちにテイクアウトの店を出していて、繁盛している印象があったのだが、今回調べてみたらこの写真を撮った1997年にいちど倒産していた。日本橋人形町に料亭「京樽」を開業したのは1938年だそうだが、この建物にいつから入居していたのか分からない。腰を据えて調べていないので、京樽として建ったのか、もとの所有者や入居者が別だったのかも不明。とにかく現在の本社・本店は共に人形町で、この建物の場所とは異なるようだ。
どこかの時点で修繕したのか、2階から上が妙にきれいに見えたのが印象的だった。でもこの時点で、既に倒産したか、倒産間近だったようである。倒産して会社が退去した後、売却され、建て替えられたのだろうか。2000年には既に無くなっていた。
京樽本社/日本橋蛎殻町1丁目 - ぼくの近代建築コレクション
Wikipedia > 京樽
和泉屋文具店
所在地:新宿区北山伏町2-1
建設年:?
構造・階数:木2
備考 :2007年初め頃に解体。
Photo 1995.6.3
大久保通り沿い、旧第一信用金庫本店や大蔵省印刷局柳町寮の少し東にあった文房具屋さん。下記のHPで2007年2月に工事中だったという記事があるので、約2年前に解体されたようだ。側面の壁や戸袋がクリーム色のモルタル塗りになっていたのは少し残念だったが、奥行きが比較的あって2階の屋根が大きく立派な出桁町屋だった。ただよく見ると、2階の軒先の中央部が少したわんでいるようだ。数十年も経つとやはり少しずつ傷んできていたのだろうなと思う。
最近は街から文房具屋さんも減っているという。都心では少子化もあって学校のそばの文房具店も経営が大変だし、店主の高齢化も進んでいるようだ。このような文具店は都心では次第に見られなくなってしまうのかもしれない。
参考記事
東京 -昭和の記憶- > 牛込 大久保通り(1)
東京回遊録 > 和泉屋文具店
Tokyo Lost Architecture #失われた建物 新宿区 #出桁造り
市谷薬王寺町の長屋
所在地:新宿区市谷薬王寺町71
構造・階数:木2
数年前に解体建て替え。2000年の住宅地図には掲載あり。
Photo 1995.6.3
市谷柳町界隈の階段探索をしていた時についでに撮っていた建物。詳細は不明だが、棟割2軒長屋だったらしい。外苑東通り東側で大久保通り南側の一角に建っていた。道路際の塀との間にトタン屋根を掛けて物置にしてもいたようだ。青いトタン塀に付けられた貼り紙には牛込警察署の名前で駐車禁止や交通安全について書かれている。
Tokyo Lost Architecture #失われた建物 新宿区 #長屋
市谷薬王寺町の出桁商店(米屋)
所在地:新宿区市谷薬王寺町62
構造・階数:木2
Photo 1995.6.3
1997年の住宅地図で既に消失、現在は駐車場。
10年ぐらい前までは都心でもあちこちに出桁町屋があったが、いろいろな事情で徐々に少なくなっている。この米屋さんは表通り(外苑東通り)ではなく、そこから横道に入ったところにあったもの。1階の軒先は銅板貼りの庇になっている。
Tokyo Lost Architecture #失われた建物 新宿区 #出桁造り #商業系
駿府公園内には静岡市立の児童会館という施設があった。駅南の市街地再開発で静岡科学館ができる少しまでは存続していたようだ。改めて調べてみたら、児童会館は1973年から2003年までの30年間存在していたそうで、私が小学生の頃はまだ完成間もない時期だったことを今頃になって知った。(注:当初は県の施設として開館したそうで、そこから数えると50年近く存続していたという。)
児童会館であるからして、中学生になると訪れる機会が全然なくなったが、小学生の頃には時々遊びに行ったりした記憶がある。
児童会館
開館:1957(昭和32)
閉館:2003(平成15)11.9
構造・階数:RC・3F、屋上に天体望遠鏡ドーム有
備考:当初は県の施設として開館、1973(昭和48)に市に移管
Photo 1997.5.4(こどもの日の前日なので、ベランダにこいのぼりが飾られている。)
玄関を入ったところにロボット人形があって、人の通過を検知すると挨拶をしていた。こんにちはとか言って、目が光ったり手や胴体がちょっと動いたりしたような・・・。あと入館記念のハンコを押してくれるロボットも一時はあったような。でもAIBOなんていうすごいロボットが市販されたりもする現在から考えると、当時のロボットなんて子供だましみたいなものだ。赤外線センサーで検知して、モーターで体を動かす。音声合成なんていう高度な技術はないので、音声ROMに録音された声を再生していたそうだ。小学校高学年になると、子供でもなんとなくそのへんは分かってしまった。展示物は当時既に少し時代遅れになりつつあったのかもしれない。なんとなく見せ物小屋的ないかがわしさだった。
他の展示の大半は忘れてしまっていた。だが科学系の展示で、鉄球が転がるものはなんとなく覚えていた。細いレールの上を鉄球が転がり落ちるだけのもので、鉄球のジェットコースターみたいなものだが、螺旋状のレールや宙返りレールをハイスピードで鉄球が駆け抜けたり、玉が空中を跳んで別のレールに移ったりするのは、サーカスのようで見ていて飽きなかった。
内部の様子を忘れてしまっていたので、HP検索をしてみたところ、閉館直前の様子のレポートなどがあった。
静岡大学(生涯学習教育研究センター 演習レポート)
> 静岡市立児童会館(1999年作成)
静岡市の風景 > さようなら静岡市立児童会館
上記HPに記された中で、歪んだ鏡や強力磁石は記憶の片隅にあって写真を見たら記憶が蘇ってきた。だがテレビ電話やパソコン、形状記憶合金、液晶シャッターなどは全て、私が小さい頃には世の中に存在しなかったものであり、当然児童会館にも展示されてはいなかった。私が遊びに行っていた70年代半ばにはいったい何が展示されていたんだろうと思ってしまう。
そういえば鉄道模型は昔もあった。他の博物館などで見た記憶と混乱してしまっていたが、写真を見たら思い出してきた。無人での展示物なので細かいコントロールはできなかったが、意外に大きな展示だった。ボタンを押すとしばらくのあいだスーッと模型の列車が走る。スピードコントロールはできないし、一定の時間が経つと橋の上だろうがトンネルの中だろうが止まってしまう。ガラスの向こう側で触れないのと、動きをコントロールできなかったのがやや残念だった記憶がある。でも当時の地方都市ではなかなか鉄道模型を見る機会は無かったので、高揚感があったのは事実だ。
野外展示されていたD51
Photo 1997.5.4
10年ぐらい前に撮った写真を見たら、建物北側の片隅に蒸気機関車が展示されていた。何度か運転台に上った記憶はあるが、動かないこともあってか、さほどの感動はなかった気がする。そもそも蒸気機関車があったことさえうろ覚えだった。当時も今も、外見を見るのは好きだが運転するのにはさして興味がない。閉館と共になくなったと思っていたD51だが、こちらは市内の城北公園に移設されているそうだ。
各地の保存車両 > 静岡県 静岡市
小学3年か4年の頃、同級生と一緒に、日曜に体験イベントに参加したこともあった。角材や板が提供され、のこぎりや金槌を使って、小さな踏み台のようなものを造った。完成したそれを自宅に持ち帰り、両親に見せ、座ってくれと頼んだが、いざ父親が座ったらあえなく潰れて壊れてしまった。その頃の私の体重なら潰れなかったのだが、子供がちょっと釘で打ち付けた程度の踏み台では、大人の体重を支えるのはやはり無理があったのだった。半日がかりで造った踏み台があっけなく壊れてべそをかいた記憶がある。幼かったのだなぁと、なぜか今でも思い出す。児童会館は私にとってはそういう記憶の場所だ。
そういえば、屋上には天体望遠鏡ドームもあった。休日の昼間にたまたま遊びに行ったところ、金星が望遠鏡で見えているとのアナウンスがあり、屋上に設置された大きな望遠鏡を覗かせて貰った記憶がある。白っぽい視野の中に、ひときわ明るく光る小さな点が見えていた。金星は明るいので、それなりの望遠鏡を使えば昼間でも見える。天文少年でもあり、雑誌で天体写真もいろいろ見ていたが、実際に見るのは初めてだったのでやはりちょっと感動した。でも有名な天体望遠鏡で撮った写真とは違って、ぼんやりとした点ぐらいにしか見えなかったのにはちょっとがっかり。市販の家庭用望遠鏡よりは遙かに大きなものなのに、この程度なのか・・・。いま考えると、それは当たり前なのだが、当時はいろいろ期待を抱いていたわけで、現実は異なるのだなぁと思った記憶もある。
2010.01.13 追記
コメント欄にもあるように「あおい君」様から開館時期について御指摘がありました。そこで開館時期等の情報等を訂正しました。
静岡の街並み、静岡の建築
#失われた建物 静岡県 #鉄道
1年近く前のことを蔵出し。久々に静岡市の中心部を歩いた際のこと。Photo 2009.2.8
大学生になって車に乗るようになってから、中心部を散歩することが少なくなっていたので、しばらくぶりに歩いてみると、いろいろ発見があった。
駿府公園 二ノ丸東御門(左側)と巽櫓(右側)、復元された中堀
車だとつい行かなくなる駿府公園を歩く。小さな頃は父母に連れられて遊びに行ったりもしていた。お濠端の小中学校に通っていた頃は、授業などでも訪れたし放課後に遊びに行ったりもしていた。中学時代は友人とお濠端一周自転車レースなどという、今にして思えばずいぶん危ないこともしていた。
昔はお城の建物は一切なかったのだが、大学生になった頃に巽櫓が完成(1989)し、その後、二ノ丸東御門や橋も復元(1996)された。久しぶりに行ってみたら、野球場の跡に以前はなかった庭園・茶室(駿府公園 紅葉山庭園)などが整備され(2001完成)、内堀も部分的に発掘復元されていた。更に現在は西南の角にあったテニスコート?周辺が整備中で、将来はこちらにも坤櫓(ひつじさるやぐら)が復元されるらしい。家康の居城だった時代もあるのに全く建物がないのもちょっと寂しいので、少しずつ写真写りのするものが出来てくるのはいいなぁと、とりあえず思う。
これら駿府公園の整備は実はH3年(1991)に立案された駿府公園基本計画及び基本設計に基づいているようだ。当初は10年で整備する予定だったようだが、公園関連予算があまりないのか、また発掘調査や石垣の組み直しなどもした上での作業のためか、よく知らないが、かなり時間が掛かっている。5工区に分けて徐々に整備を行っているが、まだ進捗率は40%なのだとか。なかなか整備が進まないのは少々残念だ。
駿府公園に関してはこの整備事業とは別に天守閣の再建などという議論もあるようだ。だがこのご時世に数億のお金を集めるのは大変だし、街中の商店主の思惑などもちらついて税金の投入には疑問がある。しかも天守は江戸時代の内でも最初の頃にしか無かったようだ。これは江戸城に天守がないのと状況が似ているが、その話はまた別の機会に譲る。
私が少年期に体験した駿府公園は濠と石垣に囲まれた都市公園としてのものだった。歴史的な雰囲気を漂わせるようになった状況に少々驚きつつ、ぶらぶら歩いていたら、懐かしい物件を発見。
らせん型すべり台
このすべり台は、私の小さい頃からあるものだ。公園内がいろいろ整備されて、かなり変貌する中、40年近く前のすべり台がまだあるとは思わなかった。中を上っててっぺんに行く時、垂直に近いはしごをよじ登るのがちょっとだけ怖かった記憶が甦る。
駿府公園 中堀石垣裏の斜面
すべり台の近くの石垣には、小さい頃からずっと立入禁止のままの場所も残っていた。石垣の上部に上る階段(右)とコンクリートに石を埋め込んだ斜面(左)がある。たしか斜面を下るすべり台もあったのだが、階段を上りきるとすぐにお堀の石垣の上で、ここからお堀に転落した事故があったとか、そのすべり台で事故があったから立入禁止になったという話を聞いたことがある。真相はよく知らないが、幼稚園の頃に遊べた場所は小学生の頃には使えなくなり、40年近くそのままになっている。
徐々に整備が進んで様子が変わる一方で、なにも変わっていないところもある駿府公園なのだった。
この散歩の半年後、2009年8月11日に地震があり、駿府城の石垣は数ヶ所で崩落してしまった。石垣の修復工事は来年以降に行われるようだ。
この項、もうちょっとだけつづく。
静岡市 > 駿府城跡 Wikipedia > 駿府城
静岡の街並み
#古い建物 静岡県 #街並み 静岡県 #公園
神尾邸
神尾邸
所在地:港区西麻布4-7
建設年:?
構造・階数:木2
備考 :1997年頃までは存在。
2000年頃には既に建て替えられていた。
Photo 1995.5.27
広尾ガーデンヒルズの北側の一角にあった木造2階屋。南京下見板張りで、2階には白いペンキで塗られた小さなベランダがあり、窓枠などは水色がかっている。右奥部分の屋根は傾斜が急なので洋間だったのかもしれない。2階手前部分の屋根だけ腰折れ状になっているが、理由は不明。屋根は洋風スレートでも日本瓦でもなく、セメント瓦で葺かれていたようだ。全体としては和風ではなく文化住宅系の洋風住宅だった。
Tokyo Lost Architecture #失われた建物 港区 #洋館・洋風住宅