11/03 金子商店
11/06 江塚眼科
12/06 岡邸
12/09 第一京浜浴場
12/15 乾海苔問屋赤羽
12/18 旧カフェー「鹿島家」
12/21 旧カフェー「時の家」
12/24 旧石田商店
12/27 平屋の洋風事務所・旧大東商事KK
12/30 H邸
H邸
所在地:大田区 山王2-35
構造・階数:木・1
建設年代 :戦中〜戦後まもなく
解体年 :2011(平成23)
Photo 2011.2.15
山王2丁目を歩いていて、解体中の建物を偶然見つけて撮った写真。
解体に至るまでに既に長い間無人の廃屋だったのだろうか。かなり傷んでいたのが印象に残る。
古そうな建物に見えたが、1938(昭和13)年版の火災保険特殊地図では後年と建物形状が異なるので、もう少し後の時期に建てられたものだったのではないかと思う。戦後版の同地図はこの界隈の版がないので不明だが、1962(昭和37)年発行の「東京都全住宅案内図帳」には掲載されている。
建物を解体して土地も売却されたのかと思っていたが、現在も元の土地の一部に関係者がお住まいのようだ。ただ土地は分割されておりそこに複数の家屋が建てられている。
山王エリアは御屋敷町だったが次第に土地が細分化しており、昔に比べると小規模な建物が多くなっているようだ。
Tokyo Lost Architecture
#失われた建物 大田区 #戸建て住宅 #洋館・洋風住宅
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2023.9.12 追記
下記「ぼくの近代建築コレクション」に、私より約2年前(2019年)の写真が掲載された。
H邸/山王2丁目 - ぼくの近代建築コレクション
平屋の洋風事務所・旧大東商事KK
所在地:江東区 佐賀1−15
構造・階数:木造・1F
解体年:2009(平成21)頃
Photo 2002.11.6
これも「ぼくの近代建築コレクション」で、平屋の事務所として紹介されている建物。2007年の下記記事中では、現在も残っていると記されているが、2010年のGoogle S.V.では既に駐車場になっている。
平屋の事務所、他/佐賀1丁目 - ぼくの近代建築コレクション
平屋なのにコンクリートのビルのような様式建築的な外観をしていたのが印象的だった。
なお、壁面に若干青味が掛かっているのは写真の色温度の加減のためで、実際は普通のグレーだった。
戦前の1936年版の火災保険特殊地図では「伊藤商店」、戦後の1952年版の同地図では「大東商事KK」と記されている。佐賀町一帯は第二次大戦時の空襲ではあまり被災しなかったようなので、もしかすると戦前に伊藤商店として建てられたものだったのかもしれない。住宅地図等では、1960年代は通信機関連の会社、1970年代以降は田中商店と記されており、建物は会社の事務所として変遷していたようだ。
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#失われた建物 江東区 #看板建築
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旧石田商店/浜岡邸
所在地:江東区 佐賀1−11
構造・階数:木造・2F
備考 :1997〜99(平成9〜11)解体
Photo 1995.11.18
「ぼくの近代建築コレクション」で、洋風ファサードの家として紹介されているモルタル看板建築。Google S.V.で確認したところ、2013年時点で既に存在していなかった。
讃岐食品、他/佐賀1丁目 - ぼくの近代建築コレクション
小規模な建物だが、頂部に半円型の窪みを付けたり、柱型を出したりして、意外に存在感のある姿をしていた。上部の菱形マークの中には「K.H」と書かれていたが、これが何を意味していたのかは分からず。1990年代末に3階建ての家屋に建て替えられている。
戦前版の火災保険特殊地図(1936(昭和11)年)では建物が既にあるようにも見えるが、名前などが書かれておらず既に建てられていたかどうかは不明。1952(昭和27)年版の火災保険特殊地図でも建物が描かれているが、当該部は空白。
東京都全住宅案内図帳 江東区(1962(昭和37)?)では石田商店、1973年版の住宅地図でも(株)石田仲介店と記されている。やはりかつてはなんらかの店舗として利用されていたもののようだ。
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旧カフェー「時の家」/U邸
所在地:墨田区墨田3-11
構造・階数:木・2F
解体年:2003〜04(平成15〜16)
Photo 1994.4.17
前項の建物の一つ東側の街区にあった建物で、カフェー「鹿島家」の写真左奥にも少しだけ見えている。
建物への入口が複数あり、バルコニーもある、赤線などに特有な建物で、モルタル塗り洋風ではなかったが、南京下見板張りでペンキ塗りの外観が印象的だった。
路地の入口には旧遊廓だったと思しき旅館の看板もあったが、周辺はほとんどが住宅やアパートで、知らずに通りかかるとかなり不思議な一角になっていた。
2022.12.21追記
『玉の井色街の社会と暮らし』(日比恒明、自由国民社、2010)によれば、かつてはこの建物は「時の家」というカフェーだったようだ。また、赤線廃止後は一般の住宅になっていた(住宅地図などによる)。
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#失われた建物 墨田区 #商業系 #住宅系
旧玉の井・カフェー鹿島家
所在地:墨田区墨田3-11
構造・階数:木・2F
解体年:1996〜97(平成8〜9)
Photo 1994.4.17
2階にバルコニー状の部分があり、もしかするとここは顔見せ部分として機能することが期待されていたのかもしれない。コーナー部が丸く、裏通りにしては凝ったつくりになっており、不思議な存在感を放っていた。
『新編「昭和二十年」東京地図』(西井一夫・平嶋彰彦、筑摩書房、1992)によると、旧玉の井遊廓の建物だったとされる。玉の井は関東大震災後に形成された私娼街で、永井荷風が足繁く通ったことでも知られる。当初の建物は戦災で失われ、戦後は若干場所を替えて売春防止法施行まで赤線として営業したという。当時の建物が90年代までは幾つか残っていたが、現在は大半が建て替えられ、当時の面影はほとんど無い。
2022.12.18追記
『玉の井色街の社会と暮らし』(日比恒明、自由国民社、2010)によれば、この建物は「鹿島家」というカフェーだったそうだ。また、住宅地図などで確認したところ、玉の井遊廓の廃止後はメリヤス工場となっていた。
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#失われた建物 墨田区 #商業系 #住宅系 #遊興施設
乾海苔問屋赤羽
所在地:中野区 中央4-6
構造・階数:木・2
建設年:昭和初期〜昭和30年頃
解体年:2018(平成30)
Photo 2007.3.2
中野駅南方の中野通りに面して建っていた商店。
敷地が鋭角になっているらしく建物は北側の間口が狭い。このため北側から見ると細身の建物のように見えて印象的だ。
Photo 2013.8.27
一方、南側から見ると、さほど異形の建物には見えない。1階の屋根の傾斜が2階のそれよりかなり急なのがちょっと目立つ。
Photo 2007.3.2
建物は中野通り沿いに長く、幅広の間口を見せている。
このあたりの中野通りは関東大震災前の大正時代にはまだできていなかったようだ。だがこの店舗はちゃんと中野通りに沿って建っている。従って、少なくとも中野通りが計画決定されたとき以降に建てられたものだろうと思われる。
また、この建物のある地区は第二次大戦では被災しなかった場所なので、この区間の中野通りが完成した昭和戦前期の頃に建てられた可能性もあるだろう。ただ、屋号などが分かるのは1958(昭和33)年の地図以降である。
1933 ? 「火災保険特殊地図」外形は似ているが屋号などの記載がなく判別不能
1945 非焼失地域 「東京都35区区分地図帖 戦災焼失区域表示」1947
1958 ○ 「東京都全住宅案内図帳・中野区南部」住宅協会
2018.4 ○ Google ストリートビュー
2019.3 × Google ストリートビュー
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第一京浜浴場
所在地:大田区 山王2-42-10
構造・階数:木・1
建設年:1967・68(昭和42・43)頃?
解体年:2011〜13(平成23〜25)
Photo 2011.3.2
環七から小路を東側に入った場所にあった銭湯。
宮造り型だが装飾はあまりなく、破風の絵柄などはなかった。懸魚も地味。
昭和初期の火災保険特殊地図には描かれていない。戦後すぐの頃の航空写真では、その後とほぼ同じ形の家屋が写っている。また航空写真で見ると、この建物がある街区は空襲での焼失を免れたようだ。それらから考えると創業は1940年代(戦中か戦後すぐ)ではないかと思われる。
ネット上には昭和42、43年頃の建物と記された記事もあるが、航空写真の状況からすると、少なくとも開業はもっと古かったのではないかと思う。建て替えられたり大改装されたのが昭和42、43年頃だったのかもしれない。もし建て替えられていなかったのなら、1942、43年頃と昭和42、43年頃が取り違えられた可能性もあるかもしれない。
夕方に訪れたため、撮っている間に開店した。2枚目、3枚目の写真はオープン前
東日本大震災で煙突が倒壊、主屋も一部損壊したため、震災後に廃業したという。私がこの銭湯の写真を撮ったのは震災の9日前で、偶然にも廃業直前だった。
1938 未建設 1945〜50 たぶん○ 1953頃 不明 1967〜68 1978以降 ○ 2011.3 △ 2013.7 × |
火災保険特殊地図 国土地理院空中写真 この街区は空襲では焼失しなかった模様 火災保険特殊地図 戦後版 このエリアは版がない 下記リンク先の情報ではこの頃に建てられたとある。 ゼンリン住宅地図 (都立中央図書館では大田区は1978年以降のものが閲覧可能) 東日本大震災で損壊し廃業 Google ストリートビュー、解体されてコインパーキング |
第一京浜浴場(大田区山王)
【東日本大震災】第一京浜浴場の廃業: Seeing is believing
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岡邸
所在地:大田区 山王2-13-12
構造・階数:木・2
建設年:恐らく戦前
解体年:2013〜14(平成25〜26)
Photo 2011.2.16
山王の住宅地、闇坂を上った先の尾根道沿いにあった洋館。
建物は通りに対してやや斜めに建てられており、総2階建てで雁行した各部屋は南面していた。
屋根はスレート葺き、窓枠も昔のまま木製だった。
西側、玄関上2階の部屋は和室だったようで、ガラス窓の内側はカーテンではなく障子だった。
建物北側の谷には大森射的場(射撃場)が東西に長く広がっていた。下記、リンク先の記事では、射的場は1937(昭和12)年に敷地の2/3を分譲しているので、その後、その分譲地に建てられたものかもしれない。だとすると昭和15年頃の建物ではないかと推察している。
私はこの分譲の詳細は把握していない。ただ、戦前の内務省作成の1/1万地形図と戦後の国土地理院の地形図を比較してみると、その頃に宅地化されたのは射的場の北側のエリアであるらしい。また、戦前の1928〜36(昭和3〜11)年に作成された地図、つまり射的場が敷地の一部を分譲するよりも前に作成された地図にも、射的場の南側、尾根道の両側に建物が並んでいるのが見てとれる。
というわけで、この建物がある尾根道の北側には関東大震災の頃から住宅がある程度建っていたようだ。震災直前の1916〜21(大正5〜10)年の地図にも道沿いにいくつかの建物が描かれている。
岡邸として判別できるのは、1970年代の住宅地図以降。ただ、戦前版(1938年・昭和13年)の火災保険特殊地図には、名前の記載はないがほぼ同じ場所に同じ形の家屋が描かれている。また1936(昭和11)年頃の空中写真にも似た形の家屋が写っている。
それ以前については情報がないので分からないが、ここまでのことからすると、この建物は震災後から昭和10年頃までの間に建てられたものではないかと思われる。震災前かどうかは分からない。
年代 状態 1936頃 たぶん○ 1938 たぶん○ 1950頃 ? 1978以降 ○ 2013.07 ○ 2014.05 × |
資料・備考 国土地理院・空中写真 外形がほぼ同じ建物が写っている。 火災保険特殊地図 居住者の記載はないが外形がほぼ同じ建物が記載されている。 山王地区は火災保険特殊地図の戦後版がない模様 ゼンリン住宅地図 岡邸として記載 (都立中央図書館では大田区は1978年以降のものが閲覧可能) Googleストリートビュー Googleストリートビュー |
尾根道の洋館/山王2丁目 - ぼくの近代建築コレクション
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