菊水湯
所在地:文京区 本郷4-30
構造・階数:木・1
創業年:明治中期
建築年:大正期
解体年:2015(平成27).9月末
備考 :1962(昭和37)に改築
Photo 2008.6.4
本郷4丁目、鎧坂下にあった銭湯。
広くはない道に面していたので、全景を撮らずじまいに終わった。建物としては平入りで、入口の唐破風が比較的大きいのが印象的だった。
近辺にはかつて樋口一葉や宮沢賢治、金田一京助・春彦などの著名人が住んでいた。明治中期創業とのことなので、彼らもこの銭湯を使っていたのかもしれない。
設備の老朽化、店主の高齢化などから廃業したという。廃業の前後には近辺に住む東大生が中心となって記録を残したりもした。近年は内湯がほとんどになり、銭湯は存続が難しくなっている。文京区内でも、2013年6月に千石のおとめ湯、2015年5月には目白台の月の湯と、歴史のある銭湯が残念ながら次第に無くなっている。
本郷の老舗銭湯「菊水湯」の閉店 - 文京建築会ユース
さようなら、菊水湯。長く暮らしを彩り、惜しまれながら閉業した銭湯の話 - UmeeT
都内では週に1軒消滅?文京区の菊水湯から銭湯消失の意味を考える | 住まいの本当と今を伝える情報サイト【LIFULL HOME'S PRESS】
文京区の菊水湯 : レトロな建物を訪ねて
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溝田経理事務所
所在地:文京区 本郷3-38
構造・階数:木・2
解体年:2012(平成24)頃
Photo 2006.12.16
本郷三丁目交差点の東側、春日通り沿いにあった2階建てオフィス。ビル型をしていたが、木造モルタルだったのではないかと思う。
装飾はほとんどないが、コーナー部に縦に大書された事務所名が目を引く。また春日通り側の2階の窓にも事務所名が記されている。春日通り側は観音開きの扉(押しか引きかは不明)があり、南に入った横丁側にも別の入口がある。縦の筋が入った通り側と角を曲がった少し先までがオフィスで、横丁側の入口から先は住居か別のオフィスのように見える。
「ぼくの近代建築コレクション」には、「どこが発信源だか判らないがネット上で「昭和10年創業」という記述を見た。元の建物が空襲で焼失し、戦後同じ地に再建したのかもしれない。」と記されている。この近辺は戦災で多くの建物が焼失しているので、古そうには見えるがこの建物も戦後のものだったのだろう。2階窓の事務所名等も左から書かれているし。
「アクトデザイン凛太郎のブログ」には、RC造かもしれないと記されている。たしかに春日通り側はビルのようなファサードで、モルタル看板建築にしては屋根小屋を隠す壁面の立ち上がりが少なく陸屋根のように見える。遠くからの写真にも傾斜した瓦屋根やトタン屋根が見えていないので、春日通り側は陸屋根で、RC造だったのかもしれない。
ただ、パラペットのような軒先部分に樋が付いているので、やはり壁面の最上部は屋根面の末端部だったのではないかと思う。この壁面の後ろに緩やかな傾斜の屋根が載っていたのではないだろうか。
同ブログでは、奥の方に樹木が見えることからRC造の陸屋根で、そこに木が生えていると考えたようでもある。ただこれについてもこの建物はL字型平面で、裏側に庭があってそこに木があったのではないかと個人的には考えている。横丁側は2階の窓に戸袋が付いていたりもするので、こちらはやはり木造だったのではないだろうか。
戦前版(1934-39)の火災保険特殊地図には名前の記載はない。戦後版(1951)の図では「溝口計理」となっていて、溝田を溝口と誤記してしまったようだ。「ぼくの近代建築コレクション」によれば、2012年前後に取り壊されたという。
溝田経理事務所/本郷3丁目 - ぼくの近代建築コレクション
アクトデザイン凛太郎のブログ 溝田経理事務所 越路堂・竹仙・冨士花園
浅草・本郷散策 浅田経理事務所 | 寝言は寝て言うも〜ん
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朝陽館
所在地:文京区 本郷1-28
構造・階数:木・2
解体年:2016〜17(平成28〜29)
備考 :1904(明治37)創業、2016(平成28)廃業
Photo 2014.7.15
明治後期創業の本郷の老舗旅館。創業時当初は下宿屋と兼業だったそうで、戦後、旅館専業になったという。
関東大震災でも戦災でも焼失を免れたそうで、古い部分は昔のままだったという。旧弓町界隈は関東大震災でも部分的に被災したし、戦災でも被災したところが多いが、朝陽館は運が良かったのだろう。増改築やリフォームはされているが、創業期の様子も一部留めていたという。
東京大学にも近いエリアなので、昔から本郷界隈には下宿屋が多く、それが旅館も経営したことから近辺には旅館が多かった。戦後になると修学旅行の学生がそこに泊まるようになり、菊坂下の通りなどには手配されたバスがたくさん並んだという。戦前・戦後の火災保険特殊地図には、朝陽館を含め多くの旅館が記されている。
数寄屋造風でむくり屋根が印象的。右端の石燈籠は、跡地に建てられたマンションの外構部分に移設されている。
通り側は一部を除いて瓦が載った塀で囲まれていた。建物壁面はモルタル塗り。これは恐らく戦後の改修時にそうしたのだろう。
1950年代には手塚治虫が缶詰めになったりしたという話でも知られ、同氏のエッセーにも「本郷の旅館」として記されているという。またここに逗留して執筆した作家も多くいたという。缶詰めは嫌だが、こういう旅館に逗留してゆったり書き物ができたら良いなと思ったりする。
西側の道路沿いには複数の形が異なる塀が長く連なっていた。複数の建物がつながった大きな旅館だったが、1934〜39年に測図された火災保険特殊地図では、後に「ふじや旅館」となった北隣の場所(写真左外)も朝陽館別館になっており、戦前はもっと大きかったようだ。
建物が老朽化し修繕が難しくなってきたことなどから、朝陽館は2016(平成28)年3月に廃業。
跡地にはザ・パークハウス本郷という14階建てマンションが2018年11月に竣工している。
朝陽館本家 - Wikipedia
本郷の老舗旅館「朝陽館」が112年の歴史に幕 手塚治虫が宿泊した部屋も現存 - 文京経済新聞
手塚治虫さんも宿泊 本郷の老舗旅館「朝陽館」廃業へ - YouTube/TOKYO MX TV
手塚治虫も愛した都内の老舗旅館が閉館 本郷の『朝陽館本家』一般公開レポート | ガジェット通信 GetNews
本郷 朝陽館本家 松の間(360°映像)
朝陽館本家 大浴場(360°映像)
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聖母美術院ビル
所在地:文京区 本郷1-1-1
構造・階数:木・2+B1
解体年:2015(平成27)
Photo 2006.5.14
外堀通り、お茶の水坂の途中、元町公園のわきにあった建物。外堀通りから見ると3階建てに見えるが、下記リンク先の「ぼくの近代建築コレクション」内の記事「聖母美術院/本郷1丁目」についたコメントのリンク先画像によれば、かつて(少なくとも昭和32年頃まで)は地上2階+地下1階だったようだ。その後、どこかの時点で、中央の階段の両側は外堀通りから直接地階へ入れる構造に改装されたらしい。正面中央の階段は外堀通りからかつての1階へ上るためのものだったようだ。
上記の記事でも指摘されているが、中央の階段が歩道にはみ出しているのが奇妙だった。古い建物なので建てられた後に道路(歩道)の拡幅がされたのかもしれない。
古そうな建物で、戦前に建てられたのではないかと思われたが、竣工年は不明。財団法人聖母美術院の設立は1923(大正12)年だったそうだが、1951(昭和26)年発行の火災保険特殊地図では、この場所はKK東雲堂、板倉理佳と記されていて、いつから聖母美術院ビルになったのかも結局分からず。上記リンク先には「1986年の住宅地図ではこの建物に「聖母美術院、お茶の水医院、トーキョー書店、アテネ書房」の記載。」とあるので、ある程度前から聖母美術院が入居してはいたのだろうが。
またこの写真には「財団法人国民美術院」の看板が大きく掲げられている。聖母美術院と国民美術院の2つが入居していたのか、昔は国民美術院だったものが後に聖母美術院になったのか、そのあたりもあまり把握できなかった。
それと、アテネ書房は1976年設立、2006年頃廃業の模様。
神田川の反対側、駿河台の側から Photo 2014.3.16
夏場は外堀通りの街路樹の葉が繁って全景が見えなくなってしまっていたが、冬期は川の反対側の離れた場所から全景を眺めることができた。屋根は寄棟造で、前述の昭和30年代の写真では瓦葺きだが、1990年代頃には既にトタン葺きになっていた。
また、遠景なので分かりにくいが、この写真では中央の階段は建物内でクランクしたものに改造されている。この頃には歩道への飛び出し問題は解消されていたようだった。
Googleストリートビューで確認したところ、2015年4月版ではビルは健在で、建物から出てくる人も写っているが、2ヶ月後の2015年6月版では解体されている。ストリートビューは1、2年間隔の画像のことが多いが、たまたま直前・直後の画像が撮られていた。なお、現在、跡地は順天堂大学の寮になっている。
聖母美術院/本郷1丁目 - ぼくの近代建築コレクション
聖母美術院と元町公園 | 一応、カンパネルラ
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料亭 浜乃家
所在地:文京区 白山1-8
構造・階数:木・2
解体年:2021.5
Photo 2008.3.28
白山三業地は地域の振興を期待して1912(明治45)年に三業地指定を受けた場所という。戦前、戦後の火災保険特殊地図を見ると、この界隈には(妓)(待)などのマークが多く記されている。周辺には2000年頃まではかつての料亭の建物が何軒かあったが、現在はかなり少なくなっている。
浜乃家については1937(昭和12)年の火保図には店の名前が記されていないが、同所は(待)となっており、待合がここにあったことは確かだ。また、戦後の1953(昭和28)のものには浜乃家の名が記されている。
Photo 2019.7.8
大型の数寄屋建築とかではなかったが、前面は黒板塀で囲まれ、玄関前には小さな庭もあった。また、2階の手摺には右から「濱乃家」と透かし彫りがされていた。側面は押縁下見板張り
Photo 2019.7.8
玄関の引き戸にはやはり右から「葉ま乃や」の透かし彫りがあった。いつ頃の建物だったのかは分からないが、右から屋号が記されていることからするとやはり戦前、昭和初期以前のものだったのだろう。下記リンク先の記事には大正時代からの老舗料亭という記載も見られる。
白山三業地(東京都文京区) | ★KENTAの写真倉庫★
かつて花街だった丸山福山町に残る濱乃家などの料亭の名残
白山三業地 ~樋口一葉『にごりえ』の舞台を歩く
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S邸
所在地:文京区 西片2-22
構造・階数:木・2
建築年:戦前?
解体年:2013〜16(平成25〜28)
Photo 1998.6.8
西片の住宅街に数年前まであった洋風住宅。西片の中ではやや狭い道に面していて、Googleストリートビュー画像も建物現存時のものがない。またネット上にもこの家の画像はほとんどなく、下記、西片町会のページに写真があるぐらいのようだ。
戦前に建てられたのかどうか確証はない。ただ1952(昭和27)年の火災保険特殊地図には既に載っている。戦後すぐにはこのような建物は建てられなかっただろうから、やはり戦前のものだったのだろう。
右側の背の高い部分は洋風で、屋根は傾斜が急で、切妻屋根の端部を折ったような半切妻屋根(はかま腰屋根とも言うらしい)、スレート葺き。南京下見板張りで上げ下げ窓。一方、左手の木に隠れた部分は和風で、2階の窓には雨戸・戸袋があり、屋根は日本瓦。この写真一枚しか撮らなかったので詳細は分からないが、和洋折衷の住宅だったようだ。
なお、『日本近代建築総覧』(1980年刊)では、隣地が「片桐軍邸・近代建築社」で木造3Fとされているが、該当地には古い建物がない。1970〜90年代の住宅地図をざっと見てもこの片桐邸はなく、近辺にもそれらしいものがない。もしかするとこの家と取り違えたのかもしれないが、それにしてもよく分からないままだった。
西片町会: その他
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市島邸
所在地:文京区 千駄木3-14
構造・階数:木・1
建設年:明治期(大正期に移築)
解体年:2020(令和2).8
備考 :市島邸 その1
Photo 2013.12.10
その1でも記したように、この住宅は早大図書館の設立に貢献した「早稲田の四尊」故市島謙吉の遠戚にあたる市島宗家、故市島信氏の遺族から早大に寄付されたもの。鶴見にあった市島本家の建物(明治期に建設)の一部を大正時代に千駄木へ移築したもので、最初に建てられた時からだと100年以上、移築後でも80年以上経っていた。
老朽化のため2020年に解体され、史料や一部の部材等は新潟県新発田市の市島家に寄贈されたという。
以下の写真も、早大オープンカレッジ講座の巡見で邸内を見学した時のもの。
Photo 2011.10.18
Photo 2015.3.5
修復すればそれなりに美しく立派になるのではないかと思われたが、残念ながら放置状態だった。
Photo 2010.10.12
市島家は新発田藩主となった溝口氏に仕えて新潟に移り住み、地域を発展させた豪農という。それもあって床の間の障子には溝口氏の家紋である五階菱があしらわれていた(写真は障子の位置が内外逆になっていて正しくないので五階菱に見えない。)。
折り畳みの長机やゴミ箱が置かれてしまっていたのもちょっと・・・。
縁側の廊下 Photo 2015.3.5
網戸が嵌っているのは生活感のある感じ。
千駄木菜園: 市島邸の解体、高村光雲邸跡地の今
SOPvol.96 東京・林町市島邸に五階菱 | 新発田オレンジプレス
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市島邸
所在地:文京区 千駄木3-14
構造・階数:木・1
建設年:明治期(大正期に移築)
解体年:2020(令和2).8
Photo 2010.1.10
早大図書館の設立に貢献した市島謙吉(「早稲田の四尊」と呼ばれる方の一人)の遠戚にあたる市島宗家、故市島信氏の遺族から早大に寄付された住宅。鶴見にあった市島本家の建物(明治期に建設)の一部を大正時代に千駄木へ移築したもので、最初に建てられた時からだと100年以上、移築後でも80年以上経っていた。
老朽化のため2020年に解体され、史料や一部の部材等は新潟県新発田市の市島家に寄贈されたという。
千駄木界隈には古くからの邸宅が点在している。そのなかで市島邸は比較的敷地が大きく樹木も多く、昔ながらの雰囲気を残した家だった。また道の反対側には武者小路千家の東京稽古場(邸内の茶室、半床庵は都指定文化財)もあり、落ち着いた静かな一角となっていた。
邸内は基本的に非公開だったが、早大の研究室がゼミなどの活動でときどき利用していた。以下の写真は、早大オープンカレッジ講座の巡見で邸内を見学した時のもの。
Photo 2015.3.5
門を入り、庭木の間を西へ抜けて玄関へ向かう。樹木や草の手入れは多少はされていたが、きれいな庭園とするほどのことはされていなかった。ふだんは無人だったこともあり、若干荒れた感じという方が合っていたかもしれない。
アプローチの通路から家屋の全景 Photo 2015.3.5
庭から Photo 2010.10.12
縁側の庇はやや傾いていたようだ。
同じく庭側から Photo 2010.10.12
木立がやや鬱蒼とする中、電灯の明かりで照らされた室内が印象的。
Photo 2013.12.10
2013年に訪れた時は晩秋で、紅葉がきれいだった。
千駄木菜園: 市島邸の解体、高村光雲邸跡地の今
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