02/01 あの日の浅草(地図と写真でたどる浅草・昭和26年から30年代)
02/03 銀座の街並み(銀座ルールと街並みの将来)
02/08 日動火災海上新宿支部(失われた近代建築・北新宿)
02/10 ソフィテル東京(解体される現代建築)
02/11 神保町の洋風建物1(失われた近代建築・アオヒ印房・ツルオカピアノ)
02/12 神保町の洋風建物2(失われた近代建築・文省堂・明文堂)
02/13 旧町田同族会社貸住宅(失われた近代建築・六本木)
02/15 倭兄弟商会(失われた近代建築・銀座)
02/25 東京中央卸売市場 築地市場(解体予定の近代建築・築地)
東京中央卸売市場 築地本場
所在地:中央区築地 5-2
建設年:1933(昭和8)
構造・階数:SRC+鉄・4F
備考 :市場は豊洲へ移転予定
Photo 2001.6.24
築地市場は紆余曲折があったが将来的に豊洲に移転の予定だという。
写真の2001.6.24は水曜日の日中の様子。水曜は市場がお休みだったが入口の職員に頼んで中を見学させて貰った。市場が休みの日の方がゆっくり建物の見学はできる。しかし市場特有のあの騒然とした賑わいは全くなく、拍子抜けしてしまう。やはり早朝に訪れてマグロの競りなどを見てみたいところではある。しかし休日の閑散とした市場も不思議な空間だ。
Wikipedia > 築地市場
#失われた建物 中央区 #近代建築 #公共施設
危ないなーと思っていたら、またもや予感的中。そしてやっぱり間に合わず。
株式会社倭兄弟商会(Yamato Bros. & Co.)
所在地:中央区銀座6-12-11
建設年:1951~52(昭和26~27)頃
階数 :3F
備考 :2006.10~2007.1に解体
Photo 2006.10.3
火曜日の夕方に銀座へ行った。ちょっとだけ時間があったので、6丁目へ向かったところ、倭兄弟商会の建物が解体されたことを知った。この建物も以前に写真を撮ったのが夜だったので、明るい内に撮りなおそうと思って訪ねたのだが、またもや間に合わなかった。昨年秋の時点で既に使用されていなかったので、建て替えられるのかなとは思ったが、解体が予想外に早かった。
倭兄弟商会の建物は、なんの変哲もない3階建てのビル。スクラッチタイルが2、3階に貼られているが、装飾らしい装飾は全くなかった。大文字で書かれた「YAMATO BROS. & CO.」、2階全面に広がる窓がモダン。
派手で目立つような建物ではなかったが、倭兄弟商会も、昨年取り壊された西銀座ビル同様、銀座の街並みを創る建物だったのではないかと思う。昔の銀座の街並みを知る手掛かりが、また一つ消えていったような気がする。
しかし本当に最近は、出掛けるたびに建物の消失に出会ってしまう。無くなるかもしれないなと思う建物を見に行くからかもしれないが、それにしても多い。Tokyo Lost Architectureのリストに加える建物がどんどん増えて、記事化が追いつかない。
関東大震災後に建てられたビルの多くは建設から70年以上(倭兄弟商会の建物も建設から50年以上)になる。20世紀中は現役だった建物が、21世紀に入って引退するケースが急に増えているようだ。
今回もまた引用させて頂くが、この建物も下記のサイトに掲載されている。
ニッポン懐景録 > 中央区銀座6丁目
都市風景への旅 > 東京都中央区銀座6丁目
2008.1.11追記
御子孫の方から、戦後(昭和26~27年頃)の建物であることなど、詳しい情報をコメント欄にお寄せ頂きました。情報をもとに記載を一部訂正し、また記して感謝致します。
Tokyo Lost Architecture
#失われた建物 中央区 #夕景・夜景 #オフィス
昨年初めて見た建物は、その後、一年もしないうちになくなっていた。
旧町田同族会社貸住宅(通称乃木坂村) 所在地:港区六本木7-2 構造・階数:木・2F 建設年:1935(昭和10) 備考 :2006.5~2007.2に解体 Photo 2006.4.23
昨年の春、夜になってから見たのが、たった一度の出会いだった。以前から名前だけは知っていたが、あまり有名ではなかったので、わざわざ見に行ってみようという気にならず、そのままになっていた。だが、ある時たまたま六本木に居て、時間が空いたのでちょっと訪ねる気になった。
現場は袋小路の奥にロータリーがあるクルドサックで、それに面して洋風住宅が一軒だけ残されていた。暗くてよく見えないが、下の写真では街灯の足下がロータリーになっている。資料などによると、昔はこの周囲に洋風住宅が八棟建ち並んでいたらしい。だが2006年時点で、この一棟の他は全てマンションになっていた。
白い壁に縦長の押し開き窓、木製の窓枠も白くておしゃれ。二階の張り出し窓も大きく、昭和初期の貸住宅にしては瀟洒。ただ手前に並んだ立体駐車用の機械がひどく邪魔で残念だったが。木造モルタル2階建ての洋風住宅が、六本木の交差点からさほど遠くない路地の奥で、忘れられたようにぽつんと佇んでいる様は、嘘みたいな風景だった。
夜間の撮影で、ろくな写真が撮れなかったので、もういちど行こうと思っている内に時間は過ぎた。前回から一年も経っていないので、まだ大丈夫だろうなどと思いつつ、2/11に改めて写真を撮りに行ってみたら、跡形もなくコインパーキングになっていた。ああー、またしても考えが甘かった。
かなり暗い中、三脚もない状態でむりやり撮ったので、画質はかなり悪い。それでも、あの時に撮っておいて良かった。また今度などと言って撮らずにいたら、全く手元には残せなかったわけだから。条件は悪くてもとりあえず撮っておくべきなのだなと、今回また思った。
日中の写真は、以下のサイトで見ることができる。ホント、日中に撮っておくべきだよなぁ。この建物も、あまり多くのサイトには載っていない。
~Archives~ > 町田同族社員貸住宅 ニッポン懐景録 > 港区六本木 都市風景への旅 > 東京都港区六本木
Tokyo Lost Architecture #失われた建物 港区 #夕景・夜景 #住宅系 #洋館・洋風住宅
神田すずらん通り沿いのアオヒ印房と共に、その並びの建物も解体されていた。
文省堂・明文堂
所在地:千代田区神田神保町1-5
構造・階数:木・2F
解体年:2007解体
備考 :奥はアオヒ印房、後方の高層ビルは、東京パークタワー・神保町三井ビル
Photo 2005.3.25
文省堂も明文堂も古書店。二つのお店については、神保町書店街のサイトに、それぞれ紹介がある。
文省堂書店 明文堂書店
写真奥の明文堂は、社会科学系の古書を中心に扱っていたという。昭和の初め、1928~29(昭和3~4)年頃に創業した古いお店だそうだ。従って、この建物自体も、1928年頃に建てられたのではないかと思われる。法律、経済、会計などの専門書にはあまり縁がないので、入ったことはなかった。
文省堂はHPにもあるように、「女優・アイドルの写真集や、懐かしのグラビア雑誌」などが中心。店内には、昭和30~40年代と思しき古いグラビア誌から、最近の写真集までもが、大量に所狭しと置かれ、梁や鴨居からも雑誌がぶら下がっていた。ぎっしりと雑誌が並ぶ様子は、なんだかちょっとした資料館みたいな感じさえした。希少価値のあるものなどはビックリするほど値が高かったみたいだし・・・。自分が生まれた頃のグラビア誌には、さすがに興味が無いので、私は結局、二、三度しか入らなかったし、買うことも無かった。台が見えないぐらいにうずたかく雑誌が積まれている中で、一生懸命になんかの雑誌を探してる人が居たりして、その意気込みというか執念にも似た迫力に気圧されてしまうところがあり、早々に退散した記憶がある。いろんな意味で、独特の雰囲気がある場所だった。
Photo 1995.7.22
店内は「そういう系統」だったが、裏通り沿いの店外にはシャッターかなにかの付いた本棚があって、ワゴンセールのように文庫の古本が格安で売られていた。文庫本を探したり、ついその場で立ち読みをしたりする人も多かった。また仕入れてきた雑誌類や文庫本が、道路上に束になって積み上げられていたりする風景も、ちょっと懐かしい。
二つの古本屋さんは、どこか別の場所で仮営業かなんかをしてるんだろうか。建て替えた後の建物には入居するのだろうか。夜間にたまたま通りかかったので、そのへんの詳細は不明。
神田神保町の古書店街って、いろんな分野の本が集積していて、探せば必ずあるというのがやはり面白いところ。それがどんな種類の本であっても、探す人は探していて、熱心さは変わらない。
Tokyo Lost Architecture
#失われた建物 千代田区 #看板建築 #モルタル看板建築 #街並み 千代田区
2月はじめに神保町に行ったら、また一つ洋風建物が無くなっていた。
アオヒ印房・ツルオカピアノ
所在地:千代田区神田神保町1-5
構造・階数:木造モルタル・2F
2006年秋か2007年1月に解体
備考 :隣接する木造2階建物(写真奥の明文堂・文省堂)も、ほぼ同時期に解体
Photo 2005.3.25
アオヒ印房とツルオカピアノの二店が入居する建物は、神田すずらん通り中程の角地にあった。東京堂や富山房などがある神田すずらん通りは、以前は2階建ての木造洋風建築が建ち並び、靖国通りに面した古書店街と共に神保町の書籍街の中核をなしていた場所。
なんてことはない、普通の木造モルタル二階建て洋風看板建築なのだが、二階の窓が洋風の縦長窓で、そこに付けられた庇が、洋館のように三角形のペディメント型だったのが印象的だった。角地なので、側面の窓にもちゃんと庇は付いている。窓の大きさが異なるので、アオヒ印房・ツルオカピアノでは庇の大きさが異なるが、二軒がひとまとまりになって、気持ちよい角地建物になっていた。
Photo 1995.7.22
ところで、10年ほど前の写真と見比べてみたら、以前はかなり汚かった外壁が、2005年時点ではちゃんと塗り直されて、きれいになっていたことが判る。どの時点で塗装し直したかは判らない。が、数年前までは修復などをして使い続けようとしていたわけだ。それなのに今度はあっさり解体されてしまった。建物存続の分かれ目は、本当に微妙なところにあるものなのだなぁと思う。
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#失われた建物 千代田区 #看板建築 #モルタル看板建築 #街並み 千代田区
新聞に、不忍池そばの有名な建物の解体が決まったとの記事が出たので、久々に見学に行く。
ソフィテル東京(旧法華クラブ、ホテルCOSIMA)
所在地:台東区池之端2-1
設計 :菊竹清訓
構造・階数・高さ:SRC・26F・110.2m
建設年:1994.6
備考 :営業終了:2006.12 解体・建て替え決定:2007.1
解体工事:2007.2~2008.5
右は、ルネッサンスタワー上野池之端(38F、136.5m、2005.3建設)
Photo 2007.1.21
わずか12年間あまりしか存続しなかった建物だという。昨年末にホテルが閉鎖され、三井不動産が購入したが、部屋数が83しかなく、マンションなどへの用途変更が難しかったらしく、解体して再開発することになったのだそうだ。設計者の菊竹先生は年明けにそれを知り、他の用途への転用もできなくはないのに相談もなしに一方的に決めたと憤慨したという。
設計者の立場からすれば憤慨はごもっとも。性急な解体決定にも疑問はある。本当に使い道を一所懸命に検討した末の結論なのかなぁ。変な形の建物だし、使い勝手が悪そうだから、壊して再開発しちゃえー、という結論が先にあったんじゃないのかなぁとも思う。
今回の解体決定報道は、微妙なトーンで語られていた気がする。不忍池の畔で独特の姿を見せ、良くも悪くも話題になっていた建物が、わずか12年で解体されることになってしまったという事実関係が述べられていて、不動産側など関連当事者のコメントなどが載るが、新聞として、また市民の声として、残念だとかいう意見は書かれていない。もちろん、無くなるのは良かった、などというあからさまな言い方はされていないが、特に思い入れがあるわけではなく、あまり残念そうでもない。論争を巻き起こした建物だったとは書いてあったが、それ以上の見解はなく、短命に終わった哀れさだけが目に付く書き方だった。解体決定によって池之端の景観の美醜に関する議論は既に終わったことになったのだろうか。たしかに解体決定によって、議論は奇妙な結末をひとまず迎えてしまったのかもしれない。
ソフィテル東京(旧ホテルCOSIMA)は、モミの木に似せたといわれる。だが当初から、不忍池ごしに見えるこの景観については賛否があった。反対する人々が問題だとする点には二種類があると思う。
1)建物のデザインが良くない、イヤだ、気持ち悪い、恐いなど、建物の形に関する反対。2)広がりを持つ不忍池の風景の中に、一つだけ背の高い建物が建って目立ちすぎているという、建物の高さに関する反対。(当時はルネッサンスタワーはまだ無かった。)
2)の場合は、池の畔に背の高い建物が建つ限り、解決はない。今回、ソフィテル東京が解体されても、ルネッサンスタワーが残るので問題は残る。一方、1)の場合は、形がおとなしければ許容されるので、ソフィテルが無くなれば、ひとまず解決ということになる。
周辺との調和を重んじる立場からすれば、どちらも問題で、仮に解体後の再開発によって普通の超高層マンションが建つとしたら、それもだめ。だが、東京ではあちこちに超高層マンションが建ってしまっているので、私は正直なところ次第に諦め始めている。低層の街並みの向こうに超高層が建つ風景に対して、怒るより慣れようとしている自分がいる。
それでも、この建物の景色は気持ち悪かった。慣れることが出来ないままだった。頂部と肩の部分に、航空障害灯の赤色ランプが取り付けられていて、夕暮れになるとそれが点滅し出す。夕焼けの中、シルエット状に佇む姿が、巨大な仏像のようでもあり、なんだか薄気味悪くさえ感じられることもあった。不忍池を訪れた人なら必ずといって良いほど、あの建物はなんだ??と思う奇抜なデザイン。
目立ちたいという自己顕示欲は達成されたのだろうが、果たして本当に良い意味で目立ったのだろうか? あの形が原因で、高級ホテルだとは思わず、いかがわしいホテルだと勘違いしていた人も多い。気持ち悪いと感じた人も私だけではない。高さやボリュームだけならともかく、デザインが奇抜過ぎたために、話題にはなったが、当初から不利な立場に立たされてしまい、あまり愛されない建物になってしまったのではないかと思う。
谷中・朝倉彫塑館屋上から
Photo 1994.1.30
90年代に、アームストロングさんというオーストラリア人建築家を案内して谷中を歩いたことがある。アームストロング氏は80年代に日本に留学した後、母国に帰って設計活動をしており、約10年ぶりに東京を訪問したのだった。谷中の寺町を歩き、日本家屋や路地のある風景を堪能した後、朝倉彫塑館を訪れ、屋上に上った。
屋上から上野の方を見ると、竣工間近の例の異形の建物が見えた。アームストロング氏は驚き、「ああ!、あの建物は何ですか?」と私たちに問うた。菊竹先生が設計された、ホテルCOSIMAですと申し上げると、「昔、先生の自邸などを知って感激したけど、あれはどういうことですか。菊竹先生はどうしちゃったのですか??」と言われてしまった。不忍池のそばにあのような建物を設計するとは信じられない、といった言い方だった。私たちは「いやぁ、どうしちゃったんでしょうねぇ」と苦笑するほかなかった。
もちろん外国人から見た日本は、多分にジャポニズムが強調されていて、それは日本人の持つイメージとは異なる。だが外国人の目には、東京のランドスケープはあの建物で乱されていると映ったようだった。
さて、菊竹先生は、1960年代に日本で興ったメタボリズム運動の主導的立場におられた方。メタボリズム(Metabolism)は、もともと生物学の用語で、新陳代謝の意。都市や建築を生物体と捉えたわけで、メタボリズム建築は、新陳代謝する建築ということになる。
最近あちこちで聞くメタボリック・シンドローム(代謝症候群)は、新陳代謝不全症みたいな意味だが、そのメタボリックと語源的には同根。樹木などは、秋になると古い葉を落とし、春になれば若葉を出し、新陳代謝をして生き続ける。建築も、老朽化したり使い勝手が悪くなった部分が出てきたら、それを外して新しいモノに付け替えることで生き続けるものにしようという発想なんだそうだ。老朽化したら、改修や改築をして使い回すというのはよくあることだが、メタボリズムではその辺が強調され、可視化されているところが特徴であるように思う。その後、他の建築家はメタボリズムから次第に離れていったが、菊竹先生はその後もメタボリズム的な思想を表現しようとし続けているらしい。
ただ、なんて言うのかな、よくわからんが、メタボリズムは大阪万博を頂点とする、高度経済成長期的なイケイケドンドン的発想に連動しており、それがもろに具象化しているところがあり、後年はなぜか巨大化の道を歩んでしまっている。
メタボリズムの本質である「新陳代謝」を中心に考えれば、リフォーム、リニューアル、リユースなど、今ある建物を補強したりしながら使い回す方法が指向されるべきなのだが、どこかの段階から、表現者・アーティストとしての建築家魂が前面に出て、巨大オブジェのようで彫刻的な「作品」の実体化が、主たる目的にすり替わっているような気もする。
そう、なにも新しく巨大建築を建設することを考えなくても良いハズなのだ。しかし結果的に、新陳代謝の表現よりも、メガロマニアなどとも呼ばれる、巨大構造体指向が前面に出てしまった。特に菊竹先生の、ホテルCOSIMA、江戸東京博物館、昭和館では、その傾向が顕著だった。
そこでは周辺の状況は顧みられず、超大型のモニュメンタルな建築物が構想された。異形でド迫力の形態を既存の都市内に持ち込むところは、穏やかで調和的な景観を指向する人々から考えると、景観の破壊者に映る。
緊張感や活力があり、刺激的な都市景観こそが東京風景だと思えば、江戸東京博物館もソフィテル東京も、まったりとした下町風景に投げ込まれた刺激物だということになる。でも下手すれば、あれは劇薬。あの二粒で下町の風景は無茶苦茶になるとも言える。実際、あのような建物が建って下町の風景イメージは混乱した。下町と聞いて、長屋が建つ路地などをイメージしていると、バカでかい建物に遭遇して腰を抜かすことになる。
文京区弥生2丁目から
Photo 2007.2.3
ソフィテル東京は、直接的な形態でもってメタボリズムが表現されてしまった建物。でもモミの木のように、枝葉が落ちて新陳代謝するわけではなく、外観が似てるだけ。メタボリズムというよりやはりメガロマニア(巨大趣味)で、どう見ても、新陳代謝=改修はしにくそうだった。ご本人はそう思っておられないかもしれないが、外見だけで判断すると、どう見ても巨大オブジェ指向で、末期的メタボリ。で、ソフィテルも江戸東京博物館も、周辺の建物群に比べると、ずば抜けて巨大で、違和感ありまくり。
あの建物が、不忍池の畔ではなく、奇抜な形の超高層ビルが次々に建っている上海とか、昔から高層ビルが林立して混沌としている香港とか、台湾、シンガポールなどに建設されたら、違和感は少なかっただろう。アラブ首長国連邦のドバイなんかもオイルマネーでとんでもない形の建物が建っているので、メガロマニア系の建物には適している。
東京でも、お台場とか西新宿の超高層ビル群の中だったら、意外に違和感なく溶け込めたかもしれないなとは思う。お台場ならまわりも大きくて新しい建物ばかりで、フジテレビみたいなキワモノもある。西新宿なら沢山ある超高層ビルの中に埋もれてしまえる。
東京もいろんなデザインを自由に試せる都市なんだ、東京にもそうなって欲しいという人々もいる。でも東京の場合、江戸以来の歴史があるのだから、奇抜な形の超高層ビルが競い立つ都市になるべきではないと思っている人も一方で多くて、そこには考え方の激しい対立が存在する。 そう考えると、不忍池の畔という低層で広がりがある穏やかな風景のところに高層で奇抜なデザインを持ち込んだという、二重の違和感が、やはりまずかったのかもしれない。
純粋にあの形だけを考えると、たしかに奇抜で面白い形の建物だとは思う。でも、デザインとして、格好良いかと言われると、そうは思わない。もっと端正な容姿にできたはずだと思う。構造・設備コアから自由になった居室空間という意図、内部空間からの要請を強調するあまり、外観はスッキリしなくなった。宇宙ステーションのように不格好に居室が取り付く姿にも見える。鉄とコンクリートで、モミの木を造る発想自体、そのまんま過ぎないか?? 目立ちたいだけなのか、無邪気にもほどがある。
だいたい、新陳代謝する建築は、その「新陳代謝」によって長いこと生き続けるハズで、メタボリズム建築は、改修などの新陳代謝がしやすい建築のハズ。なのに、ソフィテル東京はそれが出来なくって、終焉を迎えてしまった。あの建物はメタボリックシンドロームだったのかもしれないな。皮肉な話だけど・・・。
ところで、超高層ビルの専門家じゃないので、本当かどうかはちょっと怪しいが、この建物の解体は、日本における超高層ビルの解体第一号なんじゃないかと思う。もちろん鉄塔や煙突など、超高層構築物の解体は今までにもあるし、浅草十二階(凌雲閣)の倒壊、大昔の東大寺七重塔や、安土城、江戸城などの炎上倒壊というのはある。15階建て程度のオフィスビルやマンションの解体もあるかもしれない。でも、20階以上、100mを超す超高層ビルの解体は、日本では今まで無かったんじゃないかと思う。
解体工事期間が、2008年5月までの1年4ヶ月となっているのにも驚いた。そんなに時間が掛かっても建て替えた方が採算が合うのか・・・。よほど嫌われちゃったのね。
あの建物は、愛されなかった君だ。ソフィテル東京というホテルが愛されなかったわけでは決してなく、あくまであの建物のモンダイ。だいたいソフィテルも三井不動産もあの建物を見限ったわけだし・・・。
だから今回の解体決定は不思議とそれほど残念ではない。逆説的だが、あの怪しい風景も見納めかーとは思った。もっと言うなら、どうやって解体するのかなーと、そっちの方が楽しみ。建てるときは次第にクレーンを小さくしていくけど、解体の時は、逆に次第にクレーンを大きくするのかしら??
どんな出自であれ、今あるものを壊すのは残念だという言い方もあるかもしれない。たしかにスクラップ&ビルドは、資源的にも環境的にも問題で、改修できればそれに越したことはないという考えも理解できる。
でも、私たちは自分たちが快適に暮らすため、動植物を食べる。木を燃やして暖を取る。快適に暮らすためにはある程度、何かを破壊して生息環境を確保する闘争が必要だ。今回の経緯はともかく、あの建物は、私たちが快適に暮らすためには解体され除去されるべき建物だったのだと私は考えたい。もちろんあの建物は、様々な思惑の中で失われていく犠牲者だ。でも今のままでは状況は変わらない。うまいこと生まれ変わってくれることを願う。
初見ではギョッとする建物も、何年もすると慣れてしまうところがある。美人は三日で飽きるが、ナントカは三日で慣れる、というのに近いのか? それはともかく、慣れてしまうと、それが失われるときに喪失感も生まれてしまう。立て籠もり犯に人質が次第に同情して共感してしまう心理に近いのかな? それも変なたとえだけど。あの建物にも10年もすると慣れ始めていた。70年くらいは建ち続けるだろうから仕方ないと諦めたりもしていた。それなら、妙な建物がある風景を楽しんじゃえとさえ思ったりもした。
でもそれは危険なことかもしれない。景色を乱しても、抵抗があるのは最初だけで、見慣れたら文句は出なくなると思われたら、その積み重ねで、都市の景色は無茶苦茶になる。まあ、明治以来、そういうのの積み重ねだったわけだが・・・。やはりイヤなものはイヤと粘り強く抵抗し続けないとイカンのだろう。
今回のことで、風景や景観は、そうなってしまうのではなくて、創っていけるかもしれないとちょっと思った。今ある風景が恒久的なものだと思うと、嘆くしかな くなるが、変えていける、場合によっては新しく創っていけると思うと、まだ救いがある。
でも、実は今後のこともまだ問題だ。不動産会社は跡地に新しい建物を必ず建てるだろう。その時、その形や大きさをどう判断するのか。旧ソフィテルのそばにはルネッサンスタワーという超高層マンションも建っている。超高層マンション案が発表された場合、それが建つのを認めるのだろうか。現行法規では認めざるを得ないはずだ。
不忍池畔の景観の議論は、高さやボリュームではなく、デザインの美醜の問題だったのだろうか。仏像にも似たモミの木型はイヤだけど、四角柱だったらOKということなのか、それとも根本的に高くて大きいのがダメなのか。そのへんは今後も気になる。
関連記事:解体の現場(2007.7.22)
Tokyo Lost Architecture
#失われた建物 台東区 #新しい建物 台東区
#街並み 台東区 #眺望 #高層ビル #ホテル #菊竹清訓 #メタボリズム
青梅街道沿いにあったこの建物もいつのまにか解体されていた。
日動火災海上新宿支部(旧川崎銀行新宿支店)
所在地:新宿区北新宿 2-21
構造・階数:RC・2F
備考 :北新宿再開発に伴い解体
Photo 2000.4.16
2000年3月、初めて買ったデジカメを持って、初の街歩き。自宅から上高田、中野、中野坂上、北新宿、新宿というコース。でも、中野坂上も北新宿もなじみの場所ではなく、何故こういうルートで歩いたのか、さっぱり覚えていない。家を出て特に目的もなく、ぶらぶらしていたらそうなってしまったのかもしれない。ただ、その時初めて、淀橋という橋があると知った。
この建物はそのまちあるきの時に撮った。馴染みの建物でも何でもなく、その時に初めて見た。休日だったためか人の気配が無く、ひっそりとした様子と、周辺の建物がなく、空地の中にポツンと建っている様が気になってレンズを向けたのだろう。あとで見返してみると、建物には会社名を示す看板もない。2000年発行の住宅地図を見たら、日動火災海上保険・新宿研修センターとなっていたが、もしかするとこの時点で既に空き家になっていたのかもしれない。
以後、しばらく北新宿界隈に赴くことはなかった。昨年になって久しぶりに行ってみたら、北新宿の再開発と職安通りの拡幅で景色は全て変わっていた。結局、私がこの建物を見たのはこの写真を撮った一度きり。写真もこの1カットしかない。周辺の建物も含めて全ての建物が解体され、一体的に再開発が行われているので、建物が建っていた正確な場所はもはやさっぱり分からない。
青梅街道、職安通り交差点付近
Photo 2006.11.9
ネットで検索したらいろいろ情報が出てくるかと思ったのだが、写真が下記サイトなどにあるのみで詳細は不明。近代建築ではあるけれど地味だったためか、取り挙げている人は少ない。近代建築総覧を見ても建設年などが不明。昭和初期なんだろうとは思うが・・・。
ニッポン懐景録 > 新宿区北新宿・西新宿
都市風景への旅 > 東京都新宿区新宿
でもこういう状況に置かれて消えていった建物ってなんだか逆に気になる。
Tokyo Lost Architecture
#失われた建物 新宿区 #近代建築 #街並み 新宿区 #銀行・保険 #旧街道
Photo 2006.7.23
以前の記事で、銀座の建物は、銀座ルールという暗黙の紳士協定のようなもので、軒高が56m以下になっていると書いた。どこかの新聞にそう書いてあった記憶があったので書いたのだが、中央区のHPを見たら、銀座には平成10年から地区計画が掛かっていた。暗黙の紳士協定じゃなくて、ちゃんとした制度に基づく計画でした。暗黙のルールだったのは昔の話かもしれない。うーん、またもや確認不足。
平成18年10月に地区計画の見直しが行われ、屋上広告の高さも、最高で10mになったという。建物は最高でも56m以下なので、広告を入れても最大66mなんだそうな。ただ、銀座の中央通り沿いの建物で、最高高さ限度まで使っている建物は、8丁目の東京銀座資生堂ビルなど、まだわずか。
> 銀座地区の地区計画見直し
昭和37年の容積率制への移行より前には、建物の軒高は最高でも100尺以下に規制されていた。その規制の下でできた、和光や三越、教文館、その他の古い建物が作るスカイラインが、現在の銀座の街並みの基本になっている。最高高さ規制が無くなり、基準法が容積率制へ移行した後、昔の建物は、道路斜線制限をオーバーしない範囲内で、増築されたりしながら存続した。
銀座の場合、江戸期以来の町割りの関係もあって、敷地の大きさ、間口、奥行きが似通っている。総合設計制度などを利用して、公開空地を作るなどしない限り、高層建物が建てられない場所であり、土地条件が似ているため、結果的に似たような大きさ、高さの建物が建ち並ぶ街が出来上がってきた。70年以上前の建物を増築・改修しながら使っている場合でも、新しい建物と同じような高さ、ボリュームになる。お陰で銀座中央通りの街並みは、新旧様々な建物がある割に比較的揃っているといわれる。
地区計画から考えると、銀座の中央通り沿いに立ち並ぶ建物群は、今後、次第に56m=11階建て程度に建て変わっていく。松坂屋も当初の超高層案(190m)は断念し、沿道56m以下を基本にして検討する方向性になったとも聞く。突出して高い建物が建たないことになったのは、まずは喜ばしいことだ。
でも、建物群が建て変わっていく過程では、高いのと低いのが混在する街並みになるのは避けられない。もちろん、よく見れば今までも建物高さには多少のばらつきはあったし、いろんなサイズの広告塔が載っていたから、今後もさして変わらないとも言えるのかもしれないけど、どうなっていくのかなぁ。
建築・都市計画関係の人はよく御存知かと思うが、街並みを考えるとき、D/H比(道路幅員D/沿道建物高さH)という指標がある。D/H<1の場合、沿道建物が接近し、狭苦しい感じになる。一方、D/H>1の場合、次第に道が広い感じになり、2以上の場合は、広々とした感じになるという。
イタリア中世の都市は街路が狭かったため、D/H比は0.5程度。その後、ルネサンス時代、ダヴィンチはD/H=1が理想と考えていたという。その後、バロック期の街では、D/H=2と、道幅は建物高さの2倍となっていた(注1)。ヨーロッパでは表通りは、D/H比が1以上なのが良く、理想とされていたようだ。
もちろん、D/H比が1以上なのがよいというのは、ヨーロッパ的な考え方なので、日本でそれがそのまま当てはまるかどうかは分からない。日本には、広い目抜き通りが少ないので、私たちは広幅員街路にはあまり慣れていない。D/H比が2以上だったりすると、広すぎてちょっと寂しいと思ってしまう。ヨーロッパのような立派な街路にはあこがれるが、実際に使って楽しむのは、渋谷やアメ横などゴチャゴチャしたところ、というのが日本人の感覚かもしれない。
さて、銀座中央通りの道幅は約27m。現在の沿道建物の高さを40m程度とすると、D/H比は、27/40≒0.68。若干狭いが、日本では良好と言ってもいいほう。一方、将来の銀座の街並みD/H比は、27/56≒0.48。もちろん道幅Dが大きく、裏通りとはスケール感が違うが、比率としては欧米都市の裏通りみたいなことになってしまう。沿道建物の高さが1.4倍程度にはなるので、囲われ感が増し、空間としては今よりせせこましい感じになるのはほぼ確実。
これからどうなるのかなぁ、銀座。
(注1)参考:「街並みの美学」芦原義信、岩波同時代ライブラリー、1990。
#街並み 中央区 #夕景・夜景
「地図物語 地図と写真でたどるあの日の浅草-昭和26年から30年代の思い出と出会う」
著者:佐藤洋一・武揚堂編集部、発行社:武揚堂、2007.1
A4・56p+地図 ¥1,800+Tax
以前、「占領下の東京」を書かれた先輩が、今度は地図本をお出しになりました。
タイトルにもあるように、昭和26年から30年代の浅草に焦点を当て、かなり詳細な情報が掲載されている本です。浅草界隈の写真、浅草六区の劇場の変遷年表なども貴重。そしてメインは、復刻版の火災保険特殊地図。浅草界隈の様子が詳細に書かれ、復刻に際しては用途に応じて彩色もされ、美麗であります。地図からの解説引き出し線が大量にあり、その解説が詳細なのにまた驚かされます。
この「地図物語」はシリーズ化される模様。他の地域も順次発行される予定だそうです。楽しみ~。