都市徘徊blog

徒然まちあるき日記

加藤家住宅

2024-11-06 | 埼玉県  
加藤家住宅
所在地:川越市 連雀町11-8
構造・階数:木・2
建設年:明治30年代(1897〜1906)
解体年:2023(令和5)
備考 :川越市有形文化財。上写真の時期は、小松屋和菓子店。
    右の家屋はこの頃には既に仕舞屋で、その後解体。
Photo 2001.2.15

 大和屋という金物商の店蔵として明治30年代に建てられたものと推定されている。正面側は土蔵造りで、他の外壁は大谷石をコの字形に巡らせており、川越の蔵造りの中でも特徴的な建物だったという。


 手打ちそば「連雀」だった頃  Photo 2009.7.19

 貸し店舗としていたようで、1990年代や2000年代半ばまでは和菓子店だったが、その後はそば屋になり、2010年代後半にはイタリア料理店になっていた。


 Pizzeria Wood Bakersとなった後の様子  Photo 2022.10.28

 外壁が両側にせり出しているのも特徴的。隣接地の仕舞屋が建て替えられて後退したため、この頃は側面の大谷石の外壁が良く見えていた。大正浪漫通りの中でも立派な建物のひとつだった。


 焼失後  Photo 2023.1.27

 2023.1.20の夜に火事が起こり全焼。翌週に川越に行く機会があったため訪れたところ、前面の土蔵造りの壁面や側面の壁は残っていたが屋根は落ちており、また後方は全て焼け落ちてしまっていた。
 その後、再建されるのだろうかと気になっていたが、再建にはやはり高額の費用が掛かるそうで、残念ながら解体されることになり、同年7月頃に解体された。跡地は2024年4月時点でもまだ更地。

川越市の近代建築
指定文化財の建物が全焼 埼玉・川越「大正浪漫夢通り」のレストラン [埼玉県]:朝日新聞デジタル
再建に億の費用…築120年、川越の蔵造りの文化財全焼 無念の解体 [埼玉県]:朝日新聞デジタル

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旧川越保健所/川越市勤労会館

2024-11-03 | 埼玉県  
川越市勤労会館・川越地方労働組合連絡協議会/旧川越保健所
所在地:川越市 六軒町2-15-2
構造・階数:木・2
建設年:昭和初期
解体年:2020〜22(令和2〜4)
Photo 2001.2.15

 かつては川越保健所だった建物だそうだが、いつごろまで保健所だったのかは未把握。古い住宅地図を検索したところ、1970(昭和45)年には既に勤労会館になっていたので、保健所だったのはかなり前のことだったようだ。

 一方、下記「川越の歴史年表」によれば、川越保健所の設置は1944(昭和19)年とのこと。建物が保健所として建てられたのなら、戦時中ということになるが、それだと他の情報で見た昭和初期に建てられたという話と少々異なる。昭和初期に建てられた時はまた別の用途で、後に保健所になったということかもしれないが、そのあたりの詳細はネット情報では分からず。

 建物は洋風の下見板張りで日本瓦葺き。木造の事務所建物なので装飾等はなし。窓もアルミサッシに替えられていた。南側のスペースには後から車庫屋根が作られ、自転車が数台駐められていたりして、最後の頃までいろいろ使われていたようではあった。


 Photo 2009.7.19

 Googleストリートビューで確認したところ、2018年4月までは建物外にエアコンの室外機が置かれていたが、2018年9月の画像では室外機がなくなってポスター類も無くなり、2019年には周囲にチェーンが巡らされ封鎖されていた。2020年の画像まではその状態のまま存在していたことが確認できるが、2022年末の画像では解体されて跡地はコインパーキングになっている。
 どうやら、建物は2018年頃に使われなくなり、2020年秋から2022年までの間に解体されたようだ。

川越市の近代建築
川越雑記帳(川越原人のホームページ)川越の歴史年表

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旧関根平蔵邸/板倉家住宅

2024-10-30 | 埼玉県  
板倉家住宅/旧関根平蔵邸
所在地:川越市 中原町1-8-1
構造・階数:木・2
建設年:1923(大正12)
解体年:2023(令和5)
備考 :2023.6.6に焼失
Photo 2022.11.18

 西武新宿線本川越駅の北方、市立中央小学校の北にあった洋風住宅。時の鐘を建てた関根松五郎という大工の息子で、大工棟梁の関根平蔵が自宅用に建てたものという。

 洋風建物でときどき使われる半切妻屋根(寄棟屋根と切妻屋根の中間のような形の屋根)で銅板葺き。窓はアルミサッシに替えられていたが縦長の洋風窓。壁面は少し光沢のあるタイル張りで、コーナー部は明るいグレーのタイルがコーナーストーン状に張られ、また窓台部分にも同様のタイルが張られていた。

 南側のはなれも同様のタイル張りだったが、こちらは切妻屋根で日本瓦。

 北東側から。表通りのひとつ裏側の通学路に面した洋風住宅で、川越市の景観重要建築になっている建物だったが、昨年6月に焼失してしまい失われてしまった。2024年4月のGoogleストリートビューでは更地になっている。

参考『小江戸ものがたり -第四号 川越の洋風建築特集』川越むかし工房 編集・発行、2003.4

思いつくまま 埼玉県
川越 小江戸ものがたり 2003年春夏 第4号
景観重要建築が全焼…住人2人は無事 大正末期建築、川越の「板倉家」|埼玉新聞

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旭湯

2024-10-27 | 埼玉県  
旭湯
所在地:川越市 元町1-8-6
構造・階数:木・2
建設年:1950年代後半に改築
解体年:2020〜22(令和2〜4)
備考 :1943(昭和18)創業、2020(令和2)廃業
Photo 2019.6.21

 ネット情報では、川越市内に唯一残っていた銭湯だったそうだが、この写真の翌年2月に廃業したという。


 Photo 2019.6.21

 戦時中の1943年に創業した歴史のある銭湯だったが、建物自体は1950年代後半に改築されたもの。そのためかどうかは判らないが、いわゆる宮造り型の建物ではなく、比較的簡素な切妻屋根の建物だった。高窓が多くとられた造りで、前半分が脱衣所、後方が湯舟や洗い場。


 Photo 2004.12.3

 開口部が多いため、夜に通り掛かると明るく、脱衣場の折り上げ天井が見えたりもしていた。

旭湯 惜しまれ77年の歴史に幕 川越唯一の銭湯 建物跡地は貸店舗に:東京新聞 TOKYO Web

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旧 松崎理容所

2024-10-24 | 埼玉県  
旧 松崎理容所
所在地:川越市 松江町2-2-12
構造・階数:木・2
建設年代:?
解体年代:2004〜11(平成16〜23)
Photo 2004.12.3

 川越市内、観光地化した中心部からは少し離れた静かな場所にあった旧理髪店。普通の2階建て住居の道路側を改築して店舗にしたようなつくり。撮影時は既に仕舞屋になっていたらしく、理髪店の店先で回る「クルクル」もなかった。ただ、1990年の住宅地図にはまだその名が記されているので、90年代までは営業していたようだ(ただ2000年の住宅地図には店の名がない)。

 なお、左後方に見えている「あがのや」は材木屋さんの材木置き場の建物。これも現在は無くなっている。

 道路沿いの1階部分だけを見ると洋風にも見えるデザイン。2階までは覆われていないが、一応看板建築ということにしておく。床屋の入口は片開きのドアが多い気がするが、ここは引き戸。ガラスには「松崎理容所」「RIYO」と金文字で書かれていた。
 1階の軒先や壁は、タイル状の凹凸目地がある薄緑色のトタン張りで、錆び付いた様子がなんとも言えない味わい。窓の下はモルタル塗り。玄関扉はアルミサッシだったが、左側の窓は木製枠。ただ老朽化のせいか全体にやや歪んでいるように見えた。

 Googleストリートビューによれば、2011年4月時点で既に消失。

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尚美学園大学 上福岡キャンパス

2024-10-21 | 埼玉県  
尚美学園大学 上福岡キャンパス
所在地 :川越市 下松原655
建設年 :1981(昭和56)
解体年代:2013〜15(平成25〜27)
備考  :上福岡キャンパスは2013年に廃止・閉鎖
Photo 2002.4.9

 尚美学園大学の上福岡キャンパスは、東武東上線の上福岡駅からスクールバスで10分ほどの場所にあった。1981年に尚美音楽短期大学(1986年からは尚美学園短期大学)のキャンパスとして造られたもので、2000年に4年制の尚美学園大学が設立された際、上福岡キャンパス(芸術情報学部)となった。

 同大学は2000年の設立時に川越キャンパス(総合政策学部、川越市豊田本(現在の豊田町一丁目))を新設したため、2キャンパス体制になっていたが、川越キャンパスに芸術情報学部の校舎が増設されて2013年にキャンパスが一元化され、上福岡キャンパスは廃止された。

 私はこの大学で2001年から2023年まで非常勤講師をしていて、上福岡キャンパスにも2002年〜2012年までの11年間、春期に週1回だけ講義をしに訪れていた。

 上写真はキャンパス入口。校門を入ったところの広場には立体トラス構造の大屋根が架けられていた。


 Photo 2012.6.29 以下すべて同日

 上福岡駅とキャンパスの間はスクールバスが走っていたが、キャンパス側のバスのりばは校門を出て少し歩いた先の駐車場内だった。キャンパス入口内の屋根付き広場は、学生の憩い、待ち合わせの場所だった。

 立体トラスの大屋根は、恐らく水勾配のため、わずかに切妻屋根状に山型になっていた。
 また、校門を入った右側にはメディアセンターがあった。この建物には200人が入れる大教室があり、私はそこで100人ほどの学生に講義をしていた。

 校門を入って左へ向かうと事務棟。非常勤講師の控室などもここにあったので、私はいつもとりあえず奥の玄関へ向かっていた。

 大屋根奥から左へ向かうと、校舎群がならぶキャンパス中央の通路。教室を移動する学生や先生の多くがここを通るため、友人や担当の先生に会うことも多かった。通路わきの木陰のベンチで話す学生も多く、この空間は出会いの場、情報交換の場としてちょうどよいスケール感で、実は上福岡キャンパスで大切な空間だったのではないかと思う。

 上福岡キャンパスは北東から南西方向に延びる細長いキャンパスだった。川越街道と直交する方向で、昔からの土地所有形態が街道から短冊状に細長く延びるものだったからかもしれない。このため校舎は通路沿いに連なる形で建ち並んでいた。

 通路の奥の方には並木はなく、レンガタイル張り低層の校舎が両側に並んでいた。もともと短期大学で学生数もさほど多くなかったので、4年制大学になって以降も総合大学ではなく単科大学のようなスケール感と雰囲気となっていた。

 上福岡キャンパスの校舎からキャンパス北側の農地  Photo 2002.7.26

 キャンパスの東南側は戸建て住宅地で、南側には工場などが点在していたが、西北側は農地(畑)だった。初夏にはカッコウやキジ、トンビの鳴き声も聞こえてくるなんだかのどかな場所だった。

 2013年の廃止後は訪れたことがない。Googleストリートビューを見たところ、校舎群は解体されて2015年には更地になっていた。現在は戸建て住宅が建ち並ぶ住宅地になっている。

尚美学園大学 - Wikipedia

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東飯能駅

2023-06-24 | 埼玉県  
東飯能駅
所在地:飯能市 東町1
構造・階数:木・1
建設年:1931(昭和6)?
解体年:1997〜98(平成9〜10)
Photo 1992.10.31

 木造平屋、切妻瓦葺き屋根の小さな駅舎。
 東飯能駅は1931(昭和6)年に武蔵野鉄道(現 西武池袋線)の駅として開業したという。駅舎の建設年は分からないが、この外観からするともしかすると開業当初のものがそのまま使われていたのかもしれない。

 2015年頃、某大学の授業で駅前広場や駅舎の話をしたときにこの写真を見せたら、東飯能駅を利用している学生から「今はこんな小さな駅ではなくて、大きな駅ビルが建っています。」と指摘されてしまった。「小さい頃から住んでいますが、この駅舎は初めて見てびっくりしました。」とも言っていた。

 その後、調べたところ、この写真の数年後に東飯能駅は橋上化され、駅ビルが完成していたことも分かった。
 1990年代末に生まれた学生がこの建物を見たことがないというのはもっともなことだった。

東飯能駅 - Wikipedia
Station Gallery東飯能駅

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東京堂

2023-05-30 | 埼玉県  
東京堂
所在地:川越市 仲町1
構造・階数:木・2
建設年代:昭和30年代以前?
解体年 :2009〜11(平成21〜23)
Photo 2009.7.19

 蔵造りの町並みで有名な川越。東京堂がある大正浪漫夢通りは、重要伝統的建造物群保存地区になっているそのエリアよりも川越駅に近い場所にある。昭和30年代から平成の初期はアーケード商店街だったが、1995年にアーケードを撤去し、沿道建物の街並みを活かした商店街づくりが行われている。

 東京堂はこの通りの北端近くにあった洋風看板建築の紳士呉服店。シャッターには既製紳士服とあるが、軒にはTAILORとも書かれており仕立てもしていたようだ。1階はシャッターになっていて普通の店だったが、2階の壁がアールヌーヴォー風にデザインされていて目立つ建物だった。

 この建物についてはネット上にも情報がほとんどなく、建設年代は分からない。『日本近代建築総覧』にも記載されていない。
 下記の「大正浪漫夢通り」公式ページに掲載されている昭和30年代の写真に「東京堂」の袖看板が写り込んでいるので、東京堂じたいは少なくともその頃から存在していたようだ。ただ建物本体は写っていないので同じファサードデザインだったかどうかは不明。


 Photo 2006.11.3

 アーチ型の窓があったり窓枠が木製だったりするので、新しく作られたファサードではないようだ。やはりそれなりに古い建物だったのではないだろうか。『日本近代建築総覧』に記載がないのは調査時にアーケードがあって分からなかったからかもしれない。
 アーケードがあった時代は通りから見えなくなってしまっていたが、アーケードを撤去した際に化粧直しをしたのかもしれない。妙にきれいなファサードだったのであまり古く見えず、古く見えるように新しく作られたもののように見えてしまう建物だった。

 Google ストリートビューで確認したところでは2011年には既に更地になっている。このため川越の建築を紹介する最近の書籍にも紹介されていない。

川越大正浪漫夢通り公式ホームページ
産業遺産・近代建築川越市の近代建築

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旧鶴川座

2023-05-27 | 埼玉県  
旧鶴川座
所在地:川越市 連雀町8
構造 :木
建設年:1898(明治31)
解体年:2019(令和元)
Photo 2006.11.3

 明治時代後期に芝居小屋として建てられた建物。大正時代には洋風に改装して活動写真の上映もしたりする劇場となり、戦後は映画館になっていたという。その後は書画店やライブハウスなどになった。老朽化もあって閉鎖され、その後、復原や再生利活用が模索されたが、最終的に復原等に掛かる財政的な問題などから再生は断念され、解体されたという。

 建物の経過については下記「鶴川座の歴史」に年表が示されているので、ここでは以下に少し端折って記す。またこのサイトにはかつての建物の復原図なども掲載されている。

 1894(明治27)
 1898(明治31)
 1922(大正11)
  戦後〜1998(平成10)
 1998〜2003(平成10〜15)
 2005〜06(平成17〜18)
 2007(平成19)〜
 2019(令和元)7月
 2020(令和2)7月
 
川越座として開場
新築。鶴川座に改称
外観を洋風に改装
映画館
中国製書画店
ライブハウス
建物調査、再生・利活用調査
「鶴川座」解体
立門前第一ビル完成。ゲストハウス「旅籠小江戸や」と飲食横丁になる。

 年表からすると、1枚目の写真はライブハウス時代のもの。
 また、写真は撮っていないが中国製書画店だった時代にちょっと中を覗いたこともある。たまたま通り掛かっただけで、当時は建物の来歴などを全く知らず、店内の床が奥に向かって下がっていて奇妙に感じた記憶がある。それでお店の人に映画館だったことを教えて貰い納得したのだった。

 以下は全て閉鎖後の写真。かなり改装されていたので見た目がいまひとつだったのが残念。閉鎖されてから時間が経って廃墟のようにもなっていた。ただ、構造体や一部の舞台機構などは昔のものが残っていたそうで、明治期の劇場遺構としては貴重なものだったはず。明治、大正、昭和と何度も改装されたようだが、どこかの段階の様子に復原できればひとつの名所になっただろうにと思う。


 閉鎖後の状況  Photo 2017.6.16


 Photo 2019.6.21

 解体が決まった頃に訪れたところ、地元の学生が解体のお知らせ看板を眺めていた。彼らと直接話した訳ではないが、様子を見るに、解体後に新しい建物が建てられることに期待しているというよりは、120年の歴史のある建物が解体されることを惜しんでいるようだった。


 解体直前の状況  Photo 2019.6.21

 右側の小窓は映画館時代の発券窓口。玄関はアルミサッシのガラス扉になっていたし、窓口周りはタイル張り。前面部分は比較的新しい時代のもののようだった。

 下記「全国町並み保存連盟」の記事には、結局のところ、残して利活用したいという気持ちがあまりないから、解体・建て替えという安易な選択をするのだ、というような手厳しい指摘がされている。
 川越の場合、旧川越織物市場などはいちど全てを解体して復原に取り組んでいるし、旧鏡山酒造の蔵などは小江戸蔵里として活用されていて、古いものを残して活用することには比較的前向きな感じではある。ただ民間の建物全てを対象にして、自治体が保全や復原を行うのには限界があるのかもしれない。となると民間の側がもっと保存や復原に意欲的にならねばならないということ。最近では保全することで価値が向上することも多いので、それに投資する人や組織がもっと増えることが期待される。そしてまた、国や自治体が補助などでそれをサポートする仕組みを更に整備することが必要なのかもしれない。

 現地には既に新しい建物ができている。宿泊、飲食施設としては利益が出ているのだろうが、観光地としての集客力は鶴川座を復原する方が遙かにあったのではないかと思われる。建築系の立場から見ると、現在の建物には残念ながら全く訪問意欲が湧かない。銀行や投資家は、新築物件から資金を回収することだけを考えず、復原再生されたものに投資をする枠組みの可能性を前向きに検討すべきなのではないだろうか。

鶴川座の歴史 - kawagoetatumonzen ページ!
埼玉)サヨナラ 川越の「旧鶴川座」:朝日新聞デジタル
川越旧鶴川座の経過 - 全国町並み保存連盟

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天山旅館

2023-05-24 | 埼玉県  
天山旅館
所在地:川越市 西小仙波町1-12
構造・階数:木・2
解体年:2011〜15(平成23〜27)
Photo 2004.12.3

 川越名所の喜多院の西側には、かつて遊廓があった。現在は旅館や料亭が数軒ある静かな場所になっている。

 埼玉県では1928(昭和3)年に公娼廃止決議案が可決され、1930(昭和5)年には遊廓に自発的な廃業を求めたそうだ。以後それらは「乙種料理店(達磨屋)」というものになったが、その実態はあまり変わらなかったそうで、戦後の売春防止法施行まで営業が続いたという。
 その後それらの建物は、改修・転用して旅館や料亭となったり、普通の住宅やアパートになったようだ。現在では建て替えも進み、かつての面影はわずかでしかない。

 旅館の看板を掲げていたこの建物が、その乙種料理店(達磨屋)だったかどうかは確証がない。ただ板塀や門柱、玄関の唐破風の庇などにはそれらしい雰囲気が残されていた。外壁がモルタル塗りなのは戦後のどこかの時点で改修されたためではないだろうか。
 撮影時はまだ旅館として営業していたようだったが、いつのまにかなくなっていた。建物の消失と共に街の記憶も次第に薄れていく。

川越市西小仙波町・喜多院裏の遊郭跡 - 東京DEEP案内

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