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履歴稿 香川県編 第三の新居 7の2

2024-10-06 11:09:16 | 履歴稿
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履 歴 稿  紫 影子  

香川県編
 第三の新居 7の2
 
 新居の西に隣った家は、吉田さんと言って、主人は井戸堀作業の最中に可成り大きい石が頭上に落下して負傷をしたのが原因となって、私達が引越して来た直後に他界したのであったが、その後の家庭は、母親と娘4人の女世帯であった。
 
 吉田さんの家の長女は、未亡人となって出戻った人であったが、次女の人は高松市の女子師範を出て当時城けん小家校ママで教鞭を取って居た。
 
 そして三女が高等科の二年生、四女が尋常科の六年生と言った家族構成であった。
 
 併しである、主人を失った吉田さんの家庭では、次女の給料のみではささえきれないので、残りの四人の人達が、丸亀市の特産物として広く知られた竹細工であった団扇の骨作りを内職として生活をして居た。
 
 
 
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 吉田さんの家の人達は、揃って良い人達であったので、私は毎日のようにその吉田さんの家へ遊びに行ったものであった。
 
 私が吉田さんの家へ遊びに行くことを「仕事の邪魔になるから。」と言って、母が私をたしなめたものではあったが、日に一度は、吉田さんの家に行かずには居られなかったと言う私であった。
 
 そうした私が、吉田さんの家へ遊びに行くと、おばさんを始め、長女、三女、四女と言った四人の人達が、団扇の骨を作る手は休めなかったのだが、交代交代、とても面白い話を聞かせてくれたので、いくら母が厳しくたしなめても、私は、吉田さんの家へ遊びに行くことを止めなかった。
 
 吉田さんの家で作って居た団扇の骨作りは、あまり高い工賃ではなかったそうであったが、四季を通じて切れることが無いと言うことが魅力でやって居るんだと、おばさんは言って居た。
 
 
 
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 毎日のように遊びに行って居た私は、吉田さんの人達が、面白い話に笑い興じながら、二本三本と手際良く削って行く団扇の骨作りを、何時も傍で見て居たのだが、とても面白そうなので、「俺もやって見たいな。」と言ったことがあったのだが、その時、尋常科六年生の秀ちゃんと言う娘が、「そんならやって見な。」と言って、自分がやりかけて居た骨作りを私に削らしたが、尋常科二年生の私には、とても出来る仕事ではなかった。
 
 それは、そうしたことのあった日のことであったが、家に帰った私が、「今日吉田さんとこで、団扇の骨作りをやって見たけど、俺には、とうてい出来なかった。」と、母に愚痴ると、「そうか、お前には出来なくても吉田さんの皆が上手に出来るのだろう。お母さんも、どうせ昼は暇なんだから、やってみたいな。」と母が言ったので、「そう、お母さんもやって見たいの。
 
 そんなら俺、隣りのおばさんに頼んでくるわ。」と早速私は吉田さんの家へ飛んで行った。
 
 
 
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 吉田さんのおばさんと言う人は、当時50年輩の人であったように覚えて居るが、とても優しい人であった。また、姉さん姉さんと私が呼んでいた娘さん達も、揃って明朗な性格で親切な人達であった。
 
 私から仔細を聞いたおばさんは、「よっしゃ、よっしゃ。」と言って、早速問屋に手続をしてくれた。
 
 私の母は、その後吉田さんのおばさんの懇切な指導によって、立派に団扇の骨作りが出来るようになったが、その収益は全部私達兄弟の小遣銭になって居たようであった。
 
 この第三の家時代に、現在の私が、「その当時の俺は、大馬鹿野郎だったな。」と自分で自分を笑うような、馬鹿げたことをしでかしたことがあった。
 
 
 
 
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履歴稿 香川県編 第三の新居 7の1

2024-10-06 11:01:23 | 履歴稿
IMGR057-06

履 歴 稿    紫 影子  

 
香川県編
 第三の新居 7の1
 
 第三の新居に引越したのは、第二の家へ引越した年と同じ年の8月中のことであったと思う。
 当時私の通学をして居た城北尋常小学校の暑中休暇は、8月の1日から末日の31日までであったのだが、その暑中休暇中の引っ越しであったように私は記憶をして居る。
 
 引越しをするべく、荷物を取纒て居た午前中には、猛烈な夕立があったのだが、その夕立が止んだ昼下がりから、私の家は引越したのであった。
 
 私達の引越した第三の新居は、第二の家からは約1粁程の所に在った、そして第一の家とは指呼の間に在った。
 
 私達の住んだ土居町と言う所は、明治の維新前には武家屋敷の町であったらしく、第一第二と言った家も、そして第三の家も、共に揃って武士が住んだ家であったようであった。
 
 併し第三の新居は、その武家屋敷を改造した家であったので、その当時としては、近代味豊かな構造であったのを、私達は珍しがったものであった。
 
 
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 第三の家の軒続きの家は、嘗て私達が住んで居た第二の家と同じ構造の家々であった。
 
 したがって、その家々は、道路に面した表側には門を構えて居て、その門と隣の門の間は白壁の土塀によって繋がって居た。
 
 しかし、そうした武家屋敷の最東端の家を改築したものであったから、私達の新居には門は無かった。
 
 そして往年は町民達に誇ったであろう白壁の塀もなかった。
 
 したがって、古い時代の栄枯を物語りそうな土塀は私達の新居の西端につきて居た。
 
 第三の新居の構造は、玄関の土間は此処でも一坪しかなかったが、其処にはコンクリートを打ってあった。
 
 玄関の土間へ這入った正面は、白壁であって、その蔭にあった四畳間の境になって居た。
 
 
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 土間の右側の障子を開けると、其処が六畳間になって居て、その部屋の表に面した側には、外側は格子造りであったが一間の出窓があった。
 
 また、この家の座敷は八畳間であってその六畳間の左に<隣っ/rb>ママて居た。
 
 座敷の左隣りには、玄関の土間とは壁を境にした細長い四畳間があって、その四畳間の奥が台所、そしてその台所に勝手口が在って一坪の土間があった。
 
 そして座敷には縁側があって、その縁側から三坪程の地積が、若松や紅葉の植った庭になっていて、その後には板の外塀が廻らしてあった。
 
 私達のこの第三の新居と西隣の家とは、板の塀で仕切られて居て、その塀までの間隔は四米程であった。
 
 また、この新居の西端まで続いている白壁の土塀にあった三尺の切戸を這入ってから、四米程行った所であって、隣との板塀からは一米程離れたところに一本の棕櫚の木があって、その真下に露天の井戸があったのだが、その井戸も、第一、第二の家のそれと同じように、飲料不適の水であったので、私の家は此処でも有料の水を使った。
 
 
 
 
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