履 歴 稿 紫 影子
北海道似湾編
似湾沢 9の9
「お母さん、池田さんのおばさん何しに来たの。」と私が母に尋ねると、「浩治さんと同じようにあやまりに来たんだよ、そんなに気にすること無いのになぁ。好い人だからじっとして居れんのじゃろ。」と母が言って居る所へ、またおばさんがやって来た。
「奥さん、先程はどうもお邪魔しました。これ、ほんの少しですけど。」と言って、大きさが15糎位の揃ったヤマベを30尾程容れた台鍋を、応待に出た母へ差出した。
「まぁ、おばさん、折角浩治さんが苦労して釣って来たのにそれを私のとこでこんなに貰ったら、おばさんとこで食べるの無くなるでしょう。」と母がとんでも無いと言う表情で言うのを、「奥さん、私が帰ったらネ、浩治が義潔さんと義章さんの二人が持って帰ったヤマベが、たった十一尾しかなかったんだと言って居たから、俺選んで台鍋に容れたんだが、これ持って行ってあげてくれないかい。保は五十尾程持って帰ったと言うから良いが、義章さんのとこは十一尾じゃどうしようも無いからなあ。これ義章さんのとこへやっても、家には未だ八十尾程のこるから大丈夫だから持って行ってあげて、と言うもんだから持って来たのですよ、だから遠慮しないで取って下さいよ。」と言って、その台鍋を母に渡してから、「奥さん、ヤマベは天婦羅が1番上等の味ですよ、そしてその次が焼干にして煮つけるんですネ」と母に、料理の方法を教えて、池田さんのおばさんは帰って行った。
三十尾程と思って居た台鍋のヤマベは丁度五十尾あったが、私達兄弟の十一尾と、保君から貰った十尾を合わせると、都合七十一尾と言う大量の数になってしまった。
母は晩餐の副食にと、早速三十尾程を天婦羅に揚げたのだが、父母を始めて生れて以来ヤマベの天婦羅と言う物が始めであったので、家族が揃って舌鼓を打った。
それは私が昨日池田さんのおばさんが、ヤマベを持って来てくれた台鍋を返しに行った時のことであったが、「義章さん一寸来いよ、俺の魚籃を見せるから。」と浩治少年が呼んだので、私は彼の傍へ寄って行った、すると彼は、台所の片隅から空っぽいなって居た魚籃を持って来て、「俺の魚籃はなぁ、これ見ろよ口の所に網があるだろう、一尾釣る毎にこの網の口をこう開いて中へヤマベを入れたらこの紐をこう絞るんだ、するともうヤマベは外へ出ないのよ、だから昨日俺は釣ったヤマベを全部持って帰ったと言う訳よ。」と言ったが、成程彼の言うとおり、魚籃の中のヤマベは、その網の作用によって外へは絶対出られないようになって居た。
父は、一度味わった天婦羅の味が忘れられないと見えて、時折「義章、ヤマベ釣って来いよ。」と私に言いつけるので、兄や保君と行く日もあったが、似湾沢へ釣りに行くのは単独の日が多かった。
併し、いつも十間橋から下流へ釣りながら降ったので、嘗て怯えた熊の咆哮も、そして不気味な梟の啼声も、再び私は聞いたことが無かった。