備 忘 録"

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履歴稿 香川県編 土器川 5の5

2024-10-09 20:00:32 | 履歴稿
“IMGR060-09"
 
履 歴 稿  紫 影子
 
香川県編
 土器川 5の5
 
 イナと言う魚は、大体海に棲む魚だと私は父に教わって居たのだが、この二番凪と言う所が海に近かった関係で満潮時には海水が逆に這入て来て居た。
 
 したがって凪の水は若干塩辛くなって居た。
 
 そうした満潮時の海水に乗ったイナが、二番凪まで泳いで来ては、石垣の隙間に這入ったものであったらしいと、私は思って居る。
 
 少年の私達には、そうした海水の干満と言うことには、あまり関心が無かったので、その干潮と言う潮の時刻は判って居なかったのだが、いつものように海水に乗って来たイナが石垣の隙間へ這入ろうとして、その石垣の近くで、盛んに飛び跳ねるのを見ては、”ハッ、今が満潮時か”と私達少年は知ったものであった。
 
 
 
“IMGR060-08"
 
 そんなことは、その日が始めであって、また終わりでもあったのだが、とても愉快なことが一度あったが、それは或る日の満潮時のことであった。
 
 それが逆流をして来たその日の海水の関係であったものか、それとも石垣の近くを泳ぐ少年達の数が、あまりにも多かった関係であったのかも知れなかったが、イナの群来が石垣の方へは行かないで、反対側の岸へ集まって来たので、大騒ぎをしたことがあった。
 
 それは、私が脱いだ着物を岸辺の砂上へ置いて、「サァ、這入って泳ごうか」と、水際に立った時のことであったのだが、その水際の浅瀬に背を半分以上も水面へ出した魚の群が、ギコチ無い格好でピチャピチャと泳いで居るのを発見したので、「何だ、この魚は」と、早速手近の一尾を手摑にして見ると、それが、その大きさが20糎程のイナであった。
 
 「こりゃ、うまい物見付けたぞ」と宇頂天に喜んだ私は夢中になって次次と摑んでは、岸辺の砂上へ投げ上げた。
 
 
 
“IMGR060-10"
 
 その時岸辺には私以外の誰も居なかったので、一人ではどうにもならないと思った私は、10尾程を岸辺の砂上へ投げ上げると、両手に摑んだイナを頭上に振りかざして大声で、泳ぎに夢中になって居た兄を呼んだ。
 
 すると、私の声に振向いて、それと気付いた他の連中も兄共共に浅瀬に集まって来た。
 
 「オイ、沢山居るんだから逃げられんうちに、皆で早く摑んで岸へ投上げるんだ。そうして、あとで平均に分配をするんだ」と誰かが言うと、集まって居た一同が、「それっ」とばかりに摑んでは、我れ勝に岸へ投上げた。
 
 石垣で捕る時には蟹に手を俠まれたり、鰻に指を嚙まれたりして、2、3尾程度しか捕れなかったのだが、その日は皆が十尾以上のイナを持って帰る事が出来た。
 
 
 
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履歴稿 香川県編 土器川 5の4

2024-10-09 19:56:04 | 履歴稿
“IMGR060-04"
 
履 歴 稿  紫 影子
 
香川県編
 土器川 5の4
 
 それは、私が四年生の時であって、例年のように暑中休暇を祖父の許で過ごした或る日のことであったが、私が未だ幼稚園へ入園して居ない時に、父に連れられて上原家を訪れたことがあったが、その時祖父と共に暮らして居た父の末娘であって千代枝と言った叔母に連れられて、その小沢の辺で蕨狩をしたことを、不図思い出したので、「よし、蕨を取りに行こう」と、その小沢の辺へ一人で出かけたのであったが、確かに此の辺りであった筈と、熱心に捜し求めて歩いたのだが、8月と言えばとっくに蕨の季節が過ぎて居たので、嘗て叔母と来た時のような蕨は1本も見当たらなかった。
 
 併し、その時の私には蕨に関する季節感が全く無かったので、なおも其処、此処と熱心に蕨を捜し求めて歩き続けたものであった。
 
 そうした私の耳に、何処からともなく人の寝鼾のようなものが聞こえて来た。
 
 
 
“IMGR060-05"
 
 その時の私は、てっきり私と同じように蕨を取りに来た人が、昼寝をして居るんだなと思ったので、”それならば、蕨のある所を教えて貰おうとその鼾のする方向へ近づいていった。
 
ところがである。
 
 その鼾の主と言うのは、人では無くて頭に禿げがある大きな蛇がドグロを巻いて、そのドグロの上へ鎌首を乗せた寝姿であった。
 
 勿論私は一目散に逃げて帰ったのだが、この大きな蛇は、人畜には決して危害を加えない、と祖父は言って居た。
 
 
 
“IMGR060-06"
 
閑話休題。
 
 スッポンと大蛇の話で喧しかった一番凪から約10米程下流に二番凪と言う深みがあったが、この二番凪は子供達の水泳には一番無難な深みであって、スッポンも居なければ、主や大蛇も居なかった。
 
 併し、護岸の基礎に使ってある巨石が、水面から1米程の深みに70糎程噛み出て居たので、時折その石で負傷する者があった。
 
 私の兄も、そうした負傷者の内の1人であったのだが、その当時私達少年の間では、それを這込みと言って居たのだが、二番凪でその這込みをやろうとすれば、その高さが水面からは2米程ある石垣の上から先ず双方の手を上方へ真直に伸してから、腰を90度に屈めて頭から逆さになって水中へ飛び込むのであったが、その這込みが少年間でとても流行して居て、お互いにその形の優劣を競いあったものであった。
 
 
 
“IMGR060-07"
 
 次弟の義憲が負傷した箇所と同じように、頭を負傷したその日の兄は、水中に基礎の石が噛み出て居ると言うことは、充分意識をして居たものではあったが、飛び込む瞬間のバランスが何かの拍子で狂ったので、その噛み出て居る基礎の石に頭を打ちつけてしまったものであったが、その時の裂傷が、次弟と同じ所に同じ三日月形の傷痕が残って居るのを、後年の私が密かに見比べて、これを因縁とでも言うものかな、と思ったことがあった。
 
 そうした憂鬱な思い出の二番凪にも、今に忘れられない程にとても愉快なものが一つあった。
 
 その愉快な思い出と言うのは、二番凪に護岸をして在る石垣の隙間に手を突込んで、イナと言う、20糎程の大きさの魚を手掴にすることであった。
 
 
 
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履歴稿 香川県編 土器川 5の3

2024-10-09 19:52:09 | 履歴稿
“IMGR058-01"
 
履 歴 稿  紫 影子
 
香川県編
 土器川 5の3
 
 それは石垣の下部に洞窟があったことから想像をした人達の間に生まれた、単なる噂であったかも知れないが、その洞窟の中には大蛇が棲んで居て、真夏のよく晴れた日中には、時折その無気味な巨体を長長と水面に浮かべて日光浴をして居るところを見た人がある、と言う噂もあった。
 
 また、その鱗には苔が生えて居るとも言われて居たのだが、私は鯉ぞう凪の主と同様この大蛇もついぞ見たことが無かった。
 
 一番凪に、はたして大蛇が棲んで居たかどうかと言うことは判って居ないのだが、亀山城の竹籔にも棲んで居るという噂のある大蛇説であった。
 
 私は、そのいづれの大蛇も見て居ないので虚実については何も判って居ないのだが、香川県が温帯地方と言うよりも寧ろ亜熱帯的な気候風土の土地であるから、棲んで居ないと言う否定感よりも、或は亀山城にも、そして一番凪にも棲んで居たのかも知れないと言う肯定感のほうが強かった。
 
 
 
“IMGR058-24"
 
 と言うことは、それを大蛇と言える程度のものであったかどうかと言うことは判らないが、一度私が大蛇らしいものを実際に見たことがあったからであった。
 
 それは、土器川とは何の関係も無い話ではあるが、私は毎年学校が、夏・冬休みになると山内村へ別居をして居た祖父の住居へ兄と二人で行って、その休暇中の毎日を過ごしたものであった。
 
 祖父が寄寓をして居た生家の上原家は、国鉄の豫讃線に在る国分と言う小さな駅のプラットホームからは、直線一望の視界に在って、線路向の鉄道用地が岸になって居る堰の池と言う可成りに大きな池の向岸から畑地を7、80米程行った所を直線で東西に通って居る国道の向側に在った。
 
 そして、駅からの道は線路を渡って池の西端に在る土堤の細道を通って行くのであったが、その土堤を中程まで行った所に一本の老松があって、土地の人は其処を一本松と称して居た。
 
 やがてその細道が国道と十字路になって居る所へ出ると、其処を左へ曲って50米程行った所が上原家であった。
 
 
 
IMGR060-02
 
 上原家の構造は、私の生家と全く同じ構造の屋敷造りであった。
 
 上原家の正門は、国道の側とは反対の南向であったが、その門前から10米程行った所からが、小勾配の丘陵地帯になって居て其処に小沢の水を堰止めた周囲二粁程の小さな池があったが、水がいつも濁っているところから濁り池と呼ばれて居た。
 
 池の左側は松の木の生えた小丘陵であって、沢の水を堰止めた堤防は、その小丘陵から右へ百米程の半円を描いて、矢張り松の木の生えて居る赤土の小丘陵へ築かれて居た。
 
 wこの赤土の小丘陵を、池の岸に添って左へ五百米程行くと、其処に池の水源になって居る小沢が流れて居て、その附近には毎年蕨が良く生えた。
 
 
 
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履歴稿 香川県編 土器川 5の2

2024-10-09 19:47:32 | 履歴稿
IMGR128-15
 
履 歴 稿  紫 影子
 
香川県編
 土器川 5の2
 
 柳淵から西北へ斜に流れて居た五十米程の瀬は、鯉ぞう凪と言う深みに流れ込んで居たが、その鯉ぞう凪から川は、また南北へ直線の流れになって居た。
 
 そしてこの鯉ぞう凪の淵も石垣が施されて居て、その深みには鯉が沢山棲んで居た。
 
 その鯉がどれ程の数であったかと言うことは判って居ないのだが、私達が泳いで居る時に、その鯉が腹のあたりをすり抜けて、吃驚させることがしばしばあった。
 
 この鯉ぞう凪について私は、その深みにはとても大きい鯉が棲んで居て、時折水面に浮かび上がることがあるのだ、と言うことと、その鯉がこの淵の主なのだと言うことを聞かされて居たのだが、ついぞ一度もその主と言う鯉を見たことが無かった。
 
 
 
IMGR128-21
 
 鯉ぞう凪から其処までの距離が、どの位あったかと言う判然とした記憶は残って居ないのだが、外堀の水を海へ流して居る運河にかかった渡場の橋から東方へ直線に通って居て、渡場通りと呼ばれて居た道が、堤防の道へ出合った所の左角に、嘗て藩政の時代には、亀山城の城主や重役の人達が遊びに興じた所であったと言われて居た、玉川と言う可成り大きな構えの料亭があった。
 
 そしてその料亭の前の川岸から対岸まで打ちこんだ幾本かの並んだ杭の上へ、無造作に板を張った簡単な仮橋が架してあった。
 
 土器川の水深は、石垣の護岸を施してある深み以外が瀬になって居て、十歳位の子供の膝頭位しかなかったので、そうした簡単な仮橋でも対岸の土器村とは、充分往来することが出来た。
 
 
 
IMGR129-22
 
 そこは、この仮橋から約五十米程の下流であったが、一番凪と言って、土器川最大の深みがあった。
 
 その一番凪は、やはり石垣で護岸をされて居たが、その護岸の石垣は、水面からは一米程下であって水中に露出していた自然岩の上に築いたものであって、その露出した岩盤の下は奥深い洞窟になって居ると巷間の人達から言われて居た。
 
 また、この洞窟が瀬戸内海の深部に繋がって居るとも言われていた。
 
 この一番凪にはスッポンが棲んで居たので、私はこの凪で泳いだことが無かったのだが、「なぁに、スッポン位」と強がりを言って泳ぐ者も可成りあったのだが、そうした連中も内心は皆ビクビクしたそうであった。
 
 
 
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履歴稿 香川県編  土器川 5の1

2024-10-09 19:42:54 | 履歴稿
“IMGR057-25"
 
履 歴 稿  紫 影子
 
香川県編
 土器川 5の1
 
 土器川は、丸亀市に隣接して居た土器村(現在は、市に合併して土器町と呼んで居るらしい)の一部を対岸に、南から北へ流れて瀬戸内海へ落ちて居た。
 
 私は、第一の家に住んだ時代から此の川へは良く遊びに行ったものだが、私達子供が水泳ぎや、魚を釣って遊ぶ所は、土居の門の橋から東練兵場の横を通って居る直線の道が、川に突き当った対岸に、枝が深みを覗いて居る柳の老木が一本あって、其処を柳淵と言って居たのだが、その柳淵は勿論のこと、其処から下流にも幾つかある深みへ行くのであった。
 
 両岸の堤防は、その上がいづれも道路になって居て、岸に寄った側には所所に竹藪が在った。
 
 また、その反対側の路傍は、老松の松並木であった。
 
 
 
“IMGR128-01"
 
 柳淵は、約五十米程の区間が瀬になった上流からの水が突き当って、北西の下流へ斜に曲る所であって、その水が突き当る所には、石垣の護岸を施してあった。
 
 土器川の水が、いつも綺麗に澄んで居た水であったので、飲料水に適して居たものか、連隊では堤防の近くに設けてあった機会場から、この柳淵の水をポンプを使って鉄管で兵営へ送って居たようであった。
 
 また、この柳淵は、上流から流れて来た水が石垣に突き当たって下流へ曲がる所には、いつも大きな渦が巻いて居た。
 
 私達子供は、この柳淵の渦を恐れて誰も泳ごうとする者は無かったのだが、魚はその渦の附近で良く釣れた。
 
 この柳淵の渦巻では、連隊の兵隊さんが1人溺れて死んだことがあった。
 
 
 
“IMGR128-05"
 
 それは毎年のことであったが、夏の晴れた日に私達が、石垣の上から魚を釣って居ると、引率された兵隊さんが、良く洗濯に来て居たものであった。
 
 その時も、そうした兵隊さん達の或る日のことであったが、”此処は渦が危険だから”と言って必死に止める戦友達の声を聞かずに、その渦を巻いて居る附近で泳いだのだそうであったが、私は、その日柳淵へ行かなかったので、その兵隊さんが四国の何県の人であったかと言う事は判って居ないのだが、浜育ちの人であって、とても泳ぎの上手な人であったらしいのだが渦に巻き込まれて、戦友達が助け上げた時には既に溺れ死んで居た。
 
と私は友人達から聞かされて居る。
 
 
 
 
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