備 忘 録"

 何年か前の新聞記事 070110 など

履歴稿 北海道似湾編  椎茸狩り2の2

2024-10-17 21:04:52 | 履歴稿
IMGR074-03
 
履 歴 稿  紫 影子
 
北海道似湾編
 椎茸狩り2の2
 
 椎茸が沢山あるのは、主として此の急斜面であったが、其処には楢の木の風倒木と、地方の人達が薪を伐り出した残骸の捨木に芳香を放って黄褐色の椎茸が、無数に生えて居た。
 嬉嬉として生徒達が、楢の木の倒木から倒木へと椎茸を探し歩いて居るうちに、時は移って中春の陽が稍西へ傾きかけた頃、「皆集まれ」と、大声で叫んだ校長先生の集合の号令がかけられると、其処此処の熊笹を掻分けて全校生が集って来た。
 
 その時の私は、三十程しか取れなかったのだが、その三十程の椎茸を、「私は馴れない者だから、これだけしか取れなかった」と言って、校長先生に見せたのだが、その時の校長先生は、「お前はこんなこと始めてだから面白かっただろう。それでも随分取れたじゃないか、それだけ取れれば大成功だぞ、家へ帰ってからお母さんに見せたら、お母さん喜こぶぞ。」と言って朗かそうに、呵呵と笑って居たが、其処此処の熊笹を掻分けて、次次と校長先生の前へ集る生徒達が、それぞれ手頃の笹に十二、三個の椎茸を突刺して、多い者は十本以上を、そして少ない者でも七、八本をぶらさげて居たのには、「矢張り北海道の子供達は、俺等とは大分違うな。」と、大いに驚かされた私であった。
 
 
 
IMGR074-04
 
 併し、その時の私は、嘗てそれまでこうした原始その儘の容姿をした山へ登ったことも無ければ、椎茸と言う物を見たことも無かった私であったから、それが三十個程の収獲であっても得得として居た者であった。
 
 やがて私達生徒は、”青葉茂れる桜井の”と、南北朝時代の忠臣としてその名を称えられて居る楠公父子の袂別を歌った歌を、校長先生の声に合わせて、合唱しながら山を降ったのであった。
 山を降る時も、登る時と同じように、老樹の枝に小鳥の群が囀って居たが、二、三の老樹に栗鼠が枝から枝へ飛び跳ねる光景や、後足で立った前足で、きょとんとした恰好でお出お出をして居るように見えたのが、私にはとても珍しかった。
 私は、似湾と言う所に三年八ヶ月という歳月を過したのであったが、少年の時代であった私は、春秋の二期には必ずその山へ椎茸を取りに行った者であったが、次回からは二百個程の数ならば私にも容易に取れたものであった。
 


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履歴稿 北海道似湾編  椎茸狩り 2の1

2024-10-17 21:02:32 | 履歴稿
IMGR074-02
 
履 歴 稿  紫 影子
 
北海道似湾編
 椎茸狩り 2の1
 
 その日は、私が似湾の学校へ転校してから、あまり日数がたって居なかったと思っているが、全校の生徒が校長先生の引率で、その山裾が校庭の木柵まで延びて居る裏山へ、椎茸狩りに行ったことがあった。
 学校の周囲は、校門の両側から校庭と校舎を、清水の湧く裏の小沢の方面を除いた三方へ、高さが一米程あった木柵を巡らして在って、その南側は私の家から四十米程離れた所を東方へ直線に延びて居て、其処から校舎に併設されて居る校長住宅の横を台地の北端まで九十度の直角に曲って、直線に施設されて在った。
 
 
 
IMGR074-10
 
 私達生徒が、校長先生の引率で椎茸狩に行った裏山へは、校長住宅の玄関前を通って東に突当った所の木柵に、三尺の木戸があって、地方の人達が薪を搬出する通路になって居る所から登るのであったが、その木戸を出た所からは、道幅が狭い小路の両側が雑木の生い茂った原始林の緩い傾斜が三十米程続いて居て、其処からは幾度か曲って登る急斜面になって居た。
 山頂への路は、地方人達が薪を背負って搬出するために施設した小路であったから、路傍に生い茂る老木の根が所所に露出をして居たので、話に夢中になって足許に油断をすると、その露出した根に躓いて転倒する者もあったが、その老樹には、早春の陽を浴びて、私にはその名も知れぬ小鳥の群が、芽ぶくれた枝から枝へ囀づつていた。
 やがて、私達は山頂へ登り着いたのだが、峯の平坦な所は二十米程であって、其処からは東側に在った谷間へ降る急斜面になって居た。



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履歴稿 北海道似湾編  公立・似湾尋常小学校 2の2

2024-10-17 20:59:57 | 履歴稿
IMGR072-24
 
履 歴 稿  紫 影子
 
北海道似湾編
 公立・似湾尋常小学校 2の2
 
 私の席が在った教室は、「右向け前へ。」で這入ると、その正面が教壇であって、教壇に向かった右端の一列が六年生、その隣りが私達五年生の列、そして私達の左から二年、一年と言う順序に各一列と言う四列の机が配列されて在った。
 一つの机には、それぞれ二人づつが着席するようになって居て私は、五年生の列の最後部に、戸長(村長と同じ資格)の三男坊であって、高松獅郎と言う少年と同席することになった。
 校舎前の校庭は、生徒の数と比較して「随分広い運動場だなぁ」と、私を驚かす程に広かった。
 この校庭には、校門を這入った左側に鉄棒が在って、その鉄棒から三米程離れた所にブランコが、鉄棒と直角に設けてあったが、私が六年を卒業するまでには、私以外の生徒で鉄棒体操をする者は1人もいなかった。
 
 
 
IMGR073-24
 
 校舎の裏は、十米程行った所が台地の終端であって、その下を二米程の幅で小沢が流れて居た。そして台地からその小沢のある下へは、子供の私達が漸く1人通れる程度に細くて、斜面の勾配を緩めるために、幾度もくの字に曲って居る小路があった。
 そのくの字に曲った小路を降りきった所に、岩間から清水がコンコンと湧き出て居た。
 
 「この湧水はなぁ、俺達が作ったんだぜ。」と、15分間の休み時間に、燥ぎ過ぎて渇を覚えた私を、その湧水へ案内をしてくれた同級生の庄谷と言う少年が、清水を溜めるために埋めて在った、俗に九升樽と言って居た正油の空樽と、その樽へ清水を落す幅が十糎程の脚がついている板で作った桶、その桶が湧水の出る岩間に安定するように工作をしてあったのを指さして、これは誰、あそこは誰と一人一人の名を指して誇らしげにを教えてくれたが、この湧清水は、全校生の渇を潤す唯一の飲料水であって、春夏秋冬のいづれの季節にも実に美味かった。



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履歴稿 北海道似湾編  公立・ 似湾尋常小学校 2の1

2024-10-17 20:56:22 | 履歴稿
IMGR072-20
 
履 歴 稿  紫 影子
 
北海道似湾編
 公立・ 似湾尋常小学校 2の1
 
 新居で二夜を明かした私は、父に伴われて”公立似湾尋常小学校”と大書した門標の在る所から這入て当時は、只一人っきりの教員兼校長が居た職員室を訪れた。
 この日が、北海道へ移住をした私の、転校入学第一日と言う日であったのだが、父はそのことを、
一、明治45年4月18日、二男、公立似湾尋常小学校の、五年生として入学す。
と、記録して居る。
 
 学校は、私達の家から前の道路を右に曲って約百五十米程行った所に在った。
 
 私達の家が在る所を、生べつから似湾へ移る時に、そして駄馬を迎えに行った時にも越した、村境の峠を降った所からが平野になって居たので、此処は平坦地だなと思って居たのだが、その日学校へ行って始めて台地になって居ることが判った。
 
 それと言うのは、校門の前を右へ三米程行った所からの道が、約45度の傾斜になって居たからであった。
 
 
 
 
IMGR072-21
 
 学校は、東西に並んで教室が二つあった。そして玄関は南向きであって凸形に出ぱっていて、玄関を這入ると、其処が一坪の板を張った土間になって居て 左右の壁ぎわには、生徒の下駄箱が備えてあった。
 
 その玄関を上って硝子戸を開けた所から十五米程の所が廊下になって居て、その奥に便所があったのだが、その便所と廊下は硝子戸で仕切ってあった。
 
 毎朝、始業の鐘が、「カラン、カラン」と鳴ると、廊下の右側には三・四年生、そして左側に一・二・五・六年の生徒が二列横隊に整列をして、校長先生を待つことになって居た。
 
 やがて出席簿と教科書を持った校長先生が、職員室から出て来て玄関の土間から上った所の廊下中央に立つと、六年生の級長が、「気をつけ、礼」と言う修礼の号令をかけて、その修礼が終ると、「右左向け、前へ進め。」と言う、次の号令でそれぞれの席がある教室へ這入て行くのであった。
 
 この似湾の学校も、校長の住宅が校舎に併設されて在った、 併し生べつのそれとは異って、この学校には職員室があったので、住宅はその職員室の隣に併設されて居た。
 
 
 
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