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履歴稿 北海道似湾編  移 民 3の3

2024-10-12 19:45:55 | 履歴稿
IMGR069-13
 
履 歴 稿  紫 影子
 
北海道似湾編
 移 民 3の3
 
 岩見沢駅から、室蘭本線の列車に乗換えた私達は、終着駅室蘭との略中間に在る沼ノ端と言う駅に降りた。
 
 その当時の沼ノ端は、駅前に12、3戸の家屋が在ったに過ぎない田舎であったが、私達の行かんとする、「鵡川川」の流域地帯と、日高路へは鉄道施設の関係から、この沼ノ端が中継箇所になって居たので、直線に駅前から百米程行った所に、新井と言う旅館が一軒あった。
 
 沼ノ端駅で、長途の汽車旅行を終った私達は、この新井旅館に一泊した。
そしてその翌朝、私達の家族は丸亀市の第三の家時代に裏の家に住って居た、高橋と言う特務曹長の実兄で由佐喜太郎と言う人が居る鵡川村(現在は町政)の生べつ(現在は旭岡)と言う所を目標に出発したのであった。
 
 
 
IMGR069-17
 
 私達5人の家族は、旅館が仕立ててくれた荷馬車の上に筵を敷いて、転落防止のために、外枠を施した車上の人となって、その夜の宿泊予定地であった鵡川村の本村に向った。
 
 私達の故郷香川県では、こうした荷車は牛が索いて居たので、私達としては馬車と言う物に乗ったのは、この時が始めてであった。
 
 当時、北海道の郡部にある道と言う道は、凸凹がとても多かった。
そして馬車がその凸凹を越す都度、轍がゆさぶる震動に、私たちは閉口したものであった。
 
 沼ノ端から鵡川への道は、新井旅館の前から四粁程直線の道を行くと、其処に太平洋岸の漁村勇払があるのだが、現在では国策パルプの工場があって大変賑って居るが、当時は海岸に十戸程の漁師の家が点在して居るに過ぎないと言う寂しい田舎であったが、其処までの路傍が、左右共に雑木林になって居たので、私は其処から未開地の北海道らしさというものを、しみじみと感じたものであった。
 
 
 
IMGR069-18
 
 沼ノ端から勇払へ出た直線の道は、紙の都の苫小牧から、海岸線に添って遠く日高路に通じて居る国道と丁字路になって居て、私達はその国道を左に曲って鵡川へ向かったのであった。
 
 勇払と鵡川との中間に浜厚真と言う半農半漁の部落があったが、この部落も勇払と五十歩百歩の部落であった。
 私達を乗せた荷馬車は、その日の黄昏時に鵡川村本村の市街地に着いたのだが、その当時の、沼ノ端の新井旅館と連絡営業をして居たらしかった、布施という旅館へ私達は一泊をすることになった。
 
 鵡川村の本村と言う所は、市街地と言っても一粁程の所を日高路へ通じた国道の両側に、商店と一般人の家屋が建並んで居るにしか過ぎない所であった。
 
 勿論、市街地の中央部には、小学校、役場、郵便局、警察分署等の建物はあったが、それとてもあまり立派な建造物とは思えなかった。
 



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履歴稿 北海道似湾編  移 民 3の2

2024-10-12 19:38:49 | 履歴稿
IMGR069-03
 
履 歴 稿  紫 影子

北海道似湾編
 移民 3の2
 
 私達は、其処から黒潮の流れる津軽海峡を青函連絡船で、愈々北海道へ渡るのであったが、青森の港を出港して、海峡の中程を航行して居た連絡船の甲板から、「あそこに見えるのが北海道だぞ。」と、父が指さした彼方に、雪嶺の山脈を遥かに見た時に私は、この北海道移住と言うことが、容易ならぬ事情のもとに行われて居るような気がして、何か物悲しいものを感じた。
 
 函館に着いた日時については、私の記憶にないのだが、目的地への列車が夜行であったので、その時刻まで駅前通りの旅館で休憩することになった。
 
 旅館の2階に上った私達は、表通りに面した8畳間に案内されたのだが、私はすぐまた1人で表へ飛び出して、此処が北海道の入口の町かと、四辺を見廻した。
 
 駅前の通りは、駅から直線に百米程行った所が十字路になって居て、旅館はこの直線の中程の右側に在った。
 
 街路の幅は、丸亀のそれとは比較にならない程に広かったが、軒を並べた家の構造が、白壁の瓦葺では無くて、木造の柾葺であったことが、私には物珍しくもあり、また何か異国的な情緒を感じさせられた。
 
 
IMGR069-11
 
 旅館の右隣に蕎麦屋があったが、それまでの私は、蕎麦と言う物を一度も食べたことが無かった。
と言うことは、当時の香川県には、うどん屋と言う店はあったが、蕎麦屋と言うものが無かったので、或はうどん屋で蕎麦も売って居たのかも知れないが、私は蕎麦と言う物を知らなかったからであった。
 
 その蕎麦屋の、暖簾の蔭から街路へ流れ出る、香川県のうどん屋のそれとは異ったタレの匂いに、「よし、一杯食べてみよう」と、私は暖簾を潜ってその店に入った、そしてカケ蕎麦を一杯注文をした。
 
 生れて始めて食べた蕎麦は、実に美味かった。
 
 私は、その価格も聞かずに、二杯目を食べ終ってから、その一杯の値段が3銭だと言われて、とても周章た者であった。
と言うことは、その時私の持って居た小遣が、一枚の五銭白銅しか無かったからであった。
 
 私は、その五銭白銅を、注文の蕎麦を運んでくれた14・5歳位の少女の手に渡して、「今、これだけしか持って居ないのだが、隣の旅館に親達が居るから、今すぐ一銭貰ってくる。」と、私が言うのを耳にしたらしい店の主人が、格子で仕切った調理場から出て来て、「良いよ良いよ坊や、それだけにまけとくから。」と言ってから、讃岐弁の私のアクセントが変であったからであったろうが、「何処から来て、何処へ行くんだ。」と言うことを尋ねたので、「香川県から来て、生べつと言う所へ行くんだ。」と言うことを答えると、その主人が私の頭を撫でながら、「北海道と言う所は、とても寒い所だから、身体に気を付けるんだよ。」と、親切に言ってくれたのが、私にはとても嬉しかった。
 
 
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 蕎麦屋を出た私が、其処から右の十字路の方向を見ると、形は小さいのだが、電車らしい車が停車をして居たので、「ハハア、此処には電車があるんだなぁ。」と思って、その車へ歩み寄って見たのだが、その車は馬に索かれて居た。
併し、レールは電車のそれのように施設をされて居たので、“この車は、故障車だから馬に索かせて居るんだなぁ”と、思って見て居ると、その馬の馭者が、豆腐屋が吹くのと同じ喇叭を、「テート、テート」と、2、3声吹鳴して、10人程の客が乗って居たその車は発車をしたのだが、旅館へ帰ってからの私が、その光景を「今、あそこの十字路の所を右の方へ電車を馬が索いて行ったわ。」と言ったのを、寝そべって居た、兄に、「馬鹿だなぁ、それ、電車じゃないんだ、馬鉄というんだ、覚とけ。」と、威張られてしまった。
 
 併し、私が隣りの蕎麦屋で味わった蕎麦の味と主人との間で交した会話の一切を話すと、「ウム、蕎麦と言う物がそんなに美味かったか、よし、それなら俺も行ってくる。」と言って兄は飛び出して行ったのだが、しばしして帰って来た兄は、「ほんとに美味かったわ、俺も生れて始めてだが、丸亀ではこんな美味しいもん食べられんな。」と言って喜んで居た。
 
 私は、この函館の旅館で始めて鰊と言う魚を食べたのだが、その時、宿の女中さんが、「この魚は、北海道の味とまで言われて居る魚ですよ。」と言って居たが、その味に於いては定評のある瀬戸内海の魚を食べていた私には、お世辞にも美味しいとは言えなかった。
 
 
IMGR069-12
 
 やがて、夜行列車の時刻となったので、函館駅を出発した私達は、岩見沢の駅から室蘭本線に乗換えたのだが、函館から岩見沢までの途中に、それが何処であったかと言うことは判って居ないが、可成りの積雪があった路上を走って居る馬橇が窓外に見えたので、それもそうした光景を始めて見たという関係もあったのだが、家族の全員が、「面白いなぁ。」と、珍らしい物への興味と、感嘆を混えた奇声をあげて、周囲の乗客にどっと笑われたことがあったのだが、それは決して、周囲の人達が私達の家族を軽蔑した笑いでは無かったと、私は今に思っている。
その時のその人達は、それを言うならば、私達の家族が互いに交して居た会話と、馬橇に対する感嘆の奇声が、まる出しの讃岐弁であったことが、ついそうした笑いになったものと思って居る。
 
 

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履歴稿 北海道似湾編  移 民 3の1

2024-10-12 19:34:38 | 履歴稿
IMGR068-02
 
履 歴 稿  紫 影子
 
北海道似湾編
 移 民 3の1
 
 父母を始め私達兄弟が、移民となって北海道へ渡った日時を父はその履歴稿に、
 一、明治45年4月2日、午后7時、丸亀駅発、北海道移住
  のため渡道の途に上れり。
と、記録をしてあるが、此の時、北海道へ移住をしたのは、父母と兄、次弟に私と言う5人であって祖父は、父が渡道を秘密にしていた関係で、我々5人が渡道するということを知らなかったので生家に、その儘居残った。
 
 祖父を除いた私達の家族は、父の履歴稿にもあるように、明治45年4月2日の夕闇迫る午后の7時に、近隣の知己や親類の人達が、多数見送る丸亀駅のプラットホームをあとにして、一声の汽笛を残して発車をした。
車上の人となって、私たちの家族は、北海道移住のスタートを切ったのであった。
 
 
 
IMGR068-06
 
 その当時の私達兄弟は、兄が小学校の高等科を卒業、そして私が尋常科の四年を修業した年であって、次弟は5歳になっていた。
 
 その時の父母は、これまでの安易に過した生活態度を省みて、よしんば、家運再興と言う希望があったとしても、墳墓の地を捨てて遥々未知の北海道へ移住をすると言う現実に、さぞかし感無量のものがあろうと、現在の私は想像して居るのだが、当時の私は、そうした両親の煩悶には一向に無頓着であったから、長途の汽車旅行をするということが、寧ろ楽しいような心境であった。
 
 私達は、当然宇高航路によって本州へ渡る者であったから、高松駅に列車が到着すると、駅前の旅館で1泊をした。
そしてその翌朝、私たち親子5人は、連絡船上の人となって、高松港の岸壁を離れた。
 
 宇野港までは、風光の明媚なことで広く知られて居る瀬戸内海を、1時間程航行するのであったが、子供の私にはその明媚な風光を鑑賞するという詩情は未だなかったのではあったが、その波上に浮いて見える緑の島々の間を連絡しているらしい、小型汽船が黒煙を、恰も島と島とを繋ぐかのようにたな引かせていたことや、その魚類は何であるかは判らないが、波上に漁る小舟が数多漂って居たことが、今も私の印象に残って居る。
 
 宇野に着いてからの私達は、岡山までは、その当時香川県内を走って居たと同じ型式の小型客車に乗ったのだが、岡山の駅から北海道へ渡った最終の駅まで乗った列車の、機関車や客車が、とても比較にならない程に、大きかったことには、「ウム、大きいな。」と驚いたものであった。
 
 
 
IMGR068-10
 
 私達は、その後幾度か列車を乗換えたものであったが、幸いなことには、何時も家族が向い合えるように席が取れた。
 
 当時の両親には、家運を挽回するための渡道と言う、深刻な旅行であったのだから、次々と変る窓外の風景等には、何んの風情も感じなかっただろうと、現在の私は想像をして居るのだが、生れて始めて、長途の汽車旅行をする私には、恰もパノラマのように、次々と変る窓外の風景に、独り決哉を叫んで居た者であった。
 それは、車中泊第1日目の朝ぼらけのことであったが、“頭に雪を頂いて、富士は日本一の山”と、学校でよく歌った唱歌の富岳が、その端麗な山容を車窓に現わした時には、「あっ、富士山が見えた。」と思わず絶叫したものであった。
 
 その富士山は、相当長い区間を、窓外から私を喜ばしてくれた。
 
 
 
IMGR068-15
 
 車中泊も2日目ともなれば、とても疲れて嫌な感じであった。
 
 車中での次第は、何時も母の膝に抱かれて居たのだが、それは車中泊第二夜のことであった。
相も変らず母は次弟を膝に抱いて睡りに這入ったのであったが、未知数の前途に対する杞憂と現実の疲労が、床上に、膝の次弟が滑り落ちたのも知らずに睡っていた。
併し、父も兄も、そして私も深い睡りに這入って居たので誰も気付かなかったのだが、通路の向側に席を取って居た人が気付いて、「モシモシ」と声を掛けて母を揺り起してくれたので、父母と兄、そして私と言う4人の者が目を醒ましたのだが、その時の弟が、滑り落ちたまま床上で、未だスヤスヤと無心に睡って居たのが、滑稽だったので、思わず私は吹きだしたものであった。
 
 父母を始め私達兄弟も、あまりにも疲れたので、私達は大宮駅で途中下車をして、駅付近の旅館で1泊をした。
 
 私はこの大宮についての、これと言う思い出はないのだが、此処で家族全員の記念写真を撮ったことを覚えて居る。
 
 大宮を出発してからも私達には長い汽車の旅が続いたのだが、それから一夜の車中泊で、本州北端の青森駅に着いた。
 
 
 
 
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履歴稿 香川県編  屋 島 3の3

2024-10-12 13:16:45 | 履歴稿
IMGR067-10
 
履 歴 稿  紫 影子
 
香川県編
 屋 島 3の3
 
 また、壇の浦は源平合戦の昔、梶原景時と、須磨の浦で逆櫓の争いをしたと言う源義経が一の谷の戦に敗れて屋島へ落ちて行く平氏を追った時に、荒天の激しい風波に流されて平氏の拠った屋島超えて志度と言う所に上陸をしたのだが、却ってそれが幸運となって戦利を得たと言うことであったが、その時の平家方は、源氏の来襲は必ず此処からと言う作戦を立て、全船群を対岸の入江に待期させてあったそうであるが、潮流に流された義経の軍勢が志度から陸路奇襲をしたので、不意をつかれた平氏の軍は戦利を全く失って、長門の壇の浦へ敗走したと言うことであったが、史実に疎かった少年の私には、屋島の頂上から俯観する古戦場の眺望を只絶景だなと感じただけのものであった。
 
 その当時の屋島寺について私の記憶に残って居るものに寺内の雪の庭があるが、その庭は真白いろう石が、恰も積雪のように庭一面を小さな起伏で逼って居て、縁側に近い老梅からは四六時中ホーホケキョと鳴く鶯声が聞こえて居た。
 
 屋島寺に二泊をしたその翌朝、私達親子は山を降って丸亀に帰った。
 
 
 
IMGR067-20
 
 私が五年生になった新学期の4月2日には、私達親子が北海道へ旅立つことになって居たので、私は1日の始業式には出席をしなかった。
 
 それは、運送店の人達が5、6人で荷物を荷造って居る時のことであったが、始業式から の帰途を立寄ってくれた級友が、「先生がなぁ、学校休んだらいかん、言いよったぞ」と言ったので、「俺なぁ、もう城北へは行けんのだ。明日北海道と言う所へ行くんじゃからのう。明日学校へ行ったら、先生や皆によう言うといてつか」と伝言を頼んだのであったが、何とも言えない淋しさに涙が零れそうになったので、「さようなら」と言い捨てて私は奥へ駈け込んだ。
 
 その夜、寝床へ這入ってからも、「此の家で寝るのも今夜限りか」と思うと、それまで数回あった引越しとは違った感傷が、ひしひしと胸に迫って睡りにつくまで、蒲団の襟を噛んで密かに泣いたことを、時折思出しては感無量の私である。
 
 かくて、2日の夜私達親子は、近親知己の見送る丸亀の駅をあとに、汽笛一声、一路北海道へと、長途の旅路についたのであった。
 
 
 
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履歴稿 香川県編  屋 島 3の2

2024-10-12 13:13:40 | 履歴稿
IMGR066-02
 
履 歴 稿  紫 影子
 
香川県編
 屋 島 3の2
 
 私達親子は、その茶店で一休みしてから更に頂上への道を歩いたのであったが、その道道「あの茶店を食わずの梨の茶店と言うのは、弘法大師と言う傑僧が屋島寺を開山しようと此の道を登った時に、それが杣夫の住んで居た家であったのかも知れないが、その家の前に在った1本の梨の木に、梨の実が沢山熟して居たので、「私は、今朝から何も食べて居ないので餓じいから、あの木に実って居る梨を一つ恵んで欲しい」と、喜捨を懇請した時に、その家の主婦が、「この梨の実は、中が炭と同じてあって、とても人には食べられない」と言って喜捨をすることを拒んだそうであった。
 
 ところが「そうか。それでは仕方が無い」と言った弘法大師が立去った後のその梨の実は、主婦の言葉通りの中が炭と同じような梨になってしまって、とても人の口には食べられない実になってしまったと言う伝説があるのだが、その食わずの梨の木と言うのが、あの茶店の前にあるので、その木の名を店の名にしたのだ」と父は私達に教えてくれた。
 
 
 
IMGR066-16
 
 屋島寺の門前に桜の巨木があって、その木をカシヨウ桜と呼んで居た。
 そしてその花を塩漬けにした物を、門前の売店で売って居たが、それを振りかけたお茶漬の味が子供の私にも何か、特殊な風味を感じさせたことを私は今に覚えて居る。
 
 屋島に関した私の思出には、この外に獅子の霊岩と言う所と、源平合戦の古戦場として広く知られて居る壇の浦が残って居る。
 
 獅子の霊岩と言う所は、其処に何か獅子に似た物があったので、そう呼ばれて居たのでは無いかと思って居るのだが、私にはその名称以外に何も判って居ない。
 
 併し、一旦その岩頭に立てば、遙に霞む中国地方の山脈を背景に、その波上に点点と緑の島島を浮べた瀬戸内海を真白い真帆や片帆の船が右に左に行きかう風景と、俯観する高松市の全景、特にその夜景がとても素晴らしかった。
 
 
 
 
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