備 忘 録"

 何年か前の新聞記事 070110 など

履歴稿 香川県編  屋 島 3の1

2024-10-12 13:10:11 | 履歴稿
IMGR065-04
 
履 歴 稿  紫 影子
 
香川県編
 屋 島 3の1
 
 北海道に移住することを決意した父が、これが最後になるやも知れん思出にと、留守居に母と次弟を残して、兄と私と言う2人の子供を連れて、祖父の弟が院主をして居た屋島寺に行った。
 
 この時の屋島寺は、宝物の展覧会を開催して居たので、祖父は上原家の当主であった甥の右平叔父と共に手伝いに来て居た。
 
 祖父は、当時弟の院主が高松市の赤十字病院に入院をして、病気加療中であったので、寺全体の監督を兼ねた留守居役として、また、右平叔父は一般の観覧者に、宝物の一つ一つを説明する掛として、日日を過ごすのが2人の役割であった。
 
 私達親子は、屋島寺へ行くその前夜を山内村の上原家に過ごして、翌朝の早い列車で叔母と従妹の静子を加えた5人が、父の叔父である屋島寺の院主を赤十字病院に見舞ってから、叔母と従妹の静子は、山内村の自宅へ、そして私達親子は、当時既に屋島の山麓を通って居た電車に乗って、右と左に別れたのであった。
 
 
 
IMGR065-11
 
 現在では、山麓からケーブルカーの施設があるので、足の弱い婦女子にも容易に登頂が出来る屋島ではあるが、当時は未だ、昔の道中を髣髴させる駕が、唯一の登頂機関であった。
 併し、此の時の私達は、その駕には乗らずに徒歩で屋島を登ったのであった。
 
 私は、屋島寺の建立紀元については何も知って居ないのであるが、その建立をされた当時の仏教では、いづれも嶮岨な山嶽地帯を選んだのだそうであるが、徒歩による屋島の登頂には相当困難なものがあった。
 
 ともかく、私達親子は幾曲りにも曲って居る道を喘ぎ喘ぎ山頂へ登ったのであったが、その途中、中腹頃の所に茶店が一軒在ったのを覚えて居るが、その茶店の名を巷人が、“食わずの梨の茶店”と呼んで居るのだと、その時の父が教えてくれたことも今に覚えて居る。
 
 
 
 

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履歴稿 香川県編  第四の新居 3の3

2024-10-12 13:05:17 | 履歴稿
IMGR064-03
 
履 歴 稿  紫 影子
 
香川県編
 第四の新居 3の3
 
 私の家は、4月2日に丸亀市をあとに遠く離れた未知の北海道へ移住の旅路についたのだが、私の家が何故北海道へ移住をすることになったのかと言う動機は、それは第三の家に住まった時代のことであったが、横の小門から這入った私達の家の真裏に、6畳間2室に台所と言った小さな家が一軒在って、その家には丸亀12連隊の高橋と言う特務曹長が住まって居た。
 
 この高橋と言う特務曹長は、私の生家があった加茂村の神官をして居た由佐家の二男であったそうであったが、養子となって高橋の姓を名乗るようになった人であったと、後年の私が母から聞かされたことがあった。
 
 
IMGR064-18
 
 その日がいつであったかということについては、父の記録にも無いので、私には判って居ないのだが、その日の父が、税務署の勤めを終って帰宅をしたばかりの夕刻に、「私はお宅の裏の家で、始終お世話になって居る高橋の兄ですが、ご主人と一寸ご相談をしたいことがありまして、お伺いしました」と言って、鼻下に鬚をたくわえた人が訪れて来た。
 
 その人の姓名は、由佐喜太郎と言って由佐家の長男であったのだが、何か不都合なことをしでかして父親との折合が悪くなったので、北海道へ移住をしたのだ、と言うことであったが、教員不足に悩んで居た時代であったので、早速小学校の教員になって、現在では小学校の校長をして居る。と言うことであった。
 
 
IMGR064-22
 
 私の父は、愛想良くその人を座敷へ招じ入れて、やがて母の手になった酒肴に歓をつくして、2時間程の時を父と二人で快談をして、弟の住って居る裏の家へ帰って行ったのだが、その当時の私は、その人と父との間で、どのような会話が交わされたかと言うことは判らなかったのだが、北海道に移住をした後に、母が私に聞かせた話によると、「北海道と言う所は、とても住み良い所だから、御家も北海道へ移住をしなさい。そうして3年も頑張れば、必ず昔の御家に返り咲けますよ」と熾んに父を煽りたてたそうであった。
 
 そうした由佐と言う人の言葉に動かされた父が、「よし、北海道へ行けば家の再興が必ず出来るぞ」と言う夢を抱いたのが、私達を遥遥北海道に移住させた動機であったそうであった。
 
 
IMGR064-14
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履歴稿 香川県編  第四の新居 3の2

2024-10-12 13:01:57 | 履歴稿
“IMGR062-01"
 
履 歴 稿  紫 影子
 
香川県編
 第四の新居 3の2
 
 勝手口の角から、右に廻った家の真裏は外塀との間が10米程あって其処に、石榴の木が5本と橙の木が1本あった。
 そして石榴の木には直径が8糎程の実が沢山なって、やがて実の熟する頃ともなれば、外皮の1箇所が大きく裂けて、小粒でその味が甘酢っぱいような淡紅色の実が、その割目から覗いて居るのが、丁度鮭の筋子のように見えて、とても綺麗であった。
 
 また、橙の木が濃緑色の葉裏に、黄色い実をつけた時も美しかった。
 
 この橙の木の傍にポツンと私達子供の遊ぶ家が1軒建って居たが、その広さは六畳敷であって、前と左右の三方が雨戸になって居た。そして、床の高さが1米程あるのを正面と左右の三方から階段で這入るようになって居た。
 
 家の北側は外塀までが30米程畑地になって居て、其処には、母が野菜類を作って居た。
 
 
 
“IMGR062-02"
 
 第四の家時代の私の思い出としては、此の外に1人で良く土器川へ遊びに行ったことや、それは只一度きりのことであったが、土器八幡の祭典に1人で行ったこと、または此の第四の家から銭湯へ行くのには、第二の家の前を通って行くのであったから、其処から銭湯への途中に在る例の枝垂柳の在る屋敷の前を通る時に、嘗て幽霊を真似て1人の婦人を吃驚させた失態を時折思い出しては、「馬鹿げたことをしたもんだな」と反省をしたこと等があるのだが、その最も主たるものは、私が香川県で最後に住んだ家であったと言うことであった。
 
 それは尋常科四年生としての学業を優等の成績で卒業をした私が、欣喜雀躍として家に帰ったのだが、その時「ホォ、優等生か、義章、良かったなぁ」と喜んでくれる筈の母が、私から受け取った賞状と賞品を凝っと見つめて、溜息をついて居た。
 
 
 
“IMGR062-03"
 
 「お母さん、どうしたの。どこか悪いのと違う」と、私の母の顔を覗き込むと「いや、どこも何とも無い。でもなぁ、もうお前は城北の学校へは行けんようになったのだよ。そして4月になったら、皆が一緒に北海道と言う遠い所へ行くことになったのだよ」と母はしげしげ賞状と私の顔を見比べて居たが、その時の私には、北海道と言う所が何処に在るのか、どんな所なのかと言うことは全然判って居なかった。
 
 そして、なぜ北海道と言う遠い所へ行くようになったのかと言うことも判断をする力は無かったのだが、沈痛な面もちの母の表情から、私は家が何か容易ならぬ状態に置かれて居るんだな、と言うことが子供ながらも窺えた。
 
 
 
 
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履歴稿 香川県編  第四の新居 3の1

2024-10-12 11:44:43 | 履歴稿
“IMGR061-14"
 
履 歴 稿  紫 影子
 
香川県編
 第四の新居 3の1
 
 私が四年生になった春に、私達は第四の家に引越した。
 この第四の家は、嘗て私達が住んで居た第二の家から約50米程離れた所に在って、その第二の家から右に行き当った所に門を構えた東向きの家であった。
 
 門を這入った所の左側には亭亭とした五葉の松が1本あって、門から本屋までが、敷石伝いに5米程で玄関になって居た。
 
 また、玄関を這入ると其処は、1坪の土間になって居て、その右側に6畳間があった。
 そしてその奥が10畳間の座敷になって居て、父はその10畳間を居室にして居た。
 
 この家の座敷も、第一の家と同じ程度に凝った造作をしてあったが、築庭は縁側から外塀までが5米程しか無かったので、きわめて小規模な庭であった。
 
 
 
“IMGR061-15"
 
 玄関から上った6畳間の左隣が、同じ6畳の茶の間になって居て、その右隣の10畳間が、母や私達兄弟の部屋であった。
 
 また、この家も玄関の土間が一間幅で、そのまま勝手口へ通って居た。
 
 この家の炊事場は、この突き当たった土間に設けられて居たので、台所と称する部屋は別に設けて無かった。
 
 また、勝手口は土間を突当たった左側に在って、外塀との間隔は、ここも5米程しか無かったのだが、勝手口を出た塀ぎわには、無花果と渋柿の木が1本ずつ植って居て、その季節ごとにそれぞれ沢山の実をつけて居た。
 
 無花果が紫色に熟す頃になると、兄と私はそれぞれその実に、これは誰、これは俺と言うように目印をつけておいて、熟した順に自分の目印のついて居るのをもぎ取って食ったものだが、その独特の味が今も私の舌に残って居る。
 
 
 
IMGR061-21
 
 また、渋柿も沢山の実をつけるのだが、黄色に熟しても、渋くてとても食えなかった。
 
 併し、枝でブアブアに爛熟をした物は、とても美味かった。
 
 私達兄弟は、毎日のように柿が枝で爛熟するのを待って居たのだが、全部の実がそうなるのでは無くて、その数が、きわめて少数であったことと、烏がその爛熟するのをいつも狙って居たので、その烏に先を越されて、私達にはいくらも食べられなかった。
 
 
 
 
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