鬼ヅモ同好会第3支部・改「竹に雀」

鬼ヅモ同好会会員「めい」が気ままに旅して気ままにボヤきます。

本佐倉城リベンジ・第2章~Ⅵ・Ⅴ・Ⅳ・Ⅲ郭

2019-11-27 | 城郭【続日本100名城】


平 成 3 1 年 ( 2 0 1 9 年 ) 3 月 1 6 日 ( 土 )

午 後 1 時 4 6 分

千 葉 県 印 旛 郡 酒 々 井 町

本 佐 倉 城 東 山 馬 場 跡





本佐倉城登城のスタートは、東山馬場跡から。
手持ちのパンフレットが推奨する順序にしたがって、馬場を見下ろしている城山に上ってまいります。

さて、最初のポイントは・・・東光寺ビョウ???



東光寺ビョウは本佐倉城の郭のひとつで、田園の広がる城の北側にあります。
東山馬場からですと、山を隔てた向こう側。
京成大佐倉駅からの登城口に位置しています。

なんだぁ、結局前回と同じところから始まるんじゃねぇか・・・と思いながらも、東光寺ビョウに移動します。



千葉家の家紋月星(げっせい)の描かれた楯が並ぶ空間の脇に入り、



東山虎口から出て、





東光寺ビョウ



大佐倉駅側からの登城口に至りました。
ここから改めて本佐倉城の登城、スタート!




午 後 1 時 5 9 分

千 葉 県 佐 倉 市

本 佐 倉 城 東 光 寺 ビ ョ ウ




最初のポイント、東光寺ビョウです。
郭名の「東光寺ビョウ」は、江戸時代幕末の書物の表記をそのまま借用しているそうです。
しかしながら発掘調査はここに寺院の痕跡はなく、まったくもって謎のネーミングなのだとか。
酒々井町に東光寺というお寺はあるので、それに関係があるとは考えられますね。

ちなみにこの東光寺ビョウの領域だけは、佐倉市に属しています。



東光寺ビョウから城内へは、登城口がふたつあります。
そのひとつである南奥虎口
前回の七夕の日の登城で、私を戦慄させた「マムシ注意」の看板が立っているところです。
しかし今回登城したのはまだまだ冷える時季、草も繁っておらず、マムシも冬眠から覚めてもいないでしょう。

ただ今回の登城では、本佐倉城さんがやたら「イノシシ」推しをしてくることが気になります・・・。
こんなところにイノシシなんて出るのかなぁ~? とは思いながらも、内心ビクビクしながら・・・



もうひとつの登城口・東山虎口を上っていきます。
正確には、先ほど出た虎口を再入場するんですけどね。





東山虎口の入口。



かつては、この階段を上がった先に門柵が設けられていました。



門柵を通過しても狭い通路へ。
両サイドは崖になっており、とても狭く感じられます。



さらに、狭い通路内にもうひとつの門柵が設けられていたそうです。
そのためこの虎口は、あたかも枡形虎口のような構造になっていました。
外の門を突破されても内側の門で食い止めて、頭上から矢石で攻撃するという、堅い守りとなっていたんですね。



東山虎口を抜けて、楯の並ぶ空間が見えてきました。
このまま城の内部へとは急がず、



東山虎口と東山馬場を見下ろしている東山に上ると・・・



印旛沼にかけて広がっている田園が一望できます。
天気が良ければ、常陸国の秀峰・筑波山も見渡すことができます。
この日は残念ながら曇天で筑波嶺を見ることはできませんでしたが、ちょうど京成電車が成田空港へと急ぐ姿を拝見できました。



見晴台の南側。
楯の並ぶ空間が2段になっています。
画像右の高い空間はⅣ郭、低い空間は東山馬場です。

「Ⅳ郭」というネーミングは、城の内側から数えて4番目・・・くらいの意味でしょうか。
他の郭はその用途や名称が推定あるいは判明しているのに対し、Ⅳ郭は不明点が多いため、便宜上番号で呼ばれているようです。
ちなみに東山馬場は「Ⅴ郭」、



東光寺ビョウは「Ⅵ郭」です。



東山虎口を見下ろした画。
非常時はここから敵軍に矢を浴びせることになっていたのでしょう。



東山馬場に戻り、



Ⅳ郭に上ります。



通路はゆるやかながらも狭い上り坂。
そしてⅣ郭側には塀が築かれていて、



坂を上りきったところには城門が構えられていたようで、ここにも虎口Ⅳ郭虎口)が形成されていました。



Ⅳ郭から隣の倉跡(Ⅲ郭)にかけては、なだらかな斜面が広がります。
片隅には鎮守の杜がたたずんでおり、



城山への道も、Ⅳ郭から伸びています。



枝には梅の花、地には水仙の花が咲き誇っています。春ですねぇ~。



その先には、広い空間である倉跡へと続きますが・・・



まず脇にある鎮守の杜へ。





諏訪神社が鎮座しています。
ここで登城完遂を祈願しました。



静かな城に咲く梅の花。
ここは・・・ゆるキャラ・勝ったネ!くん・・・じゃなくて、城主・千葉勝胤が編纂したという『雲玉和歌集』からの一首を。

かすがなる 野べの一木の 梅が枝は
行きかふ袖や あらしなるらん

(春の日の野原に生える一本の梅の枝にとっては、その脇を行き交う人々の袖が立てる風であっても、嵐のようなものであろうな)




下総千葉氏桓武平氏をルーツとする下総の豪族で、著名な人物としては源頼朝の旗揚げに助勢した千葉常胤がいます。
常胤は頼朝に功を認められて下総守護に任じられ、「千葉介」を名乗りました。
千葉家の当主は、以降代々「千葉介」を名乗っていきます。

千葉勝胤は、本佐倉城を本拠とする下総国の戦国大名でした。

このころの千葉氏は下総国での勢力が揺らいでおり、永正14年(1517年)には足利義明が突如現れて小弓城を乗っ取ってしまいました。
小弓城は現在の京成おゆみ野駅の近くにあった城ですが、ここは千葉氏の重臣であった原氏が守っていました。
この乗っ取りのときにまだ若かった原虎胤は逃亡を余儀なくされ、甲斐国の武田信虎を頼り、後世に「夜叉美濃」「鬼美濃」と呼ばれ「甲陽五名臣」に挙げられる猛将に成長するのですが・・・それは別の話ですね。
小弓城を乗っ取って本拠地とした足利義明は「小弓公方」を名乗り、本流である「古河公方」足利成氏とも対立するようになりました。

武勇に優れ、足利氏の血を引くという権威も持ち合わせていた足利義明に対し、千葉家は苦戦を強いられていました。
享禄5年(1532年)に勝胤は亡くなりますが、小弓城の奪還は、天文7年(1538年)の第1次国府台合戦で足利義明が戦死した後のこととなります。



・・・千葉勝胤の事蹟をまとめるつもりだったのですが、小弓公方の記述の方が長くなってしまいました。
勝胤さん、あまり勝ってないんじゃ・・・?



本佐倉城の登城、東光寺ビョウのⅥ郭、東山馬場のⅤ郭、名も無いⅣ郭、倉跡のⅢ郭まで来ました。
郭のカウントダウン、Ⅱ郭とⅠ郭は次回にて。






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