「男カップッチッリ」を「漢カップッチッリ」としました。
「漢」は「男」という意味でもあります。それも最上級の!
オバマに当然なんだけれどがっかり、仕方のないことでしょうけれど・・・。
ところでこの前の「オバマとイスラエル」で少し書いたワーグナーのことですが。
ワーグナーの怖さは「ひとつの価値観」なのです。
俗世間から離れながら最も俗っぽいものに浸る、どうも「生産的」でないのですねえ。(ごめんなさい、ワーグナーファンのかた、一方的解釈です。ワーグナーの音楽にひかれながら、背を向けてきた理由です。)
ヴェルディが若い頃、祖国統一運動をオペラに反映していましたが、後年は「ドン・カルロ」やその頃に書きなおした「シモン・ボッカネグラ」では、狭い範囲を越えて平和への理想を掲げているように思えます。
「ドン・カルロ」はシラーの戯曲であり、ヴェルディがオペラ化したものですが、普遍的な視野が根底にあり、その中でポーザ侯ロドリーゴは、スペイン国王フィリッポ二世の他国への侵略・干渉を「墓場の平和」と、人々の苦難を訴えます。国王も背後にローマ・カソリックという大きな存在に動かざるを得ない苦悩がありました。
この場面を歌うカップッチッリは、「漢」そのものです。また、孤独な王フィリッポの心を感じ取ります。
ひとりの政治家だけでは何も動かない、背後にある大きな歴史的なもの、それがイスラエルであり、またパレスチナでもある・・・かつてヴェルディの若いころはそれをオペラに書いていましたが・・・彼は「祖国統一運動」から「ひとつの価値観ではない世界観」と変わっていきます。
このようなヴェルディ自身の声とも考えられるロドリーゴやシモンを歌うカップッチッリの魅力、フーレン様(私に漢詩と日本画をそれとなく紹介して下さった才女)は「男カップッチッリ」と称賛されたのですが、「漢カップッチッリ」として納得して下さると思います。いぶし銀の魅力、カップッチッリは私のオペラ観を変えてしまったバリトンでした。

「漢」は「男」という意味でもあります。それも最上級の!
オバマに当然なんだけれどがっかり、仕方のないことでしょうけれど・・・。
ところでこの前の「オバマとイスラエル」で少し書いたワーグナーのことですが。
ワーグナーの怖さは「ひとつの価値観」なのです。
俗世間から離れながら最も俗っぽいものに浸る、どうも「生産的」でないのですねえ。(ごめんなさい、ワーグナーファンのかた、一方的解釈です。ワーグナーの音楽にひかれながら、背を向けてきた理由です。)
ヴェルディが若い頃、祖国統一運動をオペラに反映していましたが、後年は「ドン・カルロ」やその頃に書きなおした「シモン・ボッカネグラ」では、狭い範囲を越えて平和への理想を掲げているように思えます。
「ドン・カルロ」はシラーの戯曲であり、ヴェルディがオペラ化したものですが、普遍的な視野が根底にあり、その中でポーザ侯ロドリーゴは、スペイン国王フィリッポ二世の他国への侵略・干渉を「墓場の平和」と、人々の苦難を訴えます。国王も背後にローマ・カソリックという大きな存在に動かざるを得ない苦悩がありました。
この場面を歌うカップッチッリは、「漢」そのものです。また、孤独な王フィリッポの心を感じ取ります。
ひとりの政治家だけでは何も動かない、背後にある大きな歴史的なもの、それがイスラエルであり、またパレスチナでもある・・・かつてヴェルディの若いころはそれをオペラに書いていましたが・・・彼は「祖国統一運動」から「ひとつの価値観ではない世界観」と変わっていきます。
このようなヴェルディ自身の声とも考えられるロドリーゴやシモンを歌うカップッチッリの魅力、フーレン様(私に漢詩と日本画をそれとなく紹介して下さった才女)は「男カップッチッリ」と称賛されたのですが、「漢カップッチッリ」として納得して下さると思います。いぶし銀の魅力、カップッチッリは私のオペラ観を変えてしまったバリトンでした。


