井財野は今

昔、ベルギーにウジェーヌ・イザイというヴァイオリニスト作曲家がいました。(英語読みでユージン・イザイ)それが語源です。

新作の発表会

2016-01-11 11:07:00 | 音楽
たまたま、ある要件がキャンセルになったおかげで、行くことができた新作発表会。現代音楽の演奏会、とも言う。正確には新作だけではないから、こちらの表現が的確。

と言っても、一時の「前衛音楽」大流行の頃とは違い、多少は聞きやすい音楽になっている…と言えるかどうかは、作品と聴衆次第。

あくまでも、私が聞いた音楽を私はそのように受け取っただけである。

主催者の努力の甲斐あって、会場はほぼ一杯に埋まっていた。響きの良い会場でもあったので、どの曲もそれなりの拍手があり、雰囲気としては大成功だったと思う。雰囲気、と表現したが、これは重要な要素、主催者の力量を見た思いがする。

その上で、の話。

私個人としては、あまり充実しなかったのが正直なところなのだ。

作品そのものは、かなり興味を惹いた。それだけに、演奏者の弱点を随所で感じる結果になってしまった。

簡単に述べると、演奏者が曲をわかっていないのがわかってしまう演奏が多かったのである。

これが「悪いことだ」と素直には言えない事情があることも、よく知っている。

作曲者側は、とにかく音にしてくれるだけで感謝しなければ、と思うものだ。内容のことは作曲者が演奏者に丁寧に説明、指導をすれば何とかなるはずだ、と思うのは至極当然。

ところが今回、作曲者がすでに世を去っているものもあった。こうなると、クラシック音楽と同じである。

それで、これはちょっと聴いていられない、という瞬間が私には生じてしまった。

現代音楽は、ただでさえ敬遠されがちなので、それにとても興味を持ってくれる演奏家は、作曲家にとって大変ありがたい存在だし、そういう人に演奏を頼みたいと思う。多少技量に問題を感じたとしても。

ただ、その演奏家が、曲の良さを伝えきれなかったらどうなのだろうか。かえって損をしていはしないだろうか。

私も現代音楽の演奏会を時々企画するからよくわかるのだが、作曲者側は経済的にもかなり負担が大きいのが常なので、演奏者の経費を削れるならそれに越したことはないと思うものだ。
私でもそうする。

が、私の場合は、他の演奏者の力が及ばない部分を私がカバーすることで、聴衆には経費削減が目立たないようにすることができるからである。

なので、そういうことができない場合は、基本的に演奏者の経費を削っては最終的に損失が大きいのではないか、と思うのである。

その昔、齋藤秀雄先生の講義で「作曲コンクールで自分が演奏した曲は必ず入賞する。なぜなら私はその曲を分かって演奏したから。」という言葉があった。けだし名言だと思う。

「演奏者をケチってはいけない」実は井財野も田中千香士先生から注意されたことだ。

よって、これは自戒の念から出ている言葉でもある。

今月23日には、他人の新作の初演を宮崎でする。これが超難曲で、まだ弾けない。ついで?に井財野も新作を発表する。これがまだ完成していない。急がなければ。