井財野は今

昔、ベルギーにウジェーヌ・イザイというヴァイオリニスト作曲家がいました。(英語読みでユージン・イザイ)それが語源です。

続・「感動」の定量評価

2011-11-11 00:37:31 | 学問

続き・・・

 「感動」という現象は脳が感じていることは間違いありません。

良かった、そのくらいは何とかわかる。

「fMR I」(ファンクショナルMRI)でも使えば、どこが興奮しているかは3次元的に場所を同定できるかもしれません。

また「トポグラフィ」を使えば酸素の供給量から興奮している領域が分かります。(しかし脳表面の情報ですね。)

「脳波」も同じくマッピングという方法によって脳の表面の電位分布から興奮領域が分かります。(脳の表面に脳細胞の多くと重要な中枢機能がありますので、音楽による興奮のような高次機能の計測であれば表面の情報で十分なのかもしれません。)

いろいろあるんですねえ。

 またこれらの脳の機能によって我々は間接的な変化を引き起こします。涙を流す、興奮する、汗をかく、瞳孔が散瞳する、口が渇く、血圧が上昇する、心拍数が上昇するなどです。
これらの現象は交感神経とホルモンの変化などで説明がつけられます。

さあ段々難しくなったぞ。

現在はそれを応用して皮膚の抵抗変化から「ポリグラフ:嘘発見器」に応用されたり、唾液アミラーゼをストレスセンサにしたりとしているわけです。このような間接的情報を組み合わせて工業製品や医療機械が作られています。

しかしこれらは間接的であるだけではなく、マルチファクトの情報によって変化しますので、どれによるものかが分からない状況です。ですから複数を組み合わせることにより、真値を推定する作業が計算(主に多変量解析の手法を使 います)によってなされており定量評価できるようになっています。ここでこの計算方法が ブラックボックスになっているので、さらに計測結果に信頼性が欠けます。(これが現状なので眉唾が多い分野ですが、計測が出来るという宣伝が一人歩きして困っています。)ですからより客観性の高いサーモグラフなどのような体の表面温度計測などが良いとおもいますが、検出感度に問題ありです。

十回くらい読んで、ようやく理解したかな?

つまり、心拍数が上がったのは、感動のためなのか、隣に座った人を見て上がったのか、それだけではわからない。涙がでたのも、感動のためなのか、ゴミのためなのか、それだけではわからない。いろいろ組み合わせてみると、これが「感動」のために起きた変化と推定できるだろう、という訳か。その組み合わせる計算が「多変量解析」、ですか?

でも、これが「ブラックボックス」?

血圧と心拍数と発汗量の比率は5:4:3か、いや1:1:1だろう、とんでもない7:9:2だ、みたいな話かな?もしそうだとすると、ここまでいかにも本格的に計測しようと、例の「主観」がはいってきて、大した意味がなくなってしまうってことか?

 また私も音楽をよく聴くのですが、私は素人ですので主にリラックスとながら仕事のために聞いています。ですから交感神経系ではなく副交感神経系を興奮させる目的なのかもしれません。音楽はどちらの作用を引き起こすかは、環境や状況、または専門性のレベルで違うのかもしれませんね。

もはや講義のレベル。先生、「交感神経系」と「副交感神経系」って何でしたっけ?

感動している時、交感か副交感かどちらの作用が強いかで、間接的計測結果は変わると思います。また脳の働いている領域も、同じ感動でも左脳 (論理的思考)が強く働く人と右脳(感性)が強く働く人がいらしゃると思います。音楽のコンクールで評価するする立場の人は意外と左脳が働いているのかもしれませんね。(私のよ うに数学を感覚で解く人間は、何をしていても左脳は寝たきり状態かもしれません。)

ちょうど学生時代、大脳は右と左で役割が違うようだ、というのが巷の話題になったものだ。その頃、作曲科の同級生と「ぼくらは左脳で音楽を聴いているよね?」などと言ったこともあったっけ。でも、本当にそうなのか、誰も知らないだろう。どちらであろうと何の影響もなさそうだし。

左脳は寝たきりとは、またご謙遜を・・・。

先生の講義はさらに続く。




「感動」の定量評価

2011-11-08 23:38:01 | 学問

中学校の同級生で、長年音信不通だったけれど、忘れられない人物がいる。忘れられないのは、(多分高校生時代)ある年の年賀状に書いてあった一文。

夜も寝ずに昼間は寝てがんばっちょります。

でも本当に頑張ったようで、東京工業大学に合格し、大学生の時分に何回か会ったことがある。そして彼のがんばりはそこで終わらず、その後に大阪大学の医学部に行ってしまった。

以来、昼間寝て夜頑張る人というのは大したものだと思うようになったのである。

その後、どうしているのか全くわからなかったのだが、インターネット時代というのはすごいものだ、ある時思いついて検索をかけてみたら、しっかり浮かび上がってくるではないか。大阪の私立大学で研究者になっていた。機械をいろいろ扱う医師(?)とでも表現するのだろうか、とにかく今までの人生を全く無駄にしていない立派な肩書に圧倒されたのだった。

それで四半世紀ぶりに連絡をとった次第である。

その彼ならば、という期待をこめて、積年の思いをぶつけてみた。

曰く、音楽の世界の評価は、コンクールであれ試験であれ、どれだけ客観性を装っても主観が入ってくる。世界中がそうなので、別にとやかく言わなくても良いかもしれないが、問題が起きていないかと言うと、問題は常に起きていて、それを「仕方ないこと」と割り切っている。

そこで時々考えるのは、人間の「感動」を数値化できないものか、ということ。音楽は、聴いている人が感動することを目的にしているので、本来は感動が大きい演奏が優れた演奏のはずだからだ。

雑駁に「感動」と言っているけれど、具体的には大脳のどこかが、何かしらの反応を見せているということなのだと思う。そして、その電流か波形か何かの大きさや種類で判断できるのではないかと思うのだけれど、これは医学の世界だろうから、我々音楽人には立ち入れない部分だ。それで、ずっとその辺に関心のありそうなお医者さんはいないものかと思っ ていた。

そして、やっとそれをきけそうな相手に巡り合えた、という訳。

などと書いてE-mailを送った。

すると、その何倍もの分量の返事が返ってきたのである。まさに私は「感動」してしまった。その内容にも感嘆したので、これを公表してもいいか再びメールした。

今度は無反応。多分OKと解釈し、以下に紹介するものである。

冠省 なるほど我々が感じている以上に問題はあるのですね。しかし感動の定量評価ですか。
大きなテーマですね。大学でやるには良いテーマかもしれませんね。

まあ、儲からないから大学で、ということも考えられるが、先ずは良い感触だ。「定量評価」と言うのですね・・・。

 今現在で御期待にそえる機械や研究はないと思います。

やっぱり・・・。

感性工学などいうものがありますが、私は信用していません。まやかしに近いものが多いと思います。こんな研究をしている人たちの、ほとんどの人たちが生理学を知りません。大脳生理学に至っては私もよく知りません。それほど複雑でとらえどころのない分野ですから、最先端は実際に脳の実験をしている人たちでないと出来ないと思います。

おお、なかなか辛辣。

脳科学で盛り上がっているのも記憶のメカニズムや視覚情報、嗅覚、聴覚の情報分析のメカニズムの研究が大半のようです。ようやく痛みや触覚などの研究が臨床の一部にフィードバックされています。高血圧や心臓弁膜症で遺伝子が変化することや、環境によって遺伝子が変わる(遺伝情報にはDNA以外の要因もあるようです)ことを、まだ知らない臨床医も多いと思います。ですから一般の医者に脳の最新研究での知見を聞いても、ほとんど答えられないでしょう。さらに現在のところ感動の定量化をテーマに研究している人たちも少ないと思います。

さあ、段々話が難しくなった。続きはまた次回。





うさぎ美味しい

2011-11-06 08:48:53 | 日記・エッセイ・コラム

日本人の好きな歌に「ふるさと」というのがある、とTVで紹介されていた。

本当か?と一旦思った。

音楽教育関係者の間では、これは日本語の歌としてかなり厄介だという定評がある。

それはタイトルに挙げた通り、「うさぎ追いし」が、どうやっても「うさぎ美味しい」にしか聞こえないからである。

20年ほど前に、エルンスト・ヘフリガーが日本歌曲をドイツ語訳で歌うということをやっていた。ヘフリガーと言えばバッハのエヴァンゲリストとして第一人者だった。それがまたなぜ?という驚きと疑問はさておき、その中にこの「ふるさと」も含まれていた。

その演奏は、日本人からは考えられない快調なテンポ、そしてシューベルトなどを想起させる完全にドイツ歌曲だった。

そう、この曲は音楽的には全く日本的でないのだ。

リズムだけ見れば、イギリス国歌「God Save the Queen」とよく似ている。

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YouTube: God Save The Queen - British National Anthem

なぜ、こんな西洋もどきが愛されているのか?日本にふるさとを歌う歌がほかになかったからか?

そんなことはない。例えば五木ひろしの「ふるさと」

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YouTube: ふるさと 五木ひろし

こちらの方が断然日本的である。良い歌だと思うのだが、なぜか高野=岡野作の「ふるさと」に歯が立たない。

歌詞の内容から考えても、腑に落ちない。現在の日本人のどれだけがウサギを追った経験があるのだろうか?

筆者の親の世代くらいまではその経験があることをかろうじて知っている。

筆者の出身高(長崎N高校)の30年史というのが手もとにある。たまたま創立30年(1978年)の時在籍していたから買ったのだったと思う。そこに、姿を全く消してしまった学校行事として「うさぎ狩り」というのが載っている。それによると「うさぎ狩り」は旧制中学の伝統行事だったという。

この「うさぎ狩り」は、二学期末の期末考査終了を時期とし、コシキ岩山頂で行われた。冬の寒い中ではあるが、一年生、二年生にとっては、試験後の気晴らしとしてレクレーション活動、あるいはエネルギー発散として、また三年生にとっては、三学期にそなえ大学入試などを目指すための体力と気力への挑戦の一環として、非常に意義ある伝統行事だった。

早朝からコシキ岩に網を仕掛けに行き、生徒、職員一丸となって列をつくり、手には木切れなどを持ち、草むらを叩きながら、うさぎを追い込むという、現代生活では体験できぬ、極めて原始的な狩りであった。

そして、7年間という短期間で廃止される。廃止については生徒、職員とも賛否両論だったという。そして昭和37年の職員会議で廃止が決定される。その理由としては、

うさぎ狩り自体が近代的スポーツではなく、若者のエネルギーを発散させるには何か他にあるのではないか。女子生徒には不適当ではないか。獲物であるうさぎが年々減少している。早朝から網を仕掛けに行くことは、時間的・体力的に問題があるのではないか。こういった理由の上に早水先生の退職が廃止を決定的なものにした。

ついでに、50年史というのも持っている(創立50年にはお呼ばれしたので、これを頂いた。音楽屋さんは何かにつけ引っ張り出される)。この20年間に世界が変わったことも、記述から読み取れる。

環境問題が国際的重要課題として取り挙げられ、動物愛護が当然となった現代では、こうした「うさぎ狩り」というような行事が実際行われていたということ自体、現在では信じられないことかもしれない。ただ、物質的に満たされた飽食の時代といわれる現在の日本にも、かつては山の木の実をおやつとして採り、鳥やうさぎなど小動物を捕えて食事の助けとするような時代があったことは事実である。「うさぎ狩り」という行事も、昔はこうした質素な生活の助けとして生まれたものだったかもしれない。

これから10年以上たった今、飽食の時代とも言われなくなった。うさぎを追ったのはもはや伝説である。そして、歌だけが残った。それでも、この歌詞に郷愁を感じるものなのだろうか?

それからしばらくして(2004年)、今度は同高の在京同窓会に引っ張り出された。ヴァイオリンを弾けとのことなのだが、最後の曲は「ふるさと」にしてほしいという注文だった。やれやれ。まあ、本当にうさぎ狩りをやった世代も含まれているから良しとするしかないか、と自分を納得させるしかなかった。