角田光代
『わたしの容れもの』★
過去ザ・インタビューで、
「何も降りてこないし 登場人物は誰も動かない」
って言ってて(苦笑)
これだけの作品があるんだから動いているのかと。
『ツリーハウス』を挫折してから何のチェックもしていなかった。
とりあえず今の新刊
それにしても変わらず結構な作品が続々出ている。
『チーズと塩と豆と』
『今日もごちそうさまでした』
『私のなかの彼女』
『平凡』
『笹の舟で海を渡る』
『今日も一日きみを見てた』
『おまえじゃなきゃだめなんだ』
『100万分の1回のねこ』
『空の拳』
『坂の途中の家』
『拳の先』
きゃー
お仕事し過ぎじゃなぃ
読んでいて身につまされた。。
あぁ歳にはかなわない。
そうでしょう?
なんでもかんでも加齢のせいか?って。
「内なる勘」
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変化はゆるやかに起きている。その変化を認めたくない場合もあるだろう、年齢と結びつけて考えられないときも、きっとある。それほど、「私」の年齢の重ね方と「私の容れもの」の使用年数のあいだには、ギャップがあると最近身をもってわかった。私自身の意識としては、そんなに古びていないのに、容れものは勝手に軽々と年数を受け入れていくのである。
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疎遠になることは、ふつうのことだと思っている。環境や趣味や立場が異なれば、共有することもなくなる。そして異なっていくのが、あたりまえのことだ。不思議なのは、続くこと。なんでこの人と三十年もいっしょに飲んでいるんだろう?とか、なんでこの人と、数年に一度しか会わないのに、それでも会い続けているんだろう?とか、考えても、よくわからないのだが、でもその「不変の何かの類似説」をここに持ってくると、私は納得できるようにも思う。類は友を呼ぶの「類」は、性質や環境ではなくて、もっともっと深い何かなのだ、きっと。
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まさに今、私は自分の手の甲を見て「老いはこんなにも正直に手にあらわれるのか」とぎょっとしているのである。
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二日酔いには「ハイチオールC」
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更年期はいつくるかとくり返し書いている。
あまりに恐怖するために、いっそ早くくればいいのにさえ思っているのである。
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「いつまでも若いと思っていたら大まちがいだよ」
古閑美保が木戸愛に言った一言が、ちょうどこの本とマッチしていて笑えた。
あと一年