司馬遼太郎
【ワイド版】
『街道をゆく 11 備前の諸街道』★★★+
http://publications.asahi.com/kaidou/11/index.shtml
備前・・・はて?
備前焼しか浮かばない。
それも10の羽州街道、佐渡のみちを飛ばして読んでしまい微妙な気分
(そういうところがへんな神経質)
また今回も歴史っておもしろいなと思わせる内容だった。
通勤の20分×往復で毎日身になっている40分
片道2時間の人なんてどれだけ勉強になるだろう(な~んて(笑))
先日うっかりなのか本を忘れた時は快速にあえて乗りぎゅうぎゅうに納得し、
我慢できず帰りBOOK-OFF♪に寄ったら掘り出し物に出逢った(こういうこともある)
うん。だからおもしろい。
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樹々のなかで、樹ぜんたいが煙ったように芽を吹きだしているのがある。あれは何でしょう、と伺うと、「楓です」と、平凡な名がかえってきた。そういう樹でも、全体の風趣の中で芽吹いていると、なにかふしぎな樹のように思えてくるのである。
「楓は秋といいますけど、春のほうがいいですね」
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最近秩父の山奥で勉強したばかり。
今時期紅葉して見えるのは「楓」ね。
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似たような処遇が、航海士ヤン・ヨーステン(蘭人)にもあたえられた。かれの名は耶揚子などといったような漢字があてられ、「ヤヨスどの」などとよばれた。その拝領屋敷が八重洲海岸にあったが、当時はヤヨス河岸などとよばれていたらしい。現在の東京駅の八重洲口の地名のおこりが、日本に最初にきたオランダ人の航海士の名に由来しているということはおもしろい。
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昔から馴染みある八重洲口
おもしろい。
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日本人の家系というのは、すべて自称で成立している。江戸期の大名・旗本の家系がほとんどうそであるのと同様、遠くて平安時代に関東でむらがり興った武士たちがそれぞれ源平藤橘を称するのだが、その九割までがうそといっていい。
戦国期の九州の豪族の多くは、
「われらわこのような草深い九州の地生えではない。その祖は鎌倉殿の御家人であり、はるばる関東から下向してきたのである」
と称したがったが、その理由は、半ばは自家の所領の法理論的正当さを、「鎌倉殿から領地をもらった」という伝説をつくることでたしかなものにしようとした。薩摩の島津氏でさえそのような家系伝説をつくっている。
いまでも九州人には中央志向の気分がつよいが、古来以来、そうなのか、それとも室町の乱世のころに九州の各地に乱立した地侍たちが、「関東から下向」と称し、節目の源泉を鎌倉に置いて以来のことなのか、あるいはもっと深いところに根があるのが、よくわからない。
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その後に書き込みがあった(写真参照)
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当時、日本人はマカオのことを天川といった。
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太陽くん・・
ひょっとするとひょっとするかも!?
永かった春
ただし油断は出来ない(想定範囲内)
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